2014年05月15日

井筒俊彦生誕100周年

ToshihikoIzutsu.jpg 5月11日に池袋のジュンク堂に行ったら、井筒俊彦生誕100年記念フェアをやっていて、井筒俊彦の誕生日が今頃(5月4日)だというのを思い出した。こういうときに「灯台下暗し」と言うのかどうか知らないが、普段読んでいるのに誕生日を思い出せない哲学者は結構いる。

 しかも、どういう奇妙な運の巡り合わせか、11日は、井筒俊彦の『意識と本質』を人に貸すために、夕方に家から持ち出す予定だったので、余計に驚いた。日本語の歴史的変遷を知る上で読んでおいた方がよい本を求められたので、せっかくならと、自分の蔵書から、金田一京助の『日本語の変遷』などの日本語学関連の本や『古今集』などの和歌関連の本とともに、何冊か持ち出した哲学書のうちの一冊であった。最近の学者だと、新形信和の『日本人の〈わたし〉を求めて―比較文化論のすすめ』などが好きだが、こちらも貸し出した。

 ジュンク堂の井筒俊彦の本のすぐ隣には、必定、大川周明の本も並べられていた。私の個人的な井筒哲学への入り方としては、禅・唯識・言語アラヤ識の側面が最初であったが、イスラム思想の側面からも、二十代に入って様々な宗教学書と並行して読み始めた。

「側面」と言っても、コインの裏表であることは間違いない。アメリカ同時多発テロが起きたのは十代の終わりだったが、その頃はニーチェやハイデガーを読んでいた時期だったので、宗教学をそこまで真剣にやっていたわけではない。

 それにしても、井筒の言語アラヤ識を理解するためには、唯識や華厳、例えば、鎌田茂雄の『華厳の思想』などを前もって読んでおくのも手かもしれない。というより、そういった別の仏教書や哲学書、言語学書を注釈書として設定するのがよい読み方だと思う。

 ところで、チョムスキーの生成文法理論における普遍文法の東洋的実存版とも言える言語アラヤ識ではあると思うけれども、言語アラヤ識への「無意識の意識」は、そのままサピアが批判的に名づけたSAE(Standard Average European=標準平均欧州言語)に基づく従来の優勢学的言語学からも超然とした、いわば涅槃的境地でもあるのだから、一度井筒哲学を自分の言語観に著しく引きつけて読んでしまった私のような人間には、どうしても生成文法理論への興味が自分の実存・生き方・人生や気持ち・感情とは切り離されたものになる。

 チョムスキー階層における終端・非終端記号による生成規則のままでは、SAEはなお、まさに標準平均的なSAEであり続け、日本語を含む東洋言語や世界中の滅亡寸前の少数民族言語に対して世界標準平均的に君臨しうると思う。井筒の言語アラヤ識においてはそのような態度がほとんど消失しており、そこに真の深みがあると個人的には考えている。

 そもそもSAEの優越に対する批判精神が言語アラヤ識そのものであるし、それをイスラム教圏・クルアーン・アラビア語にまで広げてとらえた井筒俊彦という男の心優しさに私は惹かれてきたわけで、その原点は今でも忘れたくないと考えている。

 今現在の私は、こうして自分のサイトをHTMLで記述したり、先日のようにプログラミング言語のJavaScriptによる共感覚ゲームをサイトに載せたりしているけれども、今や自分の中ではチョムスキーの普遍文法への興味は、私の中ではそういう作業において参照するものになってしまっている。

 すなわち、チョムスキーの言う(仮想する)「普遍文法」が、私の中で、「世界中の人々の心に当てはまる」ものどころか、むしろチューリング完全なプログラミング言語・形式言語の学問的追究のための道具・ネタになってしまっているというのが実状である。

 もしかしたらチョムスキーの思想もそういうものではないのかもしれないが、井筒俊彦や大川周明の思想を知った後では、なかなか後戻りすることが難しいのも事実である。

 そこから、「プログラミング言語の文法は常にSAE的であり、SAEの文法は常にプログラミング言語的である。一方、クルアーンのみならず、そもそも旧約・新約聖書でさえ、普遍文法の文脈で読解することなど不可能であり、多分に言語アラヤ識において体得されるべきものである」という私自身の考えも出てきたのだ。

 さて、そこで井筒哲学のイスラム教研究の側面だが、大川周明と同時並行して読むと、いかにイスラム教が、仏教及び仏教のシステマティックな側面が八百万の神々を「道」化して成立した神道と、西欧列強の帝国植民地主義に乗って侵出してきたキリスト教との間を取り持つ、東洋的かつ西洋的な宗教であるか、さらには昨今のテロリズムがいかに非イスラム教的であるか(預言者ムハンマドの大局観からそれているか)といったことが分かる気がするのである。

 アメリカがイラク戦争を戦績の意味でも人道的な意味でも完全勝利に終えることができなかった遠因の一つには、戦績の意味では東京裁判という事後裁判の強行(国際法上、違法な手続き)、人道的な意味では原爆投下(非戦闘員・民衆の大量殺戮)という重大な借りを作っていながら、いざGHQの支配下に日本列島・天皇・国民を置いたところ、日本のほとんど誰もが反抗しようとせず、そのままGHQ支配と不平等な安保条約、そして朝鮮・ヴェトナム戦争特需の恩恵を受けて(それこそ日本国民の「識」における戦争肯定の大衆心理によって)高度成長を遂げる日本のスタイルがあっさりと成立してしまったことがある、つまりは、同じことがイスラム教という宗教、中東の人民に対しても強行できると踏んだことがあることは間違いないと思う。

 先日、ある保守系政治雑誌で、独立総合研究所の青山繁晴氏がイラク戦争直前に、アメリカに「一神教に対して日本支配と同じやり方をやろうとしたら絶対に間違う」と進言していたが、聞き入れられなかったことを知った。これは、俗っぽい雑誌の中で今の時代の文脈で言ったものだから、見過ごされがちだと思ったが、これには一理あるどころか、井筒俊彦や大川周明が生きていたなら最初に発した言葉かもしれないと思う。

 大川周明が東條英機をひっぱたいた真の理由など知るよしもないが、それはともかく、今後もブッシュ前大統領やオバマ大統領がクルアーンを読んだり、井筒俊彦や大川周明を読むことはないだろうと思うのである。

 はっきりしているのは、アメリカにとって戦争・占領統治をしかけるのが最も簡単だった(今なお簡単である)のは日本で、かなり難しかったのが中東だということではないだろうか。

 ところで、少し個人的な興味から、最近は、井筒俊彦や種村季弘が入っていたエラノス会議がまじめに共感覚を研究してくれないかと期待しているが、もっと神秘的・トランスパーソナル心理学的な要素が必要らしく(神秘的と言っても、井筒の言うようなそれではなく、オカルト的な意味)、もはやほぼ新宗教系組織のようになっており、むしろ「科学的に立証済みの非日常的現象」にはあまり興味がないようである。


【画像引用元】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E7%AD%92%E4%BF%8A%E5%BD%A6
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