2015年01月23日

剣を持たずペンで書いてみるだけの私のイスラム観

ToshihikoIzutsu.jpg 宗教・宗教論については、メインブログでもたびたび書いてきているが、昨年の5月15日に、この第二ブログで書いた「井筒俊彦生誕100周年」という記事を今読み返して見たところ、これが一番私のイスラム観の適度な概要の説明にもなっていると感じたので、もう一度自分で自分のイスラム観を確認し直す意味も兼ねて、リンクしておこうと思う。

「井筒俊彦生誕100周年」
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/96590029.html

 当然ながら、日本人の人質二名(後藤健二氏と湯川遥菜氏)の拘束のニュースに関連しての反応として、井筒俊彦や大川周明の著作や自分の記事を読み返してみたわけである。むしろ、こういうときにいつも考えてしまうのは、良し悪しは全く別にして、現地に赴くカメラマンやジャーナリストの関心の対象や自己の脳が欲している自己の行動と、宗教学・宗教論上の思案・思惟そのものに重点を置いてしまう自分のような人間のそれらとが、全く違うのだという点である。それは、敬意と違和感のどちらでもある。

 ところで、イスラム国が目指しているとされる最大版図を見てみると、西はイベリア半島、東はインドやウイグルの居住地域にまで至っているから、過去にイスラム勢力が一度でも征服したことのある土地全てを再征服することが目的のようだ。ナスル朝のグラナダ陥落によるレコンキスタ終結以前およびムガル帝国以前を版図の理想とし、いわゆるイギリスの「三枚舌外交」以前のオスマン帝国を統治体制の理想としているようである。

 もっとも、昨年の私の記事は非常に言語論寄りで、イスラム教徒の自己そのものやクルアーン・アラビア語そのものに対する日本人としての思惟の態度を示したものである。井筒俊彦の「言語アラヤ識」や大川周明の洞察眼とチョムスキーの「生成文法理論」との比較を主に書いていて、その上で、彼ら賢明な日本人が「SAE(Standard Average European=標準平均欧州言語)に基づく従来の優勢学的言語学」への反骨精神をクルアーン・アラビア語の中に見たという「予感」を、私自身が彼らの著作やクルアーンから感じたということを述べたものである。

 私が、昨今の日本の店頭に並ぶビジネスマン向けの仏教書が語る仏教よりも、井筒俊彦や大川周明のイスラム観、あるいは彼らが出会ったイスラム教そのものを、自分の多神教的・仏教的あるいは神道的実存の仕方に近いものだと解釈する(いや、感じ取っている)態度は、決して偶然の産物ではなく、多分に論理的で平和的な態度であるという自負を、最近のイスラム過激派勢力の動向を見ていて改めて持った。

 それにしても、井筒俊彦の愛弟子である五十嵐一氏が殺害された悪魔の詩訳者殺人事件のことが、今また個人的に気になっている。


■画像出典

井筒俊彦(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E7%AD%92%E4%BF%8A%E5%BD%A6
posted by 岩崎純一 at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・宗教論
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