2017年10月14日

「中道」とは何か ― 政治的中道から人間的中道へ ―

 いよいよ衆院選が近づいてきました。今回の選挙は、マスコミの報道では、「自民・公明(与党)」、「希望の党・日本維新の会(野党)」、「立憲民主・社民・共産(野党)」による三つ巴の争いと言われています。無論、その主な要因は、民進党の前原代表による野党共闘の見直し、希望の党への合流策です。

 そこでと言っては唐突すぎるかもしれませんが、政治にまつわり、私の幼少期・児童期前後の故郷の政治状況で思い出に残っていることを書きます。かつて岡山県出身者を中心に社民連(社会民主連合)が結成された頃の記憶です。

 割と選挙のたびに思い出すのですが、今回はどうして思い出したかと言うと、民進党の前原代表の行動に、かつての岡山社民連の行動との理論的類似性をやや感じたからです。それに、今回からの選挙権年齢の引き下げに伴い、今の18歳が知らないことで何か参考になる話はないかと、頭の中を探していたら、思い出したというわけです。

 岡山社民連は全国社民連よりも結成が早く、当時中国地方で社民連と言えば岡山社民連のことでした。前身の社市連、社会クラブを経て、あちこちに「江田三郎」、「江田五月」、「菅直人」といった旗が勢いよくなびいていたのを、なぜか覚えています。当時の私は生まれたばかりの子供であるにもかかわらず、よほど私の子供心に残ったのか、今でも脳裏で映像として再現できるほどの鮮明な記憶です。

 そんな中、自社公民共の5党の支援を受けて京都市長となった岡山県出身者がいました。舩橋求己市長で、京都市長を3期務めています。ところがこの時(3選目のとき)、自民党も日本共産党(以下、共産党)も排除した社公民路線を徹底させ、あからさまな反自民・反共主義を掲げた社民連だけは、支援に加わらなかったのです。

 これ以降の京都市長には、立て続けに岡山(旧制第二岡山中学校)・山口・広島出身者が(再選を含め)送り込まれることになります。しかし、社民連は、自民党一党支配の打倒路線も反共主義も両方とも徹底しようとし、自共共闘に猛反発し続け、社民連がのちに加わって6党総力戦になるには、かなりの時間を要しました。舩橋求己市長の3選を経て、同中学出身の今川正彦市長が選ばれた選挙で、ようやく6党総力戦が実現しました。

 皮肉なことに、民進党の前原代表の地元は京都(選挙区は京都2区)ですが、今回の前原代表個人による小池新党「希望の党」への合流策の根底にある、「反自民、反共」という社民連並みの本音(どうしても譲れないこだわりや性格と言ってもよい)は、一昔前の岡山や京都といった地域限定で出せば、分かりやすかったのかもしれません。今となっては岡山県民の私でさえ信じがたいですが、当時の「江田ビジョン」や、首相になる直前までの菅直人氏の「最小不幸社会」の概念は、修正共産主義や社会改良主義どころか、自民党の主義主張よりも強烈な反共路線でした。

 もちろん、当時多くの岡山県民・京都市民は、自民党と共産党の仲良し行動に抵抗がなく、独立独歩の社民連の動きについては、何か高等な修正社会主義路線に違いないと英雄的に見てはいたものの、実際には自共両極や社会党、民社党に大量投票し、社民連は英雄的人気の割には議席を取れなかったのです。入閣者は、細川内閣で科学技術庁長官となった江田五月氏のみです。

 それにしても、どうしてこんなことが起きるかと言うと(「反自民・反共の両思想とも一致しない人間・政党とは絶対に組まない」という譲れないこだわりや信念がなぜ生じるのかと言うと)、この頃の政治家は右も左も中道も皆、『資本論』などをそれなりに読んで、高い教養のもとに、まずは自分の人生のスタンスを決め、それに沿う形で正直に政治的スタンスを決めていたからだと、私は思います。自民党と共産党の共通の瑕疵が見えるだけの教養があったということだと思います。社民連は、「イデオロギーを持たない」ことを目指して、各党のイデオロギーを批判したため、中でも科学的社会主義を党是とする共産党とは絶対的に相容れなかったのです。

 これは、哲学出身で、政治情勢や法律自体よりも法哲学・憲法学や社会学・歴史学から政治を見る私の見解かもしれませんが、社会党でもなければ民社党でもないその完全中道路線は、極めて高度な哲学的・歴史学的判断に基づいていたことくらいは見て取れると思います。もちろん、政治家のほうが国民よりも圧倒的に高い(国民を代表するに足る)教養を現実に持っていた時代のことです。

 かの三島由紀夫は自決前の数年間、「自分の中では自民党も共産党も同じものだ」と喝破し続け、私などは今でもそうだと考えていますが、悲観主義者たる三島由紀夫の懸念は大当たりし、前述のような選挙戦目的タイプの「自共共闘」が平然と行われていきます。一方で、三島由紀夫が、「“天皇”と諸君がひと言言ってくれれば、諸君と喜んで手をつなぐ」と東大全共闘に向かって言ったのと同様に、右派であるはずの三島由紀夫の政治思想と中道左派であるはずの社民連の思想とは、「反自民・反共」という点でかなり類似点がありました。

 社民連の後継の日本新党や新進党は、新自由主義や新保守主義に移行し、貧富の格差に国・政府が介入しない「小さな政府」を目指す態度に変化し、党内に親自民派さえいたにもかかわらず、民社党のような反共主義を表立って掲げなくなり、それまでの自民党と似て、選挙戦目的で共産党に近づく態度が見られるようになります。皮肉にも、いずれも小池現東京都知事が所属した政党ですが、この頃から「反自民・反共」の信念が完璧にそろった人物や政党そのものがなくなっていきます。

 そう考えると、共産党との共闘にそれほど抵抗がない現在の立憲民主党や社民党と、一昔前の地方独特の社会民主主義路線の違いは、そこ(「一般国民が追いつけないほどの、地方の名士としての高い学識や教養から来る、確固たる信念」の有無)にあるようです。無論今回も、立憲民主党と社民党と共産党どうしが、衆院選後の首相指名選挙に至ってもなお秋波を送り合う仲だとは思えませんが、今はもう、自民党打倒のためには、数合わせのほうが大事で、『資本論』など読まないという時代であるのは確かだと思います。

 もっと軽々しい話をすれば、『資本論』を読まない20代タレントが属する自民党と、『資本論』を読まない20代タレントが属する共産党とが争うと言っても、何を争うかが本人たちにも分からないのですし、今の自民党でさえ共産党と共闘する可能性は、戦後の日本国と日本人の性質上、潜在的にあり得るのです。逆に、日本共産党の主義主張が、それだけ共産党の世界標準からずれているということでもあります。

 これは、私自身の個人的な興味関心や世の情勢の観察行動によって得た感覚か、岡山の土地柄が私にもたらした感覚かは分かりませんし、どちらも正解でしょうが、現在の状況になっても、なお自公路線と希望の党・維新・立憲民主・民進・社共路線とがほとんど同じ姿に見え、反自民・反共を標榜した社民連のような行動が極めて際立った行動として記憶に残っていますし、左右双方の陣営が学び直すべき政治行動にも思えます。

 私としては、あえて今回の勢力図で言えば、民進党の前原代表の動きが「社民連的」であろうなと感じたということです。前原代表は、おそらく今回も、京都2区で自民党候補に大差を付けて勝つと思います。ただし、過去の「堀江メール問題」を見ても分かるように、前原代表は、一度「こうだ」と決めたら自分の党員を見放す傾向にあることがたびたび話題となってきましたし、一匹狼であることは確かだと思います。今回は、小池都知事の手法のほうが単に巧みだっただけの話だとは思いますが。

 それに、選挙後には、前原代表よりも立憲民主党(枝野代表)のほうが社民連に近い動きをする(結局は共産党とは相容れないとして離れる)可能性もあると思います。枝野代表は、多くの国民から、民進党(前原代表)に絶望し、そこから積極的に離れて立憲民主党を立党したというイメージを持たれているようですが、枝野氏本人としては、そもそも前原代表と共に希望の党に合流する予定だったのが、小池都知事に「排除」された(希望の党の公認を得られなかった)ために立憲民主党を立ち上げた経緯があり、国民が持っているイメージよりは積極的ではない立党ですし、選挙戦での動きと選挙後の動きはまた別だと考えたほうがよいと思います。

 いずれにせよ、私個人としては、社会民主主義と共産主義の間にある理論的な断崖絶壁を児童期に観察してから、高校・大学時代にニーチェやヘーゲル、マルクス、ヴェーバー、様々な国体論を読むことになったのは、ありがたい思い出です。

 私自身は、イギリス型議会制民主主義・立憲君主制と天皇国体・非一神教的(アニミズム的・汎神論的)国土との融合と継続を理想とする親天皇的な国体論を持っており、似た政治観を持っていらっしゃる故郷岡山の巫女の方々と交流させていただくなどし、サイトでも各特設サイトで公開していますが、投票行動としては典型的な無党派だと言えると思います。

 ただし、わざわざ選挙のたびに、尾高・宮沢論争や佐々木・和辻論争から、ヘーゲル的な歴史の弁証法や『資本論』までを思い出して投票行動を取るのですから、無党派と言うよりは、確信的な「超党派」であり、全ての政党・政治集団に対して「超然主義」的であり、自民党と共産党の双方にとって、最も厄介で恐怖の対象となるタイプの国民かもしれません。

 さて結局、今書いてきたところのテーマは、「中道とは何か」ということになると思います。「中道」とは、サンスクリットでは「マディヤマー・プラティパッド」と言って、元は仏教用語です。私自身は、仏教的な面から言えば、十年来サイト・ブログで書いてきたように、仏陀個人が達した仏法や龍樹の『中論』の中観思想を基盤として、「唯識」思想を中観の解説のための有効な方便、「禅(特に曹洞宗の黙照禅)」を身体における中観の実践と見る、中観・唯識・禅の融合論者と言えますが、今はそれは横に置くとします。

 現代日本では、「中道政治」と言った途端、「保守と革新の中間」や「自民党的なる価値観と社民党・共産党的なる価値観の間」や「第三極」だと捉えられます。

 しかし、先ほども岡山や京都の地方政治の例で見たように、「自民党的なる価値観」に「共産党との共同路線」が含まれ、「中道的なる価値観」に「反自民・反共」が含まれた時代と社会がかつての地方にあり、しかも本当に弁証法的唯物論を勉強してその正当性を理論的に検証したのは後者で、前者は選挙戦目的で共産党と蜜月関係にあったわけですから、希望の党や日本維新の会が今回の選挙戦の「中道右派」勢力で、立憲民主党が「中道左派」勢力だとする捉え方も、また一つの錯覚であり、マスコミを教祖とする宗教的信念かもしれません。

 例えば、立憲民主党の枝野代表の憲法観や天皇観は、全くマスコミの言う「中道左派」ではありませんし、以前は希望、維新や前原氏よりもやや右寄りの主張をしていたほどです。今回も、保守系の「一水会」の鈴木邦男氏や小林よしのり氏が枝野氏への支持を表明しています。女系・女性天皇への賛否を見ても、各党内で意見がバラバラです。だから、私個人の憲法観や天皇観も、希望にも維新にも前原氏にも近いが、枝野氏にも同じくらい近いということになるのです。

「中道」と目されるこれらの全ての政党も、後でどうあちこちに秋波を送るか分かりません。このあたりのことは、やはりヘーゲル、マルクス、ヴェーバーを読んで、我々人間の自我や無意識というものがどういう動きをしているかを本質的に追っていなければ、決して掴みようのない感覚だとも思います。

 ところで、今回の衆院選でも、おなじみの人気泡沫候補、又吉イエス氏が出られるようですが、「LGBTは犯罪だから、地獄の火の中に投げ込む」、「在日朝鮮人には真理が見られない」といった、支援者やウォッチャーからも単に笑いのネタとして利用され、政策としては無視されている極論はさすがに別として、「自分を大切にするように他人を大切にする」ことを掲げ、「この現経済と現社会は述べている通りの嘘経済・嘘社会」と感じ、「日本・世界・人類一人びとりの夢・希望・幸福」を目指す氏のスタンスは、ほとんどの政治家や我々国民が持っているように見せかけて実は持っていない「人心の理想」であるようにも思えます。

 これは、ご自分一人がまじめな人柄によって最高度の「中道愛」を目指した結果、周りの日本国民がそんなものを目指していないことに気づいて絶望し、自ら「唯一神を名乗るしかなくなった」ケースだと思います。笑い事ではありません。

 一方で、軍事的中道が暴力的全体主義に合致する可能性は、永世中立国のスイスやコスタリカが示しています。「どこにも軍事的に味方しない」ことは、「誰が来ても撃ち殺すぞ」ということであり、スイスやコスタリカでは、国家・公安・警察に限らず、国民は総じて好戦的であるよう教育され、有事の際には全員が全員、武器を持った民兵となれる体制を採っています。

 敗戦国であり、かつ反共防波堤となった日本は、軍事的には永世中立を採る権利さえない(東のソ連よりも西のアメリカにつくほか選択肢がない)親米・核の傘下国であることによって、何も考えずに非中道的軍事スタンスが決まっているのです。このスタンスが変わる唯一のときというのは、政権政党が変わるときでも何でもなく、政治的には立憲君主の地位に収まっている天皇の非政治性(日本国の祭祀の主宰者としての立ち位置)がアメリカの市民型プロテスタンティズムを「ビビらせた」ときのみ、簡単に言えば、アメリカ大統領が天皇の姿や言動に心から感動し、その感覚が在日米軍やアメリカ国民に浸透したときのみです。

 これは、絶対的な宗教原理としてそうなのです。だから、我々にとっての残る軍事的課題は、「自衛隊が合憲か、違憲か」、「自衛隊の規模と権限の拡充の程度をどうするか」などの、やたらと余裕のある問題であって、「我々はアメリカにつくべきか、ロシア・中国・北朝鮮につくべきか」といった喫緊の問題ではないのです。

 今の日本人は、北朝鮮のミサイルが東京に落ちない限り、寿命・病気や事故・事件・虐待以外で生命の危険がないので、「多くの人から笑われても中道を生きる」という道は選択しないのです。「実際はどちらかの極にいながら、表向きは中立人間を装う」ことが選挙でも職場でも学校でも得策で、「真の中道(真にバランスの取れた人間)は孤立する」ことを知っているからです。だから、例えば民進党が分裂した今回も、希望の党・日本維新の会と立憲民主党という左右分裂になってしまい、徹底した中道のまま政治生命を終える人物は出ないのです。

 その意味で、現段階では、「場合によっては、我々は共産党とも握手できるぞ」と一瞬でも思った立憲民主党勢よりは、前原氏のほうに、「旧社民連的な嫌われ者の信念」が皮肉にも継承されていたということは言えるのかもしれません。しかし、先ほども見たように、日本新党や新進党を渡り歩いた小池都知事にいくら秋波を送っても、母親のような包容力で迎え入れられるわけがありません。だから結局、小池氏と同じ穴の狢だと言われても仕方がないとは思います。

 重要なことは、先の岡山・京都における社民連の行動に見るような、非自民・非共産で、かつ旧社会党とも旧民社党とも合流しない共同体路線としての徹底した中道(もはや国政では見られないのに時々地方自治で見られるような、高度な政治的教養に基づく、日本の現政治それ自体の転換路線)が生かされながら、それがそのままスイスのような永世中立型の軍備増強国家にならず、イギリス型の高度な立憲君主制に近い位置に収まるような、新しい日本的な中道だと私は思います。

 先ほど「超然主義」という言葉を出しましたが、普通政治の場では「超然内閣」、すなわち、帝国議会の顔色を窺わず政党の意向にも左右されない超然たる姿勢を取った戦前の内閣のことを指し、中でも黒田清隆内閣のことを言います。しかし、私個人は、全ての既存政党のしがらみに対して、戦後の一国民としての投票者個人が取る中道的態度のことを指して、あえて使うことが多いです。

「超党派」という言葉は、現在は靖国神社参拝問題など、所属政党に関係なく共通の宗教的・文化的行動を取る際に多用されますが、私としては、小選挙区と比例代表とで異なる政党(の候補者)に票を入れる私のような人間個人をこそ、「超党派」と呼んでよいかと思います。

 ニーチェの目指した人間像に「超人」があり、「超然主義」や「超党派」よりももっと私が好きな言葉ですが、この思想を私なりに読み込んだところ、しばしばニーチェ哲学の徹底と解されるナチズム的全体主義(国家社会主義)ではなく、非暴力的中道主義にしか解し得ないと感じて、私は17歳の時に初めてニーチェ哲学に憧れたのです。そして、それは今でも私の人生の支柱の一つとなっています。

 そういう個人的な視点から見ても、あの社民連の時代は非常に惜しかったという気がします。「反自民・反共」の両方をわざわざ掲げて国民の大失笑を買うパターンが、先ほどの唯一神を自称する又吉イエス氏のような泡沫候補にしか見られなくなった現在、あえてそれを見せた前原代表の姿勢それ自体は、それなりに勇気あるものではあると思います。

 ただし、私個人としては、政治的中道というのは、哲学や人生を考える上での一側面に過ぎず、私の関心はあくまでも「人間的中道」そのものにあります。だから、「イギリス型議会制民主主義・立憲君主制と天皇国体・非一神教的(アニミズム的・汎神論的)国土との融合と継続を理想とする親天皇的な国体論」を持っていながら、どうして自民党型の新自由主義・新保守主義にも絶対君主制にも国家社会主義にも共産主義にも反対するのか、と不思議がられます。

 このような質問に対して、毎度この記事の分量のことを回答する時間はないので、普段は黙って資本主義社会の中で労働しているわけです。ともかく、私が目指すものは、政治的中道よりは人間的中道なのです。

2017年07月30日

『巫女神道探訪記 ― 日本的アニミズム感覚の源流を訪ねて ―』(13) ホトをめぐる秘儀と現代日本社会

ホトをめぐる秘儀と現代日本社会
----------
【リンク元】
岩崎純一のウェブサイト 特設サイト 「神道・仏教研究」 (http://iwasakijunichi.net/shinto-bukkyo/
----------
巫女神道
神代の巫女 --- 2013年2月13日

 何はともあれ、耀姫様は、イスラム原理主義と同じような神道原理主義を唱えることは意図していないと宣言なさっている点だけ見ても、とりあえず現状では、安心して拝見していられる巫女神道の継承者ではあると思います。

 岩崎様がお持ちの、自然現象(地震、台風など)を察知できたり女性の身体現象を察知できたりする共感覚(対女性共感覚)についても、耀姫様の神道史観は参考になると思います。耀姫様も、合気道の達人でいらっしゃり、岩崎様と同じく男覡(おかんなぎ)と言える修験者の男衆の方々も間近で見ておられます。

 日本神話では(私たちの社家に伝わる神話でも)、「ホト(女陰)を箸で突いて死んだ」というパターンは定番ですが、耀姫様が巫女神道側からの見解をお示しになっています。ここは一つ、皇別巫女神道と神別巫女神道という区別を超えて、ホト(女陰、火陰、火戸、火門・・・)をめぐる伝説について考えてみたいです。

「日本神話で「ほと」を突いて死ぬ女が何人かいましたが、古代には本当にそんな死に方があったんですか?」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1095321700

 耀姫様のご回答

「高句麗でも大和の地でも、隧穴を豊穣を司る大地母神(現在の豊受大神)のホトに見立てて、これを隧神の男性のシンボルを象徴する箸(丸い木の棒)で突く神事が行われていました。ところが時代が下ってくると、しだいに現代の新嘗祭に近い豊穣祭の姿に移り変わって行ったため、「ホトを箸で突く」のが、翌年の多産(五穀豊穣)を祈願して行う神事だったことが、分からなくなっていってしまったらしいのです。昔の皇室神道は、巫女が託宣することを中心とした、女性継承の巫女神道でした。ところが、中国の影響で男性上位の発想が生まれた結果、男性が神前で神を敬う所作を行う祭祀が中心の神道へと変化していき、かろうじて斎宮制度は残ったものの、他の巫女達は祭祀の中心から排除されていったのです。その過程で、ホトを突く神事の意味も見失われていったと思われます。」

「ホト(女陰)を箸で突いて死んだ」というのは、「ホトに(今の食事で使うような)箸が刺さって死んだ」のではなく、「ホト(に見立てた隧穴など)を箸(丸い木の棒)で突く、穀母神を祀って豊穣を祈る儀式で死んだ(と創作した)」ということですね。多くの日本人が間違えているのを目にしますが。


吉備の斎の巫女 --- 2013年2月16日

 私たちの社家でも、ホト(女性器)に見立てた隧穴・洞穴を祀る東盟祭に似た神事を継承しています。これには大まかに二種類あり、一つは隧穴・洞穴をホトに見立てた神事、もう一つは私たちのそれ自体を使用する神事です。後者の秘儀については、内掌典はもうまったく執り行っていないと思います。

 私たちの社家に伝わるホトの秘儀には、色々なものがありますが、例えば「百襲比賣命(ももそひめ)」にまつわるものがあります。この女神は、吉備津神社、吉備津彦神社、岡山神社でも祀られていますが、香川県東かがわ市の水主神社にも同じ伝承があるようです。
 伝承内容としては、
「モモソヒメは、ホトの形が異様で、毛も大変長かったため、親神が恥じて、モモソヒメを木舟に乗せて海に流した。何度も浜や島に流れ着いては、ホトの異様さを恐れた村民たちに舟を押されて沖へ戻され、やっと辿り着いたのが水主村であり、やがて祭神として祀られた。」
 というものです。

 私たちの秘儀も、こういった伝承にまつわるものになっています。私は、木舟には乗りませんが、それを模した儀式です。
 カグツチ(火産霊)を踏んでホトにやけどを負ったイザナミの尿から生まれたとされるミヅハノメについても、その陰毛や頭髪とされるものを「神毛」として桶や箱に入れて納めている神社がありました。たいていは一本だけ入れるもので、弥都波能売神社には、今でもあるかもしれません。神意の荒ぶるときは何股にも毛が分かれて伸び、桶からはみ出るとされる一方、神意の穏やかなときは元の長さの一本に戻るとされ、ホト、陰毛、頭髪が呪術に用いられていたことがうかがい知れます。


岩崎純一 --- 2013年2月17日

 このような神話・伝承を、女性(巫女)たちがどのように伝承し、それらに男性たちがどのように関わってきたか、深い関心を持って見ています。
 耀姫様の神道史観に基づけば、多産豊穣祈願の祭祀で、斎の巫女の儀式そのものだった高句麗の東盟祭や日本の隧穴の祭祀を、当時の男性神官、後世の我々男性が、「ホトに箸が刺さって死んだ」ことにし(男性視点からの笑い話に作り替え)、そのまま神道の正統を母系の巫女神道から父系の皇室神道へと持って行った、ということになるかと思います。巫女神道のホト信仰や斎宮の雰囲気が、男性作者らの手によって、気がついてみれば今日の新嘗祭のようになったという流れかと思います。

 確かにそのような側面もあるかもしれませんが、唐の侵略のおそれへの対策として日本の神代を古く大きく見せるために『記紀』以降の史書を創作するに当たり、男系男子の皇室神道の正当性を標榜する記述と同時に、ホト・陰毛の信仰を中心とする女神の身体の崇め方を変える記述も行われたという点には、面白さや諧謔だけの男尊女卑の思想ではなく、かなりの致し方なさや深刻さを、私は感じます。
 現代の我々の目には、『記紀』におけるホト信仰の作り替えが男性視点からの女性蔑視の文学に思えるでしょうが、当時の男女の身体観念は、現代感覚からは程遠い(皆様が男覡であると見て下さる私からさえも程遠い)でしょうし、ホト信仰とホトの儀式をわざわざ国史に書くということには、男女双方にとってもっと深刻な面もあったかと推察します。

 もちろん、いくらご紹介したような共感覚、女性の身体への察知能力を私が持っているとはいえ、現代人男性の一人としての感覚からしますと、現代において『記紀』を深く語る際には、女性蔑視や巫女神道の軽視という意味ではなく、倫理道徳的な観点という意味で、どこかの時点でお笑いに持って行かなければ、かえって扱いにくい気がします。そもそも、皆様のようなホトの秘儀の光景には、よほど例外的な倫理観を持っていない限り、私に限らず、ほとんどの男性(というより、ほとんどの氏子・国民の男女)が耐えられないと思いますので。


つくりつくり姫 --- 2013年2月21日

 女性の生理現象・性行動との兼ね合いという意味では、内掌典のほうが相当厳しいご生活だと思いますし、私たちよりも「清」と「次」の区別が二元的で、西洋的思考がずいぶん入っていると思います。「まけ」については、厳然と「穢れ」であるとの意識がありますし、絶対に賢所に持ち込んではならないのです。「清」の手で「次」の乱れた裾を直そうものなら、もうアウトで、すぐにお着替えです。
 一方で、私たちの場合、磐座・神座に誤って少し持ち込んだところで、浄化可能という感覚も持ち合わせています。アニミズム感覚は、こちらのほうが保っていると感じています。私たちは、御饌から虫の糞までもが、すべてつながっていると考えますので。ただ、私たちの秘儀は、安易に一般の方々や海外に紹介できるようなものではないですし(紹介したくないというより、とくにキリスト教徒の方々から誤解されるおそれがあります)、紹介しやすいのは現在の天皇陛下・ご皇族の親しみやすさや宮中の現代的祭祀のほうであるのは確かだと思います。

 巫女の処女性・純潔性と、ホトや陰毛、尿にまつわる私たちの秘儀の中は、奉納の意識というよりは(これらを男神に捧げるのではなく)、それ自体が呪力を持ち、畏怖すべき神であるという意識が強いです。巫女自身が神懸りして神となるので、男性からの視線に押し負けて、史記のネタとして捧げるというような感覚は一度も持ったことがありません。


神代の巫女 --- 2013年2月23日

 ホト自体が神性を帯びるということですね。私たちの場合も、「まけ」を穢れとする風習はありますが、男性たちが汚いと言ったからそう思っているわけではないです。巫女舞や託宣の上で、必要な観念だと感じています。

 内掌典の近代的・西洋的な二元性は、先にお話に出ました高谷朝子様へのインタビュー番組のように、国民向けの神道の説明に基づく国民側からの誤解によって生まれたものとも言えるかもしれません。
 内掌典の秘儀そのものは、実際に自己催眠(転換性や憑依型の変性意識状態)をもはや起こせなくなっているとしても、多くの内掌典ご経験者の方々は、巫女神道の根底に流れる東アジアのシャーマニズムを理解していらっしゃると考えてよいと思います。


吉備の斎の巫女 --- 2013年2月25日

 ミヅハノメ伝説でも、ホトの毛一本を桶に入れるだけでなく、神が荒ぶると八岐大蛇のように分かれて伸びるというものですからね。もし男性視点で生み出された伝説であるなら、ホトに対する恐怖・畏怖を呼び起こす部分はカットされて、男衆たちが桶のホトの毛を見下ろして笑う、というような伝承が優先的に遺るはずです。

 私たちの家には、「七難の揃毛(そそげ)」という話と、それにまつわる秘事も伝わっていて、これも先ほどの百襲比賣命のホトの異形伝説とつながりがありそうなのですが、この伝承も、むしろ女神や巫女が長い毛を誇って見せたなど、自虐的な笑いの要素のほうが強い内容になっています。
 もちろん、天岩戸伝説なども、笑いの要素が強いですが、これも女神が自分から出てきて踊り、周囲が爆笑したという設定です。それに、その前に天の機織り女の一人の陰部に梭(ひ)が刺さって死んでしまいますが、これも、「刺さった」というよりは、天照大神とその機織り女たちのホトの儀式の最中に、スサノヲが邪魔をして女神たちの手元が狂ったという面があるのです。スサノヲが性的に荒々しくて機織り女を襲ったといったものではないですね。

 巫女神道のホトの儀式に対して、男神・男性が手を出せない、邪魔をすると地震・雷などの禍(まが)が起きて大変なことになるという認識、下手をするとヒトが火を噴くというような認識は、まだ『記紀』作者たちにもあったかと思います。いくら万葉仮名とは言っても、「火陰」、「火戸」、「火門」などの当て字はその畏怖の感情をよく表していると思います。


岩崎純一 --- 2013年2月17日

 私も、内掌典のご生活における「清」と「次」の厳然たる区別には、非神道的・非アニミズム的・非汎神論的な違和感を覚えてきましたし、高谷朝子様の神道観にも如実にそれを感じてきたのですが、皆様のご意見を伺って、かなり謎が解けたような気がします。

 最初は、マスコミなどの手によって内掌典などの巫女生活が詮索され、日本最後の秘伝生活のように取り上げられて、テレビなどで国民に紹介されるものの、今度はそれが災いして、いつのまにか宮中側の深層意識の中に「マスコミや国民や海外にも分かりやすく説明しやすい皇室神道」を模索する方針が芽生え、そういう神道を設計するようになり、結果的に、ここの皆様のような非皇室神道系の斎の巫女神道と違って西洋的・現代的性質を帯びるようになった、ということなのかもしれません。

 そう考えると、隧穴・洞穴を利用する東盟祭や日の巫女のご一族の祭祀にせよ、中山太郎が記録したような実際のホトを使用する祭祀にせよ、内掌典と皆様のような斎の巫女との間でホトをめぐる秘儀全般についての意識が異なってきている理由も、つかめてきたような気がします。
 あるいは、先にお書きになっている通り、内掌典が司る祭祀には、ホト自体を用いる秘儀自体が存在していないでしょうし、自らの身体に対する倫理観念は、むしろ一般の女子学生の巫女の方々に近いのかも知れないと思います。
 ホトを用いず、代わりにホトに見立てた凹み部分や窪地を用いるその他の祭祀についても、やはり祭祀の奉納の意識、巫女のホト・処女性を捧げるという意識が強いと思います。ホト自体もまたアニミズムの対象であり、ホト自体が神性を帯びるとする皆様の秘儀とは、相違が生じてきているのを実感します。

『巫女神道探訪記 ― 日本的アニミズム感覚の源流を訪ねて ―』(12) 天孫系巫女神道の秘儀・秘伝化および皇室神道や皇別・天神系巫女神道との別れ

天孫系巫女神道の秘儀・秘伝化および皇室神道や皇別・天神系巫女神道との別れ
----------
【リンク元】
岩崎純一のウェブサイト 特設サイト 「神道・仏教研究」 (http://iwasakijunichi.net/shinto-bukkyo/
----------
巫女神道
神代の巫女 --- 2013年1月26日

 このご一族の言い分をすべて史実とすると、岩崎様のおっしゃるとおりになると思います。簡単に言いますと、神武天皇から今上陛下までの125代分の天皇のうち、初期の数名の天皇(この皇別のご一族、すなわち、多氏系息長氏が誕生したときまで)を除くすべての天皇が正当性を否定されるべきものであると、私たちには読めます。現皇統と血縁関係が見出せない神別系巫女神道家の私たちからすると、耀姫様ほかご一族のご見解はあまりにも驚かされるご見解です。

 一部だけ取り上げますが、一応、先ほどの耀姫様の記事から、私たちと共通認識と思われる内容を挙げてみます。耀姫様のご一族に遺る伝承は、かなり多くの学者の間でオカルト扱いされているようですが、耀姫様も、日ユ同祖論を否定して、古代オリエント・イスラエルの多神教の商人たちの中には日本に渡った人たちもいる、という程度の適切な説明をしているあたりは、『記紀』などよりもよほど史実に忠実だとは思いますので。
 ホツマツタヱ、カタカムナ文献に対しても真っ向から否定されており、実に心地よいご発言をされる方ではあります。
 それにしても、いつからイスラエルの部分がユダヤにすり替えられるようになったのか、不思議です。私の社家で言われているのも、多神教時代のイスラエルと日本神道との共通点のことです。

「巴紋と託宣の儀式から紐解く古代日本史。(卑弥呼と天照大神の実像)」(耀姫の日記)
http://d.hatena.ne.jp/mayumi_charron/20100218/1266474872

「私達の一族はというと、姫姓を持つ母系の継承を行う、秦氏を束ねる太陽の巫女の家柄ですから、新政府の教部省といえども、手を触れることなど出来はしませんでした。日巫王(天照大神)の血筋とされる巫女集団に対して、身分を知っていながら下手なことを口にすれば、不敬罪を理由にその場で首を斬り落とされかねない時代です。私達の一族は、平安京建設の頃からの史料を見れば明らかなように、一族の長として表向きは男子を立てますが、長の地位の男系の継承を認めず、朝廷や重臣達を経済的に後ろから援助しても、権力中枢からは一定の距離を置いて、くだらない政権争いなどに巻き込まれないようにしながら、代々古い文化を伝承してきました。ヤマト王権が成立した時代の、日の巫女の一族と皇室の関係は、江戸時代で言えば、皇室と将軍の関係みたいなものだったようです。」

 この論は、私たちの家系と似た経緯を辿っていますし、的確な指摘と思います。

「それ以前の問題として、古い時代から皇室は仏教徒化して古い伝統を失っていったので、日の巫女の一族から、かなり低い評価を受けていたようです。」

 皇室の仏教徒化がそのまま皇室神道の衰退と同義となるとは限りませんが、耀姫様としては、仏教色に染まる皇室と巫女神道との決別がかなり早期に始まったとのご見解をお持ちのようです。

「日本書紀では、天皇の威信に傷が付かないように配慮されていますが、古事記には起こった出来事がそのまま載せられているケースもあるようです。」

 この一文も、母系巫女社会ではよくある見方ですので、不自然ではないです。このあとの部分は、岩崎様がおっしゃったとおりです。

「今では、一般の神社の神事で見られる巫女舞は、奉納を目的とした舞がほとんどです。託宣の舞の旋回の動きを知る人は減ってしまっています。」

 このような、巫女神道の現状についての懸念はそのとおりで、私たちのこれまでの議論と重なるかと思います。

「じつは、私達の一族の代々の日の巫女のなかには、中国側の文献では卑弥呼(日巫王 ピミヲ)と呼ばれた、古代の日本を代表するような有名人が含まれています。日本書紀の編纂者達は、過去に、中国の王室から臣下に近い扱いを受けていたとされる卑弥呼が、当時伝承されていた神話に登場する天照大神(女神)であることは、ほぼ間違いないと認識していたものの、中国王室と対等な外交関係を築くためには、日本の歴史を中国と同じぐらい古く見せかける必要があると考えたようです。そこで創作したのが、紀元前600年頃を想定した神代の時代の神話に登場する天照大神だったようです。万が一にも、天照大神と卑弥呼が同一の存在と看破されたとしても、天照大神よりも古い神々がいるかのように神話を組み立てたりと、あらゆる逃げの工夫を凝らしているように見えます。また、中国王室と日本の皇室が対等な外交をするうえで、皇室の祖先が中国の王室に対して臣下の礼を取っていた歴史があるという認識を、中国王室側に持たれては困ると考えていたようです。そこで、鬼道を用いて人心を惑わしたとか、魏の王室から鏡を贈られたり軍事援助も受けていたとされる、卑弥呼に言及することを、日本書紀のなかでは徹底して避けて、そんな人物は知らないかのような態度を取っています。その代わりに神功皇后という架空の人物を創作して、妊娠しているにもかかわらず朝鮮半島に出兵したといった、四世紀後半〜五世紀初の出来事を、邪馬台国の時代に百年ほど時間をずらして、不自然な事績を創作していったようです。同様の発想で、中国王朝に臣下の礼を取った倭の五王についても、記紀はこれを天皇とは認めない姿勢を貫いているようです。また、日本の天皇の歴史を中国と同じぐらい古く見せるために、卑弥呼と敵対する狗奴国の男王スサノオの間に起こった出来事を、神話の時代に高句麗国から伝わってきた太陽神の神話と絡めて、紀元前の日本に神代の時代があったかのような神話を創作していったようです。」

 このあたりも、細かな点を見れば疑問はありますが、論調としてはおかしくはないと感じます。

「卑弥呼と台与が合祀された亀山古墳に、天照大神を極秘裏に祭ることを余儀なくされた原因のひとつは、伊勢神宮の時の斎宮と持統天皇が、皇位継承者を巡る争いで、深刻な対立状態に陥ったことが原因だったようです。創建されたばかりの伊勢神宮内宮の、斎宮制度の正式立ち上げに失敗して、天照大神をまともに祭祀出来ない状況に陥ったらしいのです。」

 このあたりは、岩崎様やつくりつくり姫さんの和歌関連の視点(斎宮歌壇の成立と消滅)とも重なりますね。

「以上の観察から、私耀姫の視点から見ると、卑弥呼と神功皇后と天照大神(の女神部分)は、同一人物ということになるのです。今は存在しない、古い時代の高句麗語と高句麗道教の世界独特の概念や漢字用法を詳しく知る人物でなければ、謎解き出来ないように巧みに偽装されている意図は明らかでしょう。」
「故老からの伝承(代々伝わるお爺さんお婆さんの昔話)によると、現在の天皇家を作ったのは蘇我氏で、その経済支援団体が秦氏で、一族の長の男子の世襲を認めない、古い体質を持っていた秦氏を精神的に束ねていたのが、斎女の一族だったようです。明治になって、白川伯王家が宮中から追放されて(断絶というのは対外向けのお話で、今もあの家は残ってますよね)私達の一族は、皇室と宗教上の接点を失くしたらしいので、今では身内以外にほとんど知る人がいなくなった昔話を交えて書いてみました。」

 このあたりは、日の巫女の一族側の説という感じもありますが、この前の岩崎様の言語学的視点からのご説明を聞いて、あながち軽視できなくなってきたのも確かです。やはり、明治新政府による巫女神道の断罪(巫女禁断令など)や白川伯王家の追放(天皇と、天照大神の神託を司る女系社家=日の巫女の斎皇家?の分断)の影響を少しでも受けた私たちとしては、興味深いものではあります。


つくりつくり姫 --- 2013年1月28日

 下記の有木巨智麿氏も、耀姫様とそのご一族の伝承について、やや誇張をお感じになりつつも、古代吉備王国発祥のヒントは見出しておられるようです。
 吉備津神社の神主は、代々吉備津彦命の子孫が世襲していたものの、途絶えたので、有木氏が世襲するようになっています。ちなみに私は、有木神社にもよく参りました。

「173の鏡に映る神と宇宙」有木巨智麿
http://catbirdtt.web.fc2.com/zikosyoukai.html

 耀姫様は、「耀姫」、「天照耀姫(あまてるあかるひめ)」、「日の巫女の王」、「皇祖神日巫王」など色々と名乗っていらっしゃり、また、一族についても、「日の巫女の一族」、「秦氏を束ねる太陽の巫女の家柄」、「多氏」、「多氏大王家」、「息長氏」、「息長斎皇家」などさまざまに名乗っていらっしゃいますが、かなり精査は必要だと思います。

 例えば、耀姫様の視点では、仏教色や儒教色に染まった吉田神道よりも、伯家神道を評価する神道史観は出てくるでしょうけれど、そう評価すればするほど、白川伯王家は神仏習合血統である皇統の、花山天皇の子孫の男王家系にすぎないことが目立つわけです。私たち神別氏族系の巫女神道から見ると、やはり皇別氏族系の巫女神道は、皇室神道と蜜月であるどころか、当時の息長氏始祖は皇族であり、一族は真人(まひと)であり、現在まで広義の皇室神道の一角であることに変わりはないわけです。
 白川伯王家は、すでに近世期に吉田神道家の陰に隠れていて、とどめとして近代に宮中から追放されましたが、皇室に対して伯王家よりも(アカルヒメの託宣によって、耀姫様の文体並みに圧倒的に強い口調で)物が言えるはずのこの一族が、中継ぎ役だった白川伯王家の追放のあおりを受けて皇室との縁が切れる、という弱々しすぎる結末となっています。

 この点などは逆に、実はもっと早くから皇室と皇別氏族系の巫女神道との縁はなかったと見たほうがよいという立場もあり得ると思います。少なくとも『新撰姓氏録』で分けて記録されている皇別、神別、諸蕃を、全部ひとまとめに扱っていらっしゃるところがあり、そのあたりの整合性についての言及がないといった点は見受けられるようです。
 つまり、耀姫様が継承されている皇別の巫女神道が、私たちの神別の巫女神道に近いものなのか、皇室神道に近いものなのか、まだよく判別できていません。

 それでも、耀姫様の力強い、剛胆とも感じられる巫女神道の解釈は、当代の『記紀』作者が見れば焦ってしまうような、歴史の神髄を突いているところはあると思います。


岩崎純一 --- 2013年2月2日

 耀姫様が多氏系列の子孫である(とされる)息長氏の斎の巫女でいらっしゃるとの伝承は、それはそれで正確であると仮定しても、そもそもつくりつくり姫様のおっしゃる通り、極めて古い原理的な渡来系巫女神道の観点から見れば見るほど、日の巫女の家系とて皇統(皇別氏族)の一派であることが目立つという点は、私にとっても興味深いのです。
 そうかと言って、天照大神よりも前の神代七代や造化の三神の時代に遡っていくと、今度は当然、皇別系巫女神道の伝承(耀姫様がお書きになっているような伝承)がパタリと姿を消す一方、皆様のような神別系巫女神道の伝承が残り、こちらのほうが日本列島土着のアニミズムと直結している可能性が見えてくるわけです。

 こうしてみると、皇別系巫女神道が、太陽信仰を中心とする渡来系のものであること(無論、大陸に渡ったあと里帰りした縄文系の人々の巫女神道である可能性はある)、現皇統や天照大神、『記紀』そのものが、本当に人工的に設定・創造されて生まれたものであることが、よく分かります。

 それにしても、耀姫様ほか日の巫女の一族のご主張によれば、天皇でさえ、日の巫女の一族に頭を下げるほかなかった(現在でも頭を下げるほかない)わけです。雄略天皇の時代から、あまりにも天皇が無礼であるから日の巫女の先祖が首を切ってやろうかと思ったらしいなどと公表なさっているわけです。
 それならば、なぜその混乱期に、ここの皆様のような神別氏族の斎の巫女たちの先祖が、自分たちよりも圧倒的に身分が高い日の巫女の一族にひれ伏し、その天皇観に追従し、現皇統の欺瞞性に怒らなかったのか。そこまでの無礼者血統、誤った男系男子家系、巫女神道破壊者であるはずの現皇統に対し、反旗を翻さなかったのか。あるいは、皇統も皇別神道も見限って、神別氏族から新しい巫女皇統・巫女王統を出さなかったか、ひいては、神別氏族の男性神官たちが別の『記紀』を捏造して別の皇統・王統を建てることを考えなかったかという原理的な問題が残るのです。『新撰姓氏録』以前から、皇別、神別の意識は存在したようですからね。

 つまり、ここの皆様の斎の巫女の家系は、どうして皇統や斎王・斎皇(天照大神、神功皇后、卑弥呼・・・)自体になれなかったのか、その秘密を日の巫女の一族が握っているのではないか、明確に言うならば、現皇統は日の巫女のご一族が非難するほど無礼者の血筋ではないのではないか、実は日の巫女の一族は、巫女神道の伝承者というよりも、それ自体が誰も逆らうことのできない時の政治権力者であったのではないか、という壮大なテーマです。
 注目点は、天照大神を降ろして天皇に都合の悪い託宣(天皇の死や病)ばかりを告げ、最後は天皇・宮中自身をして天照大神を追放させるに至らしめた、そんな最も畏怖された日の巫女の一族とて、広義には皇族の内部の人間であり、実は『記紀』の外に飛び出る(天皇に楯突く)ことは不可能であるのだから、ここの皆様の神別氏族の巫女神道が単独行動で天皇に楯突くチャンスであったのに、楯突いていない、という点です。ということは、日の巫女の王家は、神別氏族系巫女神道を、巫女神道上の問題とは無関係に、政治的に押さえつけていたと見るのが妥当だと考えられます。
 しまいには、神別天神氏族の最高権威の藤原氏が、天皇と外戚関係を結んで、れっきとした巫女神道(斎宮)の凋落と現皇統の安定がもたらされるわけです。

 ただし、息長氏が長期に渡って播磨・吉備を本拠とした豪族だったことは、私も間違いないと思います。
 いずれにせよ、スサノヲが本来の初代天皇であるといった、耀姫様(日の巫女の一族)の巫女神道史観の全ての内容を肯定した場合、現皇統はほとんど初期から血統が間違っていたことにならざるを得ませんが、真偽のほどは別にして、私個人の考察や神道史観にとっても興味深い影響を与えていることは確かです。
 耀姫様に受け継がれている伝承が、どこかでご先祖・古老の虚構や脚色を挟んだものであったとしても、それはそれで、「現代は、皇室神道や神社神道の精神(もはや精神ではない)と巫女神道の精神が相容れない時代であると私は考える。ただしそれは、天皇陛下個人や皇室への私個人の崇敬の念とは無関係の、神道精神上の見解である」という私の思いを、部分的には代弁して下さってはいるからです。

 そのほかに興味深い点は、耀姫様は、斎宮制度によって男王を補助するような比売許曽(ヒメコソ)の巫女集団が、アマテラスとスサノヲの時代から実在していて、アカルヒメこと真の斎宮がその天照大神のモデルとなったものの、スサノヲを超えて殊更に上位として扱われる立場ではなかったとしている点です。
 また、過去の信仰実績が確認できない、『記紀』神話の女神天照は、侵略してくるおそれのある唐に対して大和朝廷の歴史を古く大きく見せかけようとして創作された神代の女神である、との認識、すなわち、藤原不比等らが権力を持った当時の朝廷が、日本人を騙して嘘の神道で精神支配しようとしたのではないとする点も、私と同じ神道史観です。
 中華思想の大国である唐を模範としつつ、それに対抗して別の律令制と国防体制を敷こうとする日本における、このような古代の一大宗教改革について、当時の日の巫女と、それに賛同する秦氏などの氏子が容認したという展開は、十分に考えられるところです。

 耀姫様の、「卑弥呼と神功皇后と天照大神(の女神部分)は、同一人物」であり、現在においてそれは「私」であるとする見解も、ある意味で、数奇な運命を辿ってきた皇別系巫女神道が生み出した、究極の神託なのかもしれません。


吉備の斎の巫女 --- 2013年2月3日

 それはおっしゃるとおりで、神別氏族(天孫・地祇の血が濃い)の私たちの社家が、『記紀』やのちの『新撰姓氏録』に対抗して、ゼロから皇統を立ち上げるという可能性も、理論上はあったはずです。

 そうならなかった原因として、注意点すべき点は、同じ「天孫」でも、『記紀』の天孫降臨・天孫族における「天孫」から、『新撰姓氏録』の天孫氏族における「天孫」まで、かなりの格下げが見られる点です。神武皇統も、広義の天孫の一系統ですが、皇別氏族はもちろん独立した特別扱いですし、天照大神直系の天孫が、天孫降臨時の付き添いの神々の子孫よりも下位に置かれます。
 もちろん、これは藤原氏の策略でもあったはずです。藤原氏の祖先は、神功皇后の審神者(さにわ)であり、息長斎皇家(日の巫女の王)に仕え、その天照大神の神託を天皇に伝える立場であったため、皇別系の巫女神道にはひれ伏していたようですが、天孫氏族に対しては強い態度に出るようになり、今度は天皇・皇別氏族・日の巫女の一族側に立って、天孫系の巫女神道の排除に取りかかったのだと思います。
 藤原氏一族は一時期、心の中で「自分たちは、天皇も、日の巫女の王も超えた」と何度も思ったと思います。
 おそらく、私たちの社家の祖先は、皇統、そして皇別氏族に楯突こうとしたとしても、藤原氏を中心とする天神氏族の台頭と、それらの皇統との蜜月関係の発展により、神別系の巫女神道としての統一的な斎の王統・斎宮の整備などが間に合わなかったと考えられます。

 ところが、私たちも、その藤原氏の血を引くとされているのです。平安時代や室町時代にも、また『記紀』時代と同じようなことが起きて、私たち神別天孫系かつ藤原氏の末端の分家の巫女神道が、耀姫様のような皇別直系の巫女神道からだけでなく、天神系や天孫系本流の巫女神道からも離れていったと考えられます。
 そして、最終的には、これまでにも触れましたように、国家神道の成立と伯家神道の没落によって、私たちは皇室神道や皇別系の巫女神道とほぼ全ての縁を切られてしまい、そのうちに心地よい諦めがつくようになり、巫女舞や神託をとことん秘儀・秘伝化した現在の形になったと考えています。

 以上がすべて正しいとしますと、今、私たちのような天孫・地祇系の巫女神道には、三系統以上の上位の巫女神道が存在することになります(現皇統・宮中三殿の内掌典の系統、皇別系の日の巫女の斎王=斎皇の系統、藤原氏本流の天神系巫女神道)。あるいは、もっと多く存在するでしょうね。


岩崎純一 --- 2013年2月6日

 ここの皆様の視点をお借りしますと、そういった皇別氏族系(多氏・息長氏)の日の巫女の家その他の社家は、なおさら現皇統(巫女神道色が薄れつつあった皇室神道)に近いお立場だったということがよく分かります。さらにそこに、天神氏族藤原氏の台頭が影響し、皇室神道と皇別系の巫女神道に天神氏族系の巫女神道が加わった三つ巴の神道勢力が出来上がり、天孫・地祇氏族系の巫女神道が大和朝廷以外の地に残っていったという構図なのでしょう。

 そうなると、今現在は巫女神道色(強いて言えば、天照大神を初めとする八百万の神々)を捨てている皇室神道や多くの皇別氏族系神道や神別天神系の神道から最も遠い道を歩んでいる巫女神道は、皆様のような神別天孫・地祇系の巫女神道ではないかとさえ思えますが、それも、『記紀』の時代だけではなく、それ以降の時代にも行われてきた体制側からの巫女神道の追放策の影響であり、一筋縄ではいかないとなると、私などはもう気が遠くなります。

 これからの時代に必要なのは、男系男子を中心とする現皇室や皇別系・天神系の神社神道、女系女子が一族の実験を握る皇別系巫女神道(ほぼ日の巫女の王の一族のこと)は、それはそれで残った上で、一方でそれらの中から、女系女子が担ってきた非政治的な祭祀・神事を基本とする巫女神道色を取り出し、ここの皆様のような天孫・地祇系の巫女神道と共にその色彩を遺していくことだと、私は考えます。
 それも、神職男性が神前で祝詞を唱え一定の所作を行う祭祀を中心とする神道の中にある巫女文化としてではなく、神楽を舞う巫女の身体それ自体が八百万の神々と一体化するアニミズム精神が無言のドグマであるような巫女文化として遺ることが望ましいと、私は思います。