2016年03月26日

乙武洋匡氏、他の先天性四肢欠損症者、コタール症候群女性(胴体・生殖器欠落妄想)の身体感覚・性衝動・生き方の比較・考察

 乙武洋匡氏の不倫騒動とショーンK氏の学歴詐称問題とで巷が忙しいが、今のところ、私の周囲でもネット上でも、女性においては「ショーンK氏は許すけれど、乙武氏は許さない」という意見が多いようである。こういうとき私は、「なぜそういう意見になるのか」と考えるよりも前に、「女性の第一直観は大抵当たっている」と考えるようにしている。むしろ、当たっていそうな恐怖を覚える。そう考えてみれば、色々と考察が深まるというものである。

 ところで、国民の本音が最もよく表れるネット上の書き込みによれば、国民(男女問わず)が一番知りたがっているのは、不倫の善悪よりは、乙武氏の教育者・父親・障害者の人権活動家としての資質の適合性の有無であり、さらにそれ以上に、(個々人で勝手に答えを夢想しながら)「乙武氏はどうやって服を脱いでベッドに上がったのか」とか、「電動車椅子からは当然降りたのだろう」とか、「乙武氏と相手の女性陣は、性行為の際に何をどうしてどうなったのか」ということのようである。

 そこで、以下の図や資料を用いながら、「目に見えないからこそ勘違いしやすい、障害者の身体感覚・性衝動・生き方」について考えてみたい。

ASURA_Kohfukuji.jpg20160326cotard.png

↑ 今回比較する、乙武洋匡氏(先天性四肢欠損症)と妄想性障害女性(胴体・生殖器欠落妄想)の「事実上の」身体感覚の模式図

乙武洋匡氏の医学的現状・・・
 頭部・胴体・生殖器があるが、四肢がない。性衝動があり、それを性倫理を逸脱して押し通すだけの万能的「自己」が確認できる。著作やネット、各メディアでの氏の言動には、自身の外性器の大きさや生殖機能を自慢する表現が散見される。他の先天性四肢欠損症者と同様、当然自力では性行動を行えないため、妻の力は借りるが、他にも5人以上の女性の手足を自らのもののごとく扱える環境で生活している。(氏自身によれば、少なくとも5人の不倫相手がいる。)

今回挙げる数人の妄想性障害女性たち(図と資料の6番に該当)の医学的現状・・・
 欠損している身体部位はないにもかかわらず、「自分には、頭部・四肢はあるが、(性的暴行被害を受けた)胴体・生殖器はなく(消え)、頭部・四肢が宙に浮いている」と訴える。性衝動はあるが、それに対応する性行動を忘却している。自身の性衝動を恨み、性倫理を逸脱して性衝動を押し通す異性に強い抵抗感を覚えて涙を流す虚無的「自己」が確認できる。著しい処女回帰願望や希死念慮を示す。


●自己意識の減失・解体・分裂などを特徴とする精神疾患女性に見られる鋭敏な共感覚について(私の講話などで用いたテキスト)
http://iwasakijunichi.net/koen/koen110619.pdf

●コタール症候群・妄想性人物誤認症候群(私のサイト内の解説ページ)
http://iwasakijunichi.net/seishin/cotard.html


 単純に見れば、乙武氏は今現在、日本の先天性四肢欠損症やテトラ・アメリア症候群の男性の中で、最も高い知名度と豊富な性経験と(女性との)人脈とを持っている人物であると言える。氏自身が暴露したところによれば、女性の四肢が少なくとも「一人4本×女性6人(妻と氏が暴露した不倫相手5人)」の計24本も周囲にある環境で生きてきたのだから、もはや障害者特有の不満・不便を感じるほうが困難な人生だろう。

 我々一般の「五体満足」の定型男性は、乙武氏を、一般男性をも越え、煩悩を押し通して多数の手足を獲得した「五体過剰満足」の阿修羅だと見るのが筋なのかもしれない。そして、非正規で懸命にあくせく働くばかりで結婚できない未婚男性のほうが、もはや手足がなく、本当に救われるべき人生と言うべきなのかもしれない。文字通り、「手も足も出ない」晩婚・未婚化社会の到来だ。

 先天性四肢欠損症で有名な方には、佐野有美さんやニック・ブイヂ氏がいらっしゃるが、ともかく、先天性四肢欠損症者にも老若男女様々いるのであり、全員が同じ性格であるわけがなく、手足がなくて不倫する人は手足があっても不倫するのである。

 Twitterなどのネットを含めたメディアでの乙武氏の言動には、自らの性器の大きさや生殖機能を薄々自慢する表現が散見される。不倫も、その「万能感創造人生」の上にあるのだろう。たとえそれが、先天性四肢欠損症についてのコンプレックスの裏返しであったとしても、氏のような生き方を選んでいない先天性四肢欠損症の男性たちの存在を、氏は知らないか、知っていても見て見ぬふりをしてきたのかもしれない。

 ニック・ブイヂ氏は、日本人女性と結婚し、二児をもうけている。聖書に助けられ、キリスト教伝道師となった。乙武氏にとっては、頭の痛い例だろう。それ以前に、仏典や聖書や宗教心と「障害を乗り越える怒涛の努力や気骨」とがどうして関係しうるのか、などについての思考そのものが存在している痕跡が、乙武氏の著述や言動には見当たらない。乙武氏は、そういうことに全く興味がない人なのだろう。

「本当に怒涛の努力をしている」先天性四肢欠損症の方々の話を聞いていると、女性の場合は、自力での性的欲求の発露・解消の機会を奪われていることよりも恋愛・結婚できない(男性から振り向いてもらえない)ことのほうを悲しんだり恐怖している一方で、男性の場合は、自力での性的欲求の発露・解消の機会を奪われていること自体に怒りを感じたり絶望しているケースが多い。これらは、もし我々「五体満足」の人間が四肢を失った場合に露骨に現れ出るであろう、我々自身の生物としての本音と実態なのである。

 その意味においては、乙武氏はおそらく、日本で最もこのような絶望体験からほど遠い先天性四肢欠損症の男性であり、恋人ばかりか妻がそばにおり、妻ばかりか少なくとも5人以上の愛人女性がそばにいるというから、あの『五体不満足』ブーム以降、日本の他の先天性四肢欠損症の男性の生き方や価値観との相違には、天と地の差が生じていたと思われる。氏はついに、多手・多足の人間となった。その結果が、今の状況なのだろう。

 乙武氏は、我が子のみならず他の児童に教育と称して自身のトイレの処理をさせてきたほか、レストランでも店員が入り口まで降りてきて自身の世話をすべきだとの主張を持っているわけで、その根底には、自身の性衝動(リビドー)と性処理問題の精神的・身体的な不始末があり、それが周囲の人々との摩擦を引き起こしている点で、氏には極めて古いタイプのフロイトの防衛機制の失敗が散見される。それは、著作やTwitterからも見て取れる。小学校の児童に対する道徳教育に使えないのはもちろん、大学や精神医学のレベルにおいても、その初歩的な行動パターンが学術的意義を持つとは到底考えられないと、私ならば感じる。

 無論、この私の見解は、「手足には性欲が宿らない」とか「性欲は脳が支配する」というペンフィールド並みの身体部位の機能分化論を前提している見解である。ただし、これは大まかに見れば正しい。基本的に、四肢の有無によって間脳視床下部などのはたらきや性的欲求の強度が異なるとの海外報告も見たことがない。

 一方で、手足があって外性器だけを切り取った場合には、違うことが起きる。男性の場合は、睾丸を残して陰茎だけを去勢した場合でも、女々しく柔和な性格になるかと思いきや、凶暴な性格になることが確認される。

「男のリビドーの安定は、脳と陰茎と睾丸との適切な関係に宿る。」

 これは、人体実験ができるわけがないので、歴史を証人とするほかないわけだが、中国やイスラム国家の宦官をはじめ、その圧倒的な暴政ぶりを見ても分かる。

 ところで、四肢があって五体満足であるのに四肢がないと感じられる症状や、四肢がないのに四肢があると感じられる「幻肢」などの症状は、共感覚研究などでも知られるヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン氏らによって研究されている。「幻肢」の多くは、元々持っていた四肢が交通事故などで失われた場合に起きる。事実、先天性四肢欠損症である乙武氏の著述や言動からは、氏に「幻肢」がないことが伺われるし、そもそも氏にとっては、身体障害者である自分の人権の向上が関心の全てであって、「幻肢」の苦しみといった、世にいくらでも転がっている内面的テーマそのものへの関心は観察されない。

 ならば、性器があるのに性器がないと感じられたり、自ら性器を切り取りたいと渇望したり、自身の性欲を恨んだりするケースは、性被害を負ったPTSDや解離性障害、不安障害、強迫性障害の女性たちに偏って見られる。

 このうち、最も重症なのが、コタール症候群 (Cotard delusion)、カプグラ症候群 (Capgras delusion)、フレゴリ妄想 (フレゴリの錯覚・Fregoli delusion)、相互変身症候群 (Intermetamorphosis)、自己分身症候群 (Syndrome of subjective doubles)などと名づけられている一連の妄想性の症候群で、日本においては、一括に「気分障害」の「単極性障害」、つまり「うつ病」として診断されることが多い。海外においては、妄想性障害、つまり統合失調症圏の症状であると見なされるケースも多い。コタール症候群以外は、妄想性人物誤認症候群とまとめられることもある。

 これらの妄想性障害については、以前、私がこれらを抱える女性たちと直接話をして、一気に知識が得られた。

 女性たちが訴えている妄想の例は、冒頭に挙げた資料やページの解説の通りである。以下に引用しておく。強迫性障害のように、妄想であるとの自覚がありながらやめられないケースもあれば、妄想かどうかを尋ねてきたり、妄想ではないと確信しているケースもある。

 ある女性は、突然「私の体の真ん中が消えたので助けてほしい」、「私は、手足だけが浮いて動いている」と訴えたが、これも、性被害によって極度の複雑性PTSDが妄想性障害を併発した例である。いわば、頭部を除き、乙武氏や佐野有美さんにない身体部位があって、氏らにある身体部位がない状態を、本人が自覚しているということである。この女性は今、元々腕がないのにあると感じて苦しんでいる「幻肢」の女性と仲良くしている。どうして気が合うのかが、私には分かる。


▼私が交流してきた日本の性被害女性(精神病性障害・妄想性障害を発症)に特徴的なコタール症候群の妄想

「私はすでに死んでいる」
「私はまだ生まれていない」
「私には性器・胸部・口唇部が存在しない」=性的被害に遭った部位を脳が無視
「私の頭や体は、それらの部位を虐待で殴打されたときに消滅した」=虐待被害に遭った部位を脳が無視
「私はこの苦悩のまま永遠に生き続けなければならない(いかなる方法によっても死ぬことができない)」(不死妄想)

▼私が交流してきた日本のの性被害女性(精神病性障害・妄想性障害を発症)に特徴的な妄想性人物誤認症候群の妄想

「本物の私はどこかに別に存在する」
「私の家族は替え玉で、同じ顔をした本物の家族はすでに死んでいる」
「私の部屋にあるぬいぐるみは、昔捨てたぬいぐるみの生まれ変わりで、私を呪うためにやって来た」
「私のかっこいいパートナーは、自分をだます(恋に落とす)ために宇宙軍から送り込まれた男で、同じ顔をした本物のパートナーは別の場所にいる」
「私の性器・胸部・口唇部は常に新品で、性的被害を受けたりパートナーに接触されたりして古びるたびに、性器製造工場などから新品が供給されている」


 一方、乙武氏の場合、「四肢がないこと自体の苦しみ」がほとんど観察されない一方で、「“四肢がないこと自体の苦しみがあるかのような自己を作っている自己”を見抜いている世論への不満の爆発」が自身の性衝動(しかも、満たされない性衝動ではなく、不当に満たされているはずの性衝動)についての処理能力の欠如に根ざしている点で、私個人から見ると、氏の障害者観や男女観には感動を覚えないし、ベルクソンの言う「生の躍動」としての「エラン・ヴィタール」も全く感じない。

 私は『五体不満足』も読んだし、最近の乙武氏の思想や行動もずっと追ってきた。しかし、今述べた「幻肢」体験者やコタール症候群を抱える性被害女性から学んだようなことは、氏からは学べなかった。性被害女性への支援を謳っているNPOの女性幹部たちからも学べなかった。私のように、助けたい「障害者」と助ける気が起きない「障害者」とがはっきりしている人間も少ないのだろう。ただし、それは冷酷な仕打ちではなく、むしろ適切な優しさであると確信している。

「ショーンK氏は許すけれど、乙武氏は許さない」という女性たちの意見は、以上のことを本能的・直観的に踏まえた上での意見であろうというのが、私の見解である。

 一つだけ分かることは、乙武氏は今回述べたような女性を好まないか、性欲の対象としてしか見ないかもしれないし(乙武氏と違って、ほぼ皆全身のパーツがそろっているのだし)、逆に、これらの女性たちは乙武氏のような男性に強い抵抗感を示し、道を誤った阿修羅の姿を見るだろうということである。


【画像出典】
●阿修羅
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BF%AE%E7%BE%85
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