2016年05月29日

北村紗衣編 『共感覚から見えるもの−アートと科学を彩る五感の世界』 がつける日本の共感覚研究界の道筋と、共感覚についての私の今後の目標

目次
■序文 ―本著がつける日本の共感覚研究界の道筋―
■著者陣の不思議
■現在の私の共感覚についての関心事項と、共感覚者ユートピアの可能性について
■「フェミニズム運動家が出した共感覚本」という声について
■「共感覚に意見しない」ところに残る共感覚観
■ニッチな共感覚の探究を在野で行うことの意味を考える
(DV・性被害・虐待被害女性、精神障害者、発達障害者、巫女、社家の子女、歌道家の子女、芸妓・舞妓などの共感覚についてのフィールドワーク)


■序文 ―本著がつける日本の共感覚研究界の道筋―

 注目していた標記の著がようやく日の目を見たということで、早速読んでみた。そんな中、ぜひ感想をブログに書いて下さい、と言われた。
 著者・読者から計三冊もご恵贈されそうになったので、最初の一冊だけ頂くことにした。
 本著の内容自体は、それぞれの著者のこれまでの著書や論文にすでに書いてあることが多く、私が紹介するまでもないし、私としても読んだことがない内容はなかったとは言えるが、それでも労作であり、良書であると思う。これを一冊手に入れれば、とりあえず日本人の共感覚研究者たちの文章が一通り読めるということで、有意義だと感じる。
 これらの編者・著者や、あとがきに挙げられている協力者については、私も半数ほどにお会いしたことがあるので、その方々の共著がこうして見られるのは面白い。
 最近7・8年は、北村氏・松田氏・湯澤氏など、本著に実名で登場している共感覚者の皆様とはほとんど縁がなくなってしまったが、共感覚に関するパネル発表のサイトでの頒布資料など、北村氏・本著の著者界隈の共感覚資料はおそらくほとんど拝読しており、これはきっと北村氏の単著としてよりも人文系・芸術系の共感覚研究者陣の共著として何か出すのだろうとは期待していた。
 今後しばらくは、本著が日本の共感覚研究界の道筋をつけ、売れる本とはならないまでも、共感覚に関心を持つ人の間ではスタンダードな教材になり、若手の共感覚研究者も学生たちも、必ず本著を通ることになるだろう。
 出来の良い本なので、書かれてある内容については私がここで書くところがないわけだが、本著を含めた日本の共感覚研究および共感覚研究者が全く足を踏み入れていない領域のうち、私がもっぱら個人として在野・私費で研究している分野を中心に、書いてみようと思う。


■著者陣の不思議

 それにしても、出版後、読者から「岩崎さんはこの本に呼ばれなかったのですか?」と尋ねられた上、著者の三名からも出版前後に同じことを言われたので、何も書かないのは心苦しく、それなりに本著に触れる意味はあるのだろうと思う。
 結果的に、本著内で私に触れているのは日本大学藝術学部文芸学科の山下聖美教授のみで、他の数名の著者からは、「本当は岩崎さんに触れたかったが、なんとなく登場させられなくて申し訳ない」旨の連絡があった。触れなくてももちろんよいのだが、山下教授のみが私に触れているのにはおそらく理由があって、教授が日本文学研究者であることがまずは根底にあるだろう。
 今回の書籍について、最も私の関心を呼び起こした点は、内容それ自体よりも、ここまで共感覚観どころか学術的立場や思想信条や文体の異なる共著者たちが、どうして編者である武蔵大学の北村紗衣専任講師に呼ばれたのかという点である。
 そして、その経緯や苦労が書かれたあとがきを見てみるに、やはり大学や学会などで面識のあった共感覚者や研究者どうしが集まったのではなく、北村氏がとにもかくにも面識のない著者候補にも「ヒップホップか何かのプロデューサー」のように「コンタクトをとるというようなことを繰り返し」て集めたと面白いことが書かれてある(p413)。
 一方で、本著は人文系・芸術系分野に絞ったためか、本著に著者が呼ばれていない日本の著名な共感覚研究グループには、東大の統合的認知研究グループ(横澤一彦教授)や立教大の現代心理学部心理学科(浅野倫子助教)などがある。ただし他にも、東大、京大、東京藝大、早稲田大、専修大、宇都宮大、徳島大などに人文系・芸術系の共感覚研究者がいる。
 一方で、松田英子氏(日本共感覚協会)や湯澤優美氏など、日本の共感覚研究の黎明期に北村氏と共に大学生であった理系や心理学系の研究者や社会人が、協力者に名を連ねている。
 また、家政系の大学や女子大学には、共感覚を利用した和服、茶道、華道、料理などの試みがあるが、これらもインターネット上での情報が乏しいためか呼ばれていない。
 あるいは、例えば私の共感覚コミュニティの中心を成している神社の巫女や社家の子女、歌道家の子女、芸妓・舞妓に見られる日本独特の共感覚などについては、いわば生粋の人文・芸術系であり、海外の人文・芸術系の共感覚研究との面白い対比が可能な分野であるにもかかわらず、全く触れられていない。というのも、この分野は、私もサイトを立ち上げて数年経ってから、連絡を受けて出会ったわけで、編者が著者集めをするためにネットを探したところで、見つかるような類のコミュニティではない。
 また、同じく私の共感覚サークルの中核を成し、極めて豊富な共感覚の交流を楽しませてもらっているDV被害者シェルター、性被害者施設、精神障害女性寮、発達障害者施設、特別支援学校の人々の共感覚(後述)については、本著どころか、日本の共感覚研究界に視点そのものが存在していない。ところが例えば、共感覚が発達障害者・自閉症者に多発することは、海外では2012〜13年には研究報告がなされている。
 こういった経緯を見るに、北村氏は、面識を持たないながらもネット上に情報のある研究者(ただし、非在野・職業としての大学教員・共感覚研究者)にメールなどでコンタクトをとる労力をかなり費やしたことが分かる。
 ただし、こういう事態になること自体は、あまり不思議ではない気がする。
 私はいつも、「日本の共感覚ブームは7・8年前に終わっている」旨を述べているし、以下の日本共感覚研究会の沿革にもその経緯を掲載しているが、北村氏も「今は昔、(学生の頃が)mixiの全盛時代であり、mixiの共感覚コミュニティは盛況だったのである。」(p411)と書いており、これは本当にそうだったと言える。まだ皆が学生だった頃、2004年から2008年頃のことである。しかも、私以外に共感覚男性の共感覚告白サイトがいくつもあった。
 共感覚者サークルができたのもこの頃であり、私はこの十年でいくつかのサークルに参加してきたが、そのうちの一つの系譜において、北村氏や、著者の方々や、北村氏によって実名が挙げられている方々と数年間交流させていただくに至った。

日本の共感覚史と本会の沿革
http://iwasakijunichi.net/jssg/enkaku.html

 見方を変えれば、ブームが過ぎてもなお共感覚に飽きもしない人が、本当に共感覚に関心のある人だとも言える。北村氏もまた、その一人だと言えるだろう。


■現在の私の共感覚についての関心事項と、共感覚者ユートピアの可能性について

 そういう意味では、私が関わってきた(自分で立ち上げたり協力したりしてきた)サークルも、分野は違えど、どこかで必ず共感覚を扱ったことがあると言える。ただし、私の私費で、かつ在野で活動している以上、北村氏や著者陣のように、純粋に学術界に身を置き、研究者側・教育者側の社会的立場に立つというレールそのものに人生や生活が乗っていないのだから、同じ共感覚研究と言っても、宇宙が違うものになっているのは当然である。
 そもそも現在の私の活動は、サイトをご覧いただければ分かるように、もはや共感覚どころではなく、共感覚以外の分野、かつ共感覚のニッチな(共感覚研究界・学術界が扱っていない)分野が多くを占めている。「岩崎さんの全活動を整理整頓するのに、どうするのが一番よいか」と、とりあえず「岩崎純一研究会準備室」が共感覚者などの交流者によって立ち上がるという、突拍子もない事態になっている。
 現在私は、共感覚については、主に以下の活動の中で触れていることになる。(いずれも、「岩崎純一のウェブサイト」内に当該コンテンツあり。)
 2004年のサイト開設以来、12年間で延べ500人以上の共感覚者(自称を含む)と交流してきたが、現在まで面識を持ち交流が続いているのは、30〜40人ほどであり、その中に北村氏を含む本著の協力者陣は一人も含まれていない。著者の一部は含まれているが、むしろ、発達障害者や精神障害者、神経症性障害者などとの交流のほうが、逆転してずっと多くなっている。

◆自分自身の共感覚データベースの作成と、一部のサイトでの公開
◆日本共感覚研究会の活動
 ●共感覚研究者の研究内容・動向の観察や、共感覚セラピー・共感覚カウンセリングなど日本の共感覚ビジネスの実態の追跡
 ●麻薬・覚醒剤・危険ドラッグ・指定薬物等による共感覚の出現の知見の有無と当該薬物の国際条約及び世界各国・日本国の法令等における扱いとの対応の調査
 ●共感覚イノベーション事業など国や自治体、研究・教育機関による共感覚関連事業への公金・税金の投入の実態の調査
◆哲学・社会学・精神病理学・言語学・国語学・仏教学・数理論理学・超数学・物理学分野
 ●DV・性的暴行・虐待被害体験などによって生じる不安障害・恐怖症・強迫性障害・PTSD・解離性障害に伴って発生する共感覚・特殊知覚の研究と、当該知覚の体験者のコミュニティ形成
 ●主に上記の共感覚女性や精神障害女性、神経症性障害女性が集住するシェアハウス型女性寮・避難シェルターへの協力
 ●岩崎式日本語や岩崎式言語体系の考案、哲学・認識論・存在論・現象学などからの共感覚研究
 ●宮沢賢治、中村雄二郎、和辻哲郎、今西錦司、三木成夫、井筒俊彦、梅棹忠夫、鈴木大拙、九鬼周造 、藤原定家などの感覚・知覚観の研究
 ●発達障害者、知的障害者(男性が多)との共感覚についての遊戯

 共感覚をその名に冠する「日本共感覚関連動向調査会」、「日本共感覚研究会」も、共感覚研究の実施よりも共感覚研究の観察の立場をとっている。「共感覚者和歌の会」も「伝統和歌の会 余情会」も、共感覚を持つ神社の巫女や社家の子女、歌道家の子女、芸妓・舞妓さんが参加してきたが、もはや「共感覚」というテクニカルタームをテーマとはしていない。
「岩崎純一さんのお話を聴く会」、「岩崎純一さんに会いたい会」、「岩崎純一さんとの合同勉強会」などについては、「共感覚」ではなく「共感覚観を語る岩崎純一」がテーマであり、名称が恥ずかしいながらも嬉しかった旨を以前のブログ記事に書いた。
「岩崎式日本語研究会」にも共感覚者がおり、「超音波知覚者コミュニティ東京」に至っては、超音波が「聞こえる」のではなく「見えたり」「匂ったり」することで検知できる巫女や発達障害女性までもが参加してきたが、共感覚そのものに特に固執していない。
 こうしてみると、私が「共感覚研究」自体よりは「共感覚ユートピア」のようなものを志向しているようにも見えるが、それともまた私の思いは違っていると言える。
 以下、私のスタンスから見て、私が現在の学術界で展開されている共感覚研究に身を置くことのほうがなかなか難しいことは、読者にも伝わるのではないかと思う。
 私自身はこうして、今は学術界における共感覚研究には何ら携わっておらず、在野で独立独歩の共感覚者コミュニティを形成しており、むしろ、数十の大学から授業やゼミの先生としてゲスト講師や招聘講師として呼ばれる側のスタンスとなっているし、ある意味では私自身がそのスタンスを狙ってやっているところがある。本著についても、共著者陣が私を入れてくれようとしただけで、編者・編集者側にはその想定はなかったと思う。
 元より、私が扱っている内容については、今回の編者の北村氏やほとんどの共著者は一切扱っていないし、逆に私は私で、今回の書籍に書かれている多くの内容にはどうしても飽きてしまっており、今はあまり興味がないということは言えてしまう。しかしそれは、書籍の内容の良し悪しを問うているのではなくて、視点が別の土俵に乗っているという意味である。この書籍が出た動向や編者・著者の言動・心理についてのメタ視点からの観察・追跡それ自体こそ、私の活動であるという意味である。


■「フェミニズム運動家が出した共感覚本」という声について

 その中でも今回、読者(共感覚者)数名から盛んにメールなどで尋ねられたのは、本著制作期間真っ最中における、北村氏のTwitter・ブログでのフェミニズム・LGBT・反原発などの言動のことであった。この件は、本著どころではない騒がれ方をしたので、目に入らないはずがない。ドカンと大きく共感覚を扱っている私のサイトに共感覚関連の各研究者やTwitter読者からの問い合わせが入らないはずがない。全く共感覚者の間でもそれなりの騒ぎであった。
 中には今回も、「フェミニズム・LGBT人権運動家の北村氏が出した共感覚の書籍」ととらえている読者が一定の割合いる。「共感覚者の北村氏」と知っている読者は、私の周りではあまりいない。そういう書籍を、別の形で女性の共感覚についての論を展開している岩崎さんはどう思いますか、というのが、私が感想を書く中で読者から回答を期待されている質問なのであった。
 ただし、北村氏自身は、本著で共感覚の話題とフェミニズム・LGBT・反原発などの話題とを特に混在させていないし、そこは丁寧に書いているので、本著「だけ」を読めば問題なく読めるはずだが、北村氏のTwitterやブログを読んでいる読者の場合には、読み方は様々なのだろうと思う。
 確かに、本著の編者を受けるほど今も共感覚に熱心な研究者の一人である北村氏の、別分野での言動やスタンスについて、読者たちがどういう感懐を得たかを包括的・客観的に観察することは、日本の共感覚界に限らず社会現象を見ていくうえで意義あるものと私は思う。
 信じられないかもしれないが、2007年前後に一気に火がついて形成されたほとんどの共感覚者サークルで、女性参加者が数名〜15人であるのに対し、男性参加者が私一人になることが増えた。そのこと自体は、私自身はストレスにはならないものの、発展的脱出ができないものかと考えるようになったのは確かだった。これが十年近く前の出来事だとは、もはや信じられない。
 それぞれの共感覚女性の集いには、私から見て性格・気質・思想信条・政治的立場などの違いがあり、それが私には非常に興味深く思えたし、共感覚者女性の中でも派閥があるものだと驚きを持って私には観察された。
 ただし、「西洋において共感覚者は、サルだ、ゴミだ、タコだと差別されてきたが、今や発言権や学術的地位を獲得した。フェミニズムやLGBTもそうだ。日本における人権運動についても、このレールを敷けないはずはない」と主張する、ほとんどNPO・人権団体と区別の付かない共感覚女性グループの形成は、当時は普通だった。何も北村氏の主張というわけでもないので、そこだけは読者は注意したほうがよいと思う。
 しかし、私にとって、本当にエロティックでラディカルでグロテスクで衝撃的な共感覚体験をした女性による共感覚サークル、そして私に真に深い感動を与えた共感覚サークルは、DV被害・性被害・虐待被害によって共感覚や精神障害を生じた女性や、巫女や社家の子女や歌道家の子女によって形成されたものだった。


■「共感覚に意見しない」ところに残る共感覚観

 多くの共感覚者サークルがいわば女子会として運営されていく中で、私としては、驚くべき特殊環境(古代的・自然的環境や秘密的・閉鎖的環境)で生活している共感覚女性(神社の巫女、社家の子女、門跡の若い子女、あるいは一方で、DV・性的暴行・虐待被害によって共感覚を得た女性)や、共感覚を持つ戦争神経症の高齢男性に、私自身の深い関心を見出すことになった。こうして私の中で、共感覚は人間実存の深層と原理とを見せてくれるものとして、哲学や精神病理学、そして日本文化と結びついていく。
 また当時、共感覚と発達障害・自閉症の深い関連を著書やブログで解説したところ、東大の横澤氏など従来の研究者には「両者の知覚には関連はない」としてほとんど関心を持たれなかったため、私はひたすら一人で発達障害者と共感覚を楽しむことに徹する期間が長かった。発達障害者・自閉症者の施設に行けば、元々男女比が3対1から5対1である発達障害・自閉症なのだから、共感覚男性が多く見つかると考え、フィールドワークをし、案の定、発達障害の共感覚男性と知り合って交流してきたが、これについては、東大の教育学部の信吉真璃奈氏などが関心を示して、ここ数年でようやく道筋がついたのだろう。
 あるいは、DV・性的暴行・虐待被害によって共感覚を得た女性や、発達障害・統合失調症・不安障害・恐怖症・強迫性障害・PTSD・解離性障害などの女性については、一緒に岩崎式日本語という哲学・言語学体系の構築を試みた。本著の著者の坂本真樹氏や武藤彩加氏が最も分野的に近いと考えたが、両氏にとって、心理的重圧によって生じる共感覚は分野外であり、より実用的で商業的・ビジネス的に生かせる共感覚を追求するルートを目指しているため、立場が異なるだろうとの回答があった。
 私は、「文字や音に色が見えること」自体にはほとんど関心が向かなくなり、人間実存をその背後から支える「共感覚原理」や「共感覚帰属性」といったものを志向するようになった。そして、著書を出してから7年立った今でも、共感覚について相変わらず態度が変わっていないと言える。
 換言すれば、私は、「共感覚なる知覚様態それ自体について意見しない(個人的見解を持たない)ということを徹底したところに、どのような共感覚論・知覚論が現出されるか」を考えており、その上で「日本的共感覚観」が確立できるかどうかをライフワークとして考えている。これについては、著書でもブログでも、「共感覚は個性ではなく、意志である」旨を述べているが、ここで言う「意志」とはショーペンハウエルの言うところの「意志」に近い。私に関するサークルのほとんどが、このライフワークと密接なつながりを持っている。
 私の著書としては、2009年の『音に色が見える世界 「共感覚」とは何か』(PHP新書)と、2011年の『私には女性の排卵が見える 共感覚者の不思議な世界』があるが、これらを含めた私自身の共感覚観について改めて簡単に説明することが、皆様から頂いた冒頭のご質問への回答、そして日本の現行の学術界・教育者側の共感覚研究のレールを私が外れていった理由の解説になると思うので、書いておきたい。


■ニッチな共感覚の探究を在野で行うことの意味を考える
(DV・性被害・虐待被害女性、精神障害者、発達障害者、巫女、社家の子女、歌道家の子女、芸妓・舞妓などの共感覚についてのフィールドワーク)

 先に、北村氏のTwitterでの発言などに少なからぬ読者が賛否両論を持っている旨を紹介したが、それはともかく、普段の北村氏の女性観やセックス・ジェンダー観を見てみるに、本著の編者・著者の全員の中で、私がこの十年間で見てきた共感覚女性たちの現実に、本来私どころではない積極性と好奇心を持って興味を示してもおかしくないのは、北村氏やフェミニズム運動家の共感覚女性たちであると考えている。
 例えば、極めて重大なDV被害や性被害、虐待被害を抱えて生きる女性には、こちらが疲れてトラウマになるほど出会ってきたし、つられて涙した体験もあるが、十年間ずっと口を酸っぱくして書いてきたように、これらの女性にものの見事にきらびやかな共感覚が身につく(蘇る)ことがある。性的暴行を受けてPTSDを発症した異性愛の女性が、レズビアンになったと同時に、突然文字が読めなくなり、共感覚で色や音楽を付けてしか読むことができなくなったといった事例は、探そうと思えば(DV・性被害女性シェルターなどに丁寧に問い合わせれば)、探せるものである。むしろ、大学の職を持っていたりNPO・人権団体の幹部にいたりするフェミニストの共感覚女性たちがこういった行動をとっていないとしたら、そちらのほうが私は不満である。
 それにしても、先の被害女性のような共感覚に遭遇した時、私は、「非常事態が起きたがために、常人には起きえない特殊感覚が身についた」とは考えない。そうではなくて、「女性が女性として最も心身に傷のつく被害を受けた際に生じる感覚・知覚様態は、女性の原理、女性の純粋経験である」と考える。これが、「共感覚は、現代社会の文脈においてのみ個性であって、非常事態においては人間実存を規定する普遍原理である」とする私の主張(すなわち、私自身の意見の廃止・止観と、女性に対する無為の観察・純粋直観)につながる。
 性被害によって相貌失認となった女性は、人の顔・表情の区別がつかない代わりに、色で人を見ており、人が青色になった時が笑った時であるなどと判断する共感覚を身につけている。こういった共感覚者こそ、私に痛烈な感動を呼び起こす。
 しかし、このような「真のマイノリティ」に出会い、仮説や試論をとりあえず立てて暴れ回ることができるのは、私が研究費を得て研究者・教育者側の人間として研究しているからではなく、在野かつ私費で共感覚を研究しているからである可能性もあると思う。むしろ、大学や研究機関に身を置く研究者がやりたくてもできない研究というのもあるかもしれず、私の立場の自由自在さを改めて自覚する次第である。
 むしろ私は、「共感覚に意見しない、何も意図しない(後述)」ことによって、日本の学術界・共感覚界がほとんど無視しているDV被害・性被害・虐待被害女性や発達障害者の圧倒的に自由な共感覚の告白を、十年間で得ることができたのだと考えている。この蓄積を発表するのは、十年後くらいになると思う。DV被害女性シェルターや性被害者施設、精神障害女性寮、発達障害者施設、特別支援学校などを訪れてみれば、ヴァルデンフェルスやメルロ=ポンティの言う諸感覚の「協働」(Synergie)(p84)を、現代日本社会において最も痛烈な形で見ることができるという感動については、やはり文章として残したいと考えている。
 そういう視点から見ると、例えば本著でも紹介されている「子ども建築塾」(p203)についても、一見すると子どもに自由な共感覚や身体性を許していながら、どこかで実は束縛している可能性があると感じてしまっている。つまりは、どうしても私には、歪んだ「共感覚ユートピア」思想の一環であるように思える。
 本当は、共感覚研究者たちにもっとあらゆるニッチな人々の共感覚の研究にお金をつぎ込んでほしいと思ってはいるが、それも厳しいだろうし、そもそも上記のような視点自体が生じるという土俵がまだないと見える。今はまだ、むしろ北村氏や女性著者のほうが丁寧に共感覚の話題と女性のセックス・ジェンダー・人権問題とを切り分けている一方、私のほうがそれらの密接な結びつきを目撃しすぎており、共感覚の話題と女性のセックス・ジェンダー・人権問題とを網羅的に語りたいという魂胆を持っているとも言える。だから、本著については、極めて洗練されすぎた著書であるという印象を持ったのは事実である。
 男性は男性で、共感覚(特に私が「対女性共感覚」と述べている共感覚)が言語障害や発達障害の男性に多く見られるということは、それが私の個性ではなく、男性の原理であることを示しているという私の考えも変わっていない。すなわち、私の意見を殺して無判断に徹すると、こうなるということであって、共感覚によって「見えている」ということが、ショーペンハウエルの「意志」やベルクソンの「直観」によって「見えている」ということに等しいような衝撃的・悲劇的な共感覚を経験している「マイノリティ」に本当に出会っている研究者は、本著の著者にはまだまだいないと感じられた。
 ベルクソンの中で知覚論が生物の進化論と混ざったのは、共感覚それ自体が、純粋持続の相において人間実存を見つめ続ける人間自身の創造的進化に等しいと気づいたからに他ならない。
 こうしてみると、DV被害や性被害、虐待被害を抱えて生きる女性に共感覚が発生する(ないし、蘇る)現実は、フェミニズム系の共感覚女性の最も好むところだという気がするのだが、今回、読者からそう評されている典型の女性である北村氏が、「ヒップホップか何かのプロデューサー」のように著者を集めてきた旨を書いているところまでを読んで、何となく分かってきた気がした。つまりは、北村氏は、同じ共感覚研究と言っても、「本当に重大な」性被害を抱えて家から出られない共感覚女性や、「本当に重大な」戦争神経症を負った共感覚男性などに、会う気がないのではなく、本当に会っていないだけなのかもしれない。
 最もこういったところに興味を持って足を運んでいそうなフェミニストの共感覚女性たちが、共感覚とセックス・ジェンダー・人権問題が直結している先のような被害女性たちに出会う日が来れば、もっと面白くなる気がしている。換言すれば、北村氏でさえ、一部の読者が言うラディカルフェミニストどころか、本著を相当気を遣って、無難に丁寧に書いており、本当にラディカルな共感覚論はまだ書いていないと思う。
 性的暴行を受けてPTSDを発症した異性愛の女性が、レズビアンになったと同時に、突然文字が読めなくなり、共感覚で色や音楽を付けてしか読むことができなくなったといった、本当にエロティックでグロテスクな事例を、本著は抱擁しかけてはいるが、あと一歩のところで抱擁できない可能性はあると感じる。ある一定の、一例の、共感覚に出会った状態のみで完成するのが、本著であるように見える。
 ただし、それが学術界・教育界に身を置く共感覚研究者による研究の限界なのだとしたら、やはり何も失うものがない在野の人間がやり続けることに意味があるとも思う。私としては、今後ともDV・性被害・虐待被害女性、精神障害者、発達障害者、巫女、社家の子女、歌道家の子女、芸妓・舞妓などの共感覚についてのフィールドワークを続けていきたいと思う。
posted by 岩崎純一 at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 人物評論・書評

2011年09月08日

小室直樹

■おすすめ著作
『ソビエト帝国の崩壊』、『新戦争論』、『日本教の社会学』、『日本人の可能性』、『国民のための経済原論I・II』

『ソビエト帝国の崩壊』は、私が生まれる前に出た著作である。実際にソ連が崩壊したのは、私が九歳の時であった。それからさらに十年後に、本著を読むことになった。

 ソ連崩壊が過去のものとなり、米国の一人勝ちとその後の同時多発テロ、中国の台頭ばかりが目立つ今となっては、内容が古いという評価も多い本著だが、私にとっては、本著は「ソ連崩壊を正しく予言した」稀有な努力家の書いた書物として心に残っている。

 出版当時は、多くの日本国民にトンデモ本として受け止められた。しかし、私は「努力する天才の眼には、少なくとも十年先が見えている」と思う。本著が出ておよそ十年後に、ソ連は崩壊した。

 ということは、十年後のアメリカや中国、そして十年後の日本がどうなるか、見えている人には見えているのだろう。そして、その人は、今現在はトンデモ学者と言われている人のうちの誰かなのかもしれない。

「心技体」という言葉がある。私は、アメリカは「体」から、中国は「技」から、そして日本は「心」から崩壊するであろうと感じている。しかし、この私のなけなしの知性による身勝手な予想は、小室直樹氏の網羅的で深遠な先見の明に比べれば、非常に偏狭なものだろう。

 小室氏は、ソ連崩壊の十年前から、そのことを、「予言」した上に「断言」したように思う。この精密さは、機械的精密さというよりは、動物が人間よりも早く地震を察知して逃げるときの五感の精密さのほうに似ていると、私には思える。
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2011年06月20日

井筒俊彦

■おすすめ著作
『意識と本質―精神的東洋を索めて』 『意味の深みへ―東洋哲学の水位』 『意識の形而上学―「大乗起信論」の哲学』

 井筒俊彦の「言語アラヤ識」は、私が岩崎式日本語を構築する上で最もよく参照した思想の一つである。また例えば、鈴木大拙の「即非論」は、「言語アラヤ識」に最も近い「識」の様態か、あるいはそれと同等のものとして生じると、私は考える。

 また、「井筒哲学における言語アラヤ識は今西錦司の言う人類のプロトアイデンティティ(原帰属性)であるか」という問いを私は考えたが、これに対しては、井筒も今西も言及したことがないと思われるいわば「真我の進化過程」について考えてみた結果、条件付きではあるが、「Yes.(原帰属性である。)」の回答を与えたくなるわけである。
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九鬼周造

■おすすめ著作
『「いき」の構造』 『偶然性の問題』 『人間と実存』

 拙著『音に色が見える世界』の中の「にほひ」論における日本的情緒の正三角形の着想は、九鬼周造の「いき」論における日本的情緒の六面体の着想に似ていると思う。

 私は同拙著で、古語の「にほひ」が指していた日本的情緒を、「現代日本語の“におい”のみならず現代日本語の“いろ”や“おと”などを内包しつつ裏に異性を志向する一種の共感覚である」という旨の主張をおこなった。私の心の奥底に、九鬼哲学へのオマージュの意識があったのかもしれない。

 九鬼哲学は、何をどう読んでも、必ず「異性論」であるとしか思えない。キルケゴールの『誘惑者の日記』的でさえある。クリスチャンでありながら、ことあるごとに日本回帰しようとする自らの身体と精神との一つの説明法が、「いき」であるのだろう。

 最後は祇園の芸妓とともに一生を終えた九鬼周造から見れば、私の私生活はおそらく、極めて硬派すぎてつまらないだろうが、逆に言えば、そこが九鬼周造の「良き不真面目さ」、そして、九鬼哲学(私が「クリスチャン的やまと回帰哲学」と呼ぶもの)の「良き不徹底さ」でもあるのだと思う。しかし、そのような九鬼周造の行動も、元を辿れば、自分が(母波津子の不倫相手である)岡倉天心の子ではないかと苦悩した日々に行き着くことができるのだろう。

 ちなみに、やまと回帰論を展開する日本のクリスチャンの中で、最近読んだのは、阿部仲麻呂氏というカトリックの神学者の『信仰の美学』で、これは「日本的霊性の神学」の構築を試みていて、非常に面白い。
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熊谷晋一郎

■おすすめ著作
『リハビリの夜』

 東大で熊谷晋一郎氏と対談させて頂いたときに感じたのは、「いわゆる共感覚を有していらっしゃるわけではないものの、氏の身体感覚・内臓感覚に関する達見には、私の及ばない点が多々あるのではないか」ということであった。だから、他の一流の哲学者・生態学者などと同列に、「人物評論」のページに挙げてみた。

 対談でも、私の対女性共感覚を「エロティシズム」の観点からお話させていただいたが、氏の「身体内協応構造」と「身体外協応構造」の二重性としての身体論は、私の対女性共感覚にも適用できると思う。

 私は脳性麻痺ではないから、物理的に離れた女性に対する共感覚の発揮は、知覚上の問題であると同時に、観念上の問題でもある。しかし、熊谷氏の場合、全てが知覚上の問題である。だから、「腹ばい競争で女の子たちにおいて行かれるのが快感である」という主旨の書き方になる。

 いわゆる健常者男性は、離れた女性をまずは観念で追いかける。いわゆる「愛の告白」とはそういうものであると思う。熊谷氏には、そのような「不純さ」がない。私は自分を、熊谷氏よりもずっと「不純な」男性であると思った。「観念による追いかけ」は、私の共感覚における一点の傷であるような気さえした。
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鈴木大拙

■おすすめ著作
『日本的霊性』 『無心ということ』 『東洋的な見方』 『禅と日本文化』

 鈴木大拙の「即非の論理」は、「AはすなわちAにあらず。よりてAなり」を意味し、もちろん、多分に仏教的・禅的な響きを持つ概念であり、また鈴木自身が多分に仏教的・禅的な人間ではあるが、この自己意識の様態は、精神病理学的には重度の解離性障害者の脳などで起こっていると考えられる。私はそのことを、解離性障害の女性との交流の中で、自分で考案している岩崎式日本語について語り合っている時に、思いがけず確認したことがある。

 男性でも、現代日本語発話の障害を有する男性ならば、同等のことが起こっていると考えられるが、そのほとんどが自閉症や知的障害と呼ばれる様態を呈していて、確認のしようがない。元より、自閉症や知的障害は統計的に男性に多い。

 女性においては、自閉症や知的障害の一歩手前であっても文法言語への認識を保持する場合が多い。岩崎式日本語の空格段階は、この構造を有していて、そこでは、「〜である」と「〜でない」とが区別されないが、それが心地よいらしい。

 ただし、現代日本語発話に障害が全くない状態で中程度に解離してとどまる離人症においては、即非の論理は直ちには理解されず、脳としても即非があまり生じないようである。従って、岩崎式日本語も必要ないと同時に、直ちに理解もされにくいのは、当然であると思う。
posted by 岩崎純一 at 14:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 人物評論・書評

宮沢賢治

■おすすめ著作(色々ありすぎて、あえてこれを)
『農民芸術概論綱要』

 宮沢賢治こそ、我々共感覚者、そして何より大自然と子どもたちの最大の味方ではなかろうか。彼は、松尾芭蕉と並んで、生理学的定義の「共感覚」の研究者からも取り上げられる、数少ない日本人共感覚者の一人である。

 しかし、「宮沢賢治にも、文字に色が見えていたのではないか」などという問いは、本当はあまり重要ではないのかもしれない。どちらかと言うと、そのような問いは稚拙でありうるかもしれない。

 私の場合、自分の共感覚についての仏教分野からの探究としては、禅ないし中観・唯識の方面に進んだのであるが、賢治の場合、法華経と国柱会であった。簡単に浄土に進まない点は私と同じであって、浄土はあくまで「地上のどこかにある。なければ自分で作る」ものであった。それが岩手「イーハトーブ」や「羅須地人協会」であった。

 私がウェブサイト上で色々な共感覚者や解離性障害者を集めて、少々閉鎖的な、現在のところ自分たちだけに通じ合える言語まで造り上げてしまった試みは、賢治の人生にも似ているのだと思えて、安心する。
posted by 岩崎純一 at 14:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 人物評論・書評

マルクス

■おすすめ著作
『資本論』 『共産党宣言』 『経済学批判』 『経済学批判要綱』 『経済学・哲学草稿』

 マルクスが人間の五感というものをどう見ていたかを、その著作だけから読みとることは難しい。しかし、『経済学・哲学草稿』における「人間の五感の形成は、現在に至るまでの全世界史の一つの労作である」という言葉には、マルクスの五感観というべきものが隠されている。

 まだ西洋でも生理学的意味での「共感覚」の研究は日の目を見ていなかった時代であるが、おそらくマルクスは、現在は「共感覚者」と呼ばれている、本当に五感が混交している「化石的人間」の存在は知っていたに違いない。

 吉本隆明はこれについて、「触覚・味覚・嗅覚のような古層の感覚が退化し、視覚・聴覚のような表層の感覚が進化してきた、という過程が、マルクスの言葉から感じられる」という主旨を『初源の言葉』で述べているが、吉本の分析は、悪くはないとは思うものの、どこか目的論的自然観への傾斜のにおいを感じさせる点が、私には不満である。どうして、「労作と言える理由は、ただ共感覚が分裂して五感の形成に至るまでに、長い年月がかかったからである」と言わなかったのかと、少しじれったい思いがする。

 すなわち、吉本の言う「触覚・味覚・嗅覚のような古層の感覚」とは、私にとっては、近代西洋的自我発見後の人間の「視覚・聴覚のような表層の感覚」とほぼ同等に「表層」であるように思える。吉本が「アメーバのような感覚を身体反射として表出する段階」と呼ぶ、その「アメーバのような感覚」を、私はいわば「阿頼耶識の原帰属性である共感覚」と見ている。

 このような観点から見ると、吉本よりもマルクスのほうが、生命体としてのヒトの感覚世界を的確に社会思想に取り入れたと思えなくもない。

 それはともかく、マルクスの理想が最終的に失敗した理由は、私は二つあると思う。一つは、マルクスが人間の欲望を甘く見積もったということである。二つ目は、「マルクスが同時代に見た西洋文明の欲望は、分裂した五感が生起させた」ことに言及しなかったことである。前者については、マルクスの極度の優しさが邪魔をした。後者については、マルクス自身の生まれ持った強大な西洋文明の風土が邪魔をした。

 社会が完全に持続可能な共産社会であるためには、社会の構成員の知覚が総じて基層感覚的・共感覚的でなければならないことになり、マルクス自身が本能的に欲求している社会はそのような社会であると思えるのに、唯物史観の果てにある現実のマルキシズム社会では、分裂した五感が生起させる欲望を常に抑え続ける必要があった。マルキシズムは、マルクスの理想ともまた違っていたということなのだろう。
posted by 岩崎純一 at 14:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 人物評論・書評

三木成夫

■おすすめ著作
『胎児の世界―人類の生命記憶』 『内臓のはたらきと子どものこころ』 『生命形態の自然誌 第一巻 解剖学論集』 『海・呼吸・古代形象―生命記憶と回想』 『生命形態学序説―根原形象とメタモルフォーゼ』

 三木成夫の『生命形態学序説』の一節である。

(引用始め)
「一般に下等動物は、自分のほんの身の回りのできごとだけを、しかし文字どおり、“全身でもって”受け取っていた(近接感覚:触覚と味覚)。すなわちそのような刺激に応ずる感覚細胞がからだの表面いたるところにちらばっていたのである。
 ところが高等な動物になるとしだいに遠くのできごとにも感ずるようになり(遠隔感覚:嗅覚、聴覚,視覚)、ついに人間では何億光年の宇宙のかなたまでも見ることができるようになった。しかもこれらの感覚細胞は同じものが1カ所に、それもからだの前端に集まるのであって(鼻、耳、眼)−−ここには栄養の入り口も開いている−−すなわち、このような植物性過程と動物性過程の入り口が集まったいわば“からだの窓口”をわれわれは顔とよんでいる。ヒトの胎児の発生をながめると脊椎動物の顔の歴史のいわば再現がみられる」
(引用終わり)

 私は常々、共感覚を持っている自分のことを「人の高等知能を持ったオスザルである」と言っている。大学の講義でも学生に向けて同じことを言ってみている。私が言いたいことは、三木成夫の生命観にだいたい同じだ。

 下等感覚に浸っていることでもなければ、高等知能でもって下等感覚を見下すのでもなく、下等感覚を失わない体をもって高等に生きることが、これからの人類のやるべき仕事であると思う。あるいは、下等感覚は、もはや一つの「高級品」であるのかもしれない。その「下等な高級品」を忘れた人間に、真に温かい「感覚」が生じることはないのではないだろうか。

 三木成夫のような深遠な生命観を持って動植物の研究をおこなっている人は、今の日本にどれくらいいるだろうか。私の生命観も、三木成夫のそれに比べれば、まだまだ不十分であると感じる。
posted by 岩崎純一 at 13:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 人物評論・書評

ニーチェ

■おすすめ著作
『音楽の精神からのギリシア悲劇の誕生』 『反時代的考察』 『悦ばしき知識』 『ツァラトゥストラはかく語りき』 『善悪の彼岸』 『道徳の系譜』 『力への意志』 『生成の無垢』

 私がニーチェを初めて読んだのは18歳のときで、このときからすでに、「自分の共感覚を衰えさせずに今の社会を生き続けることができるか」というように、自分の知覚と現代社会との間にある齟齬を自覚的に哲学的問題として取り上げていたように思う。

 最近また、巷でニーチェが流行しているようだが、これは自己の実存を脅かす脅威への対抗としてではなく、実利的問題の処理方法として読まれているようである。

 例えば、「どんなに就職活動を頑張っても、内定取り消しに遭うことはある」ことを社会から見せつけられた若者は、「不遇の永劫回帰」を徹底的に意識にのぼせながらもなお生き抜いたニーチェに、簡単に共感する。もっとも、私にもこの心境は分かるのである。

 問題は、今の日本人のほとんどは、実利的問題が浮き彫りにならない限りニーチェ的であり得ない、という点ではないだろうか。このたび東日本大震災が起こり、再び自己の実存・根源的生命と実利的問題とがピタリと寄り添うことになった。しかし、それでも、「助け合い」や「絆」といった、初歩的な単語だけが独り歩きしている甘ったるい短期的なブームは、ニーチェの崇高な思想とは遠いところにあると感じられる。

 戦後のほとんどの時期は、実利の喪失は実存感の喪失ではなかったし、そもそも高度経済成長のおかげで実利の喪失自体もあまりなかった。少なからぬ日本人が、実利の喪失への抵抗を実存感の喪失への抵抗無しに行うようになった。こうして、自己の実存感の喪失への不満無き実利の喪失への不満が完成を見たために、簡単に「キレる」(=すぐに他人に腹を立てる)人間が増えた。

 しかし、ニーチェという人は、それとは対極的な真の温かさを持っていた人であったと、私は感じている。
posted by 岩崎純一 at 13:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 人物評論・書評