2014年08月08日

佐世保女子高生殺害事件についての私見 ―「人は、人になったヒトである」ことをとらえ損ね続ける日本の「親切な」精神鑑定の現状(1)―

目次
(1)
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/102240125.html
■世論と精神病理学界の苦悩と迷走、皮肉にもまた始まる
■ヒトとそれ以外の動物、生体と死体の区別が付かない既知の精神障害
■類似の事件についての精神医学界・弁護側と検察・司法の見解の齟齬、および発達障害者の犯罪率の低さ

(2)
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/102240150.html
■「我、ヒトに属す」というヒトのプロトアイデンティティ
■日本の精神鑑定の親切さの問題点
■参考文献



■世論と精神病理学界の苦悩と迷走、皮肉にもまた始まる

 今回の佐世保の事件は、あまりに原理的な問題を孕んでいるし、各精神科医がテレビで発言している内容も様々であるので、ブログに書いてみたいことはあったものの、まだ迂闊に突っ込みすぎた話を書くわけにはいかないという気がしていた。

 加害少女を診ていた精神科医は、少女について「人を殺しかねない」と児童相談所に相談し、父親にも少女の入院を勧めるほどの千里眼を持っていたようである。まだ人を殺してもいない少女を、「人を殺すかもしれない人」扱いとすることは、余程のことがない限り考えられないことであるが、精神科医としての一大決心であったのだろうと思う。

 ところが一方で、事件後、数人の精神科医がこの少女に対して「発達・学習の遅れ」・「発達障害」をメディアで指摘した。こういったことについて、国民一人一人が自分なりの見解を持つことはむしろ重要なことだと思うし、私自身もこれについてどう思うか、事件以来いくつか書いておいた見解を、(あくまでも素人なりに書ける範疇だが)ここに載せておきたいと思う。

 何よりもまず、我々国民がテレビだけを見ていて分かるのは被害少女の個人情報ばかりであり、一方でネット上では、すでに加害少女の実名・写真などが皮肉にも被害少女のそれらとほぼ平等に出回っているが、その件は今は横に置くとする。

 世論の大勢(私を含む)が持っていたような楽観的な想定、つまりは「少女が慕っていた実母の死の直後に、父親が不登校の少女の面倒も見ず再婚を急いだことに対する、少女の不満や寂しさ」が事件の主要動機であるとする想定は、相当に綻びを見せてきたようである。父親の再婚は少女の一人暮らしの開始後であったこと、以前から友人の給食に漂白剤を入れたり動物を殺害したりしていたこと、慕っていたはずの実母をも殺害しようと計画していたこと、あらゆる新事実が、この事件が「純粋殺人(Pure murder)」や「快楽殺人(Lust murder)」であったことを示唆し始めている。

 かろうじて、「加害少女のクラスの中で、この少女だけが一人暮らしであった。家系は近隣随一の名家であった」という特殊な事実だけが、「やはり家庭環境の問題、父親の少女に対する態度の問題も、まだ捨てきれない」という、少年法の精神の延長にある、世論による少女への同情の正当性を担保しているようである。


■ヒトとそれ以外の動物、生体と死体の区別が付かない既知の精神障害

 統合失調症の破瓜型や、最近では単極性障害の下位分類に押し込められているきらいのあるコタール症候群や妄想性人物誤認症候群(解説:http://iwasakijunichi.net/seishin/cotard.html)では、例えば、妻がキッチンで魚を調理している際に、それをヒトを解体しているものと思い込み、妻を悪魔か化け物と信じ、叫びながら止めに入って、そのまま緊急入院したというようなケースがある。「有機体」であることは認識できても、ヒトとその他の動物の区別がつかないケースである。

 また、一時期流行した催眠療法である回復記憶療法において、「抑圧された記憶(Repressed Memory)」の存在を前提として、精神科医やセラピスト、カウンセラーから半ば強制的に過去の被害経験を証言するように要求された解離性障害・PTSDの女性たちが、無意識に「虚偽記憶(False Memory)」を捏造し、ありもしないDV・暴力被害体験を証言し、かえって統合失調症・妄想性障害を発症するケースが多発した。(母親が調理しているのを見て、「私の母親は日々このようにヒトや動物を殺して回っているから、私が母親を殺さなければならない」と確信するなど。)

解離性障害(「偽記憶症候群(FMS)」と偽記憶症候群財団について)
http://iwasakijunichi.net/seishin/kairi.html

 これらの場合、「ヒトとその他の動物(有機体・有機物)との区別がつかない」という病的な誤認・失認は「真性」のものである。ただし、この症状のメカニズムの説明としては、我々一般の人でさえ、稀に心身の調子が悪いときなど何かの拍子に「魚もまた生き物である」などと思い至って、自分で引き起こしたまな板の上の「惨状」に驚愕し、一瞬調理の手が止まるような一過性の事態の延長線上にある、という説明しかなされないこともしばしばであるし、ヒトとそれ以外の動物どころか、生体と死体の区別さえ付かない症状が出るコタール症候群までもが、統合失調症圏の下位分類から大うつ病圏の下位分類に(厄介払いのように)押し込められる傾向にある現在では、なおさらそうである。

 しかしともかく、これだけでは、「なぜヒトを殺しては駄目で、他の動物は殺してよいのか」、「なぜ猫を殺しては駄目で、魚は殺してもよいのか」といった問いに、我々は的確に答えることができない。

 つまり、魚を切り刻む妻を化け物だと思う妄想性障害患者たちと、佐世保の事件を起こした少女との間には、「ヒトかそれ以外の動物かといった有機体の種類・カテゴリの差異によって心因反応や愛着の程度に差が出ない」という点で、何ら区別はないと言える。

 従って、私にとっての最初で最後の関心は、その同質性を破る性質が本事件に見出せるかどうか、この加害少女の性質が、私が出会ってきたこれらの統合失調症・妄想性障害者や解離性障害・PTSD罹患者の持つ、「ヒトがどこまでもヒトであろうとする能動的意志から来る極度の平等主義」であるかどうか、という点である。

 本当にこの少女は、「妻のクッキングにも猫やヒトの解体と同じグロテスクさ」を発見し、「猫やヒトの解体にも妻のクッキングと同じ平然さ」を持つような、刑事責任能力を持ちようがない精神疾患者と、同質であるのだろうか。

 あるいは、「この少女は、社会人である前に現存在としてこの世にハイデガーの言う被投性を持って実存しているヒトの姿に忠実であるだろうか」と言い換えてもよいと思う。

 逆に、このことが本当に言えない限り、つまり、自分の妄想を妄想だと気づかないほどに圧倒的に被投性に従順であるということが言えない限り、刑事責任の一端を加害少女当人(類似の事件の加害少年・少女)が負ったほうがよいと私は考えるし、少年法も徐々に改正していくべきであるとも考える。

【注】 メディアで報道されているような精神病質(サイコパス)は、統合失調症・妄想性障害・大うつ病性障害・コタール症候群などと異なり、精神病理学上は精神障害ではなく、パーソナリティー(人格)障害の下位分類である統合失調型パーソナリティー障害や反社会性パーソナリティー障害の総称であるが、日本の法律上は精神障害であり、担当医科は精神科であって、精神鑑定の結果、統合失調症や精神病質者が刑事責任能力を問われず、パーソナリティー障害者が刑事責任能力を問われる「ダブルスタンダード」を呈している。以下にいくつかの事件について詳細を解説。


■類似の事件についての精神医学界・弁護側と検察・司法の見解の齟齬、および発達障害者の犯罪率の低さ

 一般の定型発達者人口の犯罪率と比較して発達障害者の犯罪率がかなり低いことは、例えば参考文献に挙げた各家裁の生々しい会議議事録からも分かるように、かなり知られてきてはいるが、それはともかく、ここで佐世保の事件と類似する過去の事件の加害少年に対する精神鑑定医の苦悩を見てみたい。

 佐世保の事件の加害少女は16歳であり、父親を殺害しようと金属バットで殴打したこともあったようだが、「16歳」・「金属バット」と聞くと、16歳の少年が実母を金属バットで殴り殺した2000年の山口母親殺害事件を思い出す。類似の事件には、1997年の神戸連続児童殺傷事件もあり、今回のメディアの報道ではこちらしか取り上げられたことがないが、猟奇殺人犯の犯罪精神病理をあれこれと考える衝動を私に引き起こさせる事件という意味では、個人的にはどの事件も重要だと感じる。

 山口の事件を起こした少年は、2006年にも大阪姉妹殺害事件を起こしたが、興味深いのは、このときの裁判で、裁判長は少年を「アスペルガー障害ないし広汎性発達障害である」とする精神鑑定を退けて「人格障害である」とする検察側の主張を採用している点である。人格障害の下位分類として適用されたのは、非(反)社会性人格障害、統合失調症質人格障害であり、これに性的倒錯のうちの性的サディズムが加えられた。

 このときの検察や裁判長の、「猟奇的な純粋殺人を起こした者について、まず発達障害や知的障害を疑うのは不適切であり、パーソナリティーの問題を疑うことによって、少年にも刑事責任能力の一端を負わせるベクトルに時代を向ける」との態度は、普段から発達障害者や知的障害者の面倒を見、一般の定型発達の人々と比較したときの彼らの犯罪率の低さを知っている支援学校関係者や親からは、当時から的確な審判として受け入れられたようである。

 ところが、精神科医は精神科医で、その「一般人口と比べた際の発達障害者の犯罪率の低さ」を知った上で、苦し紛れにこの猟奇殺人犯にも淡々と発達障害を診断したに違いないのである。

 とりあえずは加害少年を守り更生させるという少年法の「精神」、そして精神病理学という(世論から独立独歩する高度で超然とした)自分の畑を本能的に一律に守ろうとするがために、加害少年をとりあえず事件の猟奇性とは無関係に(生来の障害である)発達障害と診断・鑑定することで責任能力を負わせまいとする精神科医たちと、少年法の「形式」は守りつつも、事件の猟奇性そのものや世論の動向の影響を少なからず受けて一定程度の懲罰を考えざるを得ない検察・裁判官との間の齟齬は、こうして醸成されてきたわけである。

 このほか、2006年に起きた渋谷区短大生切断遺体事件の犯人の予備校生についても、精神鑑定において興味深いプロセスが踏まれている。

 鑑定医は、予備校生について「生来のアスペルガー症候群や中学時代の強迫性障害などを基盤とする、犯行時の解離性障害(とりわけ解離性同一性障害ないし多重人格障害)」を指摘し、妹の殺害・遺体解体は逮捕・起訴時の被告の人格とは別の人格が担っていたために責任能力はない旨を結論付け、メディアはこれを利用して発達障害と解離性障害と異常性癖とを結びつける報道をおこなった。

 警察が、起訴時点での被告にそのような性的サディズムや遺体解体趣味が見られなかったと発表したことは、解離性同一性障害説の信憑性をある程度物語っているが、検察側の反応は皮肉で、鑑定医が被告の捜査段階の供述(家庭環境やパーソナリティーの問題から来る性的サディズムの要素が多分に見られる内容)を参照せず独自の問診結果にのみ基づいてアスペルガー症候群を鑑定したことを批判した。

 鑑定医としては当初、捜査段階における被告の後付けの供述を生来の発達障害の鑑定に反映させないことによって、「発達障害者による生まれ持った犯罪性の高さ」という誤った世論を扇動することを防ごうとしたようにも見え、それ自体は犯罪精神病理学的な態度として崇高なものに思えるが、裏を返せば、それが「発達障害を原因とする猟奇殺人犯の責任能力の欠如の仕方なさ」という判断につながったとも言える。

 当然、発達障害児たちを日々見ている支援学校の教員たちには、鑑定医と弁護人の行動は「発達障害と猟奇犯罪の結び付け」ととらえられたし、実際のところ、最もよく発達障害者の一挙一動を知っているこれらの現場のプロの中からは、この予備校生をアスペルガー症候群であると考える者はほとんど出なかった。要するに、アスペルガー症候群ではなかった可能性も残される結果となった。精神科医にとって、発達障害の診断・鑑定が検察・司法権力に対して加害少年を守り抜くためのツールの一つとなっていることも、浮き彫りになった。

 鑑定医も、妹に対する殺害・解体衝動をコントロールする脳機能が「発達障害のために」脆弱であったことが解離性同一性障害の発症と事件発生に影響した、との見解を捨てていない点では、警察・検察・裁判での判決内容と大きくは違ってはいない。しかし、判決は、先の山口のケースと同様に、犯罪の猟奇性を「生来の発達障害」ではなく、(広義の神経症性障害の一種である)「解離性障害」に引き付けて下されており、「(被告は)自身が犯したような行為をしてはならないという認識を十分に持っていた。アスペルガー障害の程度は責任能力に影響を及ぼすものではない。」と明言している。

 こうして、検察側・司法は、被告少年の生来の発達の遅れを責任能力の欠如の口実としない」道を切り開くことになった。

「発達障害者が猟奇犯罪を起こしやすいわけでもなく、また、一旦猟奇犯罪が起きたならば、犯人をまずは発達障害とはせず人格障害や神経症性障害とすることで責任の一端を少年にも負わせる」という器用な技巧が、検察・裁判官のほうに身に付き始めているのは興味深い。

 今回の佐世保の事件についても、ほぼ同様の「迷走」が起きているようである。精神科医の中にも、一定の割合だけ必ず、このような少年少女を見たときに、まず「発達・学習の遅れ」を主張する医師がいるのはなぜだろうか。やはりそこには、殺人現場や昨今の少年少女の持つ底抜けの絶対的苦悩からあまりに遠く離れて超然とせんとする日本の精神鑑定の現状があるのではないだろうか。

 今回の加害少女についても、事件前に「少女が人を殺すかもしれない」と警告した千里眼の精神科医は別にして、もし数人の精神科医が言う通り発達障害が診断されることになるならば、発達障害者に日常的に触れている現場のプロや世論がそれで収まるとは考えがたく、検察・司法がその発達障害の鑑定を退けるか緩和するかしてパーソナリティーの障害に持っていくことで少年の責任能力を認める、というややこしい事態がまた起きるかもしれない。注目である。

 私が述べてみたいのは、精神鑑定医・弁護側と検察・司法権力のどちらが正しいかということではなく、テレビでしか見たことがない加害少年について、テレビよりも中立的な情報が得られるネットを見たことがない精神科医たちが、テレビ向け、アナウンサー・キャスター・コメンテーター向け、あるいは世論向けに「発達の遅れ」や「発達・学習障害」を言っているうちは、過去の精神科医・弁護側と検察・司法の間で展開されてきた泥沼の前例を見る限り、責任能力を一定程度認めるのに都合のよい「加害少年のパーソナリティーの議論」へと簡単に移行する可能性があるだろうということである。


(2)へ続く
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/102240150.html
posted by 岩崎純一 at 21:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 精神疾患関連の文章
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