2014年07月01日

憲法第99条と憲法制定権力と安倍政権

 ついに本日、集団的自衛権の行使容認が閣議決定された。今日は、これと関連して、憲法の原理について仕事からの帰宅中に考察しメモしたことを転載しておこうと思う。

 私としては、今回の解釈変更と集団的自衛権の行使容認によって、日本が戦争に巻き込まれる危険性は上がりも下がりもしないと考える。また、自衛隊が戦争に巻き込まれることと、日本の国土が戦場となり一般市民・非戦闘員が殺傷されることとは、国際法上も著しく異なっているが、これを区別して議論している有識者が改憲派にも護憲派にも少ないことが不満である。

 日本国民(私も含めて)の良くも悪くも不思議な点だと最近思うのは、平時・日常において憲法とは何かを問われたなら、「国民皆で守るべき、色んな法の上に立つ一番大事な法」という答え方をする人が多いにもかかわらず(国民自らにとっての絶対的な最高法規性)、今回の安倍政権の行動(改憲の意志の表明、解釈の変更)については、それが憲法典の原理を脅かしていないかどうかを、まだ無意識ながらも、より自覚的に感じている点である。

 すなわち、平時・日常においては「憲法は為政者や国家の全体(何ものか)が国民宛てに定めた、国民皆で守るべきルールブック」と考えられ、これが例えば「平和は自分たちで守るもの」といった極めて抽象的な「人の道」・「道徳」の主張の根本原理として使用されており、ところが、有事に対する「不安感」を問題にする状況においては、「憲法制定権力が正当に行使された結果、国民が国家・為政者に課したルールブック」であり、「平和は為政者に守らせるもの」と、脳のはたらきが大転換している。

 とりわけ、いわゆる左派・護憲派を謳う日本国民においては、自国の為政者自身の手によって有事の不安が増した(自国の為政者のせいで内憂外患が増えた)という自覚がなされた場合に、急に憲法制定権力に裏付けられた憲法の実定的意味や対為政者の束縛性が第一義にのぼっている現状は、私個人としては、日本人の憲法論と脳認知の関わり方の特徴を如実に示す例として大変に興味深く思っている。
(それは、義務教育でも教えられていないのに、まるでチョムスキーの生成文法のように生得的なふるまいを見せる、不思議な脳認知のあり方だと思う。)

 近代西洋、現代欧米においては、憲法の絶対的意味、相対的意味、実定的意味、最高法規性などは、ほとんど自動的に同列に語られるものであって、内憂外患の有無や世界情勢の変化に伴って、国民の意識において優先度が事後に変わるというような性質のものでさえないし、そのような性質であってはならない。
(カール・シュミットなどの「憲法の意味」の共時的分類など。)

 こうして見ると、日本人は、マスレベル(大衆レベル。個々の学者・識者の意識は除く)では、有事の(現在を有事に向かう過渡期であると自覚した)際にしか世界的に常識的な憲法論を認識・展開することができないように思う。

 だから、今回の安倍首相の行動に対して改憲派からも護憲派からも出ている反発が、本当に多くの国民による原理的な憲法制定権力への正当な認識に基づくものだとすれば、まずは、今回の安倍政権の行動は憲法制定権力がいさめるべき性質のものであるかどうかが問われ、次に、もしそういう性質のものであるなら、現憲法が為政者をいさめるだけの憲法制定権力が発動して制定されたものかどうかが問われ、さらに、為政者や事実上の元首である天皇が現憲法において定義可能かどうかが問われることになる。

 ところが、このような議論に耐えうるだけの条文、このような問いに対する答えを、現憲法は持たない。

 さらに、国民の憲法制定権力が正当に発動して制定されたかどうかが不明であるまさにその現憲法でさえ、第99条で天皇や首相、国務大臣に対して憲法擁護の義務を負わせている。

第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 憲法制定権力が憲法改正や新憲法制定の限界性(硬性憲法としての性質)を創出しているかどうかは、憲法改正権が憲法制定権力ではなく憲法改正権を規定した憲法自身の束縛を受けることなどから、憲法制定権力は憲法改正を制約しているが、新憲法制定は制約していないと考えられる。

 いずれにせよ、憲法が、「国家が国民に定め与えるもの」ではなく、「国民が国家に定め与えるもの」でもなく、「憲法制定権力が人民をして、特別な制定手続き(憲法制定会議)における人民の議論に基づいて立法権・行政権・司法権などの国家作用を創出せしめ、為政者に定め与えるもの」であるというイメージ自体は、現憲法にも描かれているのであり、また、それは国民が国家や為政者に先立って守るものではなく、まずは天皇や首相や国務大臣が守るものであり、それは「義務」であり、国民に対するよりも先に憲法制定権力が立法的におこなった根本的決定に対して負う義務である。

「憲法に定められた改定手続きを経ずに憲法を改定することができるのは、憲法制定権者のみである」という基本は変わらないはずである。

 結局のところ、現政権は憲法の基本部分たるこの「理念」に抵触しそうになったから、改定ではなく解釈変更の道に進んだと言えると思う。しかしいずれにせよ、解釈変更という以前に、現政権による憲法改定についての見解は、おそらく欧米から見れば前例にない憲法観だから、観念的に存在することで憲法改定の不可能論も憲法改定の無限界論も防いでいる憲法制定権力との整合性を研究するのに格好の材料かもしれない。

 憲法は、決して曖昧すぎる心の動きや道徳、処世訓を書き連ねるような性質のものであってはならないという「理念」は、現憲法と同程度に、大日本帝国憲法においても明らかに意識されていたと思う。

 こうして見ると、どこかの国家の憲法改定・憲法解釈の変更によって創出された性質のものではない外患のために、憲法において道徳を説くために憲法改定・憲法解釈の変更を考える(第9条を守るべきという道徳と、同盟国を守るために解釈を変えるべきという道徳の、両方を含む)ことは、自明であるがゆえに元より憲法にさえ記述されていない憲法制定権力への重大な挑戦であり、この自明的な権力の一端を明文化したものである現憲法第99条への重大な挑戦であると思う。

 ともかく、先にも述べたように、憲法の実定的意味と向き合う時のバランス感覚は、むしろ現憲法と帝国憲法とにこそ、実は相通じるものがあると私は考えている。現政権による憲法の実定的意味に対する理解には、私自身がむしろ「やや保守的な憲法観を持っている」からこそ、疑問を感じる。

 しかし、いくら憲法第9条の解釈の変更や改定を行おうとも、一方で保護運動を行おうとも、ただ我々が疲れ果てて終わるだけであり、憲法制定権力が最初に信じた第1章が、自らいっそう燦然と輝くことになるのだ。そうなると、現在の改憲派も護憲派も、根本的に天皇主義的ではないかということになる。

 現政権の憲法観による平和よりも現天皇・皇后両陛下の稀に見る温かさによる平和のほうを信じる私としては、日本が中国や北朝鮮と戦うどころか、日本国民どうしが改憲派と護憲派に分かれて喧嘩をしている現状は、不安に感じながらも、爽快にも感じている。
posted by 岩崎純一 at 22:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・宗教論