2011年06月27日

建築家が「共感覚」の語を使用

 建築家の佐川旭氏という方が、フリーマガジン「R25」(No.287、2011年6月16日発行)の中で、下記の通り「共感覚」に言及されている。

フリーマガジン「R25」
http://r25.yahoo.co.jp/


(引用始め)

「子どもの教育では、知識よりも心を育むことが重要です。心根の大切な要素である知欲・意欲・情の3つをバランスよく育てることで、素直で人の話をしっかりと聞く、感性豊かな子どもに育ちます。けれど、現代は家族の関係も希薄になり、情が失われがち。生活のなかで子どもの情を育てる家選び・家作りが重要なんです」

「大脳生理学でいう“共感覚”のようなものが重要だと私は考えています。これは3つの刺激を複数の感覚で捉えるもので、たとえば“高い金属音に冷たさを感じる”ようなことを指します。“子供の情を育む家選び”でも、この“複数の感覚”という点が重要で、“3つの記憶を複数の五感に刻みこめる”家なら、家族の思い出が記憶に刻まれ、時間が経っても温かな感情を思い起こしやすいでしょう。これが深い“情”を育むわけです」

(引用終わり)


 何よりも知識を優先して動かざるを得ない職業であると思える建築家が、「子どもの教育では、知識よりも心を育むことが重要」であると述べている点は、同じ境遇にあったはずの数学者の岡潔が子どもの「情緒」を「知識」よりも重視すべきだと唱えた点に似ている。

 私は、岡潔の思想や主張を「共感覚」的な哲学・思想として敬愛しているが、この建築家も「大脳生理学でいう“共感覚”のようなものが重要だ」として、「知識」以前の「心」や「情」に「共感覚」を見ているあたりが、非常に鋭い視点だと思える。

 私も仕事の中で建築家や芸術評論家に接することがあるが、このような視点を持っている文化人・学識者に出会う機会は極めて少なくなっていると感じている。数学や建築といった学問・芸術に「心」や「情」を取り入れることに挑戦し続けている文化人・学識者の数が少なくなっていることも理由にあるだろうが、学校教育や社会教育、テレビなどのマスメディアの場であまり取り上げられないこともあるのだろう。
タグ:共感覚
posted by 岩崎純一 at 23:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 最新の話題

2011年06月26日

警察犬による一卵性双生児の嗅ぎ分け

 チェコの動物行動学者らが科学誌プロスワンに発表したところによると、優れた警察犬は、遺伝情報が同一である一卵性双生児であっても、細菌や寄生虫感染などの要因で生じた両者のにおいの違いを嗅ぎ分けられると言える有意の実験結果が得られたとのこと。

 私としては、共感覚の観点から関心を持っている。

●警察犬、双子もかぎ分け…細菌・寄生虫で区別?
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110625-OYT1T00424.htm?from=navr

●Dogs Discriminate Identical Twins
http://www.plosone.org/article/info:doi%2F10.1371%2Fjournal.pone.0020704
posted by 岩崎純一 at 12:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 最新の話題

現代の巫女と一般女性とに共通する潜在的古代的共感覚について

 現代の世相なのだろうか、私が普段、「巫女の共感覚を研究している」、「私のサイトには巫女さんがよく訪れる」、「私の著書の読者には巫女さんも多い」と言うと、なぜか最近のサブカルチャー的な巫女を想像する人がいて、苦笑してしまうが、私の言っている巫女とは、本当の巫女(大神宮巫女・大社巫女・内掌典経験者など)のことである。

 いわゆる「社格(神社の格)」が高い神社に生きていらっしゃり(「社格」は戦後に廃止されたが、事実上残っている)、本当に「許嫁(いいなずけ)」のお相手が決まっているような女性の方々のことを言っている。

 要するに、著者の私も恐れ多すぎてひれ伏してしまうような方々であり、とてもサブカルチャー的な興味から扱ってよいような存在ではない。

 現在の日本の巫女は、ほとんどがアルバイト巫女だが、一方で、旧社家や旧公家の血を引き、ほとんど自動的に巫女の人生を送る女性が存在する。拙著を読んで下さったり私のサイトへご訪問下さったりして(運よくも)面識を持ってきたのは、後者のほうで、年齢は十代・二十代が多い。

 そのような皆様とは、「文字や言葉の共感覚色」についてのお話や和歌をやり取りさせていただいている。私は、このような方々と自分のライフワークである共感覚を語り合えるだけでも、共感覚人生の目標の何割かは達成できたと思っている。

 かつて福井の永平寺や鎌倉の円覚寺を訪れたとき、禅僧たちがズラッと並んで座り、一斉にパソコンに向かって何やらカチャカチャと打っていて、その瞬間だけは禅的境地が一気に吹き飛んで苦笑したが、それと同じで、もはや巫女とて、普段はお掃除にいそしみながら、プライベートではパソコンでブログやツイッターをなさっているわけである。それについては、私は残念には思わない。むしろ、安心できる。

「巫女をやっていたら共感覚や解離性障害が身につく」のか、「共感覚・解離性体質だから巫女なる仕事に似合っている」のか、という問いは、「ニワトリが先か卵が先か」というのと同じで、ほとんど意味を成さない問いではあるが、ともかく、拙著を読んで下さった巫女さんの中に共感覚者や解離性障害者が数人いるのは確かである。

 私が今の問いを「意味を成さない問いだ」と思う理由は、私の考えが民俗学者の折口信夫と同じだと自分で思うからである。

「事実において、我々が溯(さかのぼ)れる限りの古代に実在した女性の生活は、一生涯あるいはある期間は、かならず巫女として費されてきたものと見てよい。(中略) 女として神事に与らなかった者はなく、神事に関係せなかった女の身の上が、物語の上に伝誦せられるわけがなかったのである」
(『最古日本の女性生活の根柢』より引用
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/24436_14407.html

 要するに、かつての日本では、「女性の仕事の一つに巫女があった」のではなく、「女性とは巫女のことであった」と言うほうが正しいことになる。

 ということは逆に、現代日本には、「本職巫女でなくとも古代巫女的感性を持った一般女性が生き残っている」かもしれないし、「本職巫女だからといって古代巫女的感性の持ち主とは限らない」ことになる。そして、前者に対して、精神科医は「共感覚」や「解離性障害」や「鬱病」という名を与えているにすぎないというのが、私の考えなのである。

「今の一部の女性に対して与えられる共感覚・解離性障害・鬱病などが指す何物か」を、それらをあまりよく思わない社会人の意識上に思いきり引っ張り上げて、なおかつそれを「昔はこちらがごく普通の女性の感性だったらしいですよ」と言うこと、これが常々私がやってみたい意地悪の一つである。

 先述のような、身分・出自の事情から本職巫女であらざるを得ない女性を探ってみると、現実に共感覚や解離性障害を持っている確率がかなり高いということは言えるのだから、逆に言えば、現代的文明生活をしている普通の主婦を神社に強制的に移住させて、毎日鎮守の杜の中で舞や神事や掃除でもさせれば、古代的共感覚が蘇ってくる可能性がないとは言えないことになる。

 しかし、そんな暴挙はできない現代なのだから、問題にすべきなのは、「木の香りもしないコンクリートのマンションで生活する中で、いかに体の奥底にだけは古代的感性を残したまま生きるか」、つまり「現代日本女性の全員が潜在的巫女でいられるにはどうすればよいか」ということのはずである。

 逆に言えば、私の場合は、「そういう生活の中で、言葉や動物の鳴き声や女性の生理現象に色が見えるなどという共感覚を、なぜ体に保持し得たのか」ということになる。

 私の持つ「女性の生理現象を色で見る」共感覚は、一言で言えば「巫女的感性の裏返し」ではなかろうかと思っている。つまり、私の共感覚のそっくりそのままの裏返し、私の感性の女性バージョンを、そのまま「巫女」と言ったのではなかろうか。

 男性である私の一方的な直観が当たっているかどうか知らないが、共感覚を持つ巫女さんたちのお話を伺っていると、そうとしか思えないのである。
posted by 岩崎純一 at 00:04| Comment(0) | TrackBack(0) | メモ的記事

2011年06月20日

井筒俊彦

■おすすめ著作
『意識と本質―精神的東洋を索めて』 『意味の深みへ―東洋哲学の水位』 『意識の形而上学―「大乗起信論」の哲学』

 井筒俊彦の「言語アラヤ識」は、私が岩崎式日本語を構築する上で最もよく参照した思想の一つである。また例えば、鈴木大拙の「即非論」は、「言語アラヤ識」に最も近い「識」の様態か、あるいはそれと同等のものとして生じると、私は考える。

 また、「井筒哲学における言語アラヤ識は今西錦司の言う人類のプロトアイデンティティ(原帰属性)であるか」という問いを私は考えたが、これに対しては、井筒も今西も言及したことがないと思われるいわば「真我の進化過程」について考えてみた結果、条件付きではあるが、「Yes.(原帰属性である。)」の回答を与えたくなるわけである。
posted by 岩崎純一 at 16:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 人物評論・書評

九鬼周造

■おすすめ著作
『「いき」の構造』 『偶然性の問題』 『人間と実存』

 拙著『音に色が見える世界』の中の「にほひ」論における日本的情緒の正三角形の着想は、九鬼周造の「いき」論における日本的情緒の六面体の着想に似ていると思う。

 私は同拙著で、古語の「にほひ」が指していた日本的情緒を、「現代日本語の“におい”のみならず現代日本語の“いろ”や“おと”などを内包しつつ裏に異性を志向する一種の共感覚である」という旨の主張をおこなった。私の心の奥底に、九鬼哲学へのオマージュの意識があったのかもしれない。

 九鬼哲学は、何をどう読んでも、必ず「異性論」であるとしか思えない。キルケゴールの『誘惑者の日記』的でさえある。クリスチャンでありながら、ことあるごとに日本回帰しようとする自らの身体と精神との一つの説明法が、「いき」であるのだろう。

 最後は祇園の芸妓とともに一生を終えた九鬼周造から見れば、私の私生活はおそらく、極めて硬派すぎてつまらないだろうが、逆に言えば、そこが九鬼周造の「良き不真面目さ」、そして、九鬼哲学(私が「クリスチャン的やまと回帰哲学」と呼ぶもの)の「良き不徹底さ」でもあるのだと思う。しかし、そのような九鬼周造の行動も、元を辿れば、自分が(母波津子の不倫相手である)岡倉天心の子ではないかと苦悩した日々に行き着くことができるのだろう。

 ちなみに、やまと回帰論を展開する日本のクリスチャンの中で、最近読んだのは、阿部仲麻呂氏というカトリックの神学者の『信仰の美学』で、これは「日本的霊性の神学」の構築を試みていて、非常に面白い。
posted by 岩崎純一 at 15:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 人物評論・書評

熊谷晋一郎

■おすすめ著作
『リハビリの夜』

 東大で熊谷晋一郎氏と対談させて頂いたときに感じたのは、「いわゆる共感覚を有していらっしゃるわけではないものの、氏の身体感覚・内臓感覚に関する達見には、私の及ばない点が多々あるのではないか」ということであった。だから、他の一流の哲学者・生態学者などと同列に、「人物評論」のページに挙げてみた。

 対談でも、私の対女性共感覚を「エロティシズム」の観点からお話させていただいたが、氏の「身体内協応構造」と「身体外協応構造」の二重性としての身体論は、私の対女性共感覚にも適用できると思う。

 私は脳性麻痺ではないから、物理的に離れた女性に対する共感覚の発揮は、知覚上の問題であると同時に、観念上の問題でもある。しかし、熊谷氏の場合、全てが知覚上の問題である。だから、「腹ばい競争で女の子たちにおいて行かれるのが快感である」という主旨の書き方になる。

 いわゆる健常者男性は、離れた女性をまずは観念で追いかける。いわゆる「愛の告白」とはそういうものであると思う。熊谷氏には、そのような「不純さ」がない。私は自分を、熊谷氏よりもずっと「不純な」男性であると思った。「観念による追いかけ」は、私の共感覚における一点の傷であるような気さえした。
posted by 岩崎純一 at 15:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 人物評論・書評

鈴木大拙

■おすすめ著作
『日本的霊性』 『無心ということ』 『東洋的な見方』 『禅と日本文化』

 鈴木大拙の「即非の論理」は、「AはすなわちAにあらず。よりてAなり」を意味し、もちろん、多分に仏教的・禅的な響きを持つ概念であり、また鈴木自身が多分に仏教的・禅的な人間ではあるが、この自己意識の様態は、精神病理学的には重度の解離性障害者の脳などで起こっていると考えられる。私はそのことを、解離性障害の女性との交流の中で、自分で考案している岩崎式日本語について語り合っている時に、思いがけず確認したことがある。

 男性でも、現代日本語発話の障害を有する男性ならば、同等のことが起こっていると考えられるが、そのほとんどが自閉症や知的障害と呼ばれる様態を呈していて、確認のしようがない。元より、自閉症や知的障害は統計的に男性に多い。

 女性においては、自閉症や知的障害の一歩手前であっても文法言語への認識を保持する場合が多い。岩崎式日本語の空格段階は、この構造を有していて、そこでは、「〜である」と「〜でない」とが区別されないが、それが心地よいらしい。

 ただし、現代日本語発話に障害が全くない状態で中程度に解離してとどまる離人症においては、即非の論理は直ちには理解されず、脳としても即非があまり生じないようである。従って、岩崎式日本語も必要ないと同時に、直ちに理解もされにくいのは、当然であると思う。
posted by 岩崎純一 at 14:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 人物評論・書評

宮沢賢治

■おすすめ著作(色々ありすぎて、あえてこれを)
『農民芸術概論綱要』

 宮沢賢治こそ、我々共感覚者、そして何より大自然と子どもたちの最大の味方ではなかろうか。彼は、松尾芭蕉と並んで、生理学的定義の「共感覚」の研究者からも取り上げられる、数少ない日本人共感覚者の一人である。

 しかし、「宮沢賢治にも、文字に色が見えていたのではないか」などという問いは、本当はあまり重要ではないのかもしれない。どちらかと言うと、そのような問いは稚拙でありうるかもしれない。

 私の場合、自分の共感覚についての仏教分野からの探究としては、禅ないし中観・唯識の方面に進んだのであるが、賢治の場合、法華経と国柱会であった。簡単に浄土に進まない点は私と同じであって、浄土はあくまで「地上のどこかにある。なければ自分で作る」ものであった。それが岩手「イーハトーブ」や「羅須地人協会」であった。

 私がウェブサイト上で色々な共感覚者や解離性障害者を集めて、少々閉鎖的な、現在のところ自分たちだけに通じ合える言語まで造り上げてしまった試みは、賢治の人生にも似ているのだと思えて、安心する。
posted by 岩崎純一 at 14:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 人物評論・書評

マルクス

■おすすめ著作
『資本論』 『共産党宣言』 『経済学批判』 『経済学批判要綱』 『経済学・哲学草稿』

 マルクスが人間の五感というものをどう見ていたかを、その著作だけから読みとることは難しい。しかし、『経済学・哲学草稿』における「人間の五感の形成は、現在に至るまでの全世界史の一つの労作である」という言葉には、マルクスの五感観というべきものが隠されている。

 まだ西洋でも生理学的意味での「共感覚」の研究は日の目を見ていなかった時代であるが、おそらくマルクスは、現在は「共感覚者」と呼ばれている、本当に五感が混交している「化石的人間」の存在は知っていたに違いない。

 吉本隆明はこれについて、「触覚・味覚・嗅覚のような古層の感覚が退化し、視覚・聴覚のような表層の感覚が進化してきた、という過程が、マルクスの言葉から感じられる」という主旨を『初源の言葉』で述べているが、吉本の分析は、悪くはないとは思うものの、どこか目的論的自然観への傾斜のにおいを感じさせる点が、私には不満である。どうして、「労作と言える理由は、ただ共感覚が分裂して五感の形成に至るまでに、長い年月がかかったからである」と言わなかったのかと、少しじれったい思いがする。

 すなわち、吉本の言う「触覚・味覚・嗅覚のような古層の感覚」とは、私にとっては、近代西洋的自我発見後の人間の「視覚・聴覚のような表層の感覚」とほぼ同等に「表層」であるように思える。吉本が「アメーバのような感覚を身体反射として表出する段階」と呼ぶ、その「アメーバのような感覚」を、私はいわば「阿頼耶識の原帰属性である共感覚」と見ている。

 このような観点から見ると、吉本よりもマルクスのほうが、生命体としてのヒトの感覚世界を的確に社会思想に取り入れたと思えなくもない。

 それはともかく、マルクスの理想が最終的に失敗した理由は、私は二つあると思う。一つは、マルクスが人間の欲望を甘く見積もったということである。二つ目は、「マルクスが同時代に見た西洋文明の欲望は、分裂した五感が生起させた」ことに言及しなかったことである。前者については、マルクスの極度の優しさが邪魔をした。後者については、マルクス自身の生まれ持った強大な西洋文明の風土が邪魔をした。

 社会が完全に持続可能な共産社会であるためには、社会の構成員の知覚が総じて基層感覚的・共感覚的でなければならないことになり、マルクス自身が本能的に欲求している社会はそのような社会であると思えるのに、唯物史観の果てにある現実のマルキシズム社会では、分裂した五感が生起させる欲望を常に抑え続ける必要があった。マルキシズムは、マルクスの理想ともまた違っていたということなのだろう。
posted by 岩崎純一 at 14:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 人物評論・書評

三木成夫

■おすすめ著作
『胎児の世界―人類の生命記憶』 『内臓のはたらきと子どものこころ』 『生命形態の自然誌 第一巻 解剖学論集』 『海・呼吸・古代形象―生命記憶と回想』 『生命形態学序説―根原形象とメタモルフォーゼ』

 三木成夫の『生命形態学序説』の一節である。

(引用始め)
「一般に下等動物は、自分のほんの身の回りのできごとだけを、しかし文字どおり、“全身でもって”受け取っていた(近接感覚:触覚と味覚)。すなわちそのような刺激に応ずる感覚細胞がからだの表面いたるところにちらばっていたのである。
 ところが高等な動物になるとしだいに遠くのできごとにも感ずるようになり(遠隔感覚:嗅覚、聴覚,視覚)、ついに人間では何億光年の宇宙のかなたまでも見ることができるようになった。しかもこれらの感覚細胞は同じものが1カ所に、それもからだの前端に集まるのであって(鼻、耳、眼)−−ここには栄養の入り口も開いている−−すなわち、このような植物性過程と動物性過程の入り口が集まったいわば“からだの窓口”をわれわれは顔とよんでいる。ヒトの胎児の発生をながめると脊椎動物の顔の歴史のいわば再現がみられる」
(引用終わり)

 私は常々、共感覚を持っている自分のことを「人の高等知能を持ったオスザルである」と言っている。大学の講義でも学生に向けて同じことを言ってみている。私が言いたいことは、三木成夫の生命観にだいたい同じだ。

 下等感覚に浸っていることでもなければ、高等知能でもって下等感覚を見下すのでもなく、下等感覚を失わない体をもって高等に生きることが、これからの人類のやるべき仕事であると思う。あるいは、下等感覚は、もはや一つの「高級品」であるのかもしれない。その「下等な高級品」を忘れた人間に、真に温かい「感覚」が生じることはないのではないだろうか。

 三木成夫のような深遠な生命観を持って動植物の研究をおこなっている人は、今の日本にどれくらいいるだろうか。私の生命観も、三木成夫のそれに比べれば、まだまだ不十分であると感じる。
posted by 岩崎純一 at 13:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 人物評論・書評