2013年10月13日

巫女・陰陽師と解離・離人・憑依などとの関係

 以下の二人の議論の一部を文字起こししたものです。

よっすう:「心・生きること・言葉」管理人 http://www.kokoro.daynight.jp/
岩崎純一

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よっすう

 私は、岩崎さんの『私には女性の排卵が見える』を読ませていただいて、共感覚についての考えが変わったというか、より不思議でわかりにくくなってしまった点があるのです。

 共感覚とは、ひらがなの「あ」が赤茶色とか、ドレミのドが紺色といったものだと思っていて、それは私もあるのですが、人に色が見えるのを「共感覚」という名前にしていいのかな、という気持ちもあったからです。

 私も人や動物に色が見えるのですが、(それを人の気持ちとか動物の気持ちだと思っているのですが、)共感覚は、もっと、何というか、科学的や医学的に実験できるようなものでないとダメで、心にまつわる内容はまた別問題かなと感じていました。私がそう思うというよりは、人から別問題と言われたからなのですが。

 でも確かに、そうしなかったら、聖徳太子が仏の力を借りて十七条憲法を作ったとか、卑弥呼が神がかりして占いをやったのも、それが本人にとって「本当」のことだとすると、文字に色が見えるのが「本当」なのと同じで、れっきとした「共感覚」ということになってしまいますので、私のような解離・離人症状の頻発する人には、感覚的にわかっても、一般によりわかりにくい説明になるのではないでしょうか。

 ちょっと心配です。


岩崎

 たぶん、そこが一番難しいところで、実はこの問題は、いわゆる言語学上の「シニフィアン」と「シニフィエ」の問題にすぎないとも言える気はしますね。これは、ちょっと難しくなりますが、ソシュールという言語学者の用語でして、「意味しているもの」と「意味されているもの」ということです。

 人や動物に色が見える感覚は、「何かに色が見える感覚全般」を「共感覚」と定義すれば「共感覚」になるし、「文字や音に色が見える感覚」を「共感覚」と定義すれば「共感覚」ではないことになります。

「共感覚」という辞書的・百科事典的な用語の定義の決定権、というよりは決定義務ですね、そういうものは人間にあるわけで、まずは「共感覚」の定義を辞書に書かなければなりませんね。

 多少トリッキーな言い方で言い換えると、「共感覚を持つ人間がいる」のではなくて、「人間が人間に共感覚を持たせている」にすぎないと言うことも可能です。もちろん、その意味において「共感覚者は存在する」という言い方を日常で用いることはありますけれどね。

 こういう学術的態度は、実は昨今の精神病理学において顕著で、例えば「世の中に統合失調症者が実在するのではない。統合失調症の診断基準を満たす人間が実在するだけである」ということが、バージョンIV以降のDSMの冒頭でもきちんと宣言されています。

 こんなことは、哲学でポスト構造主義をやったことのある人にとっては当たり前すぎて滑稽かもしれませんが、結局行き着くところはそこですね。

 共感覚についても、そこを勘違いしてしまう、つまり「実在するのは、人間が勝手に定めた共感覚の語の定義とその内容のみである」という重要な点を見逃す風潮を防がないといけませんね。私は、言語学や仏教哲学が好きで、だからこそ岩崎式日本語などという言語を手作りしたわけですが、わりとそういう思考を持っているところがありますね。

 その意味では、私の「共感覚」の理想的定義は、日本の他の研究者とは異なると言えるかもしれません。

 でも、あなたのおっしゃる通り、私は、女性の排卵が見えるという自分の感覚を「対女性共感覚」と呼んでいるものの、無理矢理「共感覚」を引っ付けて、従来の「共感覚」の定義を綱で引っ張ってきたと言いますか、自分用に引き込んだ感はありますね。

 もちろん、「女性の排卵に色が見える」感覚のうちの「色が見える」という部分を優先的に取り上げたら、「共感覚」には間違いないわけで、それが無かったら「共感覚」を名乗るのは良くないと思いますけれどね。

 ただ、本当に私のこの感覚を好き勝手に名付けていいなら、例えば、ベルクソンの「エラン・ヴィタール(生命の躍動)」や西田幾多郎の「純粋経験」というようなものになると思いますよ。フロイトのリビドーとは、またちょっと違う気もしますけれどね。その辺のことはややこしくなるので、また。


よっすう

 私はどちらかというと、岩崎さんの共感覚は、共感覚というよりは私たちっぽい、要は、巫女の男性バージョン的な感じがするのですが、「共感覚」という言葉の定義を変えてしまえば、たしかに「共感覚」になるのかもしれませんね。それも一つの手かなと思いました。

 私のような解離性障害の女性とか、それから知人にも解離性障害で巫女さんをやってる子がいますが、この前の解離性やヒステリーや巫女などについての岩崎さんの説明や持論を見ていると、どうも岩崎さんは、共感覚と同時に解離性・統合失調症の研究路線の人かな、と思ってます。

 それはともかくですが、昔の巫女の症状としては、やっぱり今も解離性障害が一番の候補なのでしょうか。

 今は、狐憑き・憑依・イタコ・神がかり・トランスなどの症状は、なんでも「特定不能の解離性障害」に入れられていると思うのですが、中にはちょっと統合失調症側に入ったり、神経症側に入ったりするのもあると思っていて、全部が全部「特定不能の解離」っておかしいのではないかと思うのですが・・・。


岩崎

 最近、この件について、別の解離性障害の女性と議論しているので、ほぼ同じ答えになりますが、私の経験を書いてみますね。

 私は男性ですので、本来なら、「女性の身体現象が色で見える」共感覚の持ち主を探そうと思ったら、女性の「巫女」よりは、男性の「陰陽師」に関心を示すべきかもしれません。

 これも、「岩崎さんは陰陽師に興味はありますか」と聞かれたので、改めて考えてみたのですが、いわば「陰陽師」路線で行こうとすると、あまりに障壁が高いなという気がするのですよね。

 私がいつも「巫女」のほうにやたら詳しかったり関心が偏っているのは、解離性障害者や共感覚者と交流しようと思って探したら女性が多く見つかってきたことと、あとは解離や和歌の関係の交流などで、巫女さんの知り合いが多いからだと思います。

 それに、現在の日本では、巫女はいますけれど、陰陽師はいないですからね。当たり前なのですが、重要なところですね。つまり、陰陽師は完全に伝説上・文献上の存在なので、直接会話して共感覚を確認するなんてことができないのですよね。

 どうしても、巫女などの女性相手にしか研究ができないです。男性を相手にしようにも、テレビに出ていらっしゃる霊能者くらいしかいないですが、個人的に気分が乗らないですね・・・。どうしてもそういう世界が苦手です。

 これ自体が、「女性のほうが古代的感覚を後世まで残しやすい」ことを物語っていますけれどね。基本的に、近代霊能ビジネス・霊感商法を最初に始めたのも、男性だと思います。今は女性もいますし、霊感商法のひどさが男性並みになっていますけれど。

 それはともかく、「陰陽師」路線は、壁が高すぎますね。あとはドラえもんにタイムマシンをお願いするしかないですね。

 そうなると、歴史上の時間軸を遡るのではなくて、今現に生きている男性の中でも、それに近い存在、つまりは男児ですね、いったい男の子というのはどういう発達過程を辿るのかを見るのが、一番良いのでしょうね。

 しかし、陰陽師の伝説自体は興味深いもので、女性もいたでしょうが、安倍晴明のように、だいたいは男性が務めるものでしたね。私が昔に生まれていたら、巫女ではなく陰陽師だったのかもしれません・・・。それも余談ですし、自己満足ですが。

 さて、巫女については、私はサイトを始めて以来、色々な巫女さんと交流させていただいていますが、これも結局、「巫女」という言葉の定義の問題なのですよね。そもそも、私の興味自体が、巫女と交流することだけではなくて、現代における巫女的な女性の知覚世界を知ることによって、その知識を自分の「女性の身体現象が色で見える」という感覚に照らし合わせ、自分を知ることにもあります。

 交流してきた巫女さんと言えば、皇居の中の「宮中三殿」というところで内掌典(いわば巫女の最高権威のような女性で、多くの場合一生涯処女を維持します)をされていた何人かの女性、それから京都・奈良・鎌倉などのいわば古代・中世都市の息の残る大きな神社で巫女をされていた女性、あとは、地方の小さな神社の巫女さん(こちらが一番、私のような素人が気兼ねなく会話を許されるわけですが)などですね。

 でも結局、「巫女」と言っても、定義が二重なのです。「巫女」は現在でもいますが、それは第一には「職業巫女」のことであって、「巫女的な女性」であることは意味しないですからね。

 例えば、今年は伊勢神宮の式年遷宮で盛り上がっていますが、「祭主」と呼ばれるお立場を黒田清子様がお務めになりました。広義で言えば、一種の巫女です。ちょっとTwitterにも書いたのですが、この祭主は、とっくの昔に途絶えた「斎宮」と勘違いされやすいので、余談ですが、Twitterを信用しておきます。

「神宮に近い巫女歌人様にも斎宮と祭主の混同が見られるのは、大中臣氏、三条西家、有栖川宮家などの名門歌道家が祭主を兼務したことや、斎宮自体がとっくに途絶えていて祭主と勘違いしやすいこと、今は女性による祭主継承に変わっていることと関係している気がします。興味深い点です。」

 こんな具合に、本職巫女でも勘違いすることがあるような、日本文化の知られざる奥深い部分なのですが、一つ問題なのが、滑稽なようですが、黒田清子様が共感覚者かどうか、祭祀の途中に解離なさったかどうかなんてことは、巫女的立場をお務めになったというだけでは分かりようがないということです。

 要するに、現代日本では、女性は次のように分けられるとしか言いようがないわけです。「巫女的な巫女」、「巫女的でない巫女」、「巫女的な一般女性」、「巫女的でない一般女性」です。もちろん、相当におおまかに言えばの話ですよ。

 ただし、今現在でも、神職巫女・本職巫女の女性ほど、短期的に務めるようなアルバイト巫女・研修巫女(普通の女子大学生など)よりも、共感覚や解離性障害の保持率が極めて高いということは、ここで言っておきますね。これは私の畏敬の念からの褒め言葉というより、交流経験からの事実として言っています。これを今は「本物の巫女」とでも呼んでおきましょう。

 女性は、DV被害や性的被害などを受けなくとも、大自然の中や、高度文明の波及を受けにくい領域で生活しているというだけで、解離する性である、というのが、私の考えです。

 もちろん、現在では、解離性障害はPTSDと似た脳の動きをしていることが分かっていて、統合失調症はそれらよりも原始的・器質的な症状で、動物にもあると言われている点では、解離性障害全体が「近現代病」であると言うことが出来ないわけではないですね。要するに、古代の巫女は大体が「統合失調症」だろう、「解離性障害」ではない、と考える人が出てくるはずです。私はそうは思いませんけれど。

 解離性障害の場合、PTSDと同じで、ほぼ必ずDV被害や性的被害など、本人が(解離性同一性障害の場合、主人格や基本人格が)知らないか、信じようとしない(他の人格なら知っているかもしれない)人生上の事件・事故の存在を医者は想定しますから、解離自体がすでに「巫女的」ではなく「後天的」ないし「近現代的」であるとする姿勢がほとんどだと思います。

 これに対しては、私は、「現在において解離、憑依、統合失調症、鬱病、神経症性障害、共感覚などと呼ばれている症状の総合的・融合的な事態全般のうち、人格障害(パーソナリティ障害)、特に境界性人格障害や反社会性人格障害を伴わないもの」をかつての「巫女的なあり方」だと考えますね。

 どうしてかと言うと、今あなた以外に議論していると言った解離性障害の女性や、今挙げた巫女は、虐待などの被害体験なしに解離の世界を生きていて、なおかつ人格障害を伴っていないことから、「解離というものが女性において人格障害とは無関係に起こりうるもの」であることが明らかだからです。

 一番重要なのは、「現代の一部の女性の脳は、現代的な事件に耐える時に、どうして古代と同じ方法を使うのか」という観点だと思います。例えば、「小学校におけるいじめ」や「義務教育における落ちこぼれ」などという、近現代にしか存在し得ない概念に耐えるときに、解離とか憑依とか統合失調症とは別の(人類史上に今まで無かった)現代的な症状が出てもよいはずです。

 ちょうど、「うつ病」と「新型うつ病」(後者はマスコミの造語)の関係がこれに近いです。人格障害の場合も、これに近いものがあります。例えば、「加害者に同じことをやり返す」、「相手以上にわがままで自分勝手になる」、「あらゆることを社会や他人のせいにする」などは、新型うつ病や人格障害の典型的な特徴で、こちらは「現代的な反逆のやり方」だと思います。

 でも、あなた方(「心・生きること・言葉」の)3人は、悲劇的または現代的な事件に遭遇していながら、私が解離や和歌の関係で交流してきた本物の巫女さんや、先に挙げた解離の女性と似たことをおっしゃっています。共通点は、いわゆる人格障害、とりわけ境界性人格障害を伴っていない点で、真正の解離を起こしていると言える点です。

 つまり、人に八つ当たりしたり暴力的に反撃したりはしない。リストカットや拒食・過食もない。ただ解離し、ただ憑依して、社会を悲しみ、祭祀に身を捧げているだけです。私が個人的に最も深い関心と感銘を覚える「巫女」の姿です。

 もちろん、あなた方の場合、解離の原因が相当に明白である点は、今別に議論中の解離性障害女性のように元々解離の素質を持つタイプの女性や、本職巫女の女性とはちょっと違うということは言えるのかもしれません。後者の方々は、女性というのは、性的被害、姉妹の性的被害の目撃、いじめや殺人など悲劇的ニュースへの心的反応、ペットの死などの経験がなくても「解離することがある」存在であるということを、如実に示していますからね。

「女性として生まれた」ことだけを条件に、つまり、素質的・器質的に解離経験をしている女性は、今挙げたような女性と、それから、やはり本職巫女に多いのです。

 あなた方が私の作った「言語・言葉」を必要とお感じになるのは、むしろ「言語・言葉」で明確に伝達できる人生上の事件・事故を持っているからで(何年何月何日に何をされ、いつの時期から解離した、など)、私の言語を必要とする人には、やはりそういう人が多いです。これが、岩崎式日本語のあまりに極端な閉鎖性を作り上げている原因でもあるのですが・・・。

 私も、巫女職と解離性障害を兼ねている女性を何人か知っています。巫女をやっていたらいつのまにか解離した女性もいれば、解離性障害になったから巫女になろうかな、と言って巫女になった女性もいます。もうこれ自体が、このような女性が持つ本能的なベクトルを示してくれます。

 もちろん、今は多少は本職巫女の伝統も薄れていて、一般の女性の感性や流行とそこまでの違いは無くなっています。あえて言ってしまいますが、今は大きな神社の巫女さんよりも、小さな個人的な和歌の会でのほうが、性的儀式のような傾向が強いですね。中山太郎の『日本巫女史』に記録されたような性的儀式は、巫女を離れて歌会など遊戯の世界に紛れ込んでいますから。

 今の一般女性の常識から言って衝撃的なことをやっているのは、伊勢神宮の巫女でもなければ、皇族女性でもなく、秘密主義的な伝統歌会です。衝撃的と言っても、今の性風俗産業のような風紀の乱れ方ではないですよ。

 私はこのようにして詠まれる「和歌」を「伝統和歌」と呼んでいますので、逆に古典語で詠まれただけでは「伝統」とは呼んでいませんね。ただし、今でも、歌会で転換性・解離性障害を発揮しつつ古典語で和歌をポーンと読む女性はいらっしゃいますね。

 内掌典や大神社の巫女の女性では、いまだに「生理中は、周りのものに触れてはいけない、男に会ってはいけない」といった性的な決まりはあるし、常々これに従って生活・行動されているのですが、直接的な性の儀式のようなものは、ほとんどなくなっていると思いますね。

 そもそも、一夫一婦制など、今の皇室は、日本の伝統を背負いつつも同時に極めて洗練された近現代の西洋的家族観に従って動いておられるからこそ、欧米で高く評価されるのだし、それはそれで大正天皇以来の「伝統」として継承していくのが良いと私も思いますね。明治天皇の時代は、天皇も上級の皇民男性も一夫多妻でしたけれどね。

 今は巫女の世界では、「性的な決まり事」があるだけで、「性的器官を用いた行事」はほとんどないと言ってよいと思います。歌会ではそうではないですけれどね。ただ、ここから和歌だけを後世に残して、性的儀式的要素だけを過去の野蛮なものとして抜き取って捨ててしまい、解離・離人・憑依・トランス・共感覚などの側面は「疾患」・「障害」・「知覚現象」などに個別に概念化する、という作業はいずれ行われると考えるのが自然でしょうね。

 その点では、歌会と同じ遊戯を担う芸妓・舞妓さんやコンパニオンの世界が興味深いですね。そのような歴史的な路線を半ば公然と歩んできた世界でしょうから。まあ、ここの世界に入るにはお金と別種の興味がたくさん必要なので、私は知りませんが・・・。

 ともかく、歌会で和歌を詠んだ後に、「詠んだつもりがない(詠んだことを覚えていない)のに詠めた」ことがあったり、「ふわーーーーー」「いやーーーーー」というような吐息や声を出したり、花や月や動物を見て涙ぐんだりするのは、本来的な解離・離人・憑依といった症状の融合であると私は考えています。

 長くなってきましたので、そろそろ今日の結論に入りたいのですが、虐待・暴力に遭った女性と、最初から巫女として生きることが決定されていて現にそのように生きている女性や生得的・素質的に解離しやすい女性とが、現代においてもなお同じ症状に陥っている、というところが、まさにポイントだと思っています。

 ここから私が導き出せるのは、やはり、「本当は、女性は多かれ少なかれ、生まれつき解離的・憑依的・巫女的存在である」けれども、「現代においては、解離性障害女性のほとんどに人格障害が併発しているから、かえって巫女的解離を引き起こしている女性の存在など顧みられなくなった」ということです。

 本来なら、「女性は、何かひどい目に遭ってから解離する」のではなく、「女性が解離において遭遇するものがひどい目である」ということが言えるはずです。それは取りも直さず、「本来、女性は、すでに解離的であるから巫女的であり、巫女的であることは解離的である」ということだと思います。そのことを、現代の少なからぬ女性が忘れかけていると感じます。

 私としては、巫女的解離を引き起こしている女性をより「女性的」であると感じますが、現在は解離性障害の女性のほとんどに人格障害も診断されているということは、ある意味では「人格障害は女性的」であるということになりますけれどね。

 こうして考えると、ある人生上の事件、例えば痴漢被害に対して、次の日にはケロッとして立ち直り、笑って仕事に行ける女性もいれば、強度の不潔恐怖や鬱、解離を発症して自殺まで考える女性もいるのはどうしてか、答えが見えてくるような気がします。

 現代的な人格障害を伴って反撃するような場合は、「女性性が人格障害になっている」のではなく、「その人が女性性を失っているから、解離・憑依せずに人格障害寄りになった」と私は解釈するわけです。

 さて、そうなると、「女性の感性」が「女性の理性」だとも言えそうなのです。むしろ、女性が感性を失うことは、とても怖いことではないでしょうか。私は、人格障害を大いに伴った現代の解離性障害を見ていると、「かなり器用な理性」を使っていると思えます。

 過剰なまでに女性の社会進出をうたい、「男は、男として生まれたこと自体の恥を知るべきだ」するフェミニズム団体の主張などもありますが、私が思うに、これは「極度の現代女性の器用な理性」から出たものであって、「巫女的感性」から出たものではないと思います。

 癇癪持ちの人格障害の女性に多く出会ってきましたが、「男性を打ち負かす」ことを考えている女性は多かったですね。しばしば「女は感情に走りやすい」と言われますが、そう言う場合の「感情」とは、結局のところ「理性」の負の遺産であり、近現代の女性に新たに生じた脳神経系メカニズムでしょうね。

 私が出会ってきた歌会の巫女さんは、そんな「感情」の出し方はしませんでした。他人に対して癇癪を起すのではなく、自然に対して畏敬の念を覚えるという意識が人生の第一義にあるようでした。

 簡単に言うと、今は「巫女性喪失」の時代になったと思いますよ。それに真正の解離性障害の女性がどう耐えていくのか、心が痛いですが、関心を持って見ていきたいと思います。

 私の考えでは、あなた方を含め、今述べてきたような「解離性障害」の持ち主のことを「巫女的」と呼んでいますし、素質的・生得的に起こりうる解離と悲劇的体験後に起こりうる解離の共通点への注目は極めて重要だと思います。

 あるいは、共感覚者のうち、そのような考え方・感じ方を持っている共感覚者は「巫女的」だと思います。また、解離性障害などの診断名や共感覚などの知覚現象名を付されたことのない女性であっても、そのような考え方・感じ方を持っている女性は「巫女的」だと思います。

 その意味では、現代において、解離性障害者にも共感覚者にも(少ないながらも)「巫女的」な人はおり、そうでない人も大勢いるということになります。男性の場合、共感覚の巫女的な側面とは、「近代的な文字記号に色が見える」感覚のことだけではおそらく済まないし、「排卵に色が見える」感覚を含むようなものになるかと思います。

 でも、「陰陽師」路線は、なかなか前途多難に思えますね。その点では、解離性障害の女性と巫女の女性がうらやましい気がします。お互いに、「私たちは同じ感覚を持っています」という言い方ができそうですからね。

 私のような感覚を持った男性が、「私は安倍晴明と同じ感覚です」などと言ったら、あまりにおかしなことになりそうですからね。しかしそれでも、陰陽師の知覚世界は、今で言う解離・離人・憑依・共感覚などの融合的な事態に近かっただろうと、私も思います。