2011年06月26日

現代の巫女と一般女性とに共通する潜在的古代的共感覚について

 現代の世相なのだろうか、私が普段、「巫女の共感覚を研究している」、「私のサイトには巫女さんがよく訪れる」、「私の著書の読者には巫女さんも多い」と言うと、なぜか最近のサブカルチャー的な巫女を想像する人がいて、苦笑してしまうが、私の言っている巫女とは、本当の巫女(大神宮巫女・大社巫女・内掌典経験者など)のことである。

 いわゆる「社格(神社の格)」が高い神社に生きていらっしゃり(「社格」は戦後に廃止されたが、事実上残っている)、本当に「許嫁(いいなずけ)」のお相手が決まっているような女性の方々のことを言っている。

 要するに、著者の私も恐れ多すぎてひれ伏してしまうような方々であり、とてもサブカルチャー的な興味から扱ってよいような存在ではない。

 現在の日本の巫女は、ほとんどがアルバイト巫女だが、一方で、旧社家や旧公家の血を引き、ほとんど自動的に巫女の人生を送る女性が存在する。拙著を読んで下さったり私のサイトへご訪問下さったりして(運よくも)面識を持ってきたのは、後者のほうで、年齢は十代・二十代が多い。

 そのような皆様とは、「文字や言葉の共感覚色」についてのお話や和歌をやり取りさせていただいている。私は、このような方々と自分のライフワークである共感覚を語り合えるだけでも、共感覚人生の目標の何割かは達成できたと思っている。

 かつて福井の永平寺や鎌倉の円覚寺を訪れたとき、禅僧たちがズラッと並んで座り、一斉にパソコンに向かって何やらカチャカチャと打っていて、その瞬間だけは禅的境地が一気に吹き飛んで苦笑したが、それと同じで、もはや巫女とて、普段はお掃除にいそしみながら、プライベートではパソコンでブログやツイッターをなさっているわけである。それについては、私は残念には思わない。むしろ、安心できる。

「巫女をやっていたら共感覚や解離性障害が身につく」のか、「共感覚・解離性体質だから巫女なる仕事に似合っている」のか、という問いは、「ニワトリが先か卵が先か」というのと同じで、ほとんど意味を成さない問いではあるが、ともかく、拙著を読んで下さった巫女さんの中に共感覚者や解離性障害者が数人いるのは確かである。

 私が今の問いを「意味を成さない問いだ」と思う理由は、私の考えが民俗学者の折口信夫と同じだと自分で思うからである。

「事実において、我々が溯(さかのぼ)れる限りの古代に実在した女性の生活は、一生涯あるいはある期間は、かならず巫女として費されてきたものと見てよい。(中略) 女として神事に与らなかった者はなく、神事に関係せなかった女の身の上が、物語の上に伝誦せられるわけがなかったのである」
(『最古日本の女性生活の根柢』より引用
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/24436_14407.html

 要するに、かつての日本では、「女性の仕事の一つに巫女があった」のではなく、「女性とは巫女のことであった」と言うほうが正しいことになる。

 ということは逆に、現代日本には、「本職巫女でなくとも古代巫女的感性を持った一般女性が生き残っている」かもしれないし、「本職巫女だからといって古代巫女的感性の持ち主とは限らない」ことになる。そして、前者に対して、精神科医は「共感覚」や「解離性障害」や「鬱病」という名を与えているにすぎないというのが、私の考えなのである。

「今の一部の女性に対して与えられる共感覚・解離性障害・鬱病などが指す何物か」を、それらをあまりよく思わない社会人の意識上に思いきり引っ張り上げて、なおかつそれを「昔はこちらがごく普通の女性の感性だったらしいですよ」と言うこと、これが常々私がやってみたい意地悪の一つである。

 先述のような、身分・出自の事情から本職巫女であらざるを得ない女性を探ってみると、現実に共感覚や解離性障害を持っている確率がかなり高いということは言えるのだから、逆に言えば、現代的文明生活をしている普通の主婦を神社に強制的に移住させて、毎日鎮守の杜の中で舞や神事や掃除でもさせれば、古代的共感覚が蘇ってくる可能性がないとは言えないことになる。

 しかし、そんな暴挙はできない現代なのだから、問題にすべきなのは、「木の香りもしないコンクリートのマンションで生活する中で、いかに体の奥底にだけは古代的感性を残したまま生きるか」、つまり「現代日本女性の全員が潜在的巫女でいられるにはどうすればよいか」ということのはずである。

 逆に言えば、私の場合は、「そういう生活の中で、言葉や動物の鳴き声や女性の生理現象に色が見えるなどという共感覚を、なぜ体に保持し得たのか」ということになる。

 私の持つ「女性の生理現象を色で見る」共感覚は、一言で言えば「巫女的感性の裏返し」ではなかろうかと思っている。つまり、私の共感覚のそっくりそのままの裏返し、私の感性の女性バージョンを、そのまま「巫女」と言ったのではなかろうか。

 男性である私の一方的な直観が当たっているかどうか知らないが、共感覚を持つ巫女さんたちのお話を伺っていると、そうとしか思えないのである。
posted by 岩崎純一 at 00:04| Comment(0) | TrackBack(0) | メモ的記事

2011年06月18日

日本色彩大年表

 以下は、日本の古典を所有する数人の共感覚者の協力を得て私が作成した、日本の色彩の大年表である。

「日本色彩大年表」(メインサイトからもリンク)
http://iwasakijunichi.net/ronbun_ippan/nippon_shikisai_dainempyo.htm

 拙著『音に色が見える世界』では、「古代日本人における色彩感覚の共感覚性」の根拠の一つとして、現代日本人についてのアンケート結果を掲げたが、この「日本色彩大年表」は、私がそのような古代日本人の共感覚性を思いついた根拠の一つとなっている。

 まだ未完成であるが、ほぼ更新休止状態となっていて申し訳ない。
posted by 岩崎純一 at 01:31| Comment(0) | TrackBack(0) | メモ的記事