2014年06月27日

「都民性」とは何か ―憲法の「公共の福祉」規定から考える―

 この記事では、「東京都民性」(または、東京首都圏全体を含む広義の意味で使われる「都民」としての「都民性」)というものがあるとすれば何か、私なりに最近考えていることを中心に書いてみる。特に、東京首都圏で生まれ育った都民ではなく、首都圏外から移住したか首都圏に一時的に在住している都民のそれについて、最近個人的に意識している新宗教問題と関連付けて考えてみたいと思う。


●都民の絶妙な「沈黙」

 常々、「無宗教・無党派層の一員だが宗教・新宗教ウォッチャーです」教などという宗教の信者を自称している、野次馬の私としては、最近は色々と印象に残る出来事が多い。(この自称宗教の名称は、意図や内容さえ示すことができればいいので、いつも変化してしまっているが。)

 2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、JR山手線の品川駅と田町駅の間に新駅が建設されることが決まり、国や東京都は駅名の検討に入っているようである。

 先日、とあるマスメディアを仕事で訪れたところ、この新駅名候補に「幸福の科学前」が出ていると知り、ああ、確かに近いなと思いつつもさすがに仰天したのだが、もし表沙汰になったところで、都民が全力を挙げて阻止するはずだと思って、それ以上は気にも留めなかった。もちろん、私も一都民として阻止する。(と、そう思っているうちに、その話は立ち消えになったようである。)

 しかし、こういう話が全くあり得ない話ではないことは確かだ。天理教に由来する奈良県天理市・天理駅、金光教に由来する旧岡山県浅口郡金光町・金光駅などの前例がある。タブーでも何でもない。あれよあれよという間に、新宗教都市は形成される。

 この手の話題で最も有名なのが、もちろん中央線の信濃町駅である。この駅を中央線に揺られながら通り過ぎる時も、いつか「創価学会前駅」になったほうがよいのではないか、などとわざとらしく思いながら通り過ぎている。何と言っても、ほぼ二つの字(あざ)全体が、国民の意志・投票によって現政権を取っている政党の支持母体の町であり、駅の広告もこの宗教法人のもので彩られている。信者が経営する商店なども多くある。こういう区域があること自体は、「法の支配」がある限り、どこまでも合法なのだ。

 天理市をめぐっては、時々実施されるアンケートでも、天理市民のほとんどが、自治体・駅名・市政・公共サービスなどにおいて特定の新宗教団体の思想が色濃いことについて、「何とも思わない」・「不満はない」と答えている。

 現在のところ、ある字(あざ)や地域一帯の土地や建物を特定の新宗教団体が占有することが、憲法第12条や第13条に規定される「公共の福祉」規定や、憲法を根拠に主張される環境権・眺望権・景観権などに反するという解釈は、存在していない。

 この天理市民の回答は、高齢の天理教信者とその子孫が市内に集住を続けていることと、宗教に関心のない若年者(特に学生。天理教信者の子供を含む)が全国平均の2倍も市内に在住していることから来ていると考えられる。ただし、高齢の信者はもはや最期までそのつもりであるだろう一方で、若年者の中には、単に通学や通勤でそこに一時的に住んでいるだけで、いずれどこかに転居する身である人も多いはずだ。おそらく、「天理市」の由来さえ知らない若年者も多いと思う。

 私の出身地の岡山県には、幕末三大新宗教と呼ばれた三つの新宗教のうち、金光教と黒住教の本部がある。(もう一つは天理教)

 特に金光教は、自らをその名の由来とする金光町(2014年現在は浅口市の一部)に小規模の宗教都市を形成し、金光駅自体がこの宗教への玄関のようだった。

 儒教的幕藩体制による伝統的神道・仏教への抑圧が終焉して国家神道・教派神道の整備と廃仏毀釈が行われた明治時代から、オウム真理教による各事件によって宗教カルト問題と破防法の適用の可否の議論が頂点を迎える時代までの約100年間の、ちょうど後半期(ほぼ戦後に該当)に見られた、日本の一地方の光景と言ってよいと思う。

 規模としては天理教のほうが大きく、天理市自体が、市長や市議会議員が天理教信者であるか否かにかかわらず、天理教を中心とする宗教都市を標榜している。

 ところが、東京都民の内面や宗教意識となると、地方の人々のそれらとは全く逆の現象が起きる。

 一年ほど前、仕事で英国大使館へ行くため、東京メトロ半蔵門駅を降り、最寄りの4番出口を出ようとしたら、新宗教団体真如苑のビルを通過しなければ出られないことに気づいたことがあった。最近新設された出口である。

 一般利用者のほとんどは、全く知らないか、知っていても「新宗教施設の存在を無視する(いわゆる俗語で「シカトする」)」ことによって通勤・通学などの行動を取っているようである。事あるごとに新宗教を利用して市や町を上げて祝祭的気分を作り上げ、盛り上がる地方とは、その点で異なっている。

 ただし、表向きは都民のほとんど誰からも不満が出ない信濃町駅はともかく、半蔵門駅のようなケースはかなり問題だと思う。

 特定の宗教法人の建造物の内部を通行する出口を鉄道事業者の主導または容認の元に設置する時、憲法の「公共の福祉」との関係はどうなのかと疑問に思い、色々と調べてみたが、結局、最近の石原伸晃環境大臣の言葉として話題の「最後は金目」、つまり、「鉄道事業者と宗教法人の双方に利益があるからそうした」という結論しか見えてこず、愕然とした。

 もっともここでは、一般利用者は、「信教の自由」を侵害されているわけではない代わりに、新宗教団体の建造物内部をそうと知らずに通行したり通行中に勧誘を受けたりしたことによって、通行妨害の被害を受けたり気分の悪化や苦痛感を覚えたりしているのであるから、「公共の福祉」規定や自治体の迷惑防止条例のみが関係してくることになる。

 特に、当該宗教法人の信者の利用や一般利用者の当該宗教法人施設への誘導を目的とすることが明らかであって、そのことが利用者のコンスタントな増加という利益を鉄道事業者側にももたらし、そのことを鉄道事業者も利用客に隠しているケースについては、憲法との整合性をもっとまじめに考えるべきだと思う。

(それ以来、しばらく別の出口から遠回りして出てみたが、こんなことで自分一人だけ動きを変えるのも、歩行者の流れに逆らって迷惑だなと、我ながら可笑しくなった。)

 冒頭の新駅名候補については、おそらく、新駅建設予定地の隣の泉岳寺駅が、泉岳寺境内からある程度(幸福の科学の建物よりは)距離があるにもかかわらずそう名付けられていることと、泉岳寺が関府六箇寺の末寺として曹洞宗寺院の統括と江戸僧録を司った経緯があることから、曹洞宗の系統でない各新宗教団体による曹洞宗泉岳寺と京浜急行への反発が関係しているのかもしれない。

(余談だが、元々日本の曹洞宗という宗派は、新宗教思想やカルト思想が出にくい宗派である。これは、いわゆる「魂(霊魂)」についての考え方の相違によるもので、それらが出やすい宗派には浄土真宗や日蓮宗・日蓮正宗があるが、このあたりのことは宗教学・仏教学上のテクニカルな話になるので、省略する。)

 ただし、曹洞宗関係の駅名だからと言って、それを理由にこの駅を利用しなかったり、この駅を利用するたびに怒ったりする浄土真宗信者や日蓮宗信者は、今やほとんどいないと思う。


●「都民性」なるものがあるとすれば・・・

 色々と憲法との整合性を問われそうな例を挙げたが、私はこれらの問題を見るにつけ、全国から集まった雑多な人々の集合体である都民の絶妙なバランス感覚の面白さを感じる。

 おおまかに見ると、「都民のバランス感覚と国・都の旧態依然とした体質との乖離」および「都民のバランス感覚と地方の高齢者の旧態依然とした体質との乖離」の二点を感じる。

 まず、一点目。オカルトブーム全盛期で、なおかつ地方ほど新宗教団体に抵抗感のなかった1980〜90年代前半にあって、オウム真理教を母体とした真理党の候補を軒並み落選させたように、都民は「怪しいものは知ったことか」と、冒頭に挙げたような駅名候補なども無視するに決まっている。

 ところが、今見たように、JR・東京メトロなどの鉄道事業者や国・自治体は、新宗教団体との蜜月関係があるし、あまりこの話題に関するバランス感覚は期待できないと思ってしまう。

 この手の話題を今の大学生や同世代の同僚に振ってみたら、この手の話題自体を知らないか、どうでもよいと答える人が多い。このこと自体については、私個人としては極めて不満だが、彼らは彼らで「自分に関係がない物事は知らない、頭の中に意見・価値観・宗教観そのものが存在していない」ということによって絶妙な中立的立場を都内・都会において形成し、非常に器用で華麗な投票行動を見せているのかもしれない。

 そろそろ「宗教法人性善説」そのものを放棄する必要があるとも言えると思うわけだが、その一環として宗教法人の税制優遇を廃止して莫大な税金をかけたところで、新宗教団体よりも先に地方の小さな神社や寺がつぶれるに決まっている。むろん、伊勢神宮を本宗とする巨大宗教法人の神社本庁や大規模な単立宗教法人(靖国神社など)は話が別である。

 それに、新宗教団体がつぶれたら、まずは政治家や政党が困る。自民党や安倍首相は統一教会・国際勝共連合がなくなったら困るし、公明党は創価学会がなくなったら困る。石原慎太郎や石原伸晃や平沼赳夫や日本会議は、霊友会、崇教真光、念法眞教、神道政治連盟などがなくなったら困る。社民党は、今やほとんどそれ自体が女性優遇思想党である。共産党は、元々それ自体が思想である。何も民主党だけが、朝鮮半島に媚を売って外交政策や政権運営に失敗したわけではないのではないか。自民党も、朝鮮半島の新宗教団体の恩恵を受けて成り立っているのだから。

 結局、JR山手線の新駅名は、「芝浦」・「芝浜」など地名に由来する従来型のものか、「オリンピックシーサイドたかなわ」や「大江戸みらいベイパーク」などの、日本人にも外国人にも分かりにくい、いわゆる「キラキラ駅名」になりそうな気がする。

 二点目。多くの日本の都会人(特に東京都民)が新宗教問題や「公共の福祉」問題に無関心であり、付和雷同して人ごみの中を移動しているということ、すなわち「意見そのものが脳裏にない」ということによってかえって中立的立場が適切に現出されている、という性質を「東京都民性」や「日本の都会人性」そのものだとすれば、これは日本の地方の金縛りのような宗教意識と対比的に見ることができそうだ。

 すなわち、天理市や旧金光町のようなケースは、今の東京ではまず起こり得ない事態であり、世田谷区一体や吉祥寺の街の周辺が一つの新宗教団体を基盤として再形成されるなどということは、まず近い将来にはないと思う。

 日立市や豊田市のように、特定の企業名が地方自治体名となっているケースでは、日立市に三菱電機ファンや東芝ファンが住んでいたり、豊田市にホンダファンや日産ファンが住んでいるからと言って、この人たちが日立市や豊田市の市役所に文句を言いに行くなどということはあまり考えられない。(過去にはまじめにそういう行動を取った人もいただろうが。)

 しかし、新宗教団体名、しかも神道・仏教・キリスト教・イスラム教などのように国内外の政府によって(多少定義は違うものの)カルト指定されていない正統派巨大宗教団体ではない宗教団体の名を、自治体名や駅名に据え置いたり新たに付けたりするようでは、今後ますます日本人の宗教感覚や「公共の福祉」感覚は、海外から見て摩訶不思議なものになっていくと思う。

 これは、ヨーロッパやアメリカの自治体名や駅名に、古代ギリシャ・ローマの神々やキリスト教関連の用語が付けられているのとは、わけが違うと思うのである。あちらでは、国家・文化自体が宗教的・一神教的であり、しかもそれは正統派なのだから。

 だから、東京都は東京都で、オリンピックの開催都市としての矜持を持って、国・都や地方の高齢者の旧態依然とした宗教感覚や「公共の福祉」感覚とは異なる意識を持たなければならないと思う。


●結び

 とにもかくにも、今回言ってみたかったのは、一般都民の付和雷同体質は、政府・自治体や地方の高齢者のそれよりも、かなり健全なものなのではないか、ということだ。都民は、その付和雷同・無関心体質の絶妙な器用さによって、憲法が規定する「公共の福祉」を図らずも体現していると思う。

 不思議とバランスの取れた、およそ「意味」というものを持たない、雑多すぎて結局何も「語らない」、意見がなさ過ぎるために放っておけば勝手にオートマチックに調和が取れる、無味乾燥の、ニュートラルな都民の世論。これが最近、私自身の頭の中では、思索の材料として気になるテーマである。


【参考文献】

宗教法人法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S26/S26HO126.html

宗教法人と宗務行政
http://www.bunka.go.jp/shukyouhoujin/index.html
posted by 岩崎純一 at 19:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・宗教論