2017年07月30日

『巫女神道探訪記 ― 日本的アニミズム感覚の源流を訪ねて ―』(13) ホトをめぐる秘儀と現代日本社会

ホトをめぐる秘儀と現代日本社会
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【リンク元】
岩崎純一のウェブサイト 特設サイト 「神道・仏教研究」 (http://iwasakijunichi.net/shinto-bukkyo/
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巫女神道
神代の巫女 --- 2013年2月13日

 何はともあれ、耀姫様は、イスラム原理主義と同じような神道原理主義を唱えることは意図していないと宣言なさっている点だけ見ても、とりあえず現状では、安心して拝見していられる巫女神道の継承者ではあると思います。

 岩崎様がお持ちの、自然現象(地震、台風など)を察知できたり女性の身体現象を察知できたりする共感覚(対女性共感覚)についても、耀姫様の神道史観は参考になると思います。耀姫様も、合気道の達人でいらっしゃり、岩崎様と同じく男覡(おかんなぎ)と言える修験者の男衆の方々も間近で見ておられます。

 日本神話では(私たちの社家に伝わる神話でも)、「ホト(女陰)を箸で突いて死んだ」というパターンは定番ですが、耀姫様が巫女神道側からの見解をお示しになっています。ここは一つ、皇別巫女神道と神別巫女神道という区別を超えて、ホト(女陰、火陰、火戸、火門・・・)をめぐる伝説について考えてみたいです。

「日本神話で「ほと」を突いて死ぬ女が何人かいましたが、古代には本当にそんな死に方があったんですか?」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1095321700

 耀姫様のご回答

「高句麗でも大和の地でも、隧穴を豊穣を司る大地母神(現在の豊受大神)のホトに見立てて、これを隧神の男性のシンボルを象徴する箸(丸い木の棒)で突く神事が行われていました。ところが時代が下ってくると、しだいに現代の新嘗祭に近い豊穣祭の姿に移り変わって行ったため、「ホトを箸で突く」のが、翌年の多産(五穀豊穣)を祈願して行う神事だったことが、分からなくなっていってしまったらしいのです。昔の皇室神道は、巫女が託宣することを中心とした、女性継承の巫女神道でした。ところが、中国の影響で男性上位の発想が生まれた結果、男性が神前で神を敬う所作を行う祭祀が中心の神道へと変化していき、かろうじて斎宮制度は残ったものの、他の巫女達は祭祀の中心から排除されていったのです。その過程で、ホトを突く神事の意味も見失われていったと思われます。」

「ホト(女陰)を箸で突いて死んだ」というのは、「ホトに(今の食事で使うような)箸が刺さって死んだ」のではなく、「ホト(に見立てた隧穴など)を箸(丸い木の棒)で突く、穀母神を祀って豊穣を祈る儀式で死んだ(と創作した)」ということですね。多くの日本人が間違えているのを目にしますが。


吉備の斎の巫女 --- 2013年2月16日

 私たちの社家でも、ホト(女性器)に見立てた隧穴・洞穴を祀る東盟祭に似た神事を継承しています。これには大まかに二種類あり、一つは隧穴・洞穴をホトに見立てた神事、もう一つは私たちのそれ自体を使用する神事です。後者の秘儀については、内掌典はもうまったく執り行っていないと思います。

 私たちの社家に伝わるホトの秘儀には、色々なものがありますが、例えば「百襲比賣命(ももそひめ)」にまつわるものがあります。この女神は、吉備津神社、吉備津彦神社、岡山神社でも祀られていますが、香川県東かがわ市の水主神社にも同じ伝承があるようです。
 伝承内容としては、
「モモソヒメは、ホトの形が異様で、毛も大変長かったため、親神が恥じて、モモソヒメを木舟に乗せて海に流した。何度も浜や島に流れ着いては、ホトの異様さを恐れた村民たちに舟を押されて沖へ戻され、やっと辿り着いたのが水主村であり、やがて祭神として祀られた。」
 というものです。

 私たちの秘儀も、こういった伝承にまつわるものになっています。私は、木舟には乗りませんが、それを模した儀式です。
 カグツチ(火産霊)を踏んでホトにやけどを負ったイザナミの尿から生まれたとされるミヅハノメについても、その陰毛や頭髪とされるものを「神毛」として桶や箱に入れて納めている神社がありました。たいていは一本だけ入れるもので、弥都波能売神社には、今でもあるかもしれません。神意の荒ぶるときは何股にも毛が分かれて伸び、桶からはみ出るとされる一方、神意の穏やかなときは元の長さの一本に戻るとされ、ホト、陰毛、頭髪が呪術に用いられていたことがうかがい知れます。


岩崎純一 --- 2013年2月17日

 このような神話・伝承を、女性(巫女)たちがどのように伝承し、それらに男性たちがどのように関わってきたか、深い関心を持って見ています。
 耀姫様の神道史観に基づけば、多産豊穣祈願の祭祀で、斎の巫女の儀式そのものだった高句麗の東盟祭や日本の隧穴の祭祀を、当時の男性神官、後世の我々男性が、「ホトに箸が刺さって死んだ」ことにし(男性視点からの笑い話に作り替え)、そのまま神道の正統を母系の巫女神道から父系の皇室神道へと持って行った、ということになるかと思います。巫女神道のホト信仰や斎宮の雰囲気が、男性作者らの手によって、気がついてみれば今日の新嘗祭のようになったという流れかと思います。

 確かにそのような側面もあるかもしれませんが、唐の侵略のおそれへの対策として日本の神代を古く大きく見せるために『記紀』以降の史書を創作するに当たり、男系男子の皇室神道の正当性を標榜する記述と同時に、ホト・陰毛の信仰を中心とする女神の身体の崇め方を変える記述も行われたという点には、面白さや諧謔だけの男尊女卑の思想ではなく、かなりの致し方なさや深刻さを、私は感じます。
 現代の我々の目には、『記紀』におけるホト信仰の作り替えが男性視点からの女性蔑視の文学に思えるでしょうが、当時の男女の身体観念は、現代感覚からは程遠い(皆様が男覡であると見て下さる私からさえも程遠い)でしょうし、ホト信仰とホトの儀式をわざわざ国史に書くということには、男女双方にとってもっと深刻な面もあったかと推察します。

 もちろん、いくらご紹介したような共感覚、女性の身体への察知能力を私が持っているとはいえ、現代人男性の一人としての感覚からしますと、現代において『記紀』を深く語る際には、女性蔑視や巫女神道の軽視という意味ではなく、倫理道徳的な観点という意味で、どこかの時点でお笑いに持って行かなければ、かえって扱いにくい気がします。そもそも、皆様のようなホトの秘儀の光景には、よほど例外的な倫理観を持っていない限り、私に限らず、ほとんどの男性(というより、ほとんどの氏子・国民の男女)が耐えられないと思いますので。


つくりつくり姫 --- 2013年2月21日

 女性の生理現象・性行動との兼ね合いという意味では、内掌典のほうが相当厳しいご生活だと思いますし、私たちよりも「清」と「次」の区別が二元的で、西洋的思考がずいぶん入っていると思います。「まけ」については、厳然と「穢れ」であるとの意識がありますし、絶対に賢所に持ち込んではならないのです。「清」の手で「次」の乱れた裾を直そうものなら、もうアウトで、すぐにお着替えです。
 一方で、私たちの場合、磐座・神座に誤って少し持ち込んだところで、浄化可能という感覚も持ち合わせています。アニミズム感覚は、こちらのほうが保っていると感じています。私たちは、御饌から虫の糞までもが、すべてつながっていると考えますので。ただ、私たちの秘儀は、安易に一般の方々や海外に紹介できるようなものではないですし(紹介したくないというより、とくにキリスト教徒の方々から誤解されるおそれがあります)、紹介しやすいのは現在の天皇陛下・ご皇族の親しみやすさや宮中の現代的祭祀のほうであるのは確かだと思います。

 巫女の処女性・純潔性と、ホトや陰毛、尿にまつわる私たちの秘儀の中は、奉納の意識というよりは(これらを男神に捧げるのではなく)、それ自体が呪力を持ち、畏怖すべき神であるという意識が強いです。巫女自身が神懸りして神となるので、男性からの視線に押し負けて、史記のネタとして捧げるというような感覚は一度も持ったことがありません。


神代の巫女 --- 2013年2月23日

 ホト自体が神性を帯びるということですね。私たちの場合も、「まけ」を穢れとする風習はありますが、男性たちが汚いと言ったからそう思っているわけではないです。巫女舞や託宣の上で、必要な観念だと感じています。

 内掌典の近代的・西洋的な二元性は、先にお話に出ました高谷朝子様へのインタビュー番組のように、国民向けの神道の説明に基づく国民側からの誤解によって生まれたものとも言えるかもしれません。
 内掌典の秘儀そのものは、実際に自己催眠(転換性や憑依型の変性意識状態)をもはや起こせなくなっているとしても、多くの内掌典ご経験者の方々は、巫女神道の根底に流れる東アジアのシャーマニズムを理解していらっしゃると考えてよいと思います。


吉備の斎の巫女 --- 2013年2月25日

 ミヅハノメ伝説でも、ホトの毛一本を桶に入れるだけでなく、神が荒ぶると八岐大蛇のように分かれて伸びるというものですからね。もし男性視点で生み出された伝説であるなら、ホトに対する恐怖・畏怖を呼び起こす部分はカットされて、男衆たちが桶のホトの毛を見下ろして笑う、というような伝承が優先的に遺るはずです。

 私たちの家には、「七難の揃毛(そそげ)」という話と、それにまつわる秘事も伝わっていて、これも先ほどの百襲比賣命のホトの異形伝説とつながりがありそうなのですが、この伝承も、むしろ女神や巫女が長い毛を誇って見せたなど、自虐的な笑いの要素のほうが強い内容になっています。
 もちろん、天岩戸伝説なども、笑いの要素が強いですが、これも女神が自分から出てきて踊り、周囲が爆笑したという設定です。それに、その前に天の機織り女の一人の陰部に梭(ひ)が刺さって死んでしまいますが、これも、「刺さった」というよりは、天照大神とその機織り女たちのホトの儀式の最中に、スサノヲが邪魔をして女神たちの手元が狂ったという面があるのです。スサノヲが性的に荒々しくて機織り女を襲ったといったものではないですね。

 巫女神道のホトの儀式に対して、男神・男性が手を出せない、邪魔をすると地震・雷などの禍(まが)が起きて大変なことになるという認識、下手をするとヒトが火を噴くというような認識は、まだ『記紀』作者たちにもあったかと思います。いくら万葉仮名とは言っても、「火陰」、「火戸」、「火門」などの当て字はその畏怖の感情をよく表していると思います。


岩崎純一 --- 2013年2月17日

 私も、内掌典のご生活における「清」と「次」の厳然たる区別には、非神道的・非アニミズム的・非汎神論的な違和感を覚えてきましたし、高谷朝子様の神道観にも如実にそれを感じてきたのですが、皆様のご意見を伺って、かなり謎が解けたような気がします。

 最初は、マスコミなどの手によって内掌典などの巫女生活が詮索され、日本最後の秘伝生活のように取り上げられて、テレビなどで国民に紹介されるものの、今度はそれが災いして、いつのまにか宮中側の深層意識の中に「マスコミや国民や海外にも分かりやすく説明しやすい皇室神道」を模索する方針が芽生え、そういう神道を設計するようになり、結果的に、ここの皆様のような非皇室神道系の斎の巫女神道と違って西洋的・現代的性質を帯びるようになった、ということなのかもしれません。

 そう考えると、隧穴・洞穴を利用する東盟祭や日の巫女のご一族の祭祀にせよ、中山太郎が記録したような実際のホトを使用する祭祀にせよ、内掌典と皆様のような斎の巫女との間でホトをめぐる秘儀全般についての意識が異なってきている理由も、つかめてきたような気がします。
 あるいは、先にお書きになっている通り、内掌典が司る祭祀には、ホト自体を用いる秘儀自体が存在していないでしょうし、自らの身体に対する倫理観念は、むしろ一般の女子学生の巫女の方々に近いのかも知れないと思います。
 ホトを用いず、代わりにホトに見立てた凹み部分や窪地を用いるその他の祭祀についても、やはり祭祀の奉納の意識、巫女のホト・処女性を捧げるという意識が強いと思います。ホト自体もまたアニミズムの対象であり、ホト自体が神性を帯びるとする皆様の秘儀とは、相違が生じてきているのを実感します。

『巫女神道探訪記 ― 日本的アニミズム感覚の源流を訪ねて ―』(12) 天孫系巫女神道の秘儀・秘伝化および皇室神道や皇別・天神系巫女神道との別れ

天孫系巫女神道の秘儀・秘伝化および皇室神道や皇別・天神系巫女神道との別れ
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【リンク元】
岩崎純一のウェブサイト 特設サイト 「神道・仏教研究」 (http://iwasakijunichi.net/shinto-bukkyo/
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巫女神道
神代の巫女 --- 2013年1月26日

 このご一族の言い分をすべて史実とすると、岩崎様のおっしゃるとおりになると思います。簡単に言いますと、神武天皇から今上陛下までの125代分の天皇のうち、初期の数名の天皇(この皇別のご一族、すなわち、多氏系息長氏が誕生したときまで)を除くすべての天皇が正当性を否定されるべきものであると、私たちには読めます。現皇統と血縁関係が見出せない神別系巫女神道家の私たちからすると、耀姫様ほかご一族のご見解はあまりにも驚かされるご見解です。

 一部だけ取り上げますが、一応、先ほどの耀姫様の記事から、私たちと共通認識と思われる内容を挙げてみます。耀姫様のご一族に遺る伝承は、かなり多くの学者の間でオカルト扱いされているようですが、耀姫様も、日ユ同祖論を否定して、古代オリエント・イスラエルの多神教の商人たちの中には日本に渡った人たちもいる、という程度の適切な説明をしているあたりは、『記紀』などよりもよほど史実に忠実だとは思いますので。
 ホツマツタヱ、カタカムナ文献に対しても真っ向から否定されており、実に心地よいご発言をされる方ではあります。
 それにしても、いつからイスラエルの部分がユダヤにすり替えられるようになったのか、不思議です。私の社家で言われているのも、多神教時代のイスラエルと日本神道との共通点のことです。

「巴紋と託宣の儀式から紐解く古代日本史。(卑弥呼と天照大神の実像)」(耀姫の日記)
http://d.hatena.ne.jp/mayumi_charron/20100218/1266474872

「私達の一族はというと、姫姓を持つ母系の継承を行う、秦氏を束ねる太陽の巫女の家柄ですから、新政府の教部省といえども、手を触れることなど出来はしませんでした。日巫王(天照大神)の血筋とされる巫女集団に対して、身分を知っていながら下手なことを口にすれば、不敬罪を理由にその場で首を斬り落とされかねない時代です。私達の一族は、平安京建設の頃からの史料を見れば明らかなように、一族の長として表向きは男子を立てますが、長の地位の男系の継承を認めず、朝廷や重臣達を経済的に後ろから援助しても、権力中枢からは一定の距離を置いて、くだらない政権争いなどに巻き込まれないようにしながら、代々古い文化を伝承してきました。ヤマト王権が成立した時代の、日の巫女の一族と皇室の関係は、江戸時代で言えば、皇室と将軍の関係みたいなものだったようです。」

 この論は、私たちの家系と似た経緯を辿っていますし、的確な指摘と思います。

「それ以前の問題として、古い時代から皇室は仏教徒化して古い伝統を失っていったので、日の巫女の一族から、かなり低い評価を受けていたようです。」

 皇室の仏教徒化がそのまま皇室神道の衰退と同義となるとは限りませんが、耀姫様としては、仏教色に染まる皇室と巫女神道との決別がかなり早期に始まったとのご見解をお持ちのようです。

「日本書紀では、天皇の威信に傷が付かないように配慮されていますが、古事記には起こった出来事がそのまま載せられているケースもあるようです。」

 この一文も、母系巫女社会ではよくある見方ですので、不自然ではないです。このあとの部分は、岩崎様がおっしゃったとおりです。

「今では、一般の神社の神事で見られる巫女舞は、奉納を目的とした舞がほとんどです。託宣の舞の旋回の動きを知る人は減ってしまっています。」

 このような、巫女神道の現状についての懸念はそのとおりで、私たちのこれまでの議論と重なるかと思います。

「じつは、私達の一族の代々の日の巫女のなかには、中国側の文献では卑弥呼(日巫王 ピミヲ)と呼ばれた、古代の日本を代表するような有名人が含まれています。日本書紀の編纂者達は、過去に、中国の王室から臣下に近い扱いを受けていたとされる卑弥呼が、当時伝承されていた神話に登場する天照大神(女神)であることは、ほぼ間違いないと認識していたものの、中国王室と対等な外交関係を築くためには、日本の歴史を中国と同じぐらい古く見せかける必要があると考えたようです。そこで創作したのが、紀元前600年頃を想定した神代の時代の神話に登場する天照大神だったようです。万が一にも、天照大神と卑弥呼が同一の存在と看破されたとしても、天照大神よりも古い神々がいるかのように神話を組み立てたりと、あらゆる逃げの工夫を凝らしているように見えます。また、中国王室と日本の皇室が対等な外交をするうえで、皇室の祖先が中国の王室に対して臣下の礼を取っていた歴史があるという認識を、中国王室側に持たれては困ると考えていたようです。そこで、鬼道を用いて人心を惑わしたとか、魏の王室から鏡を贈られたり軍事援助も受けていたとされる、卑弥呼に言及することを、日本書紀のなかでは徹底して避けて、そんな人物は知らないかのような態度を取っています。その代わりに神功皇后という架空の人物を創作して、妊娠しているにもかかわらず朝鮮半島に出兵したといった、四世紀後半〜五世紀初の出来事を、邪馬台国の時代に百年ほど時間をずらして、不自然な事績を創作していったようです。同様の発想で、中国王朝に臣下の礼を取った倭の五王についても、記紀はこれを天皇とは認めない姿勢を貫いているようです。また、日本の天皇の歴史を中国と同じぐらい古く見せるために、卑弥呼と敵対する狗奴国の男王スサノオの間に起こった出来事を、神話の時代に高句麗国から伝わってきた太陽神の神話と絡めて、紀元前の日本に神代の時代があったかのような神話を創作していったようです。」

 このあたりも、細かな点を見れば疑問はありますが、論調としてはおかしくはないと感じます。

「卑弥呼と台与が合祀された亀山古墳に、天照大神を極秘裏に祭ることを余儀なくされた原因のひとつは、伊勢神宮の時の斎宮と持統天皇が、皇位継承者を巡る争いで、深刻な対立状態に陥ったことが原因だったようです。創建されたばかりの伊勢神宮内宮の、斎宮制度の正式立ち上げに失敗して、天照大神をまともに祭祀出来ない状況に陥ったらしいのです。」

 このあたりは、岩崎様やつくりつくり姫さんの和歌関連の視点(斎宮歌壇の成立と消滅)とも重なりますね。

「以上の観察から、私耀姫の視点から見ると、卑弥呼と神功皇后と天照大神(の女神部分)は、同一人物ということになるのです。今は存在しない、古い時代の高句麗語と高句麗道教の世界独特の概念や漢字用法を詳しく知る人物でなければ、謎解き出来ないように巧みに偽装されている意図は明らかでしょう。」
「故老からの伝承(代々伝わるお爺さんお婆さんの昔話)によると、現在の天皇家を作ったのは蘇我氏で、その経済支援団体が秦氏で、一族の長の男子の世襲を認めない、古い体質を持っていた秦氏を精神的に束ねていたのが、斎女の一族だったようです。明治になって、白川伯王家が宮中から追放されて(断絶というのは対外向けのお話で、今もあの家は残ってますよね)私達の一族は、皇室と宗教上の接点を失くしたらしいので、今では身内以外にほとんど知る人がいなくなった昔話を交えて書いてみました。」

 このあたりは、日の巫女の一族側の説という感じもありますが、この前の岩崎様の言語学的視点からのご説明を聞いて、あながち軽視できなくなってきたのも確かです。やはり、明治新政府による巫女神道の断罪(巫女禁断令など)や白川伯王家の追放(天皇と、天照大神の神託を司る女系社家=日の巫女の斎皇家?の分断)の影響を少しでも受けた私たちとしては、興味深いものではあります。


つくりつくり姫 --- 2013年1月28日

 下記の有木巨智麿氏も、耀姫様とそのご一族の伝承について、やや誇張をお感じになりつつも、古代吉備王国発祥のヒントは見出しておられるようです。
 吉備津神社の神主は、代々吉備津彦命の子孫が世襲していたものの、途絶えたので、有木氏が世襲するようになっています。ちなみに私は、有木神社にもよく参りました。

「173の鏡に映る神と宇宙」有木巨智麿
http://catbirdtt.web.fc2.com/zikosyoukai.html

 耀姫様は、「耀姫」、「天照耀姫(あまてるあかるひめ)」、「日の巫女の王」、「皇祖神日巫王」など色々と名乗っていらっしゃり、また、一族についても、「日の巫女の一族」、「秦氏を束ねる太陽の巫女の家柄」、「多氏」、「多氏大王家」、「息長氏」、「息長斎皇家」などさまざまに名乗っていらっしゃいますが、かなり精査は必要だと思います。

 例えば、耀姫様の視点では、仏教色や儒教色に染まった吉田神道よりも、伯家神道を評価する神道史観は出てくるでしょうけれど、そう評価すればするほど、白川伯王家は神仏習合血統である皇統の、花山天皇の子孫の男王家系にすぎないことが目立つわけです。私たち神別氏族系の巫女神道から見ると、やはり皇別氏族系の巫女神道は、皇室神道と蜜月であるどころか、当時の息長氏始祖は皇族であり、一族は真人(まひと)であり、現在まで広義の皇室神道の一角であることに変わりはないわけです。
 白川伯王家は、すでに近世期に吉田神道家の陰に隠れていて、とどめとして近代に宮中から追放されましたが、皇室に対して伯王家よりも(アカルヒメの託宣によって、耀姫様の文体並みに圧倒的に強い口調で)物が言えるはずのこの一族が、中継ぎ役だった白川伯王家の追放のあおりを受けて皇室との縁が切れる、という弱々しすぎる結末となっています。

 この点などは逆に、実はもっと早くから皇室と皇別氏族系の巫女神道との縁はなかったと見たほうがよいという立場もあり得ると思います。少なくとも『新撰姓氏録』で分けて記録されている皇別、神別、諸蕃を、全部ひとまとめに扱っていらっしゃるところがあり、そのあたりの整合性についての言及がないといった点は見受けられるようです。
 つまり、耀姫様が継承されている皇別の巫女神道が、私たちの神別の巫女神道に近いものなのか、皇室神道に近いものなのか、まだよく判別できていません。

 それでも、耀姫様の力強い、剛胆とも感じられる巫女神道の解釈は、当代の『記紀』作者が見れば焦ってしまうような、歴史の神髄を突いているところはあると思います。


岩崎純一 --- 2013年2月2日

 耀姫様が多氏系列の子孫である(とされる)息長氏の斎の巫女でいらっしゃるとの伝承は、それはそれで正確であると仮定しても、そもそもつくりつくり姫様のおっしゃる通り、極めて古い原理的な渡来系巫女神道の観点から見れば見るほど、日の巫女の家系とて皇統(皇別氏族)の一派であることが目立つという点は、私にとっても興味深いのです。
 そうかと言って、天照大神よりも前の神代七代や造化の三神の時代に遡っていくと、今度は当然、皇別系巫女神道の伝承(耀姫様がお書きになっているような伝承)がパタリと姿を消す一方、皆様のような神別系巫女神道の伝承が残り、こちらのほうが日本列島土着のアニミズムと直結している可能性が見えてくるわけです。

 こうしてみると、皇別系巫女神道が、太陽信仰を中心とする渡来系のものであること(無論、大陸に渡ったあと里帰りした縄文系の人々の巫女神道である可能性はある)、現皇統や天照大神、『記紀』そのものが、本当に人工的に設定・創造されて生まれたものであることが、よく分かります。

 それにしても、耀姫様ほか日の巫女の一族のご主張によれば、天皇でさえ、日の巫女の一族に頭を下げるほかなかった(現在でも頭を下げるほかない)わけです。雄略天皇の時代から、あまりにも天皇が無礼であるから日の巫女の先祖が首を切ってやろうかと思ったらしいなどと公表なさっているわけです。
 それならば、なぜその混乱期に、ここの皆様のような神別氏族の斎の巫女たちの先祖が、自分たちよりも圧倒的に身分が高い日の巫女の一族にひれ伏し、その天皇観に追従し、現皇統の欺瞞性に怒らなかったのか。そこまでの無礼者血統、誤った男系男子家系、巫女神道破壊者であるはずの現皇統に対し、反旗を翻さなかったのか。あるいは、皇統も皇別神道も見限って、神別氏族から新しい巫女皇統・巫女王統を出さなかったか、ひいては、神別氏族の男性神官たちが別の『記紀』を捏造して別の皇統・王統を建てることを考えなかったかという原理的な問題が残るのです。『新撰姓氏録』以前から、皇別、神別の意識は存在したようですからね。

 つまり、ここの皆様の斎の巫女の家系は、どうして皇統や斎王・斎皇(天照大神、神功皇后、卑弥呼・・・)自体になれなかったのか、その秘密を日の巫女の一族が握っているのではないか、明確に言うならば、現皇統は日の巫女のご一族が非難するほど無礼者の血筋ではないのではないか、実は日の巫女の一族は、巫女神道の伝承者というよりも、それ自体が誰も逆らうことのできない時の政治権力者であったのではないか、という壮大なテーマです。
 注目点は、天照大神を降ろして天皇に都合の悪い託宣(天皇の死や病)ばかりを告げ、最後は天皇・宮中自身をして天照大神を追放させるに至らしめた、そんな最も畏怖された日の巫女の一族とて、広義には皇族の内部の人間であり、実は『記紀』の外に飛び出る(天皇に楯突く)ことは不可能であるのだから、ここの皆様の神別氏族の巫女神道が単独行動で天皇に楯突くチャンスであったのに、楯突いていない、という点です。ということは、日の巫女の王家は、神別氏族系巫女神道を、巫女神道上の問題とは無関係に、政治的に押さえつけていたと見るのが妥当だと考えられます。
 しまいには、神別天神氏族の最高権威の藤原氏が、天皇と外戚関係を結んで、れっきとした巫女神道(斎宮)の凋落と現皇統の安定がもたらされるわけです。

 ただし、息長氏が長期に渡って播磨・吉備を本拠とした豪族だったことは、私も間違いないと思います。
 いずれにせよ、スサノヲが本来の初代天皇であるといった、耀姫様(日の巫女の一族)の巫女神道史観の全ての内容を肯定した場合、現皇統はほとんど初期から血統が間違っていたことにならざるを得ませんが、真偽のほどは別にして、私個人の考察や神道史観にとっても興味深い影響を与えていることは確かです。
 耀姫様に受け継がれている伝承が、どこかでご先祖・古老の虚構や脚色を挟んだものであったとしても、それはそれで、「現代は、皇室神道や神社神道の精神(もはや精神ではない)と巫女神道の精神が相容れない時代であると私は考える。ただしそれは、天皇陛下個人や皇室への私個人の崇敬の念とは無関係の、神道精神上の見解である」という私の思いを、部分的には代弁して下さってはいるからです。

 そのほかに興味深い点は、耀姫様は、斎宮制度によって男王を補助するような比売許曽(ヒメコソ)の巫女集団が、アマテラスとスサノヲの時代から実在していて、アカルヒメこと真の斎宮がその天照大神のモデルとなったものの、スサノヲを超えて殊更に上位として扱われる立場ではなかったとしている点です。
 また、過去の信仰実績が確認できない、『記紀』神話の女神天照は、侵略してくるおそれのある唐に対して大和朝廷の歴史を古く大きく見せかけようとして創作された神代の女神である、との認識、すなわち、藤原不比等らが権力を持った当時の朝廷が、日本人を騙して嘘の神道で精神支配しようとしたのではないとする点も、私と同じ神道史観です。
 中華思想の大国である唐を模範としつつ、それに対抗して別の律令制と国防体制を敷こうとする日本における、このような古代の一大宗教改革について、当時の日の巫女と、それに賛同する秦氏などの氏子が容認したという展開は、十分に考えられるところです。

 耀姫様の、「卑弥呼と神功皇后と天照大神(の女神部分)は、同一人物」であり、現在においてそれは「私」であるとする見解も、ある意味で、数奇な運命を辿ってきた皇別系巫女神道が生み出した、究極の神託なのかもしれません。


吉備の斎の巫女 --- 2013年2月3日

 それはおっしゃるとおりで、神別氏族(天孫・地祇の血が濃い)の私たちの社家が、『記紀』やのちの『新撰姓氏録』に対抗して、ゼロから皇統を立ち上げるという可能性も、理論上はあったはずです。

 そうならなかった原因として、注意点すべき点は、同じ「天孫」でも、『記紀』の天孫降臨・天孫族における「天孫」から、『新撰姓氏録』の天孫氏族における「天孫」まで、かなりの格下げが見られる点です。神武皇統も、広義の天孫の一系統ですが、皇別氏族はもちろん独立した特別扱いですし、天照大神直系の天孫が、天孫降臨時の付き添いの神々の子孫よりも下位に置かれます。
 もちろん、これは藤原氏の策略でもあったはずです。藤原氏の祖先は、神功皇后の審神者(さにわ)であり、息長斎皇家(日の巫女の王)に仕え、その天照大神の神託を天皇に伝える立場であったため、皇別系の巫女神道にはひれ伏していたようですが、天孫氏族に対しては強い態度に出るようになり、今度は天皇・皇別氏族・日の巫女の一族側に立って、天孫系の巫女神道の排除に取りかかったのだと思います。
 藤原氏一族は一時期、心の中で「自分たちは、天皇も、日の巫女の王も超えた」と何度も思ったと思います。
 おそらく、私たちの社家の祖先は、皇統、そして皇別氏族に楯突こうとしたとしても、藤原氏を中心とする天神氏族の台頭と、それらの皇統との蜜月関係の発展により、神別系の巫女神道としての統一的な斎の王統・斎宮の整備などが間に合わなかったと考えられます。

 ところが、私たちも、その藤原氏の血を引くとされているのです。平安時代や室町時代にも、また『記紀』時代と同じようなことが起きて、私たち神別天孫系かつ藤原氏の末端の分家の巫女神道が、耀姫様のような皇別直系の巫女神道からだけでなく、天神系や天孫系本流の巫女神道からも離れていったと考えられます。
 そして、最終的には、これまでにも触れましたように、国家神道の成立と伯家神道の没落によって、私たちは皇室神道や皇別系の巫女神道とほぼ全ての縁を切られてしまい、そのうちに心地よい諦めがつくようになり、巫女舞や神託をとことん秘儀・秘伝化した現在の形になったと考えています。

 以上がすべて正しいとしますと、今、私たちのような天孫・地祇系の巫女神道には、三系統以上の上位の巫女神道が存在することになります(現皇統・宮中三殿の内掌典の系統、皇別系の日の巫女の斎王=斎皇の系統、藤原氏本流の天神系巫女神道)。あるいは、もっと多く存在するでしょうね。


岩崎純一 --- 2013年2月6日

 ここの皆様の視点をお借りしますと、そういった皇別氏族系(多氏・息長氏)の日の巫女の家その他の社家は、なおさら現皇統(巫女神道色が薄れつつあった皇室神道)に近いお立場だったということがよく分かります。さらにそこに、天神氏族藤原氏の台頭が影響し、皇室神道と皇別系の巫女神道に天神氏族系の巫女神道が加わった三つ巴の神道勢力が出来上がり、天孫・地祇氏族系の巫女神道が大和朝廷以外の地に残っていったという構図なのでしょう。

 そうなると、今現在は巫女神道色(強いて言えば、天照大神を初めとする八百万の神々)を捨てている皇室神道や多くの皇別氏族系神道や神別天神系の神道から最も遠い道を歩んでいる巫女神道は、皆様のような神別天孫・地祇系の巫女神道ではないかとさえ思えますが、それも、『記紀』の時代だけではなく、それ以降の時代にも行われてきた体制側からの巫女神道の追放策の影響であり、一筋縄ではいかないとなると、私などはもう気が遠くなります。

 これからの時代に必要なのは、男系男子を中心とする現皇室や皇別系・天神系の神社神道、女系女子が一族の実験を握る皇別系巫女神道(ほぼ日の巫女の王の一族のこと)は、それはそれで残った上で、一方でそれらの中から、女系女子が担ってきた非政治的な祭祀・神事を基本とする巫女神道色を取り出し、ここの皆様のような天孫・地祇系の巫女神道と共にその色彩を遺していくことだと、私は考えます。
 それも、神職男性が神前で祝詞を唱え一定の所作を行う祭祀を中心とする神道の中にある巫女文化としてではなく、神楽を舞う巫女の身体それ自体が八百万の神々と一体化するアニミズム精神が無言のドグマであるような巫女文化として遺ることが望ましいと、私は思います。

『巫女神道探訪記 ― 日本的アニミズム感覚の源流を訪ねて ―』(11) 日の巫女の王の伝承と日本最古の皇別系巫女神道

日の巫女の王の伝承と日本最古の皇別系巫女神道
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【リンク元】
岩崎純一のウェブサイト 特設サイト 「神道・仏教研究」 (http://iwasakijunichi.net/shinto-bukkyo/
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巫女神道
神代の巫女 --- 2012年12月21日

 逆に、オカルト日本史と思われそうで、実は『記紀』よりも史実に近いと思われる伝承が、播磨・吉備地域のいくつかの社家に残っています。
 総社の秦(『隋書』に出てくる秦王国の有力候補地)や阿曾や、県内の神代(こうじろ)の出身の、またはそれらの土地にゆかりのある社家には、神武天皇以来の現在の皇統が意図的に作られる以前、つまり、『記紀』の創作、天照大神や神功皇后の創作より以前の神話(『記紀』作者たちが、唐に対抗するため、あえて覆い隠したと思われる史実)と、それに基づく神事が伝承されています。

 その中でも、この前にもお話に出ましたが、耀姫様の日の巫女のご家系は、私たちと同様、女系世襲のお家であり、現在は六甲山の麓に居を構えていらっしゃいます。ただし、注意すべきなのは、そのお家は、私たちのような、最初から現皇統と血縁関係を持たない神別(天神・天孫・地祇)系の巫女神道ではなく、あくまでも皇別氏族・皇室神道系の巫女神道のお家であり、そして驚くべきことに、真人(まひと)である息長氏の一族であり、忌み家として存続してきた皇祖母神のお家とされる点です。
 つまり、いくら皇室神道が巫女神道色を失っているとは言っても、元から皇統とほぼ無関係な私たちの巫女神道と異なり、耀姫様の一族は皇室神道に近いのです。当然お立場上も、私たちどころではなく高貴で、「斎王(斎宮、斎院)」ならぬ「斎皇」という呼称もお使いになっているほどです。そして、私たちが伝承する祭祀・秘儀よりも、耀姫様の社家のそれらのほうが、格式上も舞の型の上でも、皇室神道の斎の巫女のものに近いです。代々の「斎皇」は、皇室神道の斎の巫女であるということです。
 伊勢や賀茂のほうの斎王制度がかなり早く廃れた理由としては、武家政権の登場により、天皇が祭祀を担うだけの非政治的存在となり、天皇と斎王の役割が重複するようになったため、という説も学界では見られますが。

 従って、日の巫女の王の一族が天照大神や神功皇后の創作より以前の神話・神事を伝承しているとは言っても、それは太陽信仰を中心とする渡来系のもの(耀姫様によれば、高句麗道教系統のもの)で、おそらく造化の三神や神代七代の伝承は、内容の真偽のほどはともかく、どちらかというと私たち神別系巫女神道のほうによく遺されていることになると思います。
 つまり、耀姫様のご一族は、「日本神道の家」としては最古かつ最高位かと思われますが、「アニミズムの精神を持った日本列島の人々」の中では、有史以前から土着していた人々よりは新しいお家ということになります。

「神代」は、吉備地方や私たちの社家では「こうじろ」と読み、「神社(こうこそ・かむこそ)」と読む人もいますが、これらの言葉の起源はとても古く、西日本には、現在の神社(じんじゃ)それ自体の原型であるとされる「姫社(ひめこそ)」が点在しています。現存する総社市福谷の姫社神社に行けばわかりますが、祭神は「阿加流比売神・天照赤留日女尊・明かる姫(あかるひめ)」=「照日女(てらしひめ)、輝夜姫・かぐや姫(かぐやひめ)」です。この姫が天照大神のルーツとも言われています。
 この「あかる姫」(あるいは当時、単に「姫」)を降ろす巫女を有する家があり、そのお一人が先ほどの耀姫様とされます。

 ただし、ご当人も、その一族が中央集権国家大和朝廷を支える一氏族だったとしながらも、その最大の根拠が未だなお「一族の故老の伝承」であるという点はしっかり述べておられ、検証が待たれるところです。前にも書きましたが、一族は、長い歴史の中で分派と再統合を繰り返しているようで、各家・各古老の方々ごとに伝承にもずれがあるようですし、耀姫様の神道観に対しても、どこまでが嘘でどこまでが本当か、色々な意見があるようです。
 それでも、これらは、神武天皇の東征神話に比べて、格段に物証のある話で、私たちの社家も注目しています。

 日の巫女のご一族(皇室神道系)もそうおっしゃっていますが、私たちの社家(天神・天孫・地祇氏族系)でも、大体以下のように「太陽と人間の結婚」を伝承しています。
 昔、アジア大陸の東にあった国のある池で、人間の女性が水浴びをして遊んでいたところ、太陽の光が水鏡に反射してホト(女陰)を照らした。すると、女性は孕んで赤い玉を産んだ。その玉は成長して阿加流比売となった。姫は、やがて天日矛(あまのひほこ)という太陽の神に見初められて、妻となった。
 このような伝承です。

 天日矛(天日槍)は武器の神で、耀姫様のご一族では鉄の神剣を振る剣舞が神事の中で最も重視されているようです。神道の家柄ながら、ご親戚には刀鍛冶の家もあるとのことです。耀姫様の神剣は近年作られた分霊品で、普段持ち歩けるように金銀の装飾を施して七宝焼き仕上げにした美術品の体裁を取っているようです。
 以下の点は、私たちの神事と似たようなものです。

○ 古式に則って、甘南備山(神名火山)の山頂の磐座の上に祭って雷雲を招来する神事を行って、落雷によって生じた電流を用いて磁気を帯びさせている。
○ 敏感な人は、振ると磁気刺激を受けて脳が反応して簡単に催眠状態になれるので、神事の進行上重要な実用的アイテムになっている。


吉備の斎の巫女 --- 2012年12月23日

 耀姫様は、ネット上で最も厳しく『記紀』以前の巫女神道を説いている斎の巫女ですから、学術界、市民運動家からもバッシングがかなりあるようですし、耀姫様の主張も検証が必要な部分があるにはありますが、古代の皇別巫女神道の継承の仕方としては極めて貴重なのです。卑弥呼の鬼道と高句麗道教との深い関連性から、日の巫女の一族は、一度大陸に渡ったあとに太陽信仰を帯びて里帰りした縄文系の一族という説も唱えていらっしゃいます。
 明治天皇を頂点に据えて神道国教化や国家神道の建設をもくろんでは迷走してきた新政府が、吉備地方の伝承にうっかり手を出せず、私たちの先祖である斎の巫女たちに巫女禁断令をうまく適用できなかったり、事実上神懸りの神事を黙認するなどしたのは、斎王のいない伊勢がもはや行っていない、天照大神の神託を授かる祭祀を残すこういう社家が吉備・播磨地方に残っていた事情もあったからでしょう。

 ちなみに、かの桃太郎伝説は、天日矛一族の東進神話を下地にして神武東征神話が作られ、それらを下地にして子供向けの御伽噺として作られたもの、というのが、私の地域での伝承です。
 以下のような耀姫様のご体験は、私の幼少期の神降ろし体験にも近いですし、前の電磁気のお話ともつながると思います。

「7歳の頃総社の姫社神社を訪れて、あまりにも心地良い場所だったので、自然に体が動いて、拝殿で剣舞を奉納したことを思い出しました。なぜ心地良かったのか、今日活断層の分布を調べて納得しました。中国地方の数少ない活断層のひとつ、畑ケ鳴断層の南西端に位置する場所に建っていますね。土地が帯びている環境磁気を測定すれば、おそらく脳に良い結果が出てくると思います。」

「日本神話の中に登場する 耀姫(あかるひめ)」(耀姫の日記)
http://d.hatena.ne.jp/mayumi_charron/20100122/1264163279


つくりつくり姫 --- 2013年1月12日

 耀姫様の家系の、姫社をめぐる古老の伝承は、今一度検証されるべきものでしょうね。近世の国学者たちが神道の本質を見誤ったことが、明治政府の巫女禁断令につながったといったご主張はその通りだと思うのですが、その遠因が神仏習合にあるというようなご説明は、やや私の認識とは違いがあるようです。
 それでも、『記紀』の創作性がどこから来たかとか、現在の皇統は勝利勢力の一部に過ぎない点の説明は、論理的だとお見受けします。

「台与亡き後の混乱期に、九州の日向あたりに住んでいた人々を中心に、再び新天地を求める動きが起こり、これと結びついた旧邪馬台国の一分の人々が東進を開始したようです。当時、東の地には銅鐸文化圏があったため、戦闘の最前線となっただろう吉備の地に、鬼ノ城を築いていったようです。吉備と言えば、作られたときには日本最大級だった前方後円墳を生み出した、強大な力を持った豪族が支配した土地です。その発祥の地は姫社神社とされています。そこに祀られているのが耀姫です。他の地域の神社のように、後世になって記紀が創作した神功皇后に名前を塗り替えられることなく、古い時代の祀神の名がそのまま今に残されている貴重な神社のようです。日矛耀姫ペアを信仰する集団が発端となって栄えたのが、吉備王国だった可能性がうかがえます。」

「巴紋と託宣の儀式から紐解く古代日本史。(卑弥呼と天照大神の実像)」(耀姫の日記)
http://d.hatena.ne.jp/mayumi_charron/20100218/1266474872

 岩崎様の共感覚論との関連で言えば、自分たち巫女の神懸りが、自己催眠の技術であって、統合失調症などではないとしている点で、整合性があり、適切だと思います。


神代の巫女 --- 2013年1月13日

 姫社神社(祭神はアカルヒメ=阿加流比売、天日矛の妻)には、誇らしく「古代吉備国発祥の地」の看板がありました。


岩崎純一 --- 2013年1月17日

 姫社神社に行かれたのですね。

 神仏習合についても、実際は色々ありますからね。仏教勢力が神社を乗っ取って神宮寺を建立したケースもあれば、一部の門跡などは皇族が寺を乗っ取って居座っています。
 本地垂迹も、いざ神仏の組み合わせ作業をやり始めたら、段々と神仏のパズル遊びのように思えてきますし、言い方は悪いですが、適当に当てはめたとしか思えない本地垂迹の流派もあります。

 結局、どっちもどっちだと思いますが、庶民レベルでの神仏習合は、そういうものではなくて、現在までほとんど宗教的ドグマもなく、神道と仏教とキリスト教の違いもよく分かっていない、「何となく何でもやっている」感覚でしょう。
 そうは言っても私は、前近代の神仏習合のほうに深い感銘を受けますし、昨今の烏合の衆のような、初詣、神社参拝、クリスマス、ハロウィーンの騒ぎには興醒めしており、これらを「神仏習合」や「宗教の融合」や「和の精神」と呼びたくはないと思っています。


吉備の斎の巫女 --- 2013年1月21日

 耀姫様は、当の天皇・皇族勢力は、仏教徒化と神道の伝統の喪失が原因で、耀姫様の家系(日の巫女の一族)から低い評価を受けるに至ったとしていますが、これですとあまりに古い伝承で、検証が難しいものではあります。それはそれで、興味深いのですが。

 耀姫様は、

「天皇は神子と呼ばれたことがなく、日の巫女の王(後の斎王)より位が下とされた時代もありました(これは卑弥呼の例を見ても明らかでしょう)」、

「桓武天皇が日本書紀31巻を焼き捨て、他の箇所も書きかえるよう命じたのはなぜですか?」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1296395282

「憲法上の象徴天皇ではあっても、残念ながら天照大神の精神を受け継ぐ神道上の正式な天皇と言えるかどうか、微妙な立ち位置ではないかと思います」、

「天皇が神の子孫というのは、史実ですが、なぜ最近は神の力を使わないのでしょうか?」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1095475335

「明治天皇までは行われてきた、天皇が天照大神と心身一体になる儀式を、大正天皇からは行っていないので、私達から見れば、残念ながら正式な本物の天皇と考えることは出来ません。もちろんこれは、日本国憲法上の象徴天皇であることを認めないという意味ではありません。憲法上と宗教上は考え方が違ってきます。」、

「巴紋と託宣の儀式から紐解く古代日本史。(卑弥呼と天照大神の実像)」(耀姫の日記)
http://d.hatena.ne.jp/mayumi_charron/20100218/1266474872

と、驚くべき言葉で喝破なさっていますが、たとえ私たち巫女神道の立場(神々を降ろす巫女舞を舞うことのできる立場)からはそうだとしても、日の巫女の王の一族にしかできない発言で、私たちの一族がそのような立場になったことはなかったと思われます。

 ただし、以前からお話に出ていますが、耀姫様のご報告は、当時の明治政府が私たちの家系の巫女(私の曾祖母、祖母、母やその姉妹)の神託をも恐れた経緯ととても似ていますので、あながち軽視できないのです。そして、日の巫女の王の一族は、明治政府から最も恐れられた一族ということになります。


岩崎純一 --- 2013年1月23日

 私は、この日の巫女の一族のことは、和歌と巫女神道の両面から知りました。現在の一族の長である耀姫様の主張としては、ご自身の一族が伝承する神話(というより実話)があって、それが現行の日本国の皇統側の正史においては『古事記』という形の中に組み込まれているにすぎないという見方かと思います。

 日の巫女の一族の全てのご主張が史実に寸分違わず正確妥当だとすると、現在の男系男子の皇統は、千年以上に渡って伊勢斎王のまともな神託による天照大神の影もなく(しかも、斎王の神託自体が事実上初期から形骸化していたらしく)、仏教化した皇室神道のもとに展開される血統で、日の巫女の王(日巫王)すなわち女神耀姫(天照大神、神功皇后、卑弥呼・・・)の母系巫女神道家系こそが、真の「姫」姓を持って現皇室・現皇統の上位に君臨する女系王統であることになります。
 現在から短く見積もっても、斎王制度が終焉を迎えた頃には、本来は斎王の上に立つべきでない現皇統が上に立って、以後千年間は、皇室神道(とその斎の巫女たるべき神宮祭主や内掌典)は真の巫女神道を継承していないことになります。
 そうなると、内掌典は、宮中で何の意味のない物体(宮中が追い出した天照大神を祀る伊勢神宮の八咫鏡の、さらにそのコピー)を護っているのではないかという極論になってしまいます。

 それにしても、もっぱら斎王が詠んだ和歌の情趣という立場から申しますと、斎王になって初斎院や野宮で暮らす時期や、伊勢に向かう道中や、伊勢において斎王が多くの侍女に囲まれて詠んだ歌には、それはそれで深い悲哀とささやかな微笑があるのです。そういった巫女神道の哀しき美を思うと、「卑弥呼も神功皇后も天照大神も同一の女神耀姫であって、天日矛の子孫であり、現在の日の巫女の一族のみがその正統であり、古くは高句麗=高天原に端を発する」という旨の、カントやヘーゲル並みの神概念の導入のような、イレギュラーの全く存在しない一直線的解釈から、真の斎王・巫女神道史観が生まれ出るものかどうか、にわかには信じがたく、驚きを持って見ています。

 私は、斎の巫女には、ここの皆様がお持ちのような「ごく一般の人々に対する真摯な優しさと、心から貧富の差を縮め災害を鎮めようともがく託宣精神」が必要だと思っています。
 上記ページにもあるように、秦氏に所属する商人や職人を一手に束ねて経済的にも圧倒的な優勢を誇っていた自分たちの一族に、無作法を働いた天皇一味が頭を下げ衣服まで献上したといった伝承、すなわち、ご一族への富の集中がその巫女神道の正当性と現皇統の不当性の結果であるとのご見解を、ご一族が盛んに主張されている現状を拝見しますと、天皇が二千年前にこのご一族の先祖の方々にはたらいたとされるその無作法が本当に存在したのかを冷静に考えることが、目下適切な神道史観、妥当な歴史学的態度かと私は思います。

 ただし、私としては、『記紀』の創作理念が、悪く言えば虚構と脚色の書、よく言えば扶余・高句麗・百済、そして大和朝廷側からの大陸(唐、新羅)対策としての書だったのと同様、耀姫様のご一族を含めた古代吉備の巫女神道についても、虚構・脚色と史実との区別といった安易な二元論から超然としてとらえたいと思います。