2014年05月30日

「アスペルガー症候群」の廃止や「学習障害」などの名称変更で思うこと

dsm-5.gif◆概要

 5月28日に日本精神神経学会などにより、アメリカ精神医学会(APA)のDSM-5に規定される各精神疾患や行動障害の訳語の指針が出されました。

DSM-5病名・用語翻訳ガイドライン
https://www.jspn.or.jp/activity/opinion/dsm-5/

 DSM-5自体は一年ほど前に出ていますから、ここ一年間は、「(英語とその周辺の言語で取り決められ書かれた)概念」だけがあって「日本語訳」がない、という宙ぶらりんの状態でした。

(改訂直後、私のサイトの以下のページでも注意書きをしておきました。今回の訳語の指針の発表についても、注意書きを追加しました。)
http://iwasakijunichi.net/seishin/teigi.html
http://iwasakijunichi.net/seishin/bunrui.html


 以下が今回の指針の主な内容です。

●概念と名称の廃止・・・「アスペルガー症候群」など→「自閉スペクトラム症」として再編
(ここ一年間に精神科医などの間で口頭でよく用いられた「自閉症スペクトラム障害」は、正式な名称としては採用されていません。)

●名称の変更(「障害」→「症」)・・・「学習障害」→「学習症」、「注意欠陥多動性障害(ADHD)」→「注意欠如多動症」、「パニック障害」→「パニック症」など

●名称の変更(「症」→「障害」)・・・「アルコール依存症」→「アルコール使用障害」など

●概念と名称の変更・・・「性同一性障害」→「性別違和」


 おおまかにこのように変わったわけですが、定着に五年、いや、十年はかかると思います。

 と言うのも、かつてDSM-IIIやDSM-IVが出たときも、APAが「神経症」概念を放棄したにもかかわらず、日本の医者はその後も「神経症」や「ノイローゼ」の語を使い続けましたし、語と内容が一致しない曖昧な期間が長いのが日本の特徴だからです。高度成長期の「社畜」が抱え、尾を引いていた神経症・ノイローゼが、欧米が精神疾患分類を変更したからといって、すぐに忘れられるわけがなかったということだと思います。

 それと同じで、今後も数年間は、医者も口頭で(うっかり使ってしまう以外にも)改訂を知っていながら「アスペルガー症候群」を使うでしょうし、一般国民はカジュアル感覚で使い慣れた「アスペ」なんて言葉も使い続けると思います。


◆「アスペルガー症候群」の廃止と「自閉スペクトラム症」の創設

 改訂内容について、まず「アスペルガー症候群」ですが、定型発達者に対して何らかの独立した「アスペルガー症候群」なる「人間の群」が存在するという考え方自体がなくなって、これらの人々と定型発達者とのつながりを連続体として見ています。

 そのため、一見すると「温かい人間観」になったかのようには見えるのですが、企業(雇用者)などに対しては、「旧アスペルガー症候群の人々が定型発達者(一般の社会人)と連続しているということは、彼らも定型発達者のコミュニケーション能力や能率、即戦力に到達できるはずであり、それができない場合、彼らの努力不足であり、自己責任である」という着想を与える可能性もあります。今回の改訂と訳語の創案が、変に実力主義・能率主義志向や残業代不払いの問題と結びつかないようにしてほしいと個人的には思います。

 アスペルガーや自閉症などの発達障害の人たちは、芸術創作や、一度取り決められ教示された単純作業においては、極めて高い能力を示す場合が多く、しかしそういう作業は、「企業の利益やイノベーション」といった概念からは最も遠いために、軽視されやすく、DSM-5の運用を間違えるとおかしなことになると思います。

 ひとえに、「連続体上にいるという意味は、努力次第でその連続体の中を這い上がれる可能性(這い上がれない場合の自己責任)が証明されたなどという意味ではない」ことを雇用者が理解できるかどうかだと思います。従来通り、「生得的な脳の傾向」という理解が正しいことに変わりはないです。


◆「障害」と「症」の錯綜

 それから、次の二つ、「障害」と「症」の分かりにくい呼び替えですが、まず注意したいのは、「障害」が「症」になったからといって、この「症」は旧神経症の「症」ではなく、単に今の日本社会における様々な偏見問題を考慮しつつ生み出されたDSM-5の訳語だという点です。つまり、今回の「症」は今までの「障害」のことで、その「障害」は旧神経症の「症」の概念を放棄して新設された概念でした。

 その一方で、「アルコール依存症」は「アルコール使用障害」となり、こちらも概念自体はDSM-IV-TR時代からそれほど変わっていませんが、日本語での訳語が変わったわけです。

 これらは明らかに、今の日本の世相を意識して付けられた名称ですね。「学習症」、「注意欠如多動症」、「パニック症」は、これらの人々への差別感情を誘発しない語表現として付けられたものである一方、「アルコール使用障害」は、飲酒運転やDVなどの犯罪・暴力との結びつきが増加していることを念頭において、アルコール関連の問題・トラブルを厳しく断じた語表現だと感じます。

 私個人としては、アルコール使用障害については、病的なアルコール依存をもっと本格的な治療の対象とし、飲酒運転のほうはもっと制裁的・懲罰的に扱ってもよいのではないかと思いますが、それはともかく、日本精神神経学会も冷静に上手に名づけたなと思います。


◆「性別違和」の創設

「性同一性障害」が「性別違和」となった件ですが、こちらは「障害」という認識自体を取りやめることが主眼にあり、他には見られない「違和」という個性的な訳語が与えられました。

 この分野に関しては、いつも欧米ではキリスト教団体やフェミニズム団体の動向を意識して名称が付けられてきました。(今回の改訂でもそうですし、前回の改訂でもそうでした。)

 今回の改訂に喜んでいる「性別違和」保持者も多くいらっしゃるようですが、この改訂の日本社会における効果の良し悪しを即断することはできないと私は思います。この「性別違和」にも違和を感じる当事者(いわば「性別違和違和」!?)もいると思います。これは、ちょうどこれと対極のことを考えれば分かります。

 男女二極のいずれかに自身が属することを自覚する大多数の人間のほうを「障害」や「違和」ととらえると、「性別存在障害」(性別の自覚があるという脳の障害)や「無性違和」(性別がないことに違和を感じるという障害)となりますが、これには大多数の我々が反発を覚えることになると思います。

「性別違和」も、あくまでも「性別」が基盤にあって、これに対する「違和」ですので、DSM-IV-TRからの思想的基盤の大きな変更はないと言えます。日本精神神経学会も、突如として革新的な訳語にするのではなく、APAの意向を汲んで、マジョリティーの立場から丁寧に言葉を選んでいると言えます。私自身は、この姿勢に賛同します。

 もちろん、こういう価値観そのものの改変・撤廃を強硬に主張する急進的な新宗教団体・フェミニズム団体も存在しています。例えば、男女の公衆トイレの構造を変えて(壁を取り去るなどして)、どんな性的指向・性的違和の保持者でも自由に行き来できるようにするべきだなどという考え方ですが、これでは変な趣味と全く同じだと私は思います。海外のフェミニズム団体などには、すでにそれなりに見られる主張ですが、日本でもちらほら見かけるようになっています。

 しかし、「数の問題」(自分は男または女であるという大多数派のほうを「障害」や「違和」とするわけにはいかない)や、「動物としての生殖の問題」(現時点では同性どうしの間に子孫が生まれることはない)など、様々な問題を含んでいることは無視できないですし、とりわけ日本では、今後も男女の公衆トイレ間の移動の解禁や壁の撤去などは、あり得ないとしか言いようがないと思います。

「性別違和」保持者に対しては、今後日本においても、法的な対処(婚姻制度や養子制度の欧米化)や医学的な対処(同性間生殖技術の開発や性転換手術の推進)が考えられていく可能性はありますが、前者は、日本では社会・文化の体質として欧米のようになるわけがなく、後者も結局、STAP細胞捏造問題に似たもの(疑似科学)をちらほら見かけますし、ビジネス化・競争化の中で頓挫しそうな気がします。

 基本的に、ローマ・カトリック教会やキリスト教保守系団体は同性愛や性同一性障害に厳しい姿勢を示し、フェミニズム団体やキリスト教革新系団体はこれらの人々の権利を広く認める姿勢を示してきました。

 それでも最近は、カトリック教会・教皇がこれらの人々に寛容な発言をしたり、フェミニズム団体の中にも、あくまでも男性優位の思想への反発は持っていても女尊男卑思想の人々に対しては厳しい姿勢を示す団体もあり、この分野についての思想の左右、保守・革新の区別は、従来の政治・宗教思想とは相関性があまりなくなってきているのが興味深いです。

 日本においても、もはやこれらの性的指向や性的違和を持つ人々が「いること自体」を否定する主要政治団体はない状況で、自民党も民主党も大して違うことは言っていないので、私としては、社民党、共産党、公明党、幸福実現党、フェミニズム団体や、創価学会(公明党の支持母体)、幸福の科学(幸福実現党の基盤)、エホバの証人、統一教会などの新宗教団体の見解・発言を注視していきたいと思います。

 実は極右・極左両方の意見が存在するのはこういう団体だと、個人的には思っています。


●一般の日本人が注意すべきだと思うこと

 というわけで、話が少し変わりますが、精神疾患・精神病理学と政治団体や宗教・思想団体(特に新宗教団体)との関係の話をします。

 先に挙げたアスペルガー症候群や学習障害などについても、何らかの極端な意見を持っている新宗教団体は多いです。

「輸血は許さないが、性同一性障害者の権利は認める」(エホバの証人の幹部の発言)、「移民を増やし、日本を日本人と白人が共生する3億人国家にするのが目標だが、障害者がうまく働けないのは前世が悪かったからだ」(幸福実現党の幹部の発言)など、いくら私個人にとっては一笑に付すべき暴論や妄想であるとしても、世の中には様々な考え方があるのであり、ともかくDSMの概念や訳語を統一したところで、万人の意見が一致するわけがないのが実状といったところです。

 少なからぬ一般国民が政治や宗教(宗教の創始者・教祖や主宰)の(しばしば架空の)力を借りなければ、これらに対する自分の意見を持つことができない(もはやそれは自分の意見ではないが)という現状には、私は強い違和感を持っています。

 しかし、新宗教に心酔した人たちは、それはそれで職場からの「一種の新宗教的脅迫(実力主義・能率主義・パワハラなど)」に苦しんで、そのような道(職場という「新宗教団体」からの脱却としての別の新宗教)を選んだ可能性もあるところが、今の日本や先進国の闇の部分だと思います。

 実際のところ、かつてのオウム真理教の幹部たちには、超高学歴で、かつ職場で不当に「干され」(いじめに遭っ)て入信した人が多かったですし、人命を救済するはずの医者、科学者、警察官、弁護士までいたわけです。

 精神科医やカウンセラーまでもが新宗教・思想団体に関わったらおしまいだと私自身は思っていますが、関わらないはずはなく、海外で誕生したオカルト科学系の新宗教・思想団体であるサイエントロジーやラエリアン・ムーブメントは、日本支部の活動が最も盛んであり(日本人の信者・会員が多い)、自閉症やクローン人間についても言及するようになってきています。

 そもそも、「第四の心理学」と言われているトランスパーソナル心理学には、かねて新宗教そのものであるという批判があり、私もこの心理学の書籍を読んでみて、好きになれなかったのですが、自閉症や学習障害のお子さんのいるお母さんが心酔しているケースもあり、実に人間というのはどこまでも摩訶不思議な生き物であると思います。

 話がまた変わりますが、最近では、政教分離しているはずであるのに、自民党と公明党の憲法・集団的自衛権解釈の齟齬に乗じて創価学会が見解を述べたり、昨年の参院選で当選した公明党議員が(自身に票を入れた創価学会員の支持者が「投票は功徳を積むこと」と表現したことに関連して)テレビで創価学会に礼を述べたことについて、池上彰氏がテレビでごく普通に批判的口調でたしなめていたりで、どうやらマスメディアの状況が変わってきています。

「新宗教ウォッチャーだが、そのどれにも入らないし、好かない教」という宗教(自称)に所属している私としては、なかなか面白い事態になってきたと思っています。

 精神疾患や新宗教問題の分野において昭和や平成初期にあったような、まるで共産党支配下の中国と変わらない言論統制やタブーというものがなくなってきているのは、大変によいことだと思いますし、新宗教・思想団体による発達障害者や精神疾患についての極論・異様な見解・差別発言などに対しても、自由にものが言えるようになっていくべきだと思います。

 どんどん話がずれましたが、ともかく、概念・名称が「アスペルガー症候群」であっても「自閉スペクトラム症」であっても、新宗教に心酔した母親が子供に「私の前世が悪かったから、アスペのあなたが生まれたのね」などと言い出したりしなければ、それでいいです。そう言い出す母親を、私は多く見てきました。

【引用・参考文献】
DSM-5病名・用語翻訳ガイドライン
https://www.jspn.or.jp/activity/opinion/dsm-5/
posted by 岩崎純一 at 19:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 精神疾患関連の文章

2014年05月15日

井筒俊彦生誕100周年

ToshihikoIzutsu.jpg 5月11日に池袋のジュンク堂に行ったら、井筒俊彦生誕100年記念フェアをやっていて、井筒俊彦の誕生日が今頃(5月4日)だというのを思い出した。こういうときに「灯台下暗し」と言うのかどうか知らないが、普段読んでいるのに誕生日を思い出せない哲学者は結構いる。

 しかも、どういう奇妙な運の巡り合わせか、11日は、井筒俊彦の『意識と本質』を人に貸すために、夕方に家から持ち出す予定だったので、余計に驚いた。日本語の歴史的変遷を知る上で読んでおいた方がよい本を求められたので、せっかくならと、自分の蔵書から、金田一京助の『日本語の変遷』などの日本語学関連の本や『古今集』などの和歌関連の本とともに、何冊か持ち出した哲学書のうちの一冊であった。最近の学者だと、新形信和の『日本人の〈わたし〉を求めて―比較文化論のすすめ』などが好きだが、こちらも貸し出した。

 ジュンク堂の井筒俊彦の本のすぐ隣には、必定、大川周明の本も並べられていた。私の個人的な井筒哲学への入り方としては、禅・唯識・言語アラヤ識の側面が最初であったが、イスラム思想の側面からも、二十代に入って様々な宗教学書と並行して読み始めた。

「側面」と言っても、コインの裏表であることは間違いない。アメリカ同時多発テロが起きたのは十代の終わりだったが、その頃はニーチェやハイデガーを読んでいた時期だったので、宗教学をそこまで真剣にやっていたわけではない。

 それにしても、井筒の言語アラヤ識を理解するためには、唯識や華厳、例えば、鎌田茂雄の『華厳の思想』などを前もって読んでおくのも手かもしれない。というより、そういった別の仏教書や哲学書、言語学書を注釈書として設定するのがよい読み方だと思う。

 ところで、チョムスキーの生成文法理論における普遍文法の東洋的実存版とも言える言語アラヤ識ではあると思うけれども、言語アラヤ識への「無意識の意識」は、そのままサピアが批判的に名づけたSAE(Standard Average European=標準平均欧州言語)に基づく従来の優勢学的言語学からも超然とした、いわば涅槃的境地でもあるのだから、一度井筒哲学を自分の言語観に著しく引きつけて読んでしまった私のような人間には、どうしても生成文法理論への興味が自分の実存・生き方・人生や気持ち・感情とは切り離されたものになる。

 チョムスキー階層における終端・非終端記号による生成規則のままでは、SAEはなお、まさに標準平均的なSAEであり続け、日本語を含む東洋言語や世界中の滅亡寸前の少数民族言語に対して世界標準平均的に君臨しうると思う。井筒の言語アラヤ識においてはそのような態度がほとんど消失しており、そこに真の深みがあると個人的には考えている。

 そもそもSAEの優越に対する批判精神が言語アラヤ識そのものであるし、それをイスラム教圏・クルアーン・アラビア語にまで広げてとらえた井筒俊彦という男の心優しさに私は惹かれてきたわけで、その原点は今でも忘れたくないと考えている。

 今現在の私は、こうして自分のサイトをHTMLで記述したり、先日のようにプログラミング言語のJavaScriptによる共感覚ゲームをサイトに載せたりしているけれども、今や自分の中ではチョムスキーの普遍文法への興味は、私の中ではそういう作業において参照するものになってしまっている。

 すなわち、チョムスキーの言う(仮想する)「普遍文法」が、私の中で、「世界中の人々の心に当てはまる」ものどころか、むしろチューリング完全なプログラミング言語・形式言語の学問的追究のための道具・ネタになってしまっているというのが実状である。

 もしかしたらチョムスキーの思想もそういうものではないのかもしれないが、井筒俊彦や大川周明の思想を知った後では、なかなか後戻りすることが難しいのも事実である。

 そこから、「プログラミング言語の文法は常にSAE的であり、SAEの文法は常にプログラミング言語的である。一方、クルアーンのみならず、そもそも旧約・新約聖書でさえ、普遍文法の文脈で読解することなど不可能であり、多分に言語アラヤ識において体得されるべきものである」という私自身の考えも出てきたのだ。

 さて、そこで井筒哲学のイスラム教研究の側面だが、大川周明と同時並行して読むと、いかにイスラム教が、仏教及び仏教のシステマティックな側面が八百万の神々を「道」化して成立した神道と、西欧列強の帝国植民地主義に乗って侵出してきたキリスト教との間を取り持つ、東洋的かつ西洋的な宗教であるか、さらには昨今のテロリズムがいかに非イスラム教的であるか(預言者ムハンマドの大局観からそれているか)といったことが分かる気がするのである。

 アメリカがイラク戦争を戦績の意味でも人道的な意味でも完全勝利に終えることができなかった遠因の一つには、戦績の意味では東京裁判という事後裁判の強行(国際法上、違法な手続き)、人道的な意味では原爆投下(非戦闘員・民衆の大量殺戮)という重大な借りを作っていながら、いざGHQの支配下に日本列島・天皇・国民を置いたところ、日本のほとんど誰もが反抗しようとせず、そのままGHQ支配と不平等な安保条約、そして朝鮮・ヴェトナム戦争特需の恩恵を受けて(それこそ日本国民の「識」における戦争肯定の大衆心理によって)高度成長を遂げる日本のスタイルがあっさりと成立してしまったことがある、つまりは、同じことがイスラム教という宗教、中東の人民に対しても強行できると踏んだことがあることは間違いないと思う。

 先日、ある保守系政治雑誌で、独立総合研究所の青山繁晴氏がイラク戦争直前に、アメリカに「一神教に対して日本支配と同じやり方をやろうとしたら絶対に間違う」と進言していたが、聞き入れられなかったことを知った。これは、俗っぽい雑誌の中で今の時代の文脈で言ったものだから、見過ごされがちだと思ったが、これには一理あるどころか、井筒俊彦や大川周明が生きていたなら最初に発した言葉かもしれないと思う。

 大川周明が東條英機をひっぱたいた真の理由など知るよしもないが、それはともかく、今後もブッシュ前大統領やオバマ大統領がクルアーンを読んだり、井筒俊彦や大川周明を読むことはないだろうと思うのである。

 はっきりしているのは、アメリカにとって戦争・占領統治をしかけるのが最も簡単だった(今なお簡単である)のは日本で、かなり難しかったのが中東だということではないだろうか。

 ところで、少し個人的な興味から、最近は、井筒俊彦や種村季弘が入っていたエラノス会議がまじめに共感覚を研究してくれないかと期待しているが、もっと神秘的・トランスパーソナル心理学的な要素が必要らしく(神秘的と言っても、井筒の言うようなそれではなく、オカルト的な意味)、もはやほぼ新宗教系組織のようになっており、むしろ「科学的に立証済みの非日常的現象」にはあまり興味がないようである。


【画像引用元】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E7%AD%92%E4%BF%8A%E5%BD%A6