2016年04月28日

我々一人一人の人間に宿命づけられた生涯の仕事について(私に課せられた哲学的共同体・理想郷の追求)

目次
■序文
■各「岩崎純一さんの会」の栄枯盛衰
■喜びの背後にある孤独感との闘い
■永劫回帰する生への「運命愛」を共有できる共同体を目指して
■宗教化を自分で阻止する自制機構という知性の必要性



■序文

 今回書くことは、今年中に出ることになっている日本大学藝術学部の機関誌「日藝ライブラリー」の松原寛(日藝創設者・哲学者)特集や、畑中純(漫画家・版画家)についての評論集に詳しく書いたので、そちらをご覧いただければ嬉しいが、簡単に言えば、共同体論・理想郷論や総合芸術論・総合文化論をテーマとして書いている。
 ブログでは、もっと私自身に惹きつけて、概要を書いておきたい。

300px-Rasuchijin.jpg
宮沢賢治の「羅須地人協会」


■各「岩崎純一さんの会」の栄枯盛衰

 ここ最近は、我々一人一人の人間に宿命づけられた生涯の仕事というものがあるかどうかというテーマが、大変気になっている。もっと言えば、全身全霊、命を賭けてでも自分はこれをやりたいという仕事があるかということである。
 こう書くと、まるでいわゆる「社畜」としての男の仕事論・労働論のようだが、ここではそんな俗的で生ぬるいものではなく、ニーチェが言うところの「運命愛」的に愛し続けざるを得ないような、永劫回帰する生における自分の仕事(死ぬまで、いや、死んでも就業し続けたい仕事)のことである。人生の中に仕事があるのではなく、「我々人間にとっての最大の仕事は人生である」と言うときの、仕事のことであり、しかしながらその人の「力への意志」にしか務まらないような、唯一無二の仕事のことである。
 その一つが、私にとっては、おそらく「総合芸術的・精神的・哲学的共同体の追求(現実社会か芸術上かを問わず)」や「その背後にある普遍的構造の哲学的探究」なのだろうと考えている。最近切に思うのは、私は、今私が評論を書いている松原寛、畑中純、宮沢賢治といった哲学者や芸術家に私淑し、氏らの芸術精神や共同体理念、ひいては文化観・国家観を継承すべきなのだろう(継承したい)ということである。

続 岩崎純一さんに会いたい会
続 岩崎純一さんに会いたい会


 私自身にとって最も名称が衝撃的だった(最初は照れくさかったとも言える)「岩崎純一さんに会いたい会」が開催されたのは、2012年だった。これは、女子大生が大学の担当教授に掛け合って、大学の特別講座として開催された。この学生は、当初から「自分は自閉症的な強い感受性を持っていて、岩崎さんのサイト・文章・哲学に出会い、救われたので、会いたい会の開催を決意した」旨を送ってきた。そもそも、初回のメールを送ってくる前から、徹底して私の文章を読んでおり、初回のメールの時点で「会いたい会」の開催を決意していた。
 後日、この女子大生に影響されて私のサイトを片っ端から熟読した、大学や職場を休みがちな別の女子大生・OL、そして私に似た感覚・哲学世界を持つ息子さん・娘さんがいる主婦が、「続 岩崎純一さんに会いたい会」を作った。これも、「会いたい会」と同じように、大学でチラシが貼り出されたり配られたりした。ただし、学究的な客観性を持たせるために、学生が大学の授業に無理矢理ねじ込もうと担当教授に懇願したところ、担当教授が呆れ果てて取り合わなくなったため、二回目からは大学を離れて単独サークル化した。
 しかし、ここでもこれらの女性たちはそれぞれ、「私はとても感受性が強く、学校生活・職場での苦しみや社会情勢の悪化、事件や事故や天災のニュースの目撃によって、簡単に泣いたり、鬱状態に陥ったりするが、岩崎さんの文章・物事のとらえ方を読むと疲労が減るのであり、ありがとうの気持ちを言いたく思い、自分の手で会いたい会を続けたいと考えた」、「私が息子の発達障害や共感覚などの感性をバカにして息子を虐待せずに済んだのは、岩崎さんのサイトがあったから」と連絡してきた。無論、大変嬉しかったが、同時に、あんなに物静かでおとなしい女性たちが、なりふり構わずこんなタイトルで出会ったばかりの赤の他人の応援サークルを立ち上げるものなのだと驚きもした。

岩崎純一さんのお話を聴く会
岩崎純一さんのお話を聴く会


「岩崎純一さんのお話を聴く会」も、また別の大学を休みがちな女子大生が作った。そこにまた、OLや主婦が加わった。ここでも、社交不安障害や鬱状態の女性が集合した。中には、雨の中を泣きながら裸足でやって来た女性もいた。「岩崎純一さんとの合同勉強会」も、実状は全く同じだ。
 このような経緯の中、私は、いわゆる世界保健機関(WHO)のICD第5章やアメリカ精神医学会(APA)のDSMなど、日本も採用している精神障害リストに記載されている精神障害のほぼ全てについて、それぞれの障害・症状を抱える人々、とりわけ発達障害・言語障害の男児・成人男性と、トラウマ・PTSD・社交不安障害・恐怖症・鬱などを抱える女性・子供たちに出会うことができた。

岩崎純一さんとの合同勉強会
岩崎純一さんとの合同勉強会


 こういうことを書くと必ず、文章の奥の真意を読み取らずに邪推する人が出てくるので、一応書いておくが、私はこれらの女性たちのサークルの発足・変遷に一切関わったことがない。ただし、少しは邪推を許すとすれば、色々な人間関係や恋愛模様は栄枯盛衰している。だが、それは一般の職場の人間関係と同じで、当然のことである。
 サークルメンバーは、一部ずつが重なっており、次第に会の場所が、そのメンバーたちが居住する女子寮や女子シェアハウスに移動するようになった。そのうち、私がいなくても開催されるようになった。とりわけ、メンバーが寮生の半数を占める女子寮の中に、「続 会いたい会」などの本部が置かれて、「岩崎純一研究会」を称することになった。全体としては、建物名称である「◎◎ハイツ」を名乗らず、「コンフィデンシャル・レディース」を名乗ることになった。

岩崎純一研究会
岩崎純一研究会


シェアハウス型特殊女性寮 コンフィデンシャル・レディース東京(Confidential Ladies Tokyo)
コンフィデンシャル・レディース東京


 精神の居場所と物理的な開催場所との関係は、かなり難しいが、こればかりは物理的・経済的制約を免れない。そういうことになったおかげで(せいで)、男性の私はせいぜい寮の共用スペースにしか入れないし、寮のスタッフと外で談義するという段取りになってきた。私は今のところ、例えば女子寮の実務上は、サイトシステムを提供し、彼女たちが好きに活動できるようにはしている。
 私をめぐる動きは、ずっとこのような状態である。私が私である限り、そして生き方を変えない限り、このような動きはずっと続くだろう。


■喜びの背後にある孤独感との闘い

 こうしてみると、私は私自身の哲学的・精神的・社会的役割というものを考えざるを得ない。ほんの一個人・一私人としてサイトを立ち上げている人間に連絡をとった大学を休みがちな女子学生が、大学内にサークルを結成して先生を困らせたり、社会人女子シェアハウスが、一棟ごとその私人の応援サークルを結成した例が、日本にどれくらいあるかを調べたが、全く同じ例は今のところはないようである。
 それぞれが別個に立ち上がっているサークルであるにもかかわらず、私の周囲に最後まで残っている女性・子供たちは、言うこと為すことや、悩み苦しみの傾向が似通っている。ところが、それを現代日本社会全体に照らした場合、驚くほど少数派だ。私が職場や街で見かけたことがまるでない人たちである。ということは、この傾向は、女性・子供たちの側が生み出しているのではなく、私の言説や哲学やサイトの雰囲気のほうが生み出している現象であって、そのような人々を集めやすい何かを私が醸し出しているということに他ならないわけである。
 人は、自分(自己)に対して向けられる他人(他己)の眼差しによって、自分に求められている生涯の仕事を知ることができる。それが会社員や医者や弁護士である場合も短期労働者・アルバイトである場合も、どんな仕事でも立派であるし、私の場合は、学問の原点からしてニーチェ哲学・実存哲学・東洋哲学・大乗仏教哲学や日本の文化論や政体論である。今でも私の仕事はこれだと本気で思っている。
 人にはそれぞれ、社会に対して醸し出している空気や雰囲気というものがあるのであって、いかなる言動をしたところで、その空気や雰囲気を外れる人格・風格・知性を社会に感じさせることはできないし、それらを外れる人生を歩むこともできない。私自身もまた、その私自身の空気において人生を展開・謳歌するほかないのだ。
 私自身の約30年間の人生を振り返ってみるに、そもそも「私の本質」として、心に重傷を負った女性・子供たちによって前出のような精神的コミュニティが形成されるように最初から宿命づけられているというほかないのだろう。
 見てきた通り、私にまつわる応援サークルを立ち上げているのは、全て女性である。彼女たちが私をめぐって、大学や職場やNPOや家庭を離れた別の共同体を組織しようとしているということは、私がサイトやブログや彼女たちとの談義で展開している共同体概念や哲学(彼女たちが言うに、「心の交流のあり方」)が現代日本社会に存在していないか、存在自体が極めて困難であることを示しているのだし、そのことを女性の生理的な本能と直観が言っているのだから、ある意味では、私自身が私自身に恐怖せざるを得ない一方で、孤独をも感じざるを得ない。
 あるいは、私のサイト・文章・哲学を通じて、どうしても既存の社会構造、医者・患者関係、NPO、家族・親族関係においては見られないタイプのコミュニティが形成されているということは、医者やNPOや両親・親戚、そして時代や社会や大学や職場が、これらの人たちに対して、私が接しているような方法では接していないということを意味している。
 私の元に来るご相談は、女性たちが述べるに、彼女たちの大学の担当教授や主治医たる精神科医やカウンセラーには本質的・哲学的に理解してもらえなかったものばかりだ。例えば、「精神科医やNPO法人の職員から性的いやがらせを受けてから、男性が触った文具や電車の吊り革を持てなくなりました」、「発達障害の妹がいて、姉である私は結婚しましたが、妹への罪悪感に生きており、幸せとは何かを考え直すために離婚しました」、「両親から受けたトラウマで、定期的に住まいを変えています」などだ。
 そうであるから、私がこれらの女性たちを病院やNPOや両親の元に送り返すことほど愚かな「時代と社会への追従」はないわけで、私は医者や心理学者とは全く異なる、哲学上の役割を期待されていることが分かる。こういう相談を受けて、瞬時に直観的に反応の仕方と回答が見えない人間や、このような相談に総合芸術的な美を覚えない人間には、おそらく一生涯これらの相談に答えることはできない。
 以前、DV・性被害女性を救っているというNPO法人の女性幹部と話をしたことがあるが、「被害女性がいなくなったら、私たちは終わりだ」という旨のボロを吐かれたことがある。つまりは、DV被害や性被害の生産は、NPOの女性スタッフの元気の源であり、法人存続の原動力なのだ。本気で加害者を叩こうとはしていない。ちなみに私は、仕事上、会社、社団、財団、NPO、特殊法人などの各法人の根拠法令を読んでいるが、法令自体の瑕疵という意味では、実はNPOが最も、知識を持たない営利目的の企業戦士女性が立ち上げて運営しやすいからくりになっている法人組織である。私が関わるべき分野ではないと考えている。


■永劫回帰する生への「運命愛」を共有できる共同体を目指して

 一人の人間が一生のうちにできる仕事の量(金銭的対価を得る意味での労働とは限らない)は有限だが、もし神か仏(こう書くと宗教的な意味合いが濃くなるので、絶対的・普遍的一者としておく)によってその人に宿命づけられている仕事というものがあり、私にもそれがあるとするならば、私に宿命づけられた仕事は、私の言説それ自体に安心を覚えると述べている前述の人たちの気持ちを愛し、守ることによって、私自身の永劫回帰する生への「運命愛(宿命愛)」を確認し、相談者の「運命愛」に答えるということではないかと思う。
 ただし、残念なことに、外国勢力から守るのでも何でもなく、日本人(例えば、かかりつけの主治医の精神医学観や、既存のNPO法人や、虐待加害者たる両親)から守るという実務・実践的行動に出なければならないところは、全く滑稽と言うほかないが。
「愛する」、「守る」と言っても、恋愛の意味から家族愛、友情の意味まで様々だが、ここでは例えば、かのショーペンハウエルが述べるところの「意志」によって突き動かされているものとしての、愛の気持ちのことだ。ある一人の人間の自由意志による行動に見えるものは、同時に、背後にある普遍的価値によって自動的に突き動かされている行動でなければならない。
 クリスチャンでもないのにクリスチャンを気取った言い方に聞こえるかもしれないし、私自身は大学でニーチェ哲学・実存哲学・東洋哲学・大乗仏教哲学をやった身だが、ここでは、致し方なく「運命愛(宿命愛)」と呼んでみた。「運命愛」の語は、ニーチェも使っているので、とりあえず、わざとらしく変えて「宿命愛」としてみよう。
 この「宿命愛」への強烈な関心は、東京大学を途中で捨てることを決めた時にはすでにあったが、今、この「宿命愛」に基づく共同体の現代日本社会における実践の可能性について考え、そのような共同体を愛することを許される機会を、日本大学藝術学部のドストエフスキー研究者・図書館長の清水正・文芸学科教授から二つの原稿の執筆依頼という形で頂き、書いているところである。今度は、学生が私の応援サークルを学内に立ち上げて先生を困らせているのではなく、先生のほうから「岩崎よ、君自身が君の哲学や理想郷論を語ってみよ」と宿題を出されたのだ。私はそうとらえている。
 一つは、私の周囲に形成されていたり私が目指している共同体が、(一見するとただの成人漫画家に思える)畑中純が目指したそれに類似している可能性を踏まえて、執筆している。畑中純も尊敬していた宮沢賢治が「羅須地人協会」という現実の農村共同体や「イーハトーブ」という文芸上の理想郷を作り上げたように、各「岩崎純一さん〜会」シリーズやそれらを合わせた女子寮内共同体は、おそらく私に宮沢賢治のような原始共同体的理想郷の考案者としての役割を期待していることになるだろうし、そう言われなくても、私はそのような理想郷を目指している。
 もう一つは、日本大学藝術学部(日藝)を創設した松原寛(哲学者・クリスチャン)について、特にそのキリスト教観や共同体観を軸に、執筆している。松原寛は、日藝を発展させた後、天理教に入信してみたり、戦争賛美に走ったりするのだが、一貫して「キリスト教の日本化」や「日本的宗教心に基づく共同体理念」を模索しており、これがまさに「岩崎純一研究会」を掲げる女性たちや私自身が、今後NPOのような法人組織でも宗教組織でもない、宮沢賢治的な芸術・哲学・精神共同体の境地を目指すためのよい刺激になると感じている。


■宗教化を自分で阻止する自制機構という知性の必要性

250px-Atarashiki-Mura_in_1919.JPG
武者小路実篤の「新しき村」

 畑中純も松原寛も、自身の文芸や哲学が目指す共同体が安易な宗教的共同体に陥らないように、常に気を張り詰めており、あらゆる既存の共同体の問題点を研究している。このあたりの危機感が私に似ているので、大変に助かる。
 二人が著作中に挙げている、「やや感心はできるもののの、最終的には棄却せざるを得ないカルト的な理想郷概念」を列挙すると、武者小路実篤の「新しき村」、有島武郎の「有島農場」、西田天香の「一燈園」、山岸巳代蔵の「幸福会ヤマギシ会」、尾崎増太郎の「心境部落」などがある。今でこそ、後半三つが宗教的であるという意見が多いようだが、当時は武者小路実篤の「新しき村」が最もカルト的で危なかったというのは、畑中純の言う通りである。松原寛は宮沢賢治を挙げていないが、畑中純も私と同じように、最終的には宮沢賢治の共同体観に最も強いシンパシーを覚えている。
 理想郷観について私は、畑中純論の中では、古今東西のユートピア・理想郷概念を比較検討した上で、「武者小路実篤や畑中純ら芸術家によって、日本国に対する日本的・神話的共同体の死守行動としての理想郷囲い込みや理想郷文芸創作が行われたのは、歴史的必然である」旨、「国家が高度成長期に推し進めてきたグリーンピア・かんぽの宿・リゾート・テーマパークなどの巨大ハコモノ建設のほうが、カルト宗教そのものでないと言える理由はどこにもない」旨、そして、「最終的には畑中純や宮沢賢治の日本的共同体概念や人間観・神話観・民俗観以外に日本が日本を維持する道はない」旨を書いた。
 また、松原寛論においてもほとんど同じことを書いたが、「日藝と言えば、芸能人養成施設たる日本大学藝術学部の略語のように思われているが、本来は日本芸術の略語であってもおかしくはなく、松原寛の総合芸術・総合文化共同体建設の野望の真意を汲み取るべきである」旨を書いた。
 昨今は、自衛隊や米軍基地をめぐって安全保障問題が取り沙汰されているが、前出のように、私の元には、国内の人間が敵(児童虐待の加害者など)であるような相談が来ているのだから、私自身は基本的に軍事的保守主義ではなく文化保守主義的であるとしか言えない。男は永遠に兵士であって、敵を討ち続けなければならないことは私も否定しないが、その敵が国内にいる以上、日本国民全体を守る意志と大義が生じるはずもない。
 そうとなれば私は、前出の会を結成している女性たちに対して、「自分たちが現代日本社会の様々な事情(職場・家庭環境を含む)から受けたトラウマへの反骨精神が、日本的神話・民話の世界、原始的共同体概念、宮沢賢治のような悪魔的なほどに心優しい共同体概念に直結するようなあり方」において、岩崎純一に関する会を運営するように助言することを、仕事とするのが筋だろう。
(ここで、私と同じく哲学をやった人間なら、私の実存が私の本質に先立つかどうかを追究したくなったり、これらの女性たちや私の虚無がカミュ的な不条理の甘受であるのかサルトル的なアンガージュマン・社会参画であるのかを知りたくなるだろうが、これについては、後日機会があれば書きたい。)
「社会や街に出て出会えるのは、社会や街に出ている人々のみである(社会に出ろと人に助言する人の短絡的な価値観から超然として、私は社会や街の間隙を突き続ける人生を送りたい)」という大学時代からの私の信念は、こういった秘密結社的女性サークルメンバーによって、見破られ、裏付けられていると言えそうだ。
 そのような時代や社会の「よどみ」が、一個人・一私人としてサイトの運営を始めた私の元に(しかも、最初はサイト・ブログに表現された私の哲学への接触をきっかけに)なだれ込んでいるという時代と社会の深層構造それ自体を哲学的に探究し続けることが、私の仕事なのだろう。
 この連休中は、新花巻の宮沢賢治記念館などを訪れるが、私の今後の理想郷・共同体概念を熟考する機会としたく思う。
「続 岩崎純一さんに会いたい会」の中には、巨大なアウトサイダー・アートと言える高知県の「沢田マンション」に見学に言った女性がいる。沢田マンションとは、ウィキペディアにも載っているが、ある夫婦が自力で(非合法的にだが)建てたマンションで、今や名物化しており、かえって入居者どうしが強固な精神的連帯と防災意識とを有している一つの理想郷である。日本人が忘れかけたものがここには沢山あると、私も感じている。
 それで私も、個人が(物理的か芸術上かを問わず)建設した共同体・理想郷を色々と勉強してみており、今回、突然かつ人生で初めて、マンガ内に描かれた理想郷の評論などに挑戦したというわけだ。そして、結局のところこの作業は、私自身が造ろうとしていたり、私の周囲の方々が造っている私にまつわる共同体・理想郷のあり方を、私に考えさせる結果となった。


■関連ブログ記事

●非公開シェルター型女性シェアハウスとのコンテンツ連携について
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/175104249.html


■画像出典

●羅須地人協会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%85%E9%A0%88%E5%9C%B0%E4%BA%BA%E5%8D%94%E4%BC%9A

●新しき村
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%8D%E6%9D%91

2016年03月26日

乙武洋匡氏、他の先天性四肢欠損症者、コタール症候群女性(胴体・生殖器欠落妄想)の身体感覚・性衝動・生き方の比較・考察

 乙武洋匡氏の不倫騒動とショーンK氏の学歴詐称問題とで巷が忙しいが、今のところ、私の周囲でもネット上でも、女性においては「ショーンK氏は許すけれど、乙武氏は許さない」という意見が多いようである。こういうとき私は、「なぜそういう意見になるのか」と考えるよりも前に、「女性の第一直観は大抵当たっている」と考えるようにしている。むしろ、当たっていそうな恐怖を覚える。そう考えてみれば、色々と考察が深まるというものである。

 ところで、国民の本音が最もよく表れるネット上の書き込みによれば、国民(男女問わず)が一番知りたがっているのは、不倫の善悪よりは、乙武氏の教育者・父親・障害者の人権活動家としての資質の適合性の有無であり、さらにそれ以上に、(個々人で勝手に答えを夢想しながら)「乙武氏はどうやって服を脱いでベッドに上がったのか」とか、「電動車椅子からは当然降りたのだろう」とか、「乙武氏と相手の女性陣は、性行為の際に何をどうしてどうなったのか」ということのようである。

 そこで、以下の図や資料を用いながら、「目に見えないからこそ勘違いしやすい、障害者の身体感覚・性衝動・生き方」について考えてみたい。

ASURA_Kohfukuji.jpg20160326cotard.png

↑ 今回比較する、乙武洋匡氏(先天性四肢欠損症)と妄想性障害女性(胴体・生殖器欠落妄想)の「事実上の」身体感覚の模式図

乙武洋匡氏の医学的現状・・・
 頭部・胴体・生殖器があるが、四肢がない。性衝動があり、それを性倫理を逸脱して押し通すだけの万能的「自己」が確認できる。著作やネット、各メディアでの氏の言動には、自身の外性器の大きさや生殖機能を自慢する表現が散見される。他の先天性四肢欠損症者と同様、当然自力では性行動を行えないため、妻の力は借りるが、他にも5人以上の女性の手足を自らのもののごとく扱える環境で生活している。(氏自身によれば、少なくとも5人の不倫相手がいる。)

今回挙げる数人の妄想性障害女性たち(図と資料の6番に該当)の医学的現状・・・
 欠損している身体部位はないにもかかわらず、「自分には、頭部・四肢はあるが、(性的暴行被害を受けた)胴体・生殖器はなく(消え)、頭部・四肢が宙に浮いている」と訴える。性衝動はあるが、それに対応する性行動を忘却している。自身の性衝動を恨み、性倫理を逸脱して性衝動を押し通す異性に強い抵抗感を覚えて涙を流す虚無的「自己」が確認できる。著しい処女回帰願望や希死念慮を示す。


●自己意識の減失・解体・分裂などを特徴とする精神疾患女性に見られる鋭敏な共感覚について(私の講話などで用いたテキスト)
http://iwasakijunichi.net/koen/koen110619.pdf

●コタール症候群・妄想性人物誤認症候群(私のサイト内の解説ページ)
http://iwasakijunichi.net/seishin/cotard.html


 単純に見れば、乙武氏は今現在、日本の先天性四肢欠損症やテトラ・アメリア症候群の男性の中で、最も高い知名度と豊富な性経験と(女性との)人脈とを持っている人物であると言える。氏自身が暴露したところによれば、女性の四肢が少なくとも「一人4本×女性6人(妻と氏が暴露した不倫相手5人)」の計24本も周囲にある環境で生きてきたのだから、もはや障害者特有の不満・不便を感じるほうが困難な人生だろう。

 我々一般の「五体満足」の定型男性は、乙武氏を、一般男性をも越え、煩悩を押し通して多数の手足を獲得した「五体過剰満足」の阿修羅だと見るのが筋なのかもしれない。そして、非正規で懸命にあくせく働くばかりで結婚できない未婚男性のほうが、もはや手足がなく、本当に救われるべき人生と言うべきなのかもしれない。文字通り、「手も足も出ない」晩婚・未婚化社会の到来だ。

 先天性四肢欠損症で有名な方には、佐野有美さんやニック・ブイヂ氏がいらっしゃるが、ともかく、先天性四肢欠損症者にも老若男女様々いるのであり、全員が同じ性格であるわけがなく、手足がなくて不倫する人は手足があっても不倫するのである。

 Twitterなどのネットを含めたメディアでの乙武氏の言動には、自らの性器の大きさや生殖機能を薄々自慢する表現が散見される。不倫も、その「万能感創造人生」の上にあるのだろう。たとえそれが、先天性四肢欠損症についてのコンプレックスの裏返しであったとしても、氏のような生き方を選んでいない先天性四肢欠損症の男性たちの存在を、氏は知らないか、知っていても見て見ぬふりをしてきたのかもしれない。

 ニック・ブイヂ氏は、日本人女性と結婚し、二児をもうけている。聖書に助けられ、キリスト教伝道師となった。乙武氏にとっては、頭の痛い例だろう。それ以前に、仏典や聖書や宗教心と「障害を乗り越える怒涛の努力や気骨」とがどうして関係しうるのか、などについての思考そのものが存在している痕跡が、乙武氏の著述や言動には見当たらない。乙武氏は、そういうことに全く興味がない人なのだろう。

「本当に怒涛の努力をしている」先天性四肢欠損症の方々の話を聞いていると、女性の場合は、自力での性的欲求の発露・解消の機会を奪われていることよりも恋愛・結婚できない(男性から振り向いてもらえない)ことのほうを悲しんだり恐怖している一方で、男性の場合は、自力での性的欲求の発露・解消の機会を奪われていること自体に怒りを感じたり絶望しているケースが多い。これらは、もし我々「五体満足」の人間が四肢を失った場合に露骨に現れ出るであろう、我々自身の生物としての本音と実態なのである。

 その意味においては、乙武氏はおそらく、日本で最もこのような絶望体験からほど遠い先天性四肢欠損症の男性であり、恋人ばかりか妻がそばにおり、妻ばかりか少なくとも5人以上の愛人女性がそばにいるというから、あの『五体不満足』ブーム以降、日本の他の先天性四肢欠損症の男性の生き方や価値観との相違には、天と地の差が生じていたと思われる。氏はついに、多手・多足の人間となった。その結果が、今の状況なのだろう。

 乙武氏は、我が子のみならず他の児童に教育と称して自身のトイレの処理をさせてきたほか、レストランでも店員が入り口まで降りてきて自身の世話をすべきだとの主張を持っているわけで、その根底には、自身の性衝動(リビドー)と性処理問題の精神的・身体的な不始末があり、それが周囲の人々との摩擦を引き起こしている点で、氏には極めて古いタイプのフロイトの防衛機制の失敗が散見される。それは、著作やTwitterからも見て取れる。小学校の児童に対する道徳教育に使えないのはもちろん、大学や精神医学のレベルにおいても、その初歩的な行動パターンが学術的意義を持つとは到底考えられないと、私ならば感じる。

 無論、この私の見解は、「手足には性欲が宿らない」とか「性欲は脳が支配する」というペンフィールド並みの身体部位の機能分化論を前提している見解である。ただし、これは大まかに見れば正しい。基本的に、四肢の有無によって間脳視床下部などのはたらきや性的欲求の強度が異なるとの海外報告も見たことがない。

 一方で、手足があって外性器だけを切り取った場合には、違うことが起きる。男性の場合は、睾丸を残して陰茎だけを去勢した場合でも、女々しく柔和な性格になるかと思いきや、凶暴な性格になることが確認される。

「男のリビドーの安定は、脳と陰茎と睾丸との適切な関係に宿る。」

 これは、人体実験ができるわけがないので、歴史を証人とするほかないわけだが、中国やイスラム国家の宦官をはじめ、その圧倒的な暴政ぶりを見ても分かる。

 ところで、四肢があって五体満足であるのに四肢がないと感じられる症状や、四肢がないのに四肢があると感じられる「幻肢」などの症状は、共感覚研究などでも知られるヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン氏らによって研究されている。「幻肢」の多くは、元々持っていた四肢が交通事故などで失われた場合に起きる。事実、先天性四肢欠損症である乙武氏の著述や言動からは、氏に「幻肢」がないことが伺われるし、そもそも氏にとっては、身体障害者である自分の人権の向上が関心の全てであって、「幻肢」の苦しみといった、世にいくらでも転がっている内面的テーマそのものへの関心は観察されない。

 ならば、性器があるのに性器がないと感じられたり、自ら性器を切り取りたいと渇望したり、自身の性欲を恨んだりするケースは、性被害を負ったPTSDや解離性障害、不安障害、強迫性障害の女性たちに偏って見られる。

 このうち、最も重症なのが、コタール症候群 (Cotard delusion)、カプグラ症候群 (Capgras delusion)、フレゴリ妄想 (フレゴリの錯覚・Fregoli delusion)、相互変身症候群 (Intermetamorphosis)、自己分身症候群 (Syndrome of subjective doubles)などと名づけられている一連の妄想性の症候群で、日本においては、一括に「気分障害」の「単極性障害」、つまり「うつ病」として診断されることが多い。海外においては、妄想性障害、つまり統合失調症圏の症状であると見なされるケースも多い。コタール症候群以外は、妄想性人物誤認症候群とまとめられることもある。

 これらの妄想性障害については、以前、私がこれらを抱える女性たちと直接話をして、一気に知識が得られた。

 女性たちが訴えている妄想の例は、冒頭に挙げた資料やページの解説の通りである。以下に引用しておく。強迫性障害のように、妄想であるとの自覚がありながらやめられないケースもあれば、妄想かどうかを尋ねてきたり、妄想ではないと確信しているケースもある。

 ある女性は、突然「私の体の真ん中が消えたので助けてほしい」、「私は、手足だけが浮いて動いている」と訴えたが、これも、性被害によって極度の複雑性PTSDが妄想性障害を併発した例である。いわば、頭部を除き、乙武氏や佐野有美さんにない身体部位があって、氏らにある身体部位がない状態を、本人が自覚しているということである。この女性は今、元々腕がないのにあると感じて苦しんでいる「幻肢」の女性と仲良くしている。どうして気が合うのかが、私には分かる。


▼私が交流してきた日本の性被害女性(精神病性障害・妄想性障害を発症)に特徴的なコタール症候群の妄想

「私はすでに死んでいる」
「私はまだ生まれていない」
「私には性器・胸部・口唇部が存在しない」=性的被害に遭った部位を脳が無視
「私の頭や体は、それらの部位を虐待で殴打されたときに消滅した」=虐待被害に遭った部位を脳が無視
「私はこの苦悩のまま永遠に生き続けなければならない(いかなる方法によっても死ぬことができない)」(不死妄想)

▼私が交流してきた日本のの性被害女性(精神病性障害・妄想性障害を発症)に特徴的な妄想性人物誤認症候群の妄想

「本物の私はどこかに別に存在する」
「私の家族は替え玉で、同じ顔をした本物の家族はすでに死んでいる」
「私の部屋にあるぬいぐるみは、昔捨てたぬいぐるみの生まれ変わりで、私を呪うためにやって来た」
「私のかっこいいパートナーは、自分をだます(恋に落とす)ために宇宙軍から送り込まれた男で、同じ顔をした本物のパートナーは別の場所にいる」
「私の性器・胸部・口唇部は常に新品で、性的被害を受けたりパートナーに接触されたりして古びるたびに、性器製造工場などから新品が供給されている」


 一方、乙武氏の場合、「四肢がないこと自体の苦しみ」がほとんど観察されない一方で、「“四肢がないこと自体の苦しみがあるかのような自己を作っている自己”を見抜いている世論への不満の爆発」が自身の性衝動(しかも、満たされない性衝動ではなく、不当に満たされているはずの性衝動)についての処理能力の欠如に根ざしている点で、私個人から見ると、氏の障害者観や男女観には感動を覚えないし、ベルクソンの言う「生の躍動」としての「エラン・ヴィタール」も全く感じない。

 私は『五体不満足』も読んだし、最近の乙武氏の思想や行動もずっと追ってきた。しかし、今述べた「幻肢」体験者やコタール症候群を抱える性被害女性から学んだようなことは、氏からは学べなかった。性被害女性への支援を謳っているNPOの女性幹部たちからも学べなかった。私のように、助けたい「障害者」と助ける気が起きない「障害者」とがはっきりしている人間も少ないのだろう。ただし、それは冷酷な仕打ちではなく、むしろ適切な優しさであると確信している。

「ショーンK氏は許すけれど、乙武氏は許さない」という女性たちの意見は、以上のことを本能的・直観的に踏まえた上での意見であろうというのが、私の見解である。

 一つだけ分かることは、乙武氏は今回述べたような女性を好まないか、性欲の対象としてしか見ないかもしれないし(乙武氏と違って、ほぼ皆全身のパーツがそろっているのだし)、逆に、これらの女性たちは乙武氏のような男性に強い抵抗感を示し、道を誤った阿修羅の姿を見るだろうということである。


【画像出典】
●阿修羅
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BF%AE%E7%BE%85

2014年05月15日

井筒俊彦生誕100周年

ToshihikoIzutsu.jpg 5月11日に池袋のジュンク堂に行ったら、井筒俊彦生誕100年記念フェアをやっていて、井筒俊彦の誕生日が今頃(5月4日)だというのを思い出した。こういうときに「灯台下暗し」と言うのかどうか知らないが、普段読んでいるのに誕生日を思い出せない哲学者は結構いる。

 しかも、どういう奇妙な運の巡り合わせか、11日は、井筒俊彦の『意識と本質』を人に貸すために、夕方に家から持ち出す予定だったので、余計に驚いた。日本語の歴史的変遷を知る上で読んでおいた方がよい本を求められたので、せっかくならと、自分の蔵書から、金田一京助の『日本語の変遷』などの日本語学関連の本や『古今集』などの和歌関連の本とともに、何冊か持ち出した哲学書のうちの一冊であった。最近の学者だと、新形信和の『日本人の〈わたし〉を求めて―比較文化論のすすめ』などが好きだが、こちらも貸し出した。

 ジュンク堂の井筒俊彦の本のすぐ隣には、必定、大川周明の本も並べられていた。私の個人的な井筒哲学への入り方としては、禅・唯識・言語アラヤ識の側面が最初であったが、イスラム思想の側面からも、二十代に入って様々な宗教学書と並行して読み始めた。

「側面」と言っても、コインの裏表であることは間違いない。アメリカ同時多発テロが起きたのは十代の終わりだったが、その頃はニーチェやハイデガーを読んでいた時期だったので、宗教学をそこまで真剣にやっていたわけではない。

 それにしても、井筒の言語アラヤ識を理解するためには、唯識や華厳、例えば、鎌田茂雄の『華厳の思想』などを前もって読んでおくのも手かもしれない。というより、そういった別の仏教書や哲学書、言語学書を注釈書として設定するのがよい読み方だと思う。

 ところで、チョムスキーの生成文法理論における普遍文法の東洋的実存版とも言える言語アラヤ識ではあると思うけれども、言語アラヤ識への「無意識の意識」は、そのままサピアが批判的に名づけたSAE(Standard Average European=標準平均欧州言語)に基づく従来の優勢学的言語学からも超然とした、いわば涅槃的境地でもあるのだから、一度井筒哲学を自分の言語観に著しく引きつけて読んでしまった私のような人間には、どうしても生成文法理論への興味が自分の実存・生き方・人生や気持ち・感情とは切り離されたものになる。

 チョムスキー階層における終端・非終端記号による生成規則のままでは、SAEはなお、まさに標準平均的なSAEであり続け、日本語を含む東洋言語や世界中の滅亡寸前の少数民族言語に対して世界標準平均的に君臨しうると思う。井筒の言語アラヤ識においてはそのような態度がほとんど消失しており、そこに真の深みがあると個人的には考えている。

 そもそもSAEの優越に対する批判精神が言語アラヤ識そのものであるし、それをイスラム教圏・クルアーン・アラビア語にまで広げてとらえた井筒俊彦という男の心優しさに私は惹かれてきたわけで、その原点は今でも忘れたくないと考えている。

 今現在の私は、こうして自分のサイトをHTMLで記述したり、先日のようにプログラミング言語のJavaScriptによる共感覚ゲームをサイトに載せたりしているけれども、今や自分の中ではチョムスキーの普遍文法への興味は、私の中ではそういう作業において参照するものになってしまっている。

 すなわち、チョムスキーの言う(仮想する)「普遍文法」が、私の中で、「世界中の人々の心に当てはまる」ものどころか、むしろチューリング完全なプログラミング言語・形式言語の学問的追究のための道具・ネタになってしまっているというのが実状である。

 もしかしたらチョムスキーの思想もそういうものではないのかもしれないが、井筒俊彦や大川周明の思想を知った後では、なかなか後戻りすることが難しいのも事実である。

 そこから、「プログラミング言語の文法は常にSAE的であり、SAEの文法は常にプログラミング言語的である。一方、クルアーンのみならず、そもそも旧約・新約聖書でさえ、普遍文法の文脈で読解することなど不可能であり、多分に言語アラヤ識において体得されるべきものである」という私自身の考えも出てきたのだ。

 さて、そこで井筒哲学のイスラム教研究の側面だが、大川周明と同時並行して読むと、いかにイスラム教が、仏教及び仏教のシステマティックな側面が八百万の神々を「道」化して成立した神道と、西欧列強の帝国植民地主義に乗って侵出してきたキリスト教との間を取り持つ、東洋的かつ西洋的な宗教であるか、さらには昨今のテロリズムがいかに非イスラム教的であるか(預言者ムハンマドの大局観からそれているか)といったことが分かる気がするのである。

 アメリカがイラク戦争を戦績の意味でも人道的な意味でも完全勝利に終えることができなかった遠因の一つには、戦績の意味では東京裁判という事後裁判の強行(国際法上、違法な手続き)、人道的な意味では原爆投下(非戦闘員・民衆の大量殺戮)という重大な借りを作っていながら、いざGHQの支配下に日本列島・天皇・国民を置いたところ、日本のほとんど誰もが反抗しようとせず、そのままGHQ支配と不平等な安保条約、そして朝鮮・ヴェトナム戦争特需の恩恵を受けて(それこそ日本国民の「識」における戦争肯定の大衆心理によって)高度成長を遂げる日本のスタイルがあっさりと成立してしまったことがある、つまりは、同じことがイスラム教という宗教、中東の人民に対しても強行できると踏んだことがあることは間違いないと思う。

 先日、ある保守系政治雑誌で、独立総合研究所の青山繁晴氏がイラク戦争直前に、アメリカに「一神教に対して日本支配と同じやり方をやろうとしたら絶対に間違う」と進言していたが、聞き入れられなかったことを知った。これは、俗っぽい雑誌の中で今の時代の文脈で言ったものだから、見過ごされがちだと思ったが、これには一理あるどころか、井筒俊彦や大川周明が生きていたなら最初に発した言葉かもしれないと思う。

 大川周明が東條英機をひっぱたいた真の理由など知るよしもないが、それはともかく、今後もブッシュ前大統領やオバマ大統領がクルアーンを読んだり、井筒俊彦や大川周明を読むことはないだろうと思うのである。

 はっきりしているのは、アメリカにとって戦争・占領統治をしかけるのが最も簡単だった(今なお簡単である)のは日本で、かなり難しかったのが中東だということではないだろうか。

 ところで、少し個人的な興味から、最近は、井筒俊彦や種村季弘が入っていたエラノス会議がまじめに共感覚を研究してくれないかと期待しているが、もっと神秘的・トランスパーソナル心理学的な要素が必要らしく(神秘的と言っても、井筒の言うようなそれではなく、オカルト的な意味)、もはやほぼ新宗教系組織のようになっており、むしろ「科学的に立証済みの非日常的現象」にはあまり興味がないようである。


【画像引用元】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E7%AD%92%E4%BF%8A%E5%BD%A6

2013年10月13日

巫女・陰陽師と解離・離人・憑依などとの関係

 以下の二人の議論の一部を文字起こししたものです。

よっすう:「心・生きること・言葉」管理人 http://www.kokoro.daynight.jp/
岩崎純一

-----

よっすう

 私は、岩崎さんの『私には女性の排卵が見える』を読ませていただいて、共感覚についての考えが変わったというか、より不思議でわかりにくくなってしまった点があるのです。

 共感覚とは、ひらがなの「あ」が赤茶色とか、ドレミのドが紺色といったものだと思っていて、それは私もあるのですが、人に色が見えるのを「共感覚」という名前にしていいのかな、という気持ちもあったからです。

 私も人や動物に色が見えるのですが、(それを人の気持ちとか動物の気持ちだと思っているのですが、)共感覚は、もっと、何というか、科学的や医学的に実験できるようなものでないとダメで、心にまつわる内容はまた別問題かなと感じていました。私がそう思うというよりは、人から別問題と言われたからなのですが。

 でも確かに、そうしなかったら、聖徳太子が仏の力を借りて十七条憲法を作ったとか、卑弥呼が神がかりして占いをやったのも、それが本人にとって「本当」のことだとすると、文字に色が見えるのが「本当」なのと同じで、れっきとした「共感覚」ということになってしまいますので、私のような解離・離人症状の頻発する人には、感覚的にわかっても、一般によりわかりにくい説明になるのではないでしょうか。

 ちょっと心配です。


岩崎

 たぶん、そこが一番難しいところで、実はこの問題は、いわゆる言語学上の「シニフィアン」と「シニフィエ」の問題にすぎないとも言える気はしますね。これは、ちょっと難しくなりますが、ソシュールという言語学者の用語でして、「意味しているもの」と「意味されているもの」ということです。

 人や動物に色が見える感覚は、「何かに色が見える感覚全般」を「共感覚」と定義すれば「共感覚」になるし、「文字や音に色が見える感覚」を「共感覚」と定義すれば「共感覚」ではないことになります。

「共感覚」という辞書的・百科事典的な用語の定義の決定権、というよりは決定義務ですね、そういうものは人間にあるわけで、まずは「共感覚」の定義を辞書に書かなければなりませんね。

 多少トリッキーな言い方で言い換えると、「共感覚を持つ人間がいる」のではなくて、「人間が人間に共感覚を持たせている」にすぎないと言うことも可能です。もちろん、その意味において「共感覚者は存在する」という言い方を日常で用いることはありますけれどね。

 こういう学術的態度は、実は昨今の精神病理学において顕著で、例えば「世の中に統合失調症者が実在するのではない。統合失調症の診断基準を満たす人間が実在するだけである」ということが、バージョンIV以降のDSMの冒頭でもきちんと宣言されています。

 こんなことは、哲学でポスト構造主義をやったことのある人にとっては当たり前すぎて滑稽かもしれませんが、結局行き着くところはそこですね。

 共感覚についても、そこを勘違いしてしまう、つまり「実在するのは、人間が勝手に定めた共感覚の語の定義とその内容のみである」という重要な点を見逃す風潮を防がないといけませんね。私は、言語学や仏教哲学が好きで、だからこそ岩崎式日本語などという言語を手作りしたわけですが、わりとそういう思考を持っているところがありますね。

 その意味では、私の「共感覚」の理想的定義は、日本の他の研究者とは異なると言えるかもしれません。

 でも、あなたのおっしゃる通り、私は、女性の排卵が見えるという自分の感覚を「対女性共感覚」と呼んでいるものの、無理矢理「共感覚」を引っ付けて、従来の「共感覚」の定義を綱で引っ張ってきたと言いますか、自分用に引き込んだ感はありますね。

 もちろん、「女性の排卵に色が見える」感覚のうちの「色が見える」という部分を優先的に取り上げたら、「共感覚」には間違いないわけで、それが無かったら「共感覚」を名乗るのは良くないと思いますけれどね。

 ただ、本当に私のこの感覚を好き勝手に名付けていいなら、例えば、ベルクソンの「エラン・ヴィタール(生命の躍動)」や西田幾多郎の「純粋経験」というようなものになると思いますよ。フロイトのリビドーとは、またちょっと違う気もしますけれどね。その辺のことはややこしくなるので、また。


よっすう

 私はどちらかというと、岩崎さんの共感覚は、共感覚というよりは私たちっぽい、要は、巫女の男性バージョン的な感じがするのですが、「共感覚」という言葉の定義を変えてしまえば、たしかに「共感覚」になるのかもしれませんね。それも一つの手かなと思いました。

 私のような解離性障害の女性とか、それから知人にも解離性障害で巫女さんをやってる子がいますが、この前の解離性やヒステリーや巫女などについての岩崎さんの説明や持論を見ていると、どうも岩崎さんは、共感覚と同時に解離性・統合失調症の研究路線の人かな、と思ってます。

 それはともかくですが、昔の巫女の症状としては、やっぱり今も解離性障害が一番の候補なのでしょうか。

 今は、狐憑き・憑依・イタコ・神がかり・トランスなどの症状は、なんでも「特定不能の解離性障害」に入れられていると思うのですが、中にはちょっと統合失調症側に入ったり、神経症側に入ったりするのもあると思っていて、全部が全部「特定不能の解離」っておかしいのではないかと思うのですが・・・。


岩崎

 最近、この件について、別の解離性障害の女性と議論しているので、ほぼ同じ答えになりますが、私の経験を書いてみますね。

 私は男性ですので、本来なら、「女性の身体現象が色で見える」共感覚の持ち主を探そうと思ったら、女性の「巫女」よりは、男性の「陰陽師」に関心を示すべきかもしれません。

 これも、「岩崎さんは陰陽師に興味はありますか」と聞かれたので、改めて考えてみたのですが、いわば「陰陽師」路線で行こうとすると、あまりに障壁が高いなという気がするのですよね。

 私がいつも「巫女」のほうにやたら詳しかったり関心が偏っているのは、解離性障害者や共感覚者と交流しようと思って探したら女性が多く見つかってきたことと、あとは解離や和歌の関係の交流などで、巫女さんの知り合いが多いからだと思います。

 それに、現在の日本では、巫女はいますけれど、陰陽師はいないですからね。当たり前なのですが、重要なところですね。つまり、陰陽師は完全に伝説上・文献上の存在なので、直接会話して共感覚を確認するなんてことができないのですよね。

 どうしても、巫女などの女性相手にしか研究ができないです。男性を相手にしようにも、テレビに出ていらっしゃる霊能者くらいしかいないですが、個人的に気分が乗らないですね・・・。どうしてもそういう世界が苦手です。

 これ自体が、「女性のほうが古代的感覚を後世まで残しやすい」ことを物語っていますけれどね。基本的に、近代霊能ビジネス・霊感商法を最初に始めたのも、男性だと思います。今は女性もいますし、霊感商法のひどさが男性並みになっていますけれど。

 それはともかく、「陰陽師」路線は、壁が高すぎますね。あとはドラえもんにタイムマシンをお願いするしかないですね。

 そうなると、歴史上の時間軸を遡るのではなくて、今現に生きている男性の中でも、それに近い存在、つまりは男児ですね、いったい男の子というのはどういう発達過程を辿るのかを見るのが、一番良いのでしょうね。

 しかし、陰陽師の伝説自体は興味深いもので、女性もいたでしょうが、安倍晴明のように、だいたいは男性が務めるものでしたね。私が昔に生まれていたら、巫女ではなく陰陽師だったのかもしれません・・・。それも余談ですし、自己満足ですが。

 さて、巫女については、私はサイトを始めて以来、色々な巫女さんと交流させていただいていますが、これも結局、「巫女」という言葉の定義の問題なのですよね。そもそも、私の興味自体が、巫女と交流することだけではなくて、現代における巫女的な女性の知覚世界を知ることによって、その知識を自分の「女性の身体現象が色で見える」という感覚に照らし合わせ、自分を知ることにもあります。

 交流してきた巫女さんと言えば、皇居の中の「宮中三殿」というところで内掌典(いわば巫女の最高権威のような女性で、多くの場合一生涯処女を維持します)をされていた何人かの女性、それから京都・奈良・鎌倉などのいわば古代・中世都市の息の残る大きな神社で巫女をされていた女性、あとは、地方の小さな神社の巫女さん(こちらが一番、私のような素人が気兼ねなく会話を許されるわけですが)などですね。

 でも結局、「巫女」と言っても、定義が二重なのです。「巫女」は現在でもいますが、それは第一には「職業巫女」のことであって、「巫女的な女性」であることは意味しないですからね。

 例えば、今年は伊勢神宮の式年遷宮で盛り上がっていますが、「祭主」と呼ばれるお立場を黒田清子様がお務めになりました。広義で言えば、一種の巫女です。ちょっとTwitterにも書いたのですが、この祭主は、とっくの昔に途絶えた「斎宮」と勘違いされやすいので、余談ですが、Twitterを信用しておきます。

「神宮に近い巫女歌人様にも斎宮と祭主の混同が見られるのは、大中臣氏、三条西家、有栖川宮家などの名門歌道家が祭主を兼務したことや、斎宮自体がとっくに途絶えていて祭主と勘違いしやすいこと、今は女性による祭主継承に変わっていることと関係している気がします。興味深い点です。」

 こんな具合に、本職巫女でも勘違いすることがあるような、日本文化の知られざる奥深い部分なのですが、一つ問題なのが、滑稽なようですが、黒田清子様が共感覚者かどうか、祭祀の途中に解離なさったかどうかなんてことは、巫女的立場をお務めになったというだけでは分かりようがないということです。

 要するに、現代日本では、女性は次のように分けられるとしか言いようがないわけです。「巫女的な巫女」、「巫女的でない巫女」、「巫女的な一般女性」、「巫女的でない一般女性」です。もちろん、相当におおまかに言えばの話ですよ。

 ただし、今現在でも、神職巫女・本職巫女の女性ほど、短期的に務めるようなアルバイト巫女・研修巫女(普通の女子大学生など)よりも、共感覚や解離性障害の保持率が極めて高いということは、ここで言っておきますね。これは私の畏敬の念からの褒め言葉というより、交流経験からの事実として言っています。これを今は「本物の巫女」とでも呼んでおきましょう。

 女性は、DV被害や性的被害などを受けなくとも、大自然の中や、高度文明の波及を受けにくい領域で生活しているというだけで、解離する性である、というのが、私の考えです。

 もちろん、現在では、解離性障害はPTSDと似た脳の動きをしていることが分かっていて、統合失調症はそれらよりも原始的・器質的な症状で、動物にもあると言われている点では、解離性障害全体が「近現代病」であると言うことが出来ないわけではないですね。要するに、古代の巫女は大体が「統合失調症」だろう、「解離性障害」ではない、と考える人が出てくるはずです。私はそうは思いませんけれど。

 解離性障害の場合、PTSDと同じで、ほぼ必ずDV被害や性的被害など、本人が(解離性同一性障害の場合、主人格や基本人格が)知らないか、信じようとしない(他の人格なら知っているかもしれない)人生上の事件・事故の存在を医者は想定しますから、解離自体がすでに「巫女的」ではなく「後天的」ないし「近現代的」であるとする姿勢がほとんどだと思います。

 これに対しては、私は、「現在において解離、憑依、統合失調症、鬱病、神経症性障害、共感覚などと呼ばれている症状の総合的・融合的な事態全般のうち、人格障害(パーソナリティ障害)、特に境界性人格障害や反社会性人格障害を伴わないもの」をかつての「巫女的なあり方」だと考えますね。

 どうしてかと言うと、今あなた以外に議論していると言った解離性障害の女性や、今挙げた巫女は、虐待などの被害体験なしに解離の世界を生きていて、なおかつ人格障害を伴っていないことから、「解離というものが女性において人格障害とは無関係に起こりうるもの」であることが明らかだからです。

 一番重要なのは、「現代の一部の女性の脳は、現代的な事件に耐える時に、どうして古代と同じ方法を使うのか」という観点だと思います。例えば、「小学校におけるいじめ」や「義務教育における落ちこぼれ」などという、近現代にしか存在し得ない概念に耐えるときに、解離とか憑依とか統合失調症とは別の(人類史上に今まで無かった)現代的な症状が出てもよいはずです。

 ちょうど、「うつ病」と「新型うつ病」(後者はマスコミの造語)の関係がこれに近いです。人格障害の場合も、これに近いものがあります。例えば、「加害者に同じことをやり返す」、「相手以上にわがままで自分勝手になる」、「あらゆることを社会や他人のせいにする」などは、新型うつ病や人格障害の典型的な特徴で、こちらは「現代的な反逆のやり方」だと思います。

 でも、あなた方(「心・生きること・言葉」の)3人は、悲劇的または現代的な事件に遭遇していながら、私が解離や和歌の関係で交流してきた本物の巫女さんや、先に挙げた解離の女性と似たことをおっしゃっています。共通点は、いわゆる人格障害、とりわけ境界性人格障害を伴っていない点で、真正の解離を起こしていると言える点です。

 つまり、人に八つ当たりしたり暴力的に反撃したりはしない。リストカットや拒食・過食もない。ただ解離し、ただ憑依して、社会を悲しみ、祭祀に身を捧げているだけです。私が個人的に最も深い関心と感銘を覚える「巫女」の姿です。

 もちろん、あなた方の場合、解離の原因が相当に明白である点は、今別に議論中の解離性障害女性のように元々解離の素質を持つタイプの女性や、本職巫女の女性とはちょっと違うということは言えるのかもしれません。後者の方々は、女性というのは、性的被害、姉妹の性的被害の目撃、いじめや殺人など悲劇的ニュースへの心的反応、ペットの死などの経験がなくても「解離することがある」存在であるということを、如実に示していますからね。

「女性として生まれた」ことだけを条件に、つまり、素質的・器質的に解離経験をしている女性は、今挙げたような女性と、それから、やはり本職巫女に多いのです。

 あなた方が私の作った「言語・言葉」を必要とお感じになるのは、むしろ「言語・言葉」で明確に伝達できる人生上の事件・事故を持っているからで(何年何月何日に何をされ、いつの時期から解離した、など)、私の言語を必要とする人には、やはりそういう人が多いです。これが、岩崎式日本語のあまりに極端な閉鎖性を作り上げている原因でもあるのですが・・・。

 私も、巫女職と解離性障害を兼ねている女性を何人か知っています。巫女をやっていたらいつのまにか解離した女性もいれば、解離性障害になったから巫女になろうかな、と言って巫女になった女性もいます。もうこれ自体が、このような女性が持つ本能的なベクトルを示してくれます。

 もちろん、今は多少は本職巫女の伝統も薄れていて、一般の女性の感性や流行とそこまでの違いは無くなっています。あえて言ってしまいますが、今は大きな神社の巫女さんよりも、小さな個人的な和歌の会でのほうが、性的儀式のような傾向が強いですね。中山太郎の『日本巫女史』に記録されたような性的儀式は、巫女を離れて歌会など遊戯の世界に紛れ込んでいますから。

 今の一般女性の常識から言って衝撃的なことをやっているのは、伊勢神宮の巫女でもなければ、皇族女性でもなく、秘密主義的な伝統歌会です。衝撃的と言っても、今の性風俗産業のような風紀の乱れ方ではないですよ。

 私はこのようにして詠まれる「和歌」を「伝統和歌」と呼んでいますので、逆に古典語で詠まれただけでは「伝統」とは呼んでいませんね。ただし、今でも、歌会で転換性・解離性障害を発揮しつつ古典語で和歌をポーンと読む女性はいらっしゃいますね。

 内掌典や大神社の巫女の女性では、いまだに「生理中は、周りのものに触れてはいけない、男に会ってはいけない」といった性的な決まりはあるし、常々これに従って生活・行動されているのですが、直接的な性の儀式のようなものは、ほとんどなくなっていると思いますね。

 そもそも、一夫一婦制など、今の皇室は、日本の伝統を背負いつつも同時に極めて洗練された近現代の西洋的家族観に従って動いておられるからこそ、欧米で高く評価されるのだし、それはそれで大正天皇以来の「伝統」として継承していくのが良いと私も思いますね。明治天皇の時代は、天皇も上級の皇民男性も一夫多妻でしたけれどね。

 今は巫女の世界では、「性的な決まり事」があるだけで、「性的器官を用いた行事」はほとんどないと言ってよいと思います。歌会ではそうではないですけれどね。ただ、ここから和歌だけを後世に残して、性的儀式的要素だけを過去の野蛮なものとして抜き取って捨ててしまい、解離・離人・憑依・トランス・共感覚などの側面は「疾患」・「障害」・「知覚現象」などに個別に概念化する、という作業はいずれ行われると考えるのが自然でしょうね。

 その点では、歌会と同じ遊戯を担う芸妓・舞妓さんやコンパニオンの世界が興味深いですね。そのような歴史的な路線を半ば公然と歩んできた世界でしょうから。まあ、ここの世界に入るにはお金と別種の興味がたくさん必要なので、私は知りませんが・・・。

 ともかく、歌会で和歌を詠んだ後に、「詠んだつもりがない(詠んだことを覚えていない)のに詠めた」ことがあったり、「ふわーーーーー」「いやーーーーー」というような吐息や声を出したり、花や月や動物を見て涙ぐんだりするのは、本来的な解離・離人・憑依といった症状の融合であると私は考えています。

 長くなってきましたので、そろそろ今日の結論に入りたいのですが、虐待・暴力に遭った女性と、最初から巫女として生きることが決定されていて現にそのように生きている女性や生得的・素質的に解離しやすい女性とが、現代においてもなお同じ症状に陥っている、というところが、まさにポイントだと思っています。

 ここから私が導き出せるのは、やはり、「本当は、女性は多かれ少なかれ、生まれつき解離的・憑依的・巫女的存在である」けれども、「現代においては、解離性障害女性のほとんどに人格障害が併発しているから、かえって巫女的解離を引き起こしている女性の存在など顧みられなくなった」ということです。

 本来なら、「女性は、何かひどい目に遭ってから解離する」のではなく、「女性が解離において遭遇するものがひどい目である」ということが言えるはずです。それは取りも直さず、「本来、女性は、すでに解離的であるから巫女的であり、巫女的であることは解離的である」ということだと思います。そのことを、現代の少なからぬ女性が忘れかけていると感じます。

 私としては、巫女的解離を引き起こしている女性をより「女性的」であると感じますが、現在は解離性障害の女性のほとんどに人格障害も診断されているということは、ある意味では「人格障害は女性的」であるということになりますけれどね。

 こうして考えると、ある人生上の事件、例えば痴漢被害に対して、次の日にはケロッとして立ち直り、笑って仕事に行ける女性もいれば、強度の不潔恐怖や鬱、解離を発症して自殺まで考える女性もいるのはどうしてか、答えが見えてくるような気がします。

 現代的な人格障害を伴って反撃するような場合は、「女性性が人格障害になっている」のではなく、「その人が女性性を失っているから、解離・憑依せずに人格障害寄りになった」と私は解釈するわけです。

 さて、そうなると、「女性の感性」が「女性の理性」だとも言えそうなのです。むしろ、女性が感性を失うことは、とても怖いことではないでしょうか。私は、人格障害を大いに伴った現代の解離性障害を見ていると、「かなり器用な理性」を使っていると思えます。

 過剰なまでに女性の社会進出をうたい、「男は、男として生まれたこと自体の恥を知るべきだ」するフェミニズム団体の主張などもありますが、私が思うに、これは「極度の現代女性の器用な理性」から出たものであって、「巫女的感性」から出たものではないと思います。

 癇癪持ちの人格障害の女性に多く出会ってきましたが、「男性を打ち負かす」ことを考えている女性は多かったですね。しばしば「女は感情に走りやすい」と言われますが、そう言う場合の「感情」とは、結局のところ「理性」の負の遺産であり、近現代の女性に新たに生じた脳神経系メカニズムでしょうね。

 私が出会ってきた歌会の巫女さんは、そんな「感情」の出し方はしませんでした。他人に対して癇癪を起すのではなく、自然に対して畏敬の念を覚えるという意識が人生の第一義にあるようでした。

 簡単に言うと、今は「巫女性喪失」の時代になったと思いますよ。それに真正の解離性障害の女性がどう耐えていくのか、心が痛いですが、関心を持って見ていきたいと思います。

 私の考えでは、あなた方を含め、今述べてきたような「解離性障害」の持ち主のことを「巫女的」と呼んでいますし、素質的・生得的に起こりうる解離と悲劇的体験後に起こりうる解離の共通点への注目は極めて重要だと思います。

 あるいは、共感覚者のうち、そのような考え方・感じ方を持っている共感覚者は「巫女的」だと思います。また、解離性障害などの診断名や共感覚などの知覚現象名を付されたことのない女性であっても、そのような考え方・感じ方を持っている女性は「巫女的」だと思います。

 その意味では、現代において、解離性障害者にも共感覚者にも(少ないながらも)「巫女的」な人はおり、そうでない人も大勢いるということになります。男性の場合、共感覚の巫女的な側面とは、「近代的な文字記号に色が見える」感覚のことだけではおそらく済まないし、「排卵に色が見える」感覚を含むようなものになるかと思います。

 でも、「陰陽師」路線は、なかなか前途多難に思えますね。その点では、解離性障害の女性と巫女の女性がうらやましい気がします。お互いに、「私たちは同じ感覚を持っています」という言い方ができそうですからね。

 私のような感覚を持った男性が、「私は安倍晴明と同じ感覚です」などと言ったら、あまりにおかしなことになりそうですからね。しかしそれでも、陰陽師の知覚世界は、今で言う解離・離人・憑依・共感覚などの融合的な事態に近かっただろうと、私も思います。

2013年07月29日

私の「対女性共感覚」を原初的「対幻想」と見る解釈について

 私が持つ「女性の生理現象全般(排卵・月経など)が見える共感覚」について、第三者がどのように見ているかを知ることは、大変興味深い。(この共感覚については、自分で「対女性共感覚」と名付け、拙著でも取り上げた。)

 もっともそれは、このような摩訶不思議な共感覚の実在が認められるか否かといったことへの興味ではない気がしている。それは例えば、うつ病者が、自らのうつ症状を認める人と認めない人とに知人や世人が二分されることよりも、自らのうつ症状が世に対していかなる形而上学的または存在論的または現象学的意義を有しているかに関心を持って生きる「自己そのもの」の「うつ性」に関心があるのと、よく似ていると思う。

 また、私の「対女性共感覚」が、個人の精神病ないし精神障害であるか、いわば汎男性的(パン=ダンディズム、パン=マスキュリニティー)なものであるかが、心底から第三者によって問われるような機会に、もっと出会いたいとも思っている。

 私の場合、私自身のこの共感覚が女性に対していかなる「はたらきかけ方」をしているかについて第三者がどう見ているか、それが重要だと感じている。もっと言えば、繁殖行為・排卵が可能な若い年齢にありながらも必ずしも「私の好みとは限らない」女性に対しても発揮可能なこの共感覚、すなわち、ある意味で「全女性的」・「汎女性的」・「パン=フェミニズム的」な共感覚の持ち主である男性に、どうして極めて「ごく普通の現代的な」「特定の女性個人に対する」恋愛感情が可能かについて、第三者がいかなる説明を与えるかに、重点的に関心があるのである。

 養護学校で多くの発達障害者・知的障害者・身体障害者と関わってこられた松本孝幸先生は、私についての文章をサイトに執筆・連載して下さっている。先生の「岩崎純一」観は、私自身の「私」観に現在のところ最も近いものの筆頭であると思われる。

 先生の文章は、私のサイトの「掲載媒体」のページにまとめている。私が以前、「私の共感覚観や人間観について、私以上にうまくお書きになっている松本先生という方がいらっしゃる」旨を知人に語ってみたところ、その知人がまとめて記事が読みたいという要望を下さり、それを機にまとめてみたページである。

 例えば、以下のページにある「対幻想」とは、明らかに吉本隆明の語であり、「対幻想論」が意識されている。

「獲得性過干渉」
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/noutensi11.html

 松本先生の場合は、一言で言えば、私の「対女性共感覚」を「近代男性が男性疎外によって忘却した基礎的な対幻想」、すなわち「性的関係性を有する幻想領域から産出されているもの」であると見ておられる。この見方は、松本先生の私についてのあらゆる文章で一貫していると感じる。

エロス核と対女性共感覚
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/kokoro9.html

日本人の「共感覚」傾向
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/higuti45.html

心的現象論と共感覚
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/ryoukai29.html

「若者宿」と共感覚
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/higuti24.html

 当然ながら、「対幻想」の一方には「自己幻想」、そしてもう一方には「自己幻想と逆立する」と主張された「共同幻想」が意識されることになる。これらはいずれも「幻想」なのである。ただし、むろん、「人間が積極的に作り出すことの“できる”負担」としての「幻想」である。

『共同幻想論』によれば、「国家とは幻想」であり、幻想である国家と逆立するものは、「自己幻想」である。「自己幻想」は、「対幻想」と共に絶対に「共同幻想」に収斂されず、当然ながら個人の芸術において最も強烈に表れる。

「対幻想」とは、まず男女関係であり、家族(夫婦・親子)関係である。これは、言い換えれば、我々国民ないし一部のナショナリスティックな思想家が国家に対して感じるロマンと甘美と官能、いわば「国家・母国あるいは制度と見た場合の天皇制などとの間に漠然と感じる、性的ニュアンス」も、自己幻想や対幻想から独立して動いている、すなわち、「国家なる幻想」は「個人の思想」や「男女関係」の転写ないし投射ではなく、それらに対する逆立や齟齬である、ということを意味する。

 この点において、対幻想によってしか説明できないはずのリビドーや性的衝動を共同幻想に持ち込もうとしたフロイトが吉本の批判の的となる一方で、マルクス個人の「人間疎外」の思想に、吉本は共鳴することとなるのである。

 そうであるから、松本先生も、マルクス思想の大方の部分に共鳴しておられる。中沢新一や三木成夫への共鳴も、同じことであると思う。松本先生に限らず、知人の養護学校関係者も、多くの場合、私の対女性共感覚の中にマルクスへの系譜を見る傾向があるようだ。このような流れはむしろ自然であり、吉本隆明の全盛期当時の相当多くの有識者たちがこのような考え方の流れに乗ったのである。

 それに現在、養護学校で多くの発達障害者・知的障害者・身体障害者を見ていらっしゃる立場の方々が、博愛的な観点から吉本やマルクス寄りの思想を示していることは、むしろ自然であると思われる。

 僭越ながら、私自身に引き付けて再び言うと、松本先生は私の「対女性共感覚」を、「男女の性交渉自体から最初に疎外された幻想が生じさせているもの」であると見ておられると思う。そうである以上、一見すると「岩崎純一の対女性共感覚という対幻想は、最も自己幻想的で、反“現代の契約的恋愛・契約的結婚”的である点において、共同幻想としての日本国とほとんど逆立する」ことになるのだが、ここに、マルクスにはなく松本先生や吉本にはあるかもしれない、そして私にはかなりあるような、「日本的幻想」というものが、立ち現われてくる気がするのである。

 自分の対女性共感覚に、ゲマインシャフトとしての「日本」ないし「日本文化」の原初の姿である「歌垣」のなごりの現代における再適応をさえ見ている私としては、ゲマインシャフトを根底から覆すような極端なアナーキズムに近寄るわけにはいかないと感じるのである。

 私が自らの共感覚全般や対女性共感覚について、おそらくマルクスでは乗り切れないとすぐに感じた点も、まさにこのような点であると言える。

 ここで言う「再適応」とは、対女性共感覚をメスに対して覚えるや否や見境なくメスに交尾を仕掛けた極めて初歩的・動物的な「対幻想」から脱して、「対女性共感覚」そのものは保持しつつ、なおかつ日本の国柄・文化・倫理・社会規範すなわち「共同幻想」においてこれを発揮すべき時を思慮するだけの自我を持った男性としてのあり方、という意味である。

 松本先生は、私の「対女性共感覚」を自己幻想ではないと述べておられる。しかし同時に、私の「対女性共感覚」を「原始の感覚」であるとも述べておられる。

 私の「対女性共感覚」が自己幻想でないことは、私にとっては確実であるけれども、やはり同様の理解を提示していらっしゃる方の存在は、心底嬉しく思うのである。すなわち、この共感覚は、単に「芸術的」ではあり得ないと自分でも思う。その当初から、現代の日本社会と関係を持っている。

 例えば、私は、女性が衣服を着ていても、体表から発せられる何らかの化学物質の量の微妙な違いによって、排卵期かどうかが分かることがある。もちろん、日本国の法律や条例は、このような男性の存在を念頭に置いて制定されていない。「アスペルガー症候群」や「シネスシージア(共感覚)」といった原初的知覚にまつわる語と概念とがほとんど登場しなかった全共闘全盛の時代において、このようなことは議論されようがなかったとも言える。

 ところが、法や条例は「共同幻想」の筆頭であって、私の共感覚そのものが反社会的・違法行為でありうるような状況に、出くわさないとは限らない。私にとっては、最初からこの点と向き合わざるを得ない。そうである以上、対女性共感覚は、自己幻想か対幻想のいずれかであるが、結果的に自己幻想ではない。

 吉本は、そもそも生命ないし有機体生物そのものを自然界からの「疎外」であると見ている。つまり、生き物は幻想に生きているのである。その意味では、どの発達障害者や知的障害者や精神障害者でも、疎外以前よりは「高度な」幻想をどこかで持って生きている。そして、オスが(私のように)メスの排卵感知能力としての「恋」を覚えたときに、対幻想の萌芽が見られることになる。松本先生は、この点をほとんど理解して下さっていると感じる。

「自己幻想ではなくて、かつ原始であるようなもの」とは何か。もっと簡単に言えば、「我々男性にとっての最初の他者(母親・意中の女性・恋人)である第三者にさえ全く理解されないというほどには自己中心的ではない幻想」のうち、「最も原初的で、最も特定の他者(親・知人・組織・国家)が意識されない非共同幻想的な幻想」とは何か。それが「対女性共感覚」であるならば、先に書いたような、「汎女性主義的」でありつつ「特定の女性に対して恋愛的である」ことが、確かに可能となる。

 このような私の「対女性共感覚」分析があるとするならば、全くマルクス主義者ではない私にも、自然と受け入れられるのである。

 ただし、このように見ると、コスモポリタニズムに近寄りながら、それでもやはり「日本的」であった宮沢賢治の態度は、吉本よりもフロイトに似ていなくもない。私自身が、吉本よりも宮沢賢治やフロイトのほうに共感を覚えるのは、このような点である。同時に、私の親世代や少し上の団塊世代・全共闘世代を見ていて、常々物足りないと感じる点は、自らの積極的幻想に自覚的でないという点であるかもしれない。

 すなわち、「共同幻想は、必ず男女の対幻想を基礎としている」というのが私の考えである。吉本の『共同幻想論』は、「国家という幻想」に対峙するものを「性的関係性」とした点において独創的で、男女の性的要素の欠落したマルクスの思想を補完していると言えるが、国家という共同幻想に男女の対幻想はほとんど流れ込まないとした点において、むしろ松本先生が認めておられるような私の「対女性共感覚」の居場所が共同幻想領域には存在しないことを表明しているように思える。

 ちなみに私は、オウム真理教に肯定的発言や著述をおこない始めた頃からの吉本や中沢新一には、著しい違和感を覚える。大江健三郎についても、ある時期から同様の違和感を覚えている。

 私は、生意気な若造かもしれないが、自分の対女性共感覚は、そんな新宗教と(吉本が自分でそう呼んだ)「左翼」思想との結びつきから独立しているべきであると思うし、最初から独立していて別物であるとも思っている。

 私は今でも、これらの方々と三島由紀夫のどちらかの思想を採れと言われたら、三島由紀夫のほうを採りたく思う。あるいは、単に川端康成の小説を採りたいとも思う。あるいは、戦後思想を見るよりも、まず九鬼周造や岡倉天心から始めなければ意味がないとも考える。自分の対女性共感覚を、九鬼の「可能的関係」や岡倉天心の茶の精神において考えるほうが、よほど好きである。

 これは、好みの問題でもあるかもしれないが、論理的にそうであるような気もする。吉本が「左翼」勢力の顛末を「プロレタリアートの解放戦争」と呼んだことに意図的にちなんで言えば、私が言わんとしている対女性共感覚とは、常に「保守的」であり「日本的」であり「右派的」であると思う。しかし、私は自分では「ど真ん中」であると思っている。

2011年06月19日

対女性共感覚

「対女性共感覚」とは、私の造語であり、我々ホモ・サピエンスの男性が女性に対して有しうる共感覚の総称である。これには、「女性の排卵期が色で見える」、「女性の月経期が音で聞こえる」、「妊娠中の女性のそばにいると、一緒につわりを覚える」などが含まれる。

 現在、私自身を含め、私が自分のウェブサイトを通じて知り合った成人男性数名がこれを有し、また男児においては保持の確率が極端に高く、母親からの報告が私のもとに寄せられている。成人男性の場合、主に発達障害を伴う男性がこの感覚を喪失せずに保っているのが興味深い。

 この共感覚と大脳皮質的な高次知能とが反比例の関係にあると思われる点では、この共感覚の中枢は大脳辺縁系、基底核、脳幹、中脳、小脳などにあると思われる一方、調査次第では、この共感覚を多くの男性が維持したままいわゆる高次知能を獲得している部族が、アフリカ・東南アジアなどに存在する可能性があると思う。

 なお、「親女性共感覚・溶女性共感覚」と名付けなかった理由は、著書『私には女性の排卵が見える』に詳細を書いてある。

乳幼児総共感覚者説

「乳幼児総共感覚者説」とは、私の造語であり、「乳幼児は例外なく皆共感覚を有している」とする説である。

 特に珍しい考え方ではなく、これと同様の学説は、すでに生理学方面での共感覚研究の一派において主張されている。

 この学説の立証は、主に乳幼児の脳活動計測によって行われている。今後は遺伝子研究なども行われていくと考えられるが、私としては、「調べなければ分からない」性質のものではないと考えているので、研究の激化については少なからず疑念や不安を抱いている。

 私の視点・関心は、「乳幼児は例外なく皆共感覚を有しているという、最後には行き着くに決まっていたかもしれないこの結論が、なぜ多くの現代人(の成人)には先験的認識として分からなかったのか。乳幼児期の記憶は、いったいどこに消えたのか」ということだと思う。

 これと反対に、「共感覚は、主に成人のものであって、成長過程で学んでいく高度知能の一種である」という意見や、「共感覚は、動物は持っておらず、人間だけが持っているものである」という意見も、私の周りで聞かれる。しかし私としては、やはり共感覚は、現代の成人よりも子供、古代人、動物のほうが強く持っている(いた)と思う。

日本的共感覚人間学(仮称)とは

 私は元より「学者」という肩書は持たず、自分の持つ共感覚、自分の共感覚論・人間論について、講師として学会での講演や大学での授業をおこなったり、専門家と対談したり、著書を出したりしているだけである。

 しかし、それなりに自分の共感覚論が世に出たり、言語に障害の出ている精神疾患者による使用を目指す「岩崎式日本語」を考案していくにつれて、私の共感覚観や人間観というものが持つ特徴や、現行の生理学全般における共感覚研究者の学説との共通点と相違点・齟齬というものも、明確になってきた。

 そのうち、共感覚仲間などから「あなたの共感覚論・人間論は、どう見ても一つの新学問体系を成しているので、固有名詞を冠してみてはどうか」と(本気半分、冗談半分だと思うが)言われ、自分の思考体系の呼称を本当に考えてみるのも面白いだろうと思うようになった。それで、ひとまず「日本的共感覚人間学」とすることにした。

「日本的共感覚人間学」とは、私が思い描いている「共感覚原帰属性仮説」というものを元に、共感覚を中心とする日本的な人間学を構築する一連の学術的思考体系の呼称で、分野は哲学・文学・日本語学・言語学・和歌論・心理学・文化人類学・神道・仏教学・音楽学・数理論理学・素粒子物理学・認知科学・神経科学などを扱う。

 と言っても、私の主催と学説のもとに集まることが主旨ではなく、現在のところ一個人として直観的洞察でとらえているにすぎない同仮説が普遍的正当性を持つか否かを、この仮説が扱っている共感覚と周辺の精神症状を呈する当事者たちの協力のもと、精緻に思案することを目指そうと思う。それから、協力者の力を得て、日本の重篤解離性障害者を使用の対象とする「岩崎式日本語」を含む一つの言語学・心理学・精神病理学・人間学の体系を完成させることを目指そうと思う。

 また、世界的に皆無であると言ってよい「日本人以外の東洋人」の共感覚と文化結合症候群的精神症状の探究もおこない、「我々が日本人であるとはどういうことか」についても探究したいと思う。

 私は、色々な専門家から私の共感覚や脳機能の調査のため遺伝子や血液の提供を求められていて、共感覚当事者としての著書を出した立場上、いずれは協力することになる時が来ると覚悟している。私の知人の共感覚者やこの研究会メンバーにも、私と同じく、人体組織の採取による共感覚の解明に少なからず本能的抵抗を覚える人は多いようであるから、少し安心している。

2011年06月18日

日本的共感覚・日本的精神症状

 かつてベルクソンは、「薔薇の匂いを嗅いで過去を回想する場合、薔薇の匂いが与えられたことによって過去のことが連想されるのではない。過去の回想を薔薇の匂いのうちに嗅ぐのである」と述べた。

 これは、「薔薇の匂いが与えられたことによって過去のことが連想される」ことを主眼に置いたそれまでの西洋哲学に対する、ベルクソンなりの共感覚的感性の復権願望から出たフレーズであったという分析は可能であろう。

 また、高橋文二は『風景と共感覚 ―王朝文学試論』の中で、日本の王朝文学の特徴を「共感覚」なる語を用いてとらえた。かつての日本人にとって、月などの自然を見ることは、単に視覚で見る知覚現象でもなければ、単に色を聞いて音を感ずる知覚現象でさえなく、全ての感覚が統一的に相互に行き交う感覚世界であり、過去の時空と共鳴する一つの「風景」として感受する感覚世界であると述べたのであった。

「共感覚」とは、元々は西洋の心理学や精神医学や神経科学におけるギリシア語由来の用語「synaesthesia」の、日本における訳語であり、それは、実際に五感が混交して世界が知覚されている「共感覚者」が西洋圏で「発見」されたことによって定言された概念で、主にアポステリオリな響きを持って今日の学界やメディアにおいて取り上げられている。

 英米などの共感覚研究の先進国はもちろん、日本においても今後、共感覚者に対し、fMRIによる脳活動計測、遺伝子解析など人体組織の採取による研究が推進される動きにある。

 現行の欧米や日本の自然科学分野の共感覚研究者の述べる「共感覚」とは、まさに「色を聞いて音を感ずる知覚現象」のことである。ところが、かつての日本人は、これをさえ「共感覚ではない」と言っている。そして、私の立場も後者にほかならない。要するに、今西錦司風に述べるならば、「共感覚とは、人間のプロトアイデンティティであり、そればかりか生物全体のプロトアイデンティティである」と思う。

 西洋では、「共通感覚」なる用語がアリストテレスの時代より見受けられるが、これが動物でもおこなう低次の知覚現象を離れた、高次知能的な(前頭葉的な)「常識」の意味に移り変わるにつれて、すなわち「五感の統合された人間の存在のしかた」が「常識」ではなくなるにつれて、「五感の統合」というものは「矛盾の高次的解消と止揚(アウフヘーベン)」ととらえられ、ヘーゲルに至って、よりいっそう弁証法的な課題となる。

 一方で、例えば唯識仏教においては、仮に実在性を与えられる五感(五識)は、(最終的にはラディカル・ブッディズムないし中観思想と相容れて「空化」するとしても)、そもそも五識の底に意識、その底に末那識、その底に阿頼耶識を置いて、西洋哲学とは逆にラディカルな深層意識に向かって展開する。和歌など日本の王朝文学や大乗仏教においては、「色を聞いて音を感ずる」という説明的な言語表現さえほとんど許され得ない。

 すなわち、「色を聞いて音を感ずること」を大和言葉で「色(いろ)」とか「音(ね・おと)」とか「匂ひ(にほひ)」とか言ったのであるから、「五識(五感)」に対して「共(syn-)」なる接頭辞が与えられることは拒否されることになる。これが、日本文化ないし東洋哲学そのものであった。

 私がやってみたい試みは、生理学方面からの人体組織の採取・解析による共感覚研究の動きを少なからぬ懸念を持って見守りつつ、一方で「過去の回想を薔薇の匂いのうちに嗅ぐ」ことを実践するというものである。すなわち、「過去の回想を薔薇の匂いのうちに嗅ぐ」ことが「共感覚」であるとともに、「共感覚の発見のしかた」も「過去の回想を薔薇の匂いのうちに嗅ぐ」ようにできるかという問いかけである。

 日本語には「人見知り」や「あがり症」や「はにかみ屋」なる言葉がある。「私は人見知りです」、「私はあがり症です」、「私ははにかみ屋です」という日本語を発した私の知人たちに医者から与えられた病理名は、「対人恐怖症」「社交不安障害」「強迫性障害」「回避性人格障害」「鬱病」などである。

 例えば、「対人恐怖症」は日本民族固有の文化結合症候群に分類される一方、「社交不安障害」はいかなる民族にも適用しうるグローバルな精神障害の記述であり、「回避性人格障害」はいかなる民族にも適用しうるグローバルな人格障害の記述である。ところが、この神経症と精神障害と人格障害の違いを説明してほしいと問うて即答できる日本人がどれだけいるのだろうか。

 この問題については、私はこういう見解を持っている。大和言葉の「色」に対する西洋的五感は、大和言葉の「人見知り」に対する神経症と精神障害と人格障害の関係に同じだろうというものである。

 ただし、神経症は、精神障害及び人格障害との間に、共時態的関係というよりは通時態的関係を有するから、現代の欧米及び日本の精神医学に携わる人たちは、「精神医学は、あいまいな神経症を放棄して代わりに客観的な精神障害と人格障害を手に入れた」というイメージを描いている。そして、それにも一理あると思う。

 ところが、「神経症」なる概念でさえ、まさに現行の「共感覚」に近いというのが、私の考えてみたいところである。日本の王朝文学が「共感覚」をも拒否して五感の底の日本の原風景的阿頼耶識を発見したように、現代の精神医学がアメリカ的手法によって否定し超克したはずの「神経症」もまた、それなりに生き残って、日本人の心優しさの原風景たる「人見知り」や「あがり症」や「はにかみ屋」を発見すべきだったのではないだろうか。

私の仮説「共感覚原帰属性仮説」

 私が今のところ考えるに至っている「共感覚原帰属性仮説」は、以下の通りである。(半ば自分のメモとして書いたものでもある。)

「共感覚は、人間の幼児には必ず存在し、人間個体の発生と成長に伴って減衰する。減衰は、厳密には西洋的自我を発見した後の人間個体にのみ生じている。五感をつかさどる脳領域の観測上の分裂及び五感の知覚上の分裂は、その人間個体の母語が有する格機能の主格優勢性が認識させる。また、このことは、印欧語族とプラトニズムの折衷されたラテン語族において最初に自覚された。個体発生における系統発生の反復が、出生後の個体成長とその種の成体の経年変化に延長できるならば、同一人間個体の成長過程における共感覚の減衰は、西洋的自我発見以降の人類種における共感覚の減衰を反復する。このため、現行の自閉症・発達障害・アスペルガー症候群者は、すでに系統的に共感覚的知覚の保持者である。この共感覚の「持ちやすさ」は、鬱病や解離性障害などの一見後天的と思われる心的外傷の「受けやすさ」と同義であって、従って、およそ重度の鬱とは、脳機能それ自体として共感覚の発生機序に同一である。ここで、共感覚の産出源を脳に限らなければ、共感覚は、人間の原帰属性であるばかりか、全ての生物と自然物の原帰属性であり、また唯識論における阿頼耶識の原帰属性であって、近代西洋的デカルト的自我(自己意識)の変容を伴う精神症状である解離と分裂は、自然言語の格機能の系統遡及である。最古の共感覚における最初の他者は異性であり、最新の共感覚は五感の弁証法(アウフヘーベン)的統合である。現行の「共感覚」とは、後者を指している。このような葛藤を常識(コモン・センス)とする大衆社会は、全ての生物と自然物すなわち生物全体社会のうち、デカルト以降のキリスト教圏白人社会のみであり、日本においては厳密には戦後のみである」