2013年07月29日

私の「対女性共感覚」を原初的「対幻想」と見る解釈について

 私が持つ「女性の生理現象全般(排卵・月経など)が見える共感覚」について、第三者がどのように見ているかを知ることは、大変興味深い。(この共感覚については、自分で「対女性共感覚」と名付け、拙著でも取り上げた。)

 もっともそれは、このような摩訶不思議な共感覚の実在が認められるか否かといったことへの興味ではない気がしている。それは例えば、うつ病者が、自らのうつ症状を認める人と認めない人とに知人や世人が二分されることよりも、自らのうつ症状が世に対していかなる形而上学的または存在論的または現象学的意義を有しているかに関心を持って生きる「自己そのもの」の「うつ性」に関心があるのと、よく似ていると思う。

 また、私の「対女性共感覚」が、個人の精神病ないし精神障害であるか、いわば汎男性的(パン=ダンディズム、パン=マスキュリニティー)なものであるかが、心底から第三者によって問われるような機会に、もっと出会いたいとも思っている。

 私の場合、私自身のこの共感覚が女性に対していかなる「はたらきかけ方」をしているかについて第三者がどう見ているか、それが重要だと感じている。もっと言えば、繁殖行為・排卵が可能な若い年齢にありながらも必ずしも「私の好みとは限らない」女性に対しても発揮可能なこの共感覚、すなわち、ある意味で「全女性的」・「汎女性的」・「パン=フェミニズム的」な共感覚の持ち主である男性に、どうして極めて「ごく普通の現代的な」「特定の女性個人に対する」恋愛感情が可能かについて、第三者がいかなる説明を与えるかに、重点的に関心があるのである。

 養護学校で多くの発達障害者・知的障害者・身体障害者と関わってこられた松本孝幸先生は、私についての文章をサイトに執筆・連載して下さっている。先生の「岩崎純一」観は、私自身の「私」観に現在のところ最も近いものの筆頭であると思われる。

 先生の文章は、私のサイトの「掲載媒体」のページにまとめている。私が以前、「私の共感覚観や人間観について、私以上にうまくお書きになっている松本先生という方がいらっしゃる」旨を知人に語ってみたところ、その知人がまとめて記事が読みたいという要望を下さり、それを機にまとめてみたページである。

 例えば、以下のページにある「対幻想」とは、明らかに吉本隆明の語であり、「対幻想論」が意識されている。

「獲得性過干渉」
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/noutensi11.html

 松本先生の場合は、一言で言えば、私の「対女性共感覚」を「近代男性が男性疎外によって忘却した基礎的な対幻想」、すなわち「性的関係性を有する幻想領域から産出されているもの」であると見ておられる。この見方は、松本先生の私についてのあらゆる文章で一貫していると感じる。

エロス核と対女性共感覚
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/kokoro9.html

日本人の「共感覚」傾向
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/higuti45.html

心的現象論と共感覚
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/ryoukai29.html

「若者宿」と共感覚
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/higuti24.html

 当然ながら、「対幻想」の一方には「自己幻想」、そしてもう一方には「自己幻想と逆立する」と主張された「共同幻想」が意識されることになる。これらはいずれも「幻想」なのである。ただし、むろん、「人間が積極的に作り出すことの“できる”負担」としての「幻想」である。

『共同幻想論』によれば、「国家とは幻想」であり、幻想である国家と逆立するものは、「自己幻想」である。「自己幻想」は、「対幻想」と共に絶対に「共同幻想」に収斂されず、当然ながら個人の芸術において最も強烈に表れる。

「対幻想」とは、まず男女関係であり、家族(夫婦・親子)関係である。これは、言い換えれば、我々国民ないし一部のナショナリスティックな思想家が国家に対して感じるロマンと甘美と官能、いわば「国家・母国あるいは制度と見た場合の天皇制などとの間に漠然と感じる、性的ニュアンス」も、自己幻想や対幻想から独立して動いている、すなわち、「国家なる幻想」は「個人の思想」や「男女関係」の転写ないし投射ではなく、それらに対する逆立や齟齬である、ということを意味する。

 この点において、対幻想によってしか説明できないはずのリビドーや性的衝動を共同幻想に持ち込もうとしたフロイトが吉本の批判の的となる一方で、マルクス個人の「人間疎外」の思想に、吉本は共鳴することとなるのである。

 そうであるから、松本先生も、マルクス思想の大方の部分に共鳴しておられる。中沢新一や三木成夫への共鳴も、同じことであると思う。松本先生に限らず、知人の養護学校関係者も、多くの場合、私の対女性共感覚の中にマルクスへの系譜を見る傾向があるようだ。このような流れはむしろ自然であり、吉本隆明の全盛期当時の相当多くの有識者たちがこのような考え方の流れに乗ったのである。

 それに現在、養護学校で多くの発達障害者・知的障害者・身体障害者を見ていらっしゃる立場の方々が、博愛的な観点から吉本やマルクス寄りの思想を示していることは、むしろ自然であると思われる。

 僭越ながら、私自身に引き付けて再び言うと、松本先生は私の「対女性共感覚」を、「男女の性交渉自体から最初に疎外された幻想が生じさせているもの」であると見ておられると思う。そうである以上、一見すると「岩崎純一の対女性共感覚という対幻想は、最も自己幻想的で、反“現代の契約的恋愛・契約的結婚”的である点において、共同幻想としての日本国とほとんど逆立する」ことになるのだが、ここに、マルクスにはなく松本先生や吉本にはあるかもしれない、そして私にはかなりあるような、「日本的幻想」というものが、立ち現われてくる気がするのである。

 自分の対女性共感覚に、ゲマインシャフトとしての「日本」ないし「日本文化」の原初の姿である「歌垣」のなごりの現代における再適応をさえ見ている私としては、ゲマインシャフトを根底から覆すような極端なアナーキズムに近寄るわけにはいかないと感じるのである。

 私が自らの共感覚全般や対女性共感覚について、おそらくマルクスでは乗り切れないとすぐに感じた点も、まさにこのような点であると言える。

 ここで言う「再適応」とは、対女性共感覚をメスに対して覚えるや否や見境なくメスに交尾を仕掛けた極めて初歩的・動物的な「対幻想」から脱して、「対女性共感覚」そのものは保持しつつ、なおかつ日本の国柄・文化・倫理・社会規範すなわち「共同幻想」においてこれを発揮すべき時を思慮するだけの自我を持った男性としてのあり方、という意味である。

 松本先生は、私の「対女性共感覚」を自己幻想ではないと述べておられる。しかし同時に、私の「対女性共感覚」を「原始の感覚」であるとも述べておられる。

 私の「対女性共感覚」が自己幻想でないことは、私にとっては確実であるけれども、やはり同様の理解を提示していらっしゃる方の存在は、心底嬉しく思うのである。すなわち、この共感覚は、単に「芸術的」ではあり得ないと自分でも思う。その当初から、現代の日本社会と関係を持っている。

 例えば、私は、女性が衣服を着ていても、体表から発せられる何らかの化学物質の量の微妙な違いによって、排卵期かどうかが分かることがある。もちろん、日本国の法律や条例は、このような男性の存在を念頭に置いて制定されていない。「アスペルガー症候群」や「シネスシージア(共感覚)」といった原初的知覚にまつわる語と概念とがほとんど登場しなかった全共闘全盛の時代において、このようなことは議論されようがなかったとも言える。

 ところが、法や条例は「共同幻想」の筆頭であって、私の共感覚そのものが反社会的・違法行為でありうるような状況に、出くわさないとは限らない。私にとっては、最初からこの点と向き合わざるを得ない。そうである以上、対女性共感覚は、自己幻想か対幻想のいずれかであるが、結果的に自己幻想ではない。

 吉本は、そもそも生命ないし有機体生物そのものを自然界からの「疎外」であると見ている。つまり、生き物は幻想に生きているのである。その意味では、どの発達障害者や知的障害者や精神障害者でも、疎外以前よりは「高度な」幻想をどこかで持って生きている。そして、オスが(私のように)メスの排卵感知能力としての「恋」を覚えたときに、対幻想の萌芽が見られることになる。松本先生は、この点をほとんど理解して下さっていると感じる。

「自己幻想ではなくて、かつ原始であるようなもの」とは何か。もっと簡単に言えば、「我々男性にとっての最初の他者(母親・意中の女性・恋人)である第三者にさえ全く理解されないというほどには自己中心的ではない幻想」のうち、「最も原初的で、最も特定の他者(親・知人・組織・国家)が意識されない非共同幻想的な幻想」とは何か。それが「対女性共感覚」であるならば、先に書いたような、「汎女性主義的」でありつつ「特定の女性に対して恋愛的である」ことが、確かに可能となる。

 このような私の「対女性共感覚」分析があるとするならば、全くマルクス主義者ではない私にも、自然と受け入れられるのである。

 ただし、このように見ると、コスモポリタニズムに近寄りながら、それでもやはり「日本的」であった宮沢賢治の態度は、吉本よりもフロイトに似ていなくもない。私自身が、吉本よりも宮沢賢治やフロイトのほうに共感を覚えるのは、このような点である。同時に、私の親世代や少し上の団塊世代・全共闘世代を見ていて、常々物足りないと感じる点は、自らの積極的幻想に自覚的でないという点であるかもしれない。

 すなわち、「共同幻想は、必ず男女の対幻想を基礎としている」というのが私の考えである。吉本の『共同幻想論』は、「国家という幻想」に対峙するものを「性的関係性」とした点において独創的で、男女の性的要素の欠落したマルクスの思想を補完していると言えるが、国家という共同幻想に男女の対幻想はほとんど流れ込まないとした点において、むしろ松本先生が認めておられるような私の「対女性共感覚」の居場所が共同幻想領域には存在しないことを表明しているように思える。

 ちなみに私は、オウム真理教に肯定的発言や著述をおこない始めた頃からの吉本や中沢新一には、著しい違和感を覚える。大江健三郎についても、ある時期から同様の違和感を覚えている。

 私は、生意気な若造かもしれないが、自分の対女性共感覚は、そんな新宗教と(吉本が自分でそう呼んだ)「左翼」思想との結びつきから独立しているべきであると思うし、最初から独立していて別物であるとも思っている。

 私は今でも、これらの方々と三島由紀夫のどちらかの思想を採れと言われたら、三島由紀夫のほうを採りたく思う。あるいは、単に川端康成の小説を採りたいとも思う。あるいは、戦後思想を見るよりも、まず九鬼周造や岡倉天心から始めなければ意味がないとも考える。自分の対女性共感覚を、九鬼の「可能的関係」や岡倉天心の茶の精神において考えるほうが、よほど好きである。

 これは、好みの問題でもあるかもしれないが、論理的にそうであるような気もする。吉本が「左翼」勢力の顛末を「プロレタリアートの解放戦争」と呼んだことに意図的にちなんで言えば、私が言わんとしている対女性共感覚とは、常に「保守的」であり「日本的」であり「右派的」であると思う。しかし、私は自分では「ど真ん中」であると思っている。

解離性同一性障害において見られる共感覚

 今回は、解離性同一性障害(DID)の方々の共感覚について書きたいと思う。

 解離性障害(DD)の定義のページにも記したように、現在でも、各学者・各医師・各学会・各精神疾患分類制定機関によって、DIDをDDの一部とするかしないかで見解が割れている上、旧来の「多重人格(MPD)」の側面を重視するか、操作的な診断基準に基づく現行の「DID」としての側面を重視するか、DIDに加えて、各人格・自我の壁が薄かったり半ば演技的に人格を使い分ける演技性人格障害の一角をも含めた広義の「多重人格」を重視するかによっても、見解が異なる。

 しかし、単にDIDと言えば、米国精神医学会が規定するDSM内のそれを指すのであるし、今回も便宜的にこれに従う。

 この場合、DIDはDDにおける最重度の障害であると規定される。DIDを診断されるためには、DID以外のDDのほとんどの障害(解離性健忘・離人症など)の特徴が見い出されなければならない。特に、解離性健忘はDID診断の大前提と言っても過言ではない。このため、DIDと診断されるには、5年、あるいは10年以上かかる場合もある。

 このDID罹患者が自らの症状と向き合う際にいわゆる「共感覚」を用いている例を紹介する。(共感覚の生理学的な解説については、私のサイト・著書・講義内容などを参照されたい。)

 ある解離性同一性障害の女性は、人格を「色」で区別していると私に報告して下さった。以下が、彼女の報告である。


---------引用始め

私は、自分の意識(生きている感じ)が三つくらいに分かれています。
自分で言うのも変ですが、
元の自分である優しい女性のとき、私は薄い黄色、
怒りっぽい女性のときは青色、
小さな少年か少女のときは水色をしています。
いつ優しい女性で、いつ怒りっぽい女性で、いつ少年少女なのかは、
自分でも知りません。
基本的には私は優しいです。
でも、私は怒るときは怒ります。
あるとき、私は心の中でとても怒りました。
それは近所の男性がそばにいたときのことだったのですが。
そして私は、黄色、青色、水色に分かれました。

---------引用終わり


このカラーイメージと文章は、以下のアドレスに掲載している。

http://iwasakijunichi.net/seishin/rei2007.html

 このような事例は、「純粋な知覚・脳神経系の問題であるとされ、心理学・神経科学が対象とする」共感覚と「解離性障害の一環で、精神医学などが対象とする」解離性同一性障害とが全く無縁のものではないという事実を、如実に示している。(この女性の人格は、のちにさらに増えたようである。)

 また、私が交流している何人かの精神疾患者の通院・入院先であった赤城高原ホスピタルの以下のページの[人格交代、相互関係]の冒頭にも、DIDの24歳の方の共感覚と思われる例がある。これも大変貴重な証言である。


http://www2.wind.ne.jp/Akagi-kohgen-HP/did100.htm

---------引用始め

色彩イメージの意識状態
私自身の認識は、自分には色彩イメージの意識状態があって、紫、水色、赤、ピンク、オレンジ、黒などの基本色調に応じた人格があるのです。(DID、24歳)

---------引用終わり


 上記の一人目の女性にこのページをお伝えしたところ、同様のDIDの乗り越え方(人格への色付け)を模索している方がいらっしゃることに力を頂いた気分だと述べておられた。

 また、以下は別の20歳のDID女性の共感覚の例である。


---------引用始め

私は、私の中の赤紫、緑、青紫、茶色の四人と一緒に過ごしています。
全員女性で、おっちょこちょいおばあさんからわんぱく少女までいます。
中心となる本物の私(黒色)は、昔、まっ黒にされてしまい、
死んだも同然だったのですが、
四人の明るさが、またまっ黒な私をまっ白にしてくれるかもしれませんね。

---------引用終わり


 この事例のカラーイメージも、先ほどのアドレスに掲載している。

 さて、例えば、せっかく娘さんの解離性同一性障害への理解が深まってきたにも関わらず、人や人格や自我に「色が付いて見える」という娘さんの共感覚の側面への理解がなかったために、親御さんが娘さんを叱りつけてしまい、娘さんが今まで以上に解離を起こしてしまったケースを、私は見たことがある。

 しかしながらこのように、DIDなど、解離・離人の各症状をお持ちの方々、特に女性の罹患者には、「共感覚」の用語を知らずとも、人格・自我を色分けするなどの工夫をおこなって、自分なりに障害と上手に付き合ったり、乗り越えようとされている方がいらっしゃるのは確かである。その親御さんに対して、私が「共感覚」の辞書的・生理学的定義から順に説明させていただくということが何度かあった。

 ところで、彼女たちの言う「色」とは、DIDでない一般の共感覚者の言う「色」と同様であると考えて差し支えないと思われるが、その代わり、「色」の記憶障壁は、むしろDIDのほうに従う。

 すなわち、ある人格Aが別人格Bの存在について未知である限り、この人格Aは別人格Bの色を知らない。別人格Bの存在を知る人格Aにあって、かつ人格Aが共感覚を有するときにのみ、別人格Bの色を回答することができるのである。

 従って、彼女たちが私に上記の報告をして下さった時の彼女たちの人格は、このような人格Aであったわけである。

 ある人格が別人格と記憶を共有していないことは、当然DIDでは普通のことであるが、いわば純粋知覚である共感覚をも共有していないケースがあることは、DIDの存在の事実とその特徴をいっそう明確なものにする。

 上記の二人の女性(ホスピタルのページで挙げられている女性以外)はそれぞれ、のちに各人格どうしの交換日記において、自らのうちに「共感覚」を持つ人格が存在することを各人格どうしで互いに報告し合っている。

 うまく報告し合えなかった際に、私も微力ながらお手伝いをさせていただいた。例えば、別人格が共感覚を持つ人格に対して、「そのような色分けには何の効果もない」と罵倒することがあり、これがちょうどこの女性の「感性的な性格」を否定したかつての彼女のパートナーの性格に酷似していた。このような人格に対して、私がただ淡々と共感覚の説明をおこなったところ、いつのまにか理解していたというケースもあった。

 DID罹患者の男女比の正確な統計は未だに存在していないが、女性が男性の10倍から20倍存在するようである。少なくとも私は、虚言を疑う余地のない真のDID罹患者としては、女性しか見たことがない。また、共感覚者の男女比についても、女性のほうが多いとする統計がほとんどである。DID女性に豊かな共感覚者を「兼務」する女性が見い出されるのも、何ら不思議なことではないだろう。

 重要なことは、私は、ここで今書いたような「共感覚による自らの解離症状の把握」の方法をDID罹患者である我が子に指南するよう親御さんに求めているわけではない、ということである。DID罹患者の一部はすでにそれを実践しているし、実践していない場合は必要がないから実践していないのである。

 第三者はこのようなDID罹患者の豊かな知覚世界を愛すればそれで十分であると、私は考える。
posted by 岩崎純一 at 12:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 精神疾患関連の文章

2013年07月21日

女性の集団ヒステリーを考える

●転換・身体化としての女性の集団ヒステリー

 解離性障害や転換性障害は、かつてまとめて「ヒステリー」と呼ばれた。ヒステリーの原因が「子宮(ヒステリア)」にあると思われたからであるが、しかし、これを古代人の妄想だとして一笑に付すわけにはいかない。解離性障害や転換性障害は、やはり今でも主に女性のものである。

 その子宮と、完全な他者(第三者・世界)とを結ぶ通路は、ただ膣(ヴァギナ)一つであるから、解離性障害や転換性障害の主な要因が「実父・祖父・男性教師などからの性的暴行によるトラウマ」であることは、むしろ当然のことであると考えられる。

 解離性障害や転換性障害となり長年通院・入院していた色々なの女性の方々にお会いしてきて、私のその見解は今なお変わらない。

 私が二冊目の拙著で告白した、「女性の生理現象が察知できる」という、いわば感応性・転換性の共感覚も、見方によっては「男性である私が(勝手に)起こしている軽度のヒステリー」と見ることもできそうだが、やはりそれでも女性特有の「ヒステリー(子宮)」ではあり得ないのである。

 2013年6月19日の午前11時45分頃、兵庫県上郡(かみごおり)町大持の県立上郡高校で、1年の女子生徒らが休み時間中に「気持ち悪い」と体調不良を訴え、過呼吸を起こして廊下に倒れ込み、最終的に18人の女子生徒が病院に救急搬送されたことが報道された。

 女性の集団ヒステリーの発生については、今でも年に一度か二度は報告・報道されている。実際には、学校や女子寮など若い女性が集団生活する場では、頻繁に起きているのだろう。

 これについて、集団性の転換性障害の観点から大変関心を持ったので、書いておきたい。

 若い女性や主婦が中心となって集団ヒステリー・集団心因性疾患を起こしたと思われる出来事は、むろん世界中に存在する。2000年前後から現在に至るまで、タリバン政権下・支配下において女子生徒の集団失神・卒倒が相次いでいる。昨年にも、タリバンが女学校を襲撃し毒物を散布したという噂が広がったが、それが虚偽で、女子生徒の集団ヒステリーであったことが判明している。タリバン支配下では、女子の教育が著しく制限されていることは確かであるし、紛争への恐怖そのものがヒステリーの契機となっていることは間違いないと思われる。

 また、パレスチナ、グルジア・南オセチア、コソボなどでも、過去に同様の女性の集団ヒステリーが起きているし、つい先日(2013年6月)にも、バングラデシュのダッカ郊外にある衣料品工場ストレート・スウェッターズ社で800人以上の工場労働者が集団ヒステリーを起こしている。のちに工場長のマムドゥール・ラーマン氏が、労働者の80%以上が女性であることや、夏の暑い時期であったことなどを原因とする集団ヒステリーであったと結論付けている。

 このような女性の集団ヒステリーは、日本でも過去に多く起きている。主婦を中心とした岐阜県富加町のポルターガイスト事件(1999〜2000頃)などは、その典型であると考えられる。

 あるいは、新宗教団体(摂理、オウム真理教など)の教祖に対する日本の大人数の若い女性の性的陶酔・性的没頭は、少し様相が違えど集団ヒステリーと見ることが可能である。摂理は韓国発祥の団体であるが、同団体全盛期の当時はいわゆる「韓流ブーム」の全盛期で、『冬のソナタ』のペ・ヨンジュンをはじめとする韓国人男性への強い憧れを多くの日本の女性が持っていた時期であった。

 今回の兵庫県の女子高生の件についても、18人のうちの1人で、普段から「霊感が強い」と友人たちから言われていた女子生徒の転換性の反応がきっかけであるため、警察もマスコミも「集団ヒステリーの可能性がある」という言い方をしており、この指摘の全てが間違っているわけではないが、広義の「ヒステリー」の用語自体は、精神医学上はすでに批判され放棄されている概念ではある。

 もう一歩踏み込んで、いわば今回の女子生徒たちの例に隠れた「現代の一般女性の集団ヒステリー」の特徴を見てみたい。

 まず、今回女子生徒たちに起きた「こと」は、ヒステリーと言っても、解離性ではなく転換性であることはほぼ確かであろう。つまり、「自我の変容や分裂」ではなく「精神の苦悩の身体における転換と表出」であるだろう。(詳しくは、私のサイトの解離性障害や身体表現性障害のページを参照。)

 女子生徒たちに実際に出た症状を正確に記述すると、「この成長期の女子生徒一般に起こりうる身体症状(卒倒、痙攣、悪寒、嗚咽、頭痛など)のうち、18人の個々の気分障害・不安障害・神経症性障害に随伴したものとは考えられず(「友人の霊感(なるもの)」が発端となっており)、かつ身体疾患が原因ではないもの(全員に身体の異常が認められていないにもかかわらず発症したもの)」である。

 そのため、狭義の転換性のヒステリー反応や心因性過換気・心因性呼吸困難発作・心因性心悸亢進などに該当すると見るべきであろう。

 ここで第三者が見落としがちだと思うのは、霊感が強いとされている女子生徒が最初に転換性の反応や身体化の症状を見せたことに対し、周囲の17人が「自分にも霊が見えたらどうしよう」という恐怖や不安を覚えて集団ヒステリーを起こしたなどと考えるには、人数が多すぎるという点である。このような恐怖や不安は、普通は個々人の脳において神経症的な症状として処理され収まるからである。

 やはり、単なる恐怖症性・不安症性の反応というよりは、転換性・身体化性の反応と見るべきであろう。ただし、「転換性障害」や「身体化障害」の定義の全てを満たしているわけではなく、一過性のものであるから、精神疾患とは言えない。

 むしろ、女性(特に若い女性)の身体が、身体疾患なしに、(今回の場合、単に発育段階・第二次性徴発現期の直後にあるということのみによって)転換反応を引き起こし、それが周囲の若い女性に「伝染」することがあること自体を、かつて古代には「霊」や「霊性」や「霊感」と言ったのであると思うし、そのような女性を「巫女」や「シャーマン」と言ったのであろう。このような点においては、女性のヒステリーの根本部分は古代から現代まであまり変化していないと言えそうである。

 むろん現在では、今回の女子生徒たちに起きた症状の有力候補である転換性の反応や身体表現性自律神経機能不全のような反応は心因性・旧神経症性の症状であって、精神病とはされていない。また、仮に解離性障害の下位分類である憑依性障害などであったとしても、やはり精神病ではない。

 一方で、かつては祈祷性精神病などのように、加持祈祷などの宗教的儀礼の最中に女性が集団で摩訶不思議な反応を見せる症状は、精神病の扱いであった。また、過度の妄想が入っている場合には、精神分裂病(現在の統合失調症)とされることもあった。

 ただし、現在でも、解離性障害や転換性障害が極めて精神障害に近い神経症性障害であるという認識を精神医学が捨てているわけではないし、むしろ今後も、スペクトラム(連続体)としての認識を保つため、用語は改定しても、概念を捨てる必要はないと思う。


●現代における古代的な女性の集団ヒステリー(1) 巫女の遊戯の場で見られるヒステリー

 私が見たことのある若い女性の「集団ヒステリー」と言えば、巫女による和歌などの遊戯の場と、解離性障害の女性の集団生活や集会におけるものである。

 まずは、巫女の遊戯における集団ヒステリーであるが、例えば、ある二十歳前後の巫女の女性が、ある言葉や音の列を和歌に詠み込んだときだけ、周囲の十代・二十代の巫女や下女の女性に転換性の集団ヒステリーの反応が見られた。

 もちろん、「ある言葉や音の列」と言っても、それ自体に特別な効果があるわけではなく、今回の女子生徒たちの言う「ある友人は強い霊感を持っているという噂」それ自体に似ている。

 つまり、「夕月夜(ゆふづくよ)」とある女性が詠んだとき、その女性自身が過去のある夕月夜に得体の知れぬ不安を感じたことを思い出してその場にうずくまり、突然「その夕月夜に神と性行為をしたかもしれない」と言い始め、周囲の女性がつられて同じ状況になる、といったことである。

 分かりにくいかもしれないが、女性にはそのようなことがあるのである。ただし、どうしてそのような際に生じる妄想が、今回の女子生徒の例のような「霊感」や「学校の怪談」とは異なり、いわば「性的妄想を帯びた霊性」であるかと言うに、そこには深い理由がありそうである。

 これらの巫女の女性の中には、許嫁(いいなずけ)の相手が幼少期から親によって決められていたり、一生涯を処女として過ごすことになっている女性がおり、そのような中で和歌や舞踏や祭祀を日常生活としており、常に和装や巫女装束で過ごしているのであるから、転換性の集団ヒステリーと言っても、半ば性的抑圧の解放としての機会であるかのようにも見えた。実は、この点が重要だと思うのである。

 もちろん、有史以前や万葉集時代のような、乱交を含む「歌垣(うたがき。谷や広場のあちらとこちらとで男女が和歌を詠み合ったり、叫び合ったり、性行為をおこなったりする集団儀式)」のようなことは、現在では全くない。

 しかし、神社の祭祀や、普段の歌会・裁縫・遊戯などにおいては、現在でも、若い女性どうしでこれに近いヒステリーが起きていることに変わりはない。時にそれは性的なニュアンスを帯びているし、レズビアンのような行動を伴うこともある。

 このような場合、「女性“である”こと」は「女性“にある”もの」に深く関係していることになる。そのことに女性たち自身の意識が気づくか否かに関わらず、少なくとも潜在意識的には、女性たちの脳と身体においてそのことが十分に了解されている。

 結局のところ、この場合、この女性たちの「女性であること(自我)の産物」(こう詠みたいと思って詠んだ和歌の言葉や音声)は彼女たちの「女性にあるもの(身体・子宮・女性器)の反応」(身体化反応・転換反応)にならなければならないというような強迫観念が、この女性たち自身の潜在意識にあるのだと考えられる。そうであるから、恋の和歌を詠んでいる最中に、詠み手の女性だけでなく、周囲の女性まで一斉に子宮がうごめいたり性器が湿潤になったりするものが、本物の「芸」であり「和歌」であると、この女性たち自身が考えているふしが、今でもあるように思えた。

 日本神話に限らず、世界中の神話において常識的なものではあるが、神々と性行為をおこなって神々の子を子宮(ヒステリア)に宿したり、処女懐胎したりする若い女性が登場する。

 現実に存在する、「種(しゅ。動物であるヒトとしての種)」と「種(たね。ヒトの片割れである男性性=マスキュリニティー)」の「挿入者・注入者」である男性との接触を断たれ、それによって生じた性的抑圧のはけ口が、男神たちとのセックスの妄想であったり、「狐憑き(きつねつき)」のような憑依妄想であるのだとしたら、そのような日常的な集団ヒステリーが、現代においては特定の出自の巫女や結婚相手が親などによって決定されている女性、伝統的な祭祀や芸能を担う女性の方々に集中して残っているのも納得できる。

 こうして見ると、強制的に女性に集団ヒステリーを引き起こすには、一つには(むろん、そんなことはやってはならないが、)女性を性的に抑圧すればよいことになる。


●現代における古代的な女性の集団ヒステリー(2) 性的虐待の結末としてのヒステリー

 ところで、このような性的ニュアンスや性的儀式性を帯びた女性の集団ヒステリーは、解離性障害や転換性障害と診断された女性の集団においても、起きてしまう。厳密に言えば、古代的な女性のヒステリーにほぼ該当するものは、今回の女子生徒たちのヒステリーではなく、現在の解離性障害や転換性障害の女性たちのそれであろうということである。

 もっとも、このような形での女性のヒステリーは、原始の時代においては、八百万の神々や自然災害に対して多くの女性によって引き起こされたものと思われる。それが現在では、近親者によるレイプといった極めて鋭角的・局地的な脅威によって特定の女性に引き起こされるものとなったと見るべきなのだろう。

 ちなみに、長年、日本における入院患者数の第一位の疾患は統合失調症であるが、統合失調症や解離性障害、身体表現性障害の患者には、性的虐待を伴う機能不全家庭の女性と共に、良家の若い女性もかなり多いのである。親に勘当されて、精神病棟で暮らすことになった女性もいる。

 極端な性的抑圧は性的虐待と同様の心因反応を女性にもたらすことがよく分かる。これが実は、女性の集団ヒステリー分析のカギを握っているように思える。

 性的暴行を受けた解離性障害や転換性障害の女性には、かなり限られた割合なのだとは思うが、性的暴行に耐えてきた「同志」として、DVシェルター内の女性の仲間どうしで性器を愛撫し合う行為が見られることがある。当然ながら最初は驚いたが、これについて私は、過去に男性に汚された身体部位の徹底的な「浄化」としての「女性性の浄化」・「女性性の完遂」を試みるような、一種の儀式的な行為ではないかと感じている。

 私が見る限り、性的虐待を直接的起因として解離性・転換性障害を発症した女性の、以後の「性」への対応の仕方は、徹底的に「性」を嫌悪するか、徹底的に「性的」であるかの、どちらかであるように思える。前者の場合、性的な会話を耳にしただけでフラッシュバックを起こして気分が悪くなり、再び解離・転換することもある。後者の場合、同性の解離性・転換性障害者とさえ性行為をおこなったり、援助交際・売春に走る女性もいる。

 援助交際・売春は、徹底的に「性的」でもあるが、しかし、ある意味では「性の枯渇」、「性を捨てること」でもあるのではないだろうか。すなわち、「(自分という)女性を使い切る」ことを無意識のうちに考えているのではないだろうか。援助交際・売春が、解離性障害の女性と共に、摂食障害及び境界性人格障害の女性にもしばしば見られる行動であることは、言うまでもない。

 ともかく、特に精神疾患に陥っていない現代の一般の若い女性に見られる、「学校の怪談」を発端とする淡白なヒステリーに見られないのは、このような性的なニュアンスなのであった。性的なニュアンスを帯びた女性の集団ヒステリーは、むしろ先の「性的に抑圧された家庭の出身の解離性・転換性障害の女性」のほうに、「飛び地」のように残っているのである。

 先述のような、いわば歌会や裁縫を性的遊戯の場としても生かす女性たちの身体化や転換は、今回の女子生徒たちの例とは逆に、ヒステリーを自覚する自我すなわち「私たちが女性であるということ」を、ヒステリーに反応した身体すなわち「私たち女性にあるもの」のうち「官能のための機能の発揮の機会を抑え込まれたもの(性器・子宮、あるいは胸部・唇・髪など)」に託したタイプのヒステリーであるから、この場合、女性たちはヒステリーに陥ったことを喜ぶことさえある。

 現代の解離性障害・転換性障害の女性のヒステリーや半レズビアン的な行為も、本質的にはこれに似ていると思う。女性どうしで被害部位を接触し合うことで得られる(と彼女たちが考える)「性器の浄化」と「女性性の浄化」は、やはり彼女たちにとっては、肉体の快感でも精神の喜びでもあるからである。

 今回の女子生徒たちの件を見ても分かるような、苦しくてたまらず、病院に送られるような異常事態であるはずの集団ヒステリーが、なぜ現代においても一部の巫女などの女性たちによって意図的に行われているかを考える際には、今回の女子生徒たちのヒステリーと一部の巫女などのヒステリーとの数少ない違い、すなわちヒステリーの意図と目的の違いを見るべきだということだろう。

 歌会などの遊戯の例の場合には「遊戯が彼女たちの性的抑圧の解放の機会」であり、性的虐待被害者の集いの場合には「集いが彼女たちの性器の浄化の機会」であることが言明可能なのではないだろうか。


●「性的抑圧と性的被害という両極」のない現代の一般女性のヒステリー

 逆に言えば、今回のような学校における若い女性の集団ヒステリーなどに注目してみると、上記のような性的抑圧環境や性的虐待環境に置かれていない現代一般の若い女性たちがどういうときに集団ヒステリーを起こしやすいかが分かる。

 現代の学校生活や家庭生活においては、よほど厳格な支配者や伝統的家柄の保守者としての親や教師を持たない限り、許嫁を設定されたり、性的行動を監視されたりすることはないから、小中学時代から性的抑圧を女性の自我が意識しているということはあまり考えられない。

 しかも、解離性障害や転換性障害を引き起こすトラウマの主要因である「男性からの性的暴行」を女性全員が受けているわけでもない。

 しかしその代わり、今回のように、同性どうしの霊感や憑依能力の比較の心理、すなわち、「幽霊やお化けが怖い」、「明日嫌なことが起きそうな気がする」、「悪いことをしたら神様に怒られる。ばちが当たる」といった恐怖や不安だけは、女性の永遠の本能として持ち続けている。

「女性の(集団)ヒステリーは“女性であること”が“女性にあるもの”に託される身体化や転換である」という点は、今も昔も共通しているのであるが、身体化・転換を受ける身体部位は異なっている。

 歌会などの遊戯や裁縫の場を今でも性的ニュアンスを帯びた儀式と見ている特定の女性たちと、現在解離性障害や転換性障害と診断されている一部の女性たちにおいては、まず誰かがヒステリーを起こすと、その女性の身体において反応が見られ、それが周囲の女性に伝染していく。

 その根幹にあるのは、「女性性の起動力」としての「和歌や裁縫」というとらえ方であったり、「女性性の浄化」としての「性器の浄化」というとらえ方であったりする。

 今回のような女子生徒たちにおいては、まず誰かがヒステリーを起こすと、特に性別に起因するのではない身体症状(卒倒、痙攣、悪寒、嗚咽、頭痛)が見られ、それが周囲の女性に伝染する。そこに残るのは「どうして女子ばかりが卒倒するのか」という現代の不思議であるだろう。

 それが「性的儀式」や「性的祭祀」としての女性の集団ヒステリーの幽かななごりであることに、我々は気づきにくくなっているのかもしれない。

 それは取りも直さず、少なくとも「友人の霊感の話」や「学校の怪談」という起爆剤がなければ女性でさえヒステリーを体験「できなくなった」ということでもある。しかし同時に、現代の女性であっても、宿命的に性的抑圧を受けたり、有無を言わさず性的暴力を受けたりすれば、高い確率で他の精神疾患と共に解離性障害や転換性障害(かつてのヒステリー)を発症することが予想されるのである。

 ということは、我々現代の男性が現代の女性に対して何をやってよく何をやってはならないかが、的確に絞られてくるはずである。

「ヒステリー」が今でも「ヒステリア(子宮)」の叫びであり、女性の症状であるということを、まざまざと見せつけられる思いがする。


【参考文献】

集団パニック?女子高生18人搬送
(2013年6月20日付 産経新聞 など)

アフガニスタンで続く女子生徒への毒攻撃、「集団ヒステリー」の可能性
(2012年6月2日付 AFP BBNews など)

※現在、記事中に挙げた女性の集団ヒステリーについてのインターネット上の新聞・ニュース記事は、ほとんどが削除済みとなっておりますが、以下のまとめサイトなどに情報が残っておりますので、そちらをご覧下さい。

集団ヒステリー!?次々と過呼吸を起こした18人の女子生徒
http://matome.naver.jp/odai/2137082879076514301

日本でも事例がある集団ヒステリーとは
http://matome.naver.jp/odai/2140418738350655401
posted by 岩崎純一 at 16:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 精神疾患関連の文章