2015年02月12日

ISIS(イスラム国)の斬首・焼殺動画とバタイユ的エロティシズム

目次
■「あなたはISIS(イスラム国)の惨殺動画を見ましたか?」
■バタイユの『エロスの涙』や映画『カリギュラ』、エログロナンセンスに見るサディズム・マゾヒズムと恍惚の同根性
■死者の亡霊への恐れおののきから来る責任回避の心理
■エログロ・SM雑誌を見ながらリストカットをする解離性障害・境界性パーソナリティー障害者の心理
■エロティシズム・グロテスク様式美のないISISの動画、そして昨今の国内の殺人事件
■関連ページ・ブログ記事
■画像出典


■「あなたはISIS(イスラム国)の惨殺動画を見ましたか?」

 最近は、ISIS(イスラム国)による惨殺動画を授業で使う小中学校の教師がおり、問題になっているようである。

 その是非についての感想は結末で述べるとして、ともかく、見たくない子供たちはもちろん「見ろ」と言われる必要などないし、一方で、逆にこの動画がこうして話題になったがために、「見るな」と親から言われて余計に見たくなった子供たち、特に男子たちの間では、映画『カリギュラ』で知られるところのカリギュラ効果が発生し、親に内緒でインターネットの使用などによって動画が閲覧されていることだろう。

 時々、ISIS(イスラム国)による斬首動画や焼殺動画を見ていない、あるいは見たくないという人から、「純一さんは見ました? どんな動画でした?」と恐る恐る内容を聞かれることがある。聞いてくるのは、ごく一般の健康な大人である。私だって、もし自分が見ていなかったならば、好奇心から人にそう尋ねたかもしれない。

 一見すると、いかにも動画を見そうな知人である私に対する、ただの好奇心による他意のない質問に思えるので、いかにもテレビのコメンテーター気取りに「ああ、残忍だよ」などと答えているのだが、あとでよくよくその質問と好奇心とを思い返してみるに、だんだんと手に汗がにじむことがある。

 ここに書くことは、我々日本人の潜在意識、戦後の死生観・霊魂観・美意識の変容や大衆心理といったことと関連するかもしれない。そして私自身も、日常生活の中で他人に対してそのような態度で接している可能性がある「平和ボケした無血テロリスト」たる日本人の一人ではないかと自省してみるのである。

 大学のときはニーチェばかり読みあさり、今では、西洋絵画一つを取ってもモローやシャヴァンヌやデルボーやルドンなど陰鬱でグロテスクな唯美主義・象徴主義ばかり追っていたり、DV・性暴力・虐待被害を受けて自殺未遂・リストカットを繰り返す方々と交流して一緒に泣いたりと、極めてグロテスク耐性の高い私でさえ、何に身震いするのかをつくづく考えている。

 私は、自省のために、もっと言えば内省・内観のために、あるいは、ISISの動画が私自身にとって崇高なエロティシズムが欠落した単なる惨殺動画であることを確認するために、某アラブの反ISISサイトにて、ISISの惨殺動画を見続けていると言える。


215px-Caligulaposter.jpg■バタイユの『エロスの涙』や映画『カリギュラ』、エログロナンセンスにに見るサディズム・マゾヒズムと恍惚の同根性

 ジョルジュ・バタイユは『エロスの涙』の中で、中国に残る公開処刑において、処刑人・見物人たちだけでなく、被処刑人自身が同様に恍惚の表情を浮かべる場合があることを記録している。西洋列強がこれを残虐だとして廃止させようとしたわけだが、もし本当に被処刑人が恍惚を感じていたなら、つまり、この処刑そのものが処刑人・見物人・被処刑人の全員によって創られたある種のスペクタクル・作品であったなら、それは処刑と呼んでよいものではなく、罪人を処罰するという近代精神そのものによる解釈が介在し得ないことになる。

 映画『カリギュラ』では、首だけを地面から出した被処刑人たちが巨大な斬首マシンによって処刑されていくシーン、それをカリギュラが笑いながら見るシーン、男女の乱交シーン、裸の女性たちがハチャメチャにはしゃぐレズ・マスターベーションシーンが絡み合う。

 映画『サロン・キティ』では、どす黒いハーケンクロイツ(卍の印)のナチスの旗の前に、エログロ全開の女たちがズラッと立ち並ぶ。

220px-Salon_Kitty_(film).jpg こういった悪趣味への憧れは、悪趣味というよりは、古代から現在に至るまで、人間の本能そのものなのだろう。

 日本においても、かつてエログロナンセンスが流行したものである。私が生まれる前の話だが。谷崎潤一郎がその嚆矢かもしれないが、『金閣寺』を書いた三島由紀夫に至っては、人体ばかりか「ただの金ピカの」建造物でさえ、絶対美・エログロ・嫉妬の対象なのであった。三島の中では、天照大神(アマテラスオホミカミ)と絶対美とエログロとザドマゾと天皇と自衛隊の全てが、分子の共有結合のように不可分のものだった。世俗の凡人たる大衆とは、世に落ちている「素材」の組み合わせ方・コンテクストが全く違っているのである。元より悪趣味な私としては、三島の「気分」については非常に親近感を覚える。


■死者の亡霊への恐れおののきから来る責任回避の心理

 ISISの動画の話に戻る。本来、惨殺動画を見たくないという人は、他人に対しても閲覧体験や内容を(学術目的以外に日常会話で)尋ねない、あるいは動画の内容をできれば知ってはおきたいという夢想さえも捨てる、均衡のとれた姿勢を貫くべきだとも言えるはずである。

 なぜなら、純粋に宗教学的・社会学的・民俗学的な観点から真摯に覚悟を決めて閲覧した人にとって、すなわち、ISISの思想への共鳴の結果や犯罪などへの悪用目的で閲覧したわけではない人にとって、その内容は質問者に「見てもらわなければ」即答できるような楽観的なものではないからであり、かつ即答できるような楽観的な内容ではないだろうと質問者が最初から了解しているがために「見たくない」のであろうからである。

 ここにおいて、「見たくない」と言いつつ他人に内容を尋ねる行為は、本来は自らが体験すべき(閲覧すべき)心的外傷的・急性ストレス障害的な悲劇体験を他者の身に降りかからせておき、そこから生産された果実(情報)を享受する点において、一般住民や民間人を殺害しつつ自己を正当化するISISに潜在意識的にはうっすらと共鳴的であり、覚悟を決めて動画を閲覧した人と少しの差異もなく原罪的で、抑えがたい残虐性やリビドー・性衝動を表明しているのではないかという視点が立ち上がってきてもよいはずである。

 このような我々の好奇心のあり方を「無血テロリズム」と名付けてみるとする。文字通り、血は流さず、傷も残さないのだが・・・しかし、全てを見抜いている被処刑人の亡霊は、このような我々日本人にも取り憑くのではないかという気がしてくる。

 数日前から、ISISがヨルダンのムアズ・カサースベ中尉を焼殺する前に鎮静剤を大量に飲ませていた可能性があるという指摘が、欧米の医学者たちから出ている。もしこれが、「自分たちにもこれだけの慈悲深さがあるのだ、アッラーよ」という、惨殺後に襲ってくるかもしれない「アッラーのたたり」への一抹の不安からくる口実であるならば、例えば、1988年に起きた女子高生コンクリート詰め殺人事件で、犯人らが女子高生の亡霊を恐れ、女子高生が生前に見たがっていたビデオをわざわざ借りてきて一緒にドラム缶に放り込んだ事例と似ている。

 そして、このような「亡霊への恐れおののき」を根底に持つ、「自分では汚く醜いものを見ようとしないが、見た者には好奇心で尋ねたがる性質」は、我々日本人において珍しくないものであると感じる。そもそも、日本のマスメディア、とりわけ新聞とテレビが、戦後の民主主義そのものが、そういう構造をしていると私は思う。

 本当は、動画(というよりも、惨殺の手法や光景そのもの)にうっすらと興味があり、自分が動画を見てしまったら、少なくとも心の内ではある種のマスターベーションをしてしまうことに気づいているがために、「死者の亡霊」が取り憑く気がしてあえて見ていない日本人も少なくないのではないだろうか。

 これは、「私だけは亡霊の怨みを買うようなことをしていないと思いたい心」、あるいは「死への恐れ」そのものと深く関わっているはずである。

 そういえば、東日本大震災が起きてから私は、早急な経済復興ばかりではなく、この荒廃した光景、生命が一挙に頓挫した殺風景を味わう半ば退廃的で鬱病的なエロティシズムこそ重要であり、それは被災者を軽視するどころか弔うことになるという旨のブログ記事を、藤原定家の「見渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」の歌に仮託して書いたのだった。(下掲の関連ブログ参照)


■エログロ・SM雑誌を見ながらリストカットをする解離性障害・境界性パーソナリティー障害者の心理

 サイトの精神疾患のページに掲載はしていないが、かつてサイトの同コンテンツを通じて、エログロ・SM雑誌を見ながらのリストカットがやめられないという解離性障害・境界性パーソナリティー障害の女性の話を聞く機会を得た。

 もっともその裏には、児童期の虐待や性暴力、親の愛情不足などが典型的要因としてあるため、話を聞く側も正気ではいられない。

 しかし、おかげで『奇譚クラブ』や『風俗奇譚』などのカストリ雑誌の知識を得ることとなった。それにしても、共感覚の公表以来、色々な世界に迷い込んだものだ。だが、これは収穫である。

 時々、ある知人の解離性障害者が殺人願望を口にすることがある。「どうして魚は殺していいのに、人は殺しちゃいけないんだろうね。実行はしないけど・・・人を殺す前に、自殺しようと思う」

 私はそれを、ブログにも論じた佐世保女子高生殺害事件と比較している。私にとっては、やはりこの女性の殺人発言のほうが、ニーチェ的・バタイユ的均衡、殺しそうでありつつ殺さないところで止まるエロス的均衡を保っており、佐世保事件のほうは、ブログで「発達障害診断批判」の観点から緻密に分析したように、計算高い近代殺人の可能性を多少は残しているように思えている。(下掲の関連ブログ参照)

「自分は死体である」、「藤野一友の描くような女になって切り刻まれたい」などと主張するコタール症候群患者(下掲の関連ページ参照)の女性にも、話を伺ったことがある。

 私にとっては、これらの精神疾患者の残酷さと、ISISの残酷さとは、どこか違っている。今私は、前者のほうをエロティシズムと名付け、後者をただの国際犯罪と名付けたい。

 このほかに私が見たバタイユ的・『エロスの涙』的な恍惚の光景は、ある中規模神社の巫女たちが自分たちの勤めるその神社に内緒で作る和歌の会における、いわば「エログロ・レズ・マスターベーション歌会」だった。このことについては、以前、少しためらい気味に、「女性の集団ヒステリー」という違った角度から憑依障害や転換性障害などの一種と見て、ブログに書いたことがある。(下掲の関連ブログ参照)

 このエロティシズムもまた、テレビで見かける一部のタレントの世俗的同性愛とは全く異質の、異性愛の変型であり、世俗から超絶しているように思えた。

 厳密には、いわゆる「マスターベーション」と言えるようなものではないが、和歌を詠むにあたり、いちいち自分が月経中か否か、性器の状態がどうか、差し当たり性愛的気分か否かにこだわるので、こちらの頭が痛くなりそうな気分なのであった。しかし私は、嫌悪感どころか親近感を覚えた。あるいは、これに私は嫉妬した。

 もっとも、もう少し「小綺麗な」話から言えば、和歌関連の交流のプロセスで、内掌典経験者の女性や旧官幣・国幣社の巫女経験者にも出会ってきたし、それはそれで大変に美しく、特に以下に挙げた和歌関連のブログ記事にそのことは書いてきた。これらの世界も、月経中の一挙一動、手指の動作までもが制限され、旧暦で生活するなど、我々の俗なる社会からは半ば信じがたい世界であることを知ったが、私としては、それでも心のどこかで、やはりその文化習俗は戦後日本の現代民主主義社会の悪しき部分に侵されている気がしていた。これらの世界でさえ、性的儀式、エログロ的儀式、サドマゾ的儀式は排除されつつある。

 私はそれよりも、戦後日本の現代民主主義社会そのものから超絶し、エログロ側・サドマゾ側にスライドしており、かつ昨今のセクハラや痴漢や児童虐待や殺人事件からも超絶し、それらを無言で見下すほどの崇高なエロスに基づく文化習俗を知りたかったから、上記の体験は、自分自身の共感覚の探究に始まるライフワークにとっての、一つのゴールであった。

 ニーチェは、性行為は殺人的であると言った。バタイユも、エロティシズムは有限な個においてしか現れないと言った。エログロ巫女たちのほうの儀式は、有限な個としての自己を真っ正面から受け止める殺人的エロスであった点において、突き抜けた美と言えると考えると私は感じた。

 それは、「極端な生き姿」でありながら、一歩間違えばお互いに殺し合いが始まるのではないかと思わせる「ある種の死に姿」でもある点で、ニーチェやバタイユが書き遺したエロティシズムそのものであった。


■エロティシズム・グロテスク様式美のないISISの動画、そして昨今の国内の殺人事件

 ISISの動画を見続ける中で感じたことは、その凄惨さに対する嫌悪感以上に、殺人行為そのものに何の凄惨さも絶対美も退廃も醜さもイスラム教も古代も近代も込めることに成功していないのではないかということだ。

 その原因はただ一点で、斬首したジェームズ・フォーリー氏や後藤健二氏、焼殺したヨルダンのムアズ・カサースベ中尉との間に何の「エロス的契約」も結んでいないという点に尽きると思う。この殺人動画がグロテスク・スペクタクルでないということは、ある意味では、それを平然と閲覧する姿勢は反テロリズム的姿勢であり、一方で、閲覧者がそこにグロテスクさを見出すことは彼らにとってエロス的成功なのかもしれない。

 我らこそが一神教たるイスラム教の権化と主張しているはずのISISの一連の殺害行為の最大の原罪的な誤謬は、被処刑人であるジェームズ・フォーリー氏や後藤健二氏、カサースベ中尉が恍惚を要求していないにもかかわらず、それを分かって殺害するほどの計算高い知性が実はある点、すなわち殺害者と被殺害者の相互のエロス的要求が不均衡であるという点ではないだろうか。

 ISISの行為、あるいは国内の様々な殺人事件は、殺人・エログロ・サドマゾそのものの善悪というよりは、執行者と被執行者との阿吽の呼吸の有無、事前の美的要求の均衡の確認の有無によって、断罪されるべきではないだろうか。

 言い換えれば、ISISによってあのオレンジ色の服を期せられた被処刑人は、もはや一点の恍惚を『エロスの涙』の被処刑人のように見出す以外に、最期を耐え切るすべがなかった。すなわち、私もサイトの解離性障害のページで解説しているようなストックホルム症候群を被処刑人らが引き起こすこと、ISIS戦闘員とエロス的同化をおこなうことによってしか、耐えられなかったはずである。ISISの残忍さとは、そのような残忍さとして語られるべきものではないかと私は思っている。

 ISIS(イスラム国)による惨殺動画を授業で使う小中学校の教師がおり、問題になっている旨を冒頭に書いたが、これを止めたほうがよいと思う理由も、教師が児童・生徒にエロス的同化の準備時間を与えないからである。

 あくまでもここでの視点は、教師(処刑人としての教育者)と児童・生徒(被処刑人としての被教育者)との間にエロス的同化が生じるか否かの確認であって、殺人そのものが善か悪かとか、映像を見ることが子供の精神に悪影響を与えてPTSDや犯罪を誘発するか否かといったことは、全く問題にならない。

 全ての教師が、おふざけで見せたのではなく、大まじめに取り上げたものと思いたいが、いずれにせよ、ほとんどのケースで教育効果と呼べるようなものは見られず、いわば教師のマスターベーションと呼べるような事態として終わるのではないかと思う。こういったことも踏まえて、ISISの動画とエロスについて今後も考察したい。

 ある意味では、先述の質問をしてしまいがちな我々の潜在意識にあるうっすらとしたテロリズムへの好奇心こそ、動画を見るということによってしか振り落とされ浄化されず、あるいは急性ストレス障害やPTSDに陥ることによってしか自分自身に気づかれないものであるのかもしれない。

 アメリカの原爆が「極めて緻密に計算されたアメリカの近代知性」によって「マゾヒズム的恍惚を要求しているわけではない広島・長崎市民」に投下されたものであるように、実は、ISISも、そして先ほどの質問を発する平和な我々日本国民自身も、本当は皆同じ穴の狢だと言えるのかもしれない。それがために、私の身震いも生じるのかもしれない。


■関連ページ・ブログ記事

●コタール症候群
http://iwasakijunichi.net/seishin/cotard.html

●解離性障害
http://iwasakijunichi.net/seishin/kairi.html

●女性の集団ヒステリーを考える
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/71190712.html

●佐世保女子高生殺害事件についての私見 ―「人は、人になったヒトである」ことをとらえ損ね続ける日本の「親切な」精神鑑定の現状(1)―
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/102240125.html

●佐世保女子高生殺害事件についての私見 ―「人は、人になったヒトである」ことをとらえ損ね続ける日本の「親切な」精神鑑定の現状(2)―
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/102240150.html

●巫女・陰陽師と解離・離人・憑依などとの関係
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/78118363.html

●現代の巫女と一般女性とに共通する潜在的古代的共感覚について
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/46343132.html

●私の和歌人生史、平成日本における伝統和歌の現状(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/50386486.html

●私の和歌人生史、平成日本における伝統和歌の現状(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/50713456.html

●東日本大震災と宮沢賢治の自然観について(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/46752749.html

●東日本大震災と宮沢賢治の自然観について(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/46935386.html

●今後の日本史の教科書に書いてほしいこと「東北縄文時代から東日本大震災へ」
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/47050302.html

●「秋の夕暮」的退廃美に見る「大自然本位」の震災復興の鍵(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/47210860.html

●「秋の夕暮」的退廃美に見る「大自然本位」の震災復興の鍵(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/47410388.html


■画像出典
http://en.wikipedia.org/wiki/Caligula_%28film%29
http://en.wikipedia.org/wiki/Salon_Kitty_%28film%29
posted by 岩崎純一 at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・宗教論
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