2014年08月08日

佐世保女子高生殺害事件についての私見 ―「人は、人になったヒトである」ことをとらえ損ね続ける日本の「親切な」精神鑑定の現状(2)―

目次
(1)
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/102240125.html
■世論と精神病理学界の苦悩と迷走、皮肉にもまた始まる
■ヒトとそれ以外の動物、生体と死体の区別が付かない既知の精神障害
■類似の事件についての精神医学界・弁護側と検察・司法の見解の齟齬、および発達障害者の犯罪率の低さ

(2)
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/102240150.html
■「我、ヒトに属す」というヒトのプロトアイデンティティ
■日本の精神鑑定の親切さの問題点
■参考文献



(1)から続く
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/102240125.html


■「我、ヒトに属す」というヒトのプロトアイデンティティ

 今西錦司によれば、ヒトに限らず、どの生物・有機体も、「自分がどの種に属するか」を先験的に知っており、このような性質を彼は「プロトアイデンティティ(原帰属性)」と呼んでいる。今西自身や、今西に私淑している私のような彼の愛読者は、先述の問い(「なぜヒトを殺しては駄目で、他の動物は殺してよいのか」、「なぜ猫を殺しては駄目で、魚は殺してもよいのか」)に対しては、まず仮に「殺害対象となり得る各有機体に対する自分自身の殺害行動への忌避感情は、我々ヒト自身のプロトアイデンティティが決定づけているから」と答えることになる。

このブログ内の今西錦司の紹介記事
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/46134491.html

 すなわち、「魚を殺して食べることが平常心で可能であるのに、猫やヒトについては忌避されるという感情や、ある動植物のみを食用としたく感じ他の動植物は食用としたくないと感じる感情は、先験的に我々自身が持っているものであるから、ヒトの教育や政策というものはヒトのプロトアイデンティティに反しないように実施する時に最も正確なものとなる」とするものである。

 ところが、文化や宗教、例えば、ある文化・宗教では牛を殺して食べてよいのに他ではそれは悪行であるとされるような、ヒトという同種間での極端な差異というものは、これだけでは説明できないし、文化や宗教がプロトアイデンティティに先立ってあるのか、後付けのものであるのかについては、今西は見解をはっきりせずにこの世を去った気がしている。

 ここで改めて、私などは和辻哲郎の人間学・倫理学としての風土論などを思い起こすわけで、この場合、「文化や宗教(その土地でいかなるそれらが発祥・展開するか)は、いずれも風土(土壌、咲いている花、生えている木など、かなり生態学的・考古学的かつ即物的な意味でさえある)が決定づける」と考え、かつ「文化や宗教は、ヒトのプロトアイデンティティを侵食してそれら自体がプロトアイデンティティ化するほどに、低次の本能になだれ込んでいる」という見解を取る。

 これによって、「猫やヒトを殺すことは人としてどうかしている」などといった言明が(自然災害を鎮めるための生贄や人柱の風習や戦国時代のような形での親子の殺し合いが過去のものとなった)近代西洋や現代日本でしか通用せず、「鯨を殺す日本人は人としてどうかしている」という強硬な環境保護団体のシーシェパードやグリーンピースなどによる声明が一部の西洋人には通用するが日本では通用しない現状を、説明しようとするわけなので、今西よりも私のほうが、比較文化論的な人間、いや、それ以上に文化心理学的な人間でさえあることは間違いないと思ったものだった。

 また、今西進化論の全体にプロトアイデンティティ論を位置づけて考えてみると、今西のプロトアイデンティティ論は、極めて「離散数理的」であり、「量子論的」なのである。つまり、ある種の有機体Aが、自らを種Aと種Bの間にいるとするアイデンティティを持ったり、種Bと種Cの間にいるとするアイデンティティを持ったりすることはなく、それぞれの種という「飛び飛び」の特異点にアイデンティティが集約されるというのである。

 つまり、今西にとっては、あるヒトが自分を本当はヒトとチンパンジーの間の動物ではないかと迷うような事態は存在しないのである。この点、今西は、自分自身や自分の配偶者が属する動物種が不明になる症状を呈する重度の妄想性の精神障害患者の存在をあまり知らなかったと思われる。

 しかし、いずれにしても、今回の佐世保の事件のようなケースで、今西理論は力を発揮するのではないかと思う。なぜなら、「自らがヒトに属している意識が希薄であるかどうかだけを、刑事責任能力の有無の判断に直結させる」新たな道を開くからである。

 この考え方によれば、精神鑑定で精神障害があると鑑定されても、プロトアイデンティティが確認できる限り、少年法を大幅に改正したり、少年にもそれなりの刑罰を与えたりすることができる可能性が広がるからである。むろん、それは、真性・重度の(しかも殺人事件さえ起こしたことがない)妄想性障害者を守ることにもなる。

 従って、先述の「その同質性を破る性質が本事件に見出せるかどうか」を主眼として今後この事件について私が見ていこうと考えているのは、(とりあえず、文化的・宗教的な差異は横に置き、現代の日本や欧米の非常に高次な人権・動物愛護意識において考えるとすると、)この少女がいったいヒトとしてのプロトアイデンティティが欠落した子であるのかそうでないのか、という点である。

 もし今回の事件を起こした少女に、もしプロトアイデンティティの欠落、つまり本当に「自分がある種の有機体に属し、ある種の有機体を殺してはならず、別のある種の有機体は殺してもよい、ということの分からなさ」に陥っているとすれば、それは先にも挙げたように、すでにいくらでも類似の前例のある真性の精神病理の範疇の問題であり、途端に勧善懲悪の判断が反転して先述の「妻を化け物と見、魚への強度の思いやりを発揮する、極端に涅槃的な善人」と同じになってしまう可能性があるし、それをもって初めて、人は人に対して「刑事責任能力がない(責任を取る必要がない)」と言うべきだと私は思う。

 しかしながら、実際には、「友人の給食に漂白剤を混入→実母の殺害を計画して何とか思いとどまる→猫を殺害・解体→実父の殺害を計画、金属バットで殴打→友人を殺害・解体」という段階を踏んでいる点や、「思いとどまる」力を備えている点が、プロトアイデンティティの欠落は存在しないこと、すなわち、精神科医がテレビ向け、アナウンサー・キャスター・コメンテーター向けに発言したような発達・学習の遅れでもなければ、統合失調症でも大うつ病性障害でもなく、過去の類似事件の少年たちに下された各パーソナリティーの問題であることを物語っているように思う。


■日本の精神鑑定の親切さの問題点

 こうして見てくると、現行の日本の精神鑑定システムや司法システムは、今西理論に照らせば、「プロトアイデンティティがあっても発達の遅れがある者は、おしなべて刑罰を免れることができる」システムになっているがために、「発達障害者の犯罪率(猟奇殺人犯罪率)が定型発達者に比べて高いのではなく(むしろ統計上は有意なまでに低く)、発達障害者の中にも稀に犯罪を犯す者がいる、ということのみである」という意識と、「発達障害者であるか否かにかかわらず、(たとえ発達障害の少年少女であっても、)猟奇殺人を犯した者には刑罰を与える」という意識は、共存しがたい。

 しかも、その原因の一つが、「猟奇殺人の原因を加害少年の生来の発達障害の問題とすることで少年の更生に賭け、少年の人生と少年法の精神を守るという、精神鑑定医の過度の思いやり」から来ているということが、日本独特の問題を浮き彫りにしているように思う。

 これによって、「発達障害者は猟奇殺人を犯しやすいという、うっすらとした世論が誤って形成される一方で、その世論とはさらに別に、精神鑑定医が加害者の責任能力欠如の主張や減刑のために加害者を発達障害認定する」という悪しき風潮が生まれることになる。そもそも、その「加害者は発達障害である」という診断を疑ったほうがよい場合があるとは、悲しいことである。

 私自身は、「過去に少しでも殺人の兆候があったり、殺人を思いとどまるという経験をしている者は、少年であっても、殺人を犯した場合、責任能力を認めて刑罰を科すことができるように法改正すべきである」と考える人間だということになる。その根拠として、精神病理学が展開する発達障害論に見られる、犯人の更生を前提とする進化論ではなく、今西進化論に代表されるような、「我、ヒトに属す。ゆえに我、何を成しうるか」というプロトアイデンティティ論を採りたく思うのである。

 そうである以上、ヒトのプロトアイデンティティに基づいて起こりうることについての勧善懲悪は、原理的に不可能でありつつ法的に可能であることになるので、例えば、被害者遺族による犯人への復讐殺人などは、私は原理的に肯定していながら法的には厳罰主義者でもあり得ることになる。

 もし仮に私が裁判員になったとしたら、この佐世保事件の加害少女に対する対応を考える際には、何らかの被害体験を契機として真にプロトアイデンティティが欠落したがために妄想を妄想と分からなくなった先述の統合失調症者や解離性障害者のためにも、それらの人たちとの落差を付けて考えることになると思う。

「日本でも猟奇殺人事件は起きているが、私の周りでは起きない。(遠い話である。)」
 このような(私も含めた)日本人の基本的な思考法が、この佐世保の事件についてどのような世論を形成していくのか、過去の事例と同様になるのか、注目したいと思う。


■参考文献

『今西錦司全集 増補版』 今西錦司、講談社、1993-94
 『生物社会の論理』、『人間以前の社会』、『人間社会の形成』、『ダーウィン論』、『主体性の進化論』、『自然学の提唱』、『自然学の展開』
『風土 人間学的考察』 和辻哲郎、岩波文庫、1979
『存在と時間』 ハイデガー、細谷貞雄訳、筑摩書房、1994
平成17年度福島家庭裁判所委員会議事録概要 平成17年5月30日
http://www.courts.go.jp/fukushima/vcms_lf/105203.pdf
平成18年度福島家庭裁判所委員会議事概要 平成18年11月20日
http://www.courts.go.jp/fukushima/vcms_lf/105205.pdf
平成19年度和歌山家庭裁判所委員会議事概要(第1回) 平成19年1月24日
http://www.courts.go.jp/wakayama/vcms_lf/10402009.pdf
京都家庭裁判所委員会議事内容 平成19年11月22日
http://www.courts.go.jp/kyoto/vcms_lf/204007.pdf
富山家庭裁判所委員会(第10回)議事概要 平成19年12月13日
http://www.courts.go.jp/toyama/vcms_lf/104026.pdf
札幌家庭裁判所家庭裁判所委員会(平成22年2月15日開催)議事概要
http://www.courts.go.jp/sapporo/vcms_lf/204013.pdf
平成24年度第2回宇都宮家庭裁判所委員会 議事概要 平成24年12月19日
http://www.courts.go.jp/utsunomiya/vcms_lf/ka20121219.pdf
奈良地方裁判所委員会・奈良家庭裁判所委員会 議事概要平成25年9月27日
http://www.courts.go.jp/nara/vcms_lf/250927gijigaiyou.pdf
「裁判員経験者の意見交換会」議事要録 平成25年11月22日
http://www.courts.go.jp/shizuoka/vcms_lf/251122ikenkoukankai-gijiroku.pdf
山口家庭裁判所委員会議事録概要 平成26年3月3日
http://www.courts.go.jp/yamaguchi/vcms_lf/260303.pdf
International Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems 10th Revision (ICD-10) Version for 2010 (Online Version)". Apps.who.int. Retrieved on 2013-04-16.
WHO (2010) ICD-10: Clinical descriptions and diagnostic guidelines: Disorders of adult personality and behavior
American Psychiatric Association (2000). Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders (4th ed., text revision). Washington, DC: American Psychiatric Publishing.
American Psychiatric Association (2013). Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders (5th ed.). Arlington, VA: American Psychiatric Publishing.
"Intellectual developmental disorders: towards a new name, definition and framework for "mental retardation/intellectual disability" in ICD-11". World Psychiatry 3 (10): 175-180. October 2011.
『ICD-10 精神および行動の障害−臨床記述と診断ガイドライン(新訂版)』 監訳:融道男/中根允文/小見山実/岡崎祐士/大久保善朗、医学書院、2005年11月
『DSM-IV-TR 精神疾患の分類と診断の手引・新訂版』 訳:高橋三郎/大野裕/染矢俊幸、医学書院、2003年8月
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佐世保女子高生殺害事件についての私見 ―「人は、人になったヒトである」ことをとらえ損ね続ける日本の「親切な」精神鑑定の現状(1)―

目次
(1)
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/102240125.html
■世論と精神病理学界の苦悩と迷走、皮肉にもまた始まる
■ヒトとそれ以外の動物、生体と死体の区別が付かない既知の精神障害
■類似の事件についての精神医学界・弁護側と検察・司法の見解の齟齬、および発達障害者の犯罪率の低さ

(2)
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/102240150.html
■「我、ヒトに属す」というヒトのプロトアイデンティティ
■日本の精神鑑定の親切さの問題点
■参考文献



■世論と精神病理学界の苦悩と迷走、皮肉にもまた始まる

 今回の佐世保の事件は、あまりに原理的な問題を孕んでいるし、各精神科医がテレビで発言している内容も様々であるので、ブログに書いてみたいことはあったものの、まだ迂闊に突っ込みすぎた話を書くわけにはいかないという気がしていた。

 加害少女を診ていた精神科医は、少女について「人を殺しかねない」と児童相談所に相談し、父親にも少女の入院を勧めるほどの千里眼を持っていたようである。まだ人を殺してもいない少女を、「人を殺すかもしれない人」扱いとすることは、余程のことがない限り考えられないことであるが、精神科医としての一大決心であったのだろうと思う。

 ところが一方で、事件後、数人の精神科医がこの少女に対して「発達・学習の遅れ」・「発達障害」をメディアで指摘した。こういったことについて、国民一人一人が自分なりの見解を持つことはむしろ重要なことだと思うし、私自身もこれについてどう思うか、事件以来いくつか書いておいた見解を、(あくまでも素人なりに書ける範疇だが)ここに載せておきたいと思う。

 何よりもまず、我々国民がテレビだけを見ていて分かるのは被害少女の個人情報ばかりであり、一方でネット上では、すでに加害少女の実名・写真などが皮肉にも被害少女のそれらとほぼ平等に出回っているが、その件は今は横に置くとする。

 世論の大勢(私を含む)が持っていたような楽観的な想定、つまりは「少女が慕っていた実母の死の直後に、父親が不登校の少女の面倒も見ず再婚を急いだことに対する、少女の不満や寂しさ」が事件の主要動機であるとする想定は、相当に綻びを見せてきたようである。父親の再婚は少女の一人暮らしの開始後であったこと、以前から友人の給食に漂白剤を入れたり動物を殺害したりしていたこと、慕っていたはずの実母をも殺害しようと計画していたこと、あらゆる新事実が、この事件が「純粋殺人(Pure murder)」や「快楽殺人(Lust murder)」であったことを示唆し始めている。

 かろうじて、「加害少女のクラスの中で、この少女だけが一人暮らしであった。家系は近隣随一の名家であった」という特殊な事実だけが、「やはり家庭環境の問題、父親の少女に対する態度の問題も、まだ捨てきれない」という、少年法の精神の延長にある、世論による少女への同情の正当性を担保しているようである。


■ヒトとそれ以外の動物、生体と死体の区別が付かない既知の精神障害

 統合失調症の破瓜型や、最近では単極性障害の下位分類に押し込められているきらいのあるコタール症候群や妄想性人物誤認症候群(解説:http://iwasakijunichi.net/seishin/cotard.html)では、例えば、妻がキッチンで魚を調理している際に、それをヒトを解体しているものと思い込み、妻を悪魔か化け物と信じ、叫びながら止めに入って、そのまま緊急入院したというようなケースがある。「有機体」であることは認識できても、ヒトとその他の動物の区別がつかないケースである。

 また、一時期流行した催眠療法である回復記憶療法において、「抑圧された記憶(Repressed Memory)」の存在を前提として、精神科医やセラピスト、カウンセラーから半ば強制的に過去の被害経験を証言するように要求された解離性障害・PTSDの女性たちが、無意識に「虚偽記憶(False Memory)」を捏造し、ありもしないDV・暴力被害体験を証言し、かえって統合失調症・妄想性障害を発症するケースが多発した。(母親が調理しているのを見て、「私の母親は日々このようにヒトや動物を殺して回っているから、私が母親を殺さなければならない」と確信するなど。)

解離性障害(「偽記憶症候群(FMS)」と偽記憶症候群財団について)
http://iwasakijunichi.net/seishin/kairi.html

 これらの場合、「ヒトとその他の動物(有機体・有機物)との区別がつかない」という病的な誤認・失認は「真性」のものである。ただし、この症状のメカニズムの説明としては、我々一般の人でさえ、稀に心身の調子が悪いときなど何かの拍子に「魚もまた生き物である」などと思い至って、自分で引き起こしたまな板の上の「惨状」に驚愕し、一瞬調理の手が止まるような一過性の事態の延長線上にある、という説明しかなされないこともしばしばであるし、ヒトとそれ以外の動物どころか、生体と死体の区別さえ付かない症状が出るコタール症候群までもが、統合失調症圏の下位分類から大うつ病圏の下位分類に(厄介払いのように)押し込められる傾向にある現在では、なおさらそうである。

 しかしともかく、これだけでは、「なぜヒトを殺しては駄目で、他の動物は殺してよいのか」、「なぜ猫を殺しては駄目で、魚は殺してもよいのか」といった問いに、我々は的確に答えることができない。

 つまり、魚を切り刻む妻を化け物だと思う妄想性障害患者たちと、佐世保の事件を起こした少女との間には、「ヒトかそれ以外の動物かといった有機体の種類・カテゴリの差異によって心因反応や愛着の程度に差が出ない」という点で、何ら区別はないと言える。

 従って、私にとっての最初で最後の関心は、その同質性を破る性質が本事件に見出せるかどうか、この加害少女の性質が、私が出会ってきたこれらの統合失調症・妄想性障害者や解離性障害・PTSD罹患者の持つ、「ヒトがどこまでもヒトであろうとする能動的意志から来る極度の平等主義」であるかどうか、という点である。

 本当にこの少女は、「妻のクッキングにも猫やヒトの解体と同じグロテスクさ」を発見し、「猫やヒトの解体にも妻のクッキングと同じ平然さ」を持つような、刑事責任能力を持ちようがない精神疾患者と、同質であるのだろうか。

 あるいは、「この少女は、社会人である前に現存在としてこの世にハイデガーの言う被投性を持って実存しているヒトの姿に忠実であるだろうか」と言い換えてもよいと思う。

 逆に、このことが本当に言えない限り、つまり、自分の妄想を妄想だと気づかないほどに圧倒的に被投性に従順であるということが言えない限り、刑事責任の一端を加害少女当人(類似の事件の加害少年・少女)が負ったほうがよいと私は考えるし、少年法も徐々に改正していくべきであるとも考える。

【注】 メディアで報道されているような精神病質(サイコパス)は、統合失調症・妄想性障害・大うつ病性障害・コタール症候群などと異なり、精神病理学上は精神障害ではなく、パーソナリティー(人格)障害の下位分類である統合失調型パーソナリティー障害や反社会性パーソナリティー障害の総称であるが、日本の法律上は精神障害であり、担当医科は精神科であって、精神鑑定の結果、統合失調症や精神病質者が刑事責任能力を問われず、パーソナリティー障害者が刑事責任能力を問われる「ダブルスタンダード」を呈している。以下にいくつかの事件について詳細を解説。


■類似の事件についての精神医学界・弁護側と検察・司法の見解の齟齬、および発達障害者の犯罪率の低さ

 一般の定型発達者人口の犯罪率と比較して発達障害者の犯罪率がかなり低いことは、例えば参考文献に挙げた各家裁の生々しい会議議事録からも分かるように、かなり知られてきてはいるが、それはともかく、ここで佐世保の事件と類似する過去の事件の加害少年に対する精神鑑定医の苦悩を見てみたい。

 佐世保の事件の加害少女は16歳であり、父親を殺害しようと金属バットで殴打したこともあったようだが、「16歳」・「金属バット」と聞くと、16歳の少年が実母を金属バットで殴り殺した2000年の山口母親殺害事件を思い出す。類似の事件には、1997年の神戸連続児童殺傷事件もあり、今回のメディアの報道ではこちらしか取り上げられたことがないが、猟奇殺人犯の犯罪精神病理をあれこれと考える衝動を私に引き起こさせる事件という意味では、個人的にはどの事件も重要だと感じる。

 山口の事件を起こした少年は、2006年にも大阪姉妹殺害事件を起こしたが、興味深いのは、このときの裁判で、裁判長は少年を「アスペルガー障害ないし広汎性発達障害である」とする精神鑑定を退けて「人格障害である」とする検察側の主張を採用している点である。人格障害の下位分類として適用されたのは、非(反)社会性人格障害、統合失調症質人格障害であり、これに性的倒錯のうちの性的サディズムが加えられた。

 このときの検察や裁判長の、「猟奇的な純粋殺人を起こした者について、まず発達障害や知的障害を疑うのは不適切であり、パーソナリティーの問題を疑うことによって、少年にも刑事責任能力の一端を負わせるベクトルに時代を向ける」との態度は、普段から発達障害者や知的障害者の面倒を見、一般の定型発達の人々と比較したときの彼らの犯罪率の低さを知っている支援学校関係者や親からは、当時から的確な審判として受け入れられたようである。

 ところが、精神科医は精神科医で、その「一般人口と比べた際の発達障害者の犯罪率の低さ」を知った上で、苦し紛れにこの猟奇殺人犯にも淡々と発達障害を診断したに違いないのである。

 とりあえずは加害少年を守り更生させるという少年法の「精神」、そして精神病理学という(世論から独立独歩する高度で超然とした)自分の畑を本能的に一律に守ろうとするがために、加害少年をとりあえず事件の猟奇性とは無関係に(生来の障害である)発達障害と診断・鑑定することで責任能力を負わせまいとする精神科医たちと、少年法の「形式」は守りつつも、事件の猟奇性そのものや世論の動向の影響を少なからず受けて一定程度の懲罰を考えざるを得ない検察・裁判官との間の齟齬は、こうして醸成されてきたわけである。

 このほか、2006年に起きた渋谷区短大生切断遺体事件の犯人の予備校生についても、精神鑑定において興味深いプロセスが踏まれている。

 鑑定医は、予備校生について「生来のアスペルガー症候群や中学時代の強迫性障害などを基盤とする、犯行時の解離性障害(とりわけ解離性同一性障害ないし多重人格障害)」を指摘し、妹の殺害・遺体解体は逮捕・起訴時の被告の人格とは別の人格が担っていたために責任能力はない旨を結論付け、メディアはこれを利用して発達障害と解離性障害と異常性癖とを結びつける報道をおこなった。

 警察が、起訴時点での被告にそのような性的サディズムや遺体解体趣味が見られなかったと発表したことは、解離性同一性障害説の信憑性をある程度物語っているが、検察側の反応は皮肉で、鑑定医が被告の捜査段階の供述(家庭環境やパーソナリティーの問題から来る性的サディズムの要素が多分に見られる内容)を参照せず独自の問診結果にのみ基づいてアスペルガー症候群を鑑定したことを批判した。

 鑑定医としては当初、捜査段階における被告の後付けの供述を生来の発達障害の鑑定に反映させないことによって、「発達障害者による生まれ持った犯罪性の高さ」という誤った世論を扇動することを防ごうとしたようにも見え、それ自体は犯罪精神病理学的な態度として崇高なものに思えるが、裏を返せば、それが「発達障害を原因とする猟奇殺人犯の責任能力の欠如の仕方なさ」という判断につながったとも言える。

 当然、発達障害児たちを日々見ている支援学校の教員たちには、鑑定医と弁護人の行動は「発達障害と猟奇犯罪の結び付け」ととらえられたし、実際のところ、最もよく発達障害者の一挙一動を知っているこれらの現場のプロの中からは、この予備校生をアスペルガー症候群であると考える者はほとんど出なかった。要するに、アスペルガー症候群ではなかった可能性も残される結果となった。精神科医にとって、発達障害の診断・鑑定が検察・司法権力に対して加害少年を守り抜くためのツールの一つとなっていることも、浮き彫りになった。

 鑑定医も、妹に対する殺害・解体衝動をコントロールする脳機能が「発達障害のために」脆弱であったことが解離性同一性障害の発症と事件発生に影響した、との見解を捨てていない点では、警察・検察・裁判での判決内容と大きくは違ってはいない。しかし、判決は、先の山口のケースと同様に、犯罪の猟奇性を「生来の発達障害」ではなく、(広義の神経症性障害の一種である)「解離性障害」に引き付けて下されており、「(被告は)自身が犯したような行為をしてはならないという認識を十分に持っていた。アスペルガー障害の程度は責任能力に影響を及ぼすものではない。」と明言している。

 こうして、検察側・司法は、被告少年の生来の発達の遅れを責任能力の欠如の口実としない」道を切り開くことになった。

「発達障害者が猟奇犯罪を起こしやすいわけでもなく、また、一旦猟奇犯罪が起きたならば、犯人をまずは発達障害とはせず人格障害や神経症性障害とすることで責任の一端を少年にも負わせる」という器用な技巧が、検察・裁判官のほうに身に付き始めているのは興味深い。

 今回の佐世保の事件についても、ほぼ同様の「迷走」が起きているようである。精神科医の中にも、一定の割合だけ必ず、このような少年少女を見たときに、まず「発達・学習の遅れ」を主張する医師がいるのはなぜだろうか。やはりそこには、殺人現場や昨今の少年少女の持つ底抜けの絶対的苦悩からあまりに遠く離れて超然とせんとする日本の精神鑑定の現状があるのではないだろうか。

 今回の加害少女についても、事件前に「少女が人を殺すかもしれない」と警告した千里眼の精神科医は別にして、もし数人の精神科医が言う通り発達障害が診断されることになるならば、発達障害者に日常的に触れている現場のプロや世論がそれで収まるとは考えがたく、検察・司法がその発達障害の鑑定を退けるか緩和するかしてパーソナリティーの障害に持っていくことで少年の責任能力を認める、というややこしい事態がまた起きるかもしれない。注目である。

 私が述べてみたいのは、精神鑑定医・弁護側と検察・司法権力のどちらが正しいかということではなく、テレビでしか見たことがない加害少年について、テレビよりも中立的な情報が得られるネットを見たことがない精神科医たちが、テレビ向け、アナウンサー・キャスター・コメンテーター向け、あるいは世論向けに「発達の遅れ」や「発達・学習障害」を言っているうちは、過去の精神科医・弁護側と検察・司法の間で展開されてきた泥沼の前例を見る限り、責任能力を一定程度認めるのに都合のよい「加害少年のパーソナリティーの議論」へと簡単に移行する可能性があるだろうということである。


(2)へ続く
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2014年05月30日

「アスペルガー症候群」の廃止や「学習障害」などの名称変更で思うこと

dsm-5.gif◆概要

 5月28日に日本精神神経学会などにより、アメリカ精神医学会(APA)のDSM-5に規定される各精神疾患や行動障害の訳語の指針が出されました。

DSM-5病名・用語翻訳ガイドライン
https://www.jspn.or.jp/activity/opinion/dsm-5/

 DSM-5自体は一年ほど前に出ていますから、ここ一年間は、「(英語とその周辺の言語で取り決められ書かれた)概念」だけがあって「日本語訳」がない、という宙ぶらりんの状態でした。

(改訂直後、私のサイトの以下のページでも注意書きをしておきました。今回の訳語の指針の発表についても、注意書きを追加しました。)
http://iwasakijunichi.net/seishin/teigi.html
http://iwasakijunichi.net/seishin/bunrui.html


 以下が今回の指針の主な内容です。

●概念と名称の廃止・・・「アスペルガー症候群」など→「自閉スペクトラム症」として再編
(ここ一年間に精神科医などの間で口頭でよく用いられた「自閉症スペクトラム障害」は、正式な名称としては採用されていません。)

●名称の変更(「障害」→「症」)・・・「学習障害」→「学習症」、「注意欠陥多動性障害(ADHD)」→「注意欠如多動症」、「パニック障害」→「パニック症」など

●名称の変更(「症」→「障害」)・・・「アルコール依存症」→「アルコール使用障害」など

●概念と名称の変更・・・「性同一性障害」→「性別違和」


 おおまかにこのように変わったわけですが、定着に五年、いや、十年はかかると思います。

 と言うのも、かつてDSM-IIIやDSM-IVが出たときも、APAが「神経症」概念を放棄したにもかかわらず、日本の医者はその後も「神経症」や「ノイローゼ」の語を使い続けましたし、語と内容が一致しない曖昧な期間が長いのが日本の特徴だからです。高度成長期の「社畜」が抱え、尾を引いていた神経症・ノイローゼが、欧米が精神疾患分類を変更したからといって、すぐに忘れられるわけがなかったということだと思います。

 それと同じで、今後も数年間は、医者も口頭で(うっかり使ってしまう以外にも)改訂を知っていながら「アスペルガー症候群」を使うでしょうし、一般国民はカジュアル感覚で使い慣れた「アスペ」なんて言葉も使い続けると思います。


◆「アスペルガー症候群」の廃止と「自閉スペクトラム症」の創設

 改訂内容について、まず「アスペルガー症候群」ですが、定型発達者に対して何らかの独立した「アスペルガー症候群」なる「人間の群」が存在するという考え方自体がなくなって、これらの人々と定型発達者とのつながりを連続体として見ています。

 そのため、一見すると「温かい人間観」になったかのようには見えるのですが、企業(雇用者)などに対しては、「旧アスペルガー症候群の人々が定型発達者(一般の社会人)と連続しているということは、彼らも定型発達者のコミュニケーション能力や能率、即戦力に到達できるはずであり、それができない場合、彼らの努力不足であり、自己責任である」という着想を与える可能性もあります。今回の改訂と訳語の創案が、変に実力主義・能率主義志向や残業代不払いの問題と結びつかないようにしてほしいと個人的には思います。

 アスペルガーや自閉症などの発達障害の人たちは、芸術創作や、一度取り決められ教示された単純作業においては、極めて高い能力を示す場合が多く、しかしそういう作業は、「企業の利益やイノベーション」といった概念からは最も遠いために、軽視されやすく、DSM-5の運用を間違えるとおかしなことになると思います。

 ひとえに、「連続体上にいるという意味は、努力次第でその連続体の中を這い上がれる可能性(這い上がれない場合の自己責任)が証明されたなどという意味ではない」ことを雇用者が理解できるかどうかだと思います。従来通り、「生得的な脳の傾向」という理解が正しいことに変わりはないです。


◆「障害」と「症」の錯綜

 それから、次の二つ、「障害」と「症」の分かりにくい呼び替えですが、まず注意したいのは、「障害」が「症」になったからといって、この「症」は旧神経症の「症」ではなく、単に今の日本社会における様々な偏見問題を考慮しつつ生み出されたDSM-5の訳語だという点です。つまり、今回の「症」は今までの「障害」のことで、その「障害」は旧神経症の「症」の概念を放棄して新設された概念でした。

 その一方で、「アルコール依存症」は「アルコール使用障害」となり、こちらも概念自体はDSM-IV-TR時代からそれほど変わっていませんが、日本語での訳語が変わったわけです。

 これらは明らかに、今の日本の世相を意識して付けられた名称ですね。「学習症」、「注意欠如多動症」、「パニック症」は、これらの人々への差別感情を誘発しない語表現として付けられたものである一方、「アルコール使用障害」は、飲酒運転やDVなどの犯罪・暴力との結びつきが増加していることを念頭において、アルコール関連の問題・トラブルを厳しく断じた語表現だと感じます。

 私個人としては、アルコール使用障害については、病的なアルコール依存をもっと本格的な治療の対象とし、飲酒運転のほうはもっと制裁的・懲罰的に扱ってもよいのではないかと思いますが、それはともかく、日本精神神経学会も冷静に上手に名づけたなと思います。


◆「性別違和」の創設

「性同一性障害」が「性別違和」となった件ですが、こちらは「障害」という認識自体を取りやめることが主眼にあり、他には見られない「違和」という個性的な訳語が与えられました。

 この分野に関しては、いつも欧米ではキリスト教団体やフェミニズム団体の動向を意識して名称が付けられてきました。(今回の改訂でもそうですし、前回の改訂でもそうでした。)

 今回の改訂に喜んでいる「性別違和」保持者も多くいらっしゃるようですが、この改訂の日本社会における効果の良し悪しを即断することはできないと私は思います。この「性別違和」にも違和を感じる当事者(いわば「性別違和違和」!?)もいると思います。これは、ちょうどこれと対極のことを考えれば分かります。

 男女二極のいずれかに自身が属することを自覚する大多数の人間のほうを「障害」や「違和」ととらえると、「性別存在障害」(性別の自覚があるという脳の障害)や「無性違和」(性別がないことに違和を感じるという障害)となりますが、これには大多数の我々が反発を覚えることになると思います。

「性別違和」も、あくまでも「性別」が基盤にあって、これに対する「違和」ですので、DSM-IV-TRからの思想的基盤の大きな変更はないと言えます。日本精神神経学会も、突如として革新的な訳語にするのではなく、APAの意向を汲んで、マジョリティーの立場から丁寧に言葉を選んでいると言えます。私自身は、この姿勢に賛同します。

 もちろん、こういう価値観そのものの改変・撤廃を強硬に主張する急進的な新宗教団体・フェミニズム団体も存在しています。例えば、男女の公衆トイレの構造を変えて(壁を取り去るなどして)、どんな性的指向・性的違和の保持者でも自由に行き来できるようにするべきだなどという考え方ですが、これでは変な趣味と全く同じだと私は思います。海外のフェミニズム団体などには、すでにそれなりに見られる主張ですが、日本でもちらほら見かけるようになっています。

 しかし、「数の問題」(自分は男または女であるという大多数派のほうを「障害」や「違和」とするわけにはいかない)や、「動物としての生殖の問題」(現時点では同性どうしの間に子孫が生まれることはない)など、様々な問題を含んでいることは無視できないですし、とりわけ日本では、今後も男女の公衆トイレ間の移動の解禁や壁の撤去などは、あり得ないとしか言いようがないと思います。

「性別違和」保持者に対しては、今後日本においても、法的な対処(婚姻制度や養子制度の欧米化)や医学的な対処(同性間生殖技術の開発や性転換手術の推進)が考えられていく可能性はありますが、前者は、日本では社会・文化の体質として欧米のようになるわけがなく、後者も結局、STAP細胞捏造問題に似たもの(疑似科学)をちらほら見かけますし、ビジネス化・競争化の中で頓挫しそうな気がします。

 基本的に、ローマ・カトリック教会やキリスト教保守系団体は同性愛や性同一性障害に厳しい姿勢を示し、フェミニズム団体やキリスト教革新系団体はこれらの人々の権利を広く認める姿勢を示してきました。

 それでも最近は、カトリック教会・教皇がこれらの人々に寛容な発言をしたり、フェミニズム団体の中にも、あくまでも男性優位の思想への反発は持っていても女尊男卑思想の人々に対しては厳しい姿勢を示す団体もあり、この分野についての思想の左右、保守・革新の区別は、従来の政治・宗教思想とは相関性があまりなくなってきているのが興味深いです。

 日本においても、もはやこれらの性的指向や性的違和を持つ人々が「いること自体」を否定する主要政治団体はない状況で、自民党も民主党も大して違うことは言っていないので、私としては、社民党、共産党、公明党、幸福実現党、フェミニズム団体や、創価学会(公明党の支持母体)、幸福の科学(幸福実現党の基盤)、エホバの証人、統一教会などの新宗教団体の見解・発言を注視していきたいと思います。

 実は極右・極左両方の意見が存在するのはこういう団体だと、個人的には思っています。


●一般の日本人が注意すべきだと思うこと

 というわけで、話が少し変わりますが、精神疾患・精神病理学と政治団体や宗教・思想団体(特に新宗教団体)との関係の話をします。

 先に挙げたアスペルガー症候群や学習障害などについても、何らかの極端な意見を持っている新宗教団体は多いです。

「輸血は許さないが、性同一性障害者の権利は認める」(エホバの証人の幹部の発言)、「移民を増やし、日本を日本人と白人が共生する3億人国家にするのが目標だが、障害者がうまく働けないのは前世が悪かったからだ」(幸福実現党の幹部の発言)など、いくら私個人にとっては一笑に付すべき暴論や妄想であるとしても、世の中には様々な考え方があるのであり、ともかくDSMの概念や訳語を統一したところで、万人の意見が一致するわけがないのが実状といったところです。

 少なからぬ一般国民が政治や宗教(宗教の創始者・教祖や主宰)の(しばしば架空の)力を借りなければ、これらに対する自分の意見を持つことができない(もはやそれは自分の意見ではないが)という現状には、私は強い違和感を持っています。

 しかし、新宗教に心酔した人たちは、それはそれで職場からの「一種の新宗教的脅迫(実力主義・能率主義・パワハラなど)」に苦しんで、そのような道(職場という「新宗教団体」からの脱却としての別の新宗教)を選んだ可能性もあるところが、今の日本や先進国の闇の部分だと思います。

 実際のところ、かつてのオウム真理教の幹部たちには、超高学歴で、かつ職場で不当に「干され」(いじめに遭っ)て入信した人が多かったですし、人命を救済するはずの医者、科学者、警察官、弁護士までいたわけです。

 精神科医やカウンセラーまでもが新宗教・思想団体に関わったらおしまいだと私自身は思っていますが、関わらないはずはなく、海外で誕生したオカルト科学系の新宗教・思想団体であるサイエントロジーやラエリアン・ムーブメントは、日本支部の活動が最も盛んであり(日本人の信者・会員が多い)、自閉症やクローン人間についても言及するようになってきています。

 そもそも、「第四の心理学」と言われているトランスパーソナル心理学には、かねて新宗教そのものであるという批判があり、私もこの心理学の書籍を読んでみて、好きになれなかったのですが、自閉症や学習障害のお子さんのいるお母さんが心酔しているケースもあり、実に人間というのはどこまでも摩訶不思議な生き物であると思います。

 話がまた変わりますが、最近では、政教分離しているはずであるのに、自民党と公明党の憲法・集団的自衛権解釈の齟齬に乗じて創価学会が見解を述べたり、昨年の参院選で当選した公明党議員が(自身に票を入れた創価学会員の支持者が「投票は功徳を積むこと」と表現したことに関連して)テレビで創価学会に礼を述べたことについて、池上彰氏がテレビでごく普通に批判的口調でたしなめていたりで、どうやらマスメディアの状況が変わってきています。

「新宗教ウォッチャーだが、そのどれにも入らないし、好かない教」という宗教(自称)に所属している私としては、なかなか面白い事態になってきたと思っています。

 精神疾患や新宗教問題の分野において昭和や平成初期にあったような、まるで共産党支配下の中国と変わらない言論統制やタブーというものがなくなってきているのは、大変によいことだと思いますし、新宗教・思想団体による発達障害者や精神疾患についての極論・異様な見解・差別発言などに対しても、自由にものが言えるようになっていくべきだと思います。

 どんどん話がずれましたが、ともかく、概念・名称が「アスペルガー症候群」であっても「自閉スペクトラム症」であっても、新宗教に心酔した母親が子供に「私の前世が悪かったから、アスペのあなたが生まれたのね」などと言い出したりしなければ、それでいいです。そう言い出す母親を、私は多く見てきました。

【引用・参考文献】
DSM-5病名・用語翻訳ガイドライン
https://www.jspn.or.jp/activity/opinion/dsm-5/
posted by 岩崎純一 at 19:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 精神疾患関連の文章

2013年07月29日

解離性同一性障害において見られる共感覚

 今回は、解離性同一性障害(DID)の方々の共感覚について書きたいと思う。

 解離性障害(DD)の定義のページにも記したように、現在でも、各学者・各医師・各学会・各精神疾患分類制定機関によって、DIDをDDの一部とするかしないかで見解が割れている上、旧来の「多重人格(MPD)」の側面を重視するか、操作的な診断基準に基づく現行の「DID」としての側面を重視するか、DIDに加えて、各人格・自我の壁が薄かったり半ば演技的に人格を使い分ける演技性人格障害の一角をも含めた広義の「多重人格」を重視するかによっても、見解が異なる。

 しかし、単にDIDと言えば、米国精神医学会が規定するDSM内のそれを指すのであるし、今回も便宜的にこれに従う。

 この場合、DIDはDDにおける最重度の障害であると規定される。DIDを診断されるためには、DID以外のDDのほとんどの障害(解離性健忘・離人症など)の特徴が見い出されなければならない。特に、解離性健忘はDID診断の大前提と言っても過言ではない。このため、DIDと診断されるには、5年、あるいは10年以上かかる場合もある。

 このDID罹患者が自らの症状と向き合う際にいわゆる「共感覚」を用いている例を紹介する。(共感覚の生理学的な解説については、私のサイト・著書・講義内容などを参照されたい。)

 ある解離性同一性障害の女性は、人格を「色」で区別していると私に報告して下さった。以下が、彼女の報告である。


---------引用始め

私は、自分の意識(生きている感じ)が三つくらいに分かれています。
自分で言うのも変ですが、
元の自分である優しい女性のとき、私は薄い黄色、
怒りっぽい女性のときは青色、
小さな少年か少女のときは水色をしています。
いつ優しい女性で、いつ怒りっぽい女性で、いつ少年少女なのかは、
自分でも知りません。
基本的には私は優しいです。
でも、私は怒るときは怒ります。
あるとき、私は心の中でとても怒りました。
それは近所の男性がそばにいたときのことだったのですが。
そして私は、黄色、青色、水色に分かれました。

---------引用終わり


このカラーイメージと文章は、以下のアドレスに掲載している。

http://iwasakijunichi.net/seishin/rei2007.html

 このような事例は、「純粋な知覚・脳神経系の問題であるとされ、心理学・神経科学が対象とする」共感覚と「解離性障害の一環で、精神医学などが対象とする」解離性同一性障害とが全く無縁のものではないという事実を、如実に示している。(この女性の人格は、のちにさらに増えたようである。)

 また、私が交流している何人かの精神疾患者の通院・入院先であった赤城高原ホスピタルの以下のページの[人格交代、相互関係]の冒頭にも、DIDの24歳の方の共感覚と思われる例がある。これも大変貴重な証言である。


http://www2.wind.ne.jp/Akagi-kohgen-HP/did100.htm

---------引用始め

色彩イメージの意識状態
私自身の認識は、自分には色彩イメージの意識状態があって、紫、水色、赤、ピンク、オレンジ、黒などの基本色調に応じた人格があるのです。(DID、24歳)

---------引用終わり


 上記の一人目の女性にこのページをお伝えしたところ、同様のDIDの乗り越え方(人格への色付け)を模索している方がいらっしゃることに力を頂いた気分だと述べておられた。

 また、以下は別の20歳のDID女性の共感覚の例である。


---------引用始め

私は、私の中の赤紫、緑、青紫、茶色の四人と一緒に過ごしています。
全員女性で、おっちょこちょいおばあさんからわんぱく少女までいます。
中心となる本物の私(黒色)は、昔、まっ黒にされてしまい、
死んだも同然だったのですが、
四人の明るさが、またまっ黒な私をまっ白にしてくれるかもしれませんね。

---------引用終わり


 この事例のカラーイメージも、先ほどのアドレスに掲載している。

 さて、例えば、せっかく娘さんの解離性同一性障害への理解が深まってきたにも関わらず、人や人格や自我に「色が付いて見える」という娘さんの共感覚の側面への理解がなかったために、親御さんが娘さんを叱りつけてしまい、娘さんが今まで以上に解離を起こしてしまったケースを、私は見たことがある。

 しかしながらこのように、DIDなど、解離・離人の各症状をお持ちの方々、特に女性の罹患者には、「共感覚」の用語を知らずとも、人格・自我を色分けするなどの工夫をおこなって、自分なりに障害と上手に付き合ったり、乗り越えようとされている方がいらっしゃるのは確かである。その親御さんに対して、私が「共感覚」の辞書的・生理学的定義から順に説明させていただくということが何度かあった。

 ところで、彼女たちの言う「色」とは、DIDでない一般の共感覚者の言う「色」と同様であると考えて差し支えないと思われるが、その代わり、「色」の記憶障壁は、むしろDIDのほうに従う。

 すなわち、ある人格Aが別人格Bの存在について未知である限り、この人格Aは別人格Bの色を知らない。別人格Bの存在を知る人格Aにあって、かつ人格Aが共感覚を有するときにのみ、別人格Bの色を回答することができるのである。

 従って、彼女たちが私に上記の報告をして下さった時の彼女たちの人格は、このような人格Aであったわけである。

 ある人格が別人格と記憶を共有していないことは、当然DIDでは普通のことであるが、いわば純粋知覚である共感覚をも共有していないケースがあることは、DIDの存在の事実とその特徴をいっそう明確なものにする。

 上記の二人の女性(ホスピタルのページで挙げられている女性以外)はそれぞれ、のちに各人格どうしの交換日記において、自らのうちに「共感覚」を持つ人格が存在することを各人格どうしで互いに報告し合っている。

 うまく報告し合えなかった際に、私も微力ながらお手伝いをさせていただいた。例えば、別人格が共感覚を持つ人格に対して、「そのような色分けには何の効果もない」と罵倒することがあり、これがちょうどこの女性の「感性的な性格」を否定したかつての彼女のパートナーの性格に酷似していた。このような人格に対して、私がただ淡々と共感覚の説明をおこなったところ、いつのまにか理解していたというケースもあった。

 DID罹患者の男女比の正確な統計は未だに存在していないが、女性が男性の10倍から20倍存在するようである。少なくとも私は、虚言を疑う余地のない真のDID罹患者としては、女性しか見たことがない。また、共感覚者の男女比についても、女性のほうが多いとする統計がほとんどである。DID女性に豊かな共感覚者を「兼務」する女性が見い出されるのも、何ら不思議なことではないだろう。

 重要なことは、私は、ここで今書いたような「共感覚による自らの解離症状の把握」の方法をDID罹患者である我が子に指南するよう親御さんに求めているわけではない、ということである。DID罹患者の一部はすでにそれを実践しているし、実践していない場合は必要がないから実践していないのである。

 第三者はこのようなDID罹患者の豊かな知覚世界を愛すればそれで十分であると、私は考える。
posted by 岩崎純一 at 12:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 精神疾患関連の文章

2013年07月21日

女性の集団ヒステリーを考える

●転換・身体化としての女性の集団ヒステリー

 解離性障害や転換性障害は、かつてまとめて「ヒステリー」と呼ばれた。ヒステリーの原因が「子宮(ヒステリア)」にあると思われたからであるが、しかし、これを古代人の妄想だとして一笑に付すわけにはいかない。解離性障害や転換性障害は、やはり今でも主に女性のものである。

 その子宮と、完全な他者(第三者・世界)とを結ぶ通路は、ただ膣(ヴァギナ)一つであるから、解離性障害や転換性障害の主な要因が「実父・祖父・男性教師などからの性的暴行によるトラウマ」であることは、むしろ当然のことであると考えられる。

 解離性障害や転換性障害となり長年通院・入院していた色々なの女性の方々にお会いしてきて、私のその見解は今なお変わらない。

 私が二冊目の拙著で告白した、「女性の生理現象が察知できる」という、いわば感応性・転換性の共感覚も、見方によっては「男性である私が(勝手に)起こしている軽度のヒステリー」と見ることもできそうだが、やはりそれでも女性特有の「ヒステリー(子宮)」ではあり得ないのである。

 2013年6月19日の午前11時45分頃、兵庫県上郡(かみごおり)町大持の県立上郡高校で、1年の女子生徒らが休み時間中に「気持ち悪い」と体調不良を訴え、過呼吸を起こして廊下に倒れ込み、最終的に18人の女子生徒が病院に救急搬送されたことが報道された。

 女性の集団ヒステリーの発生については、今でも年に一度か二度は報告・報道されている。実際には、学校や女子寮など若い女性が集団生活する場では、頻繁に起きているのだろう。

 これについて、集団性の転換性障害の観点から大変関心を持ったので、書いておきたい。

 若い女性や主婦が中心となって集団ヒステリー・集団心因性疾患を起こしたと思われる出来事は、むろん世界中に存在する。2000年前後から現在に至るまで、タリバン政権下・支配下において女子生徒の集団失神・卒倒が相次いでいる。昨年にも、タリバンが女学校を襲撃し毒物を散布したという噂が広がったが、それが虚偽で、女子生徒の集団ヒステリーであったことが判明している。タリバン支配下では、女子の教育が著しく制限されていることは確かであるし、紛争への恐怖そのものがヒステリーの契機となっていることは間違いないと思われる。

 また、パレスチナ、グルジア・南オセチア、コソボなどでも、過去に同様の女性の集団ヒステリーが起きているし、つい先日(2013年6月)にも、バングラデシュのダッカ郊外にある衣料品工場ストレート・スウェッターズ社で800人以上の工場労働者が集団ヒステリーを起こしている。のちに工場長のマムドゥール・ラーマン氏が、労働者の80%以上が女性であることや、夏の暑い時期であったことなどを原因とする集団ヒステリーであったと結論付けている。

 このような女性の集団ヒステリーは、日本でも過去に多く起きている。主婦を中心とした岐阜県富加町のポルターガイスト事件(1999〜2000頃)などは、その典型であると考えられる。

 あるいは、新宗教団体(摂理、オウム真理教など)の教祖に対する日本の大人数の若い女性の性的陶酔・性的没頭は、少し様相が違えど集団ヒステリーと見ることが可能である。摂理は韓国発祥の団体であるが、同団体全盛期の当時はいわゆる「韓流ブーム」の全盛期で、『冬のソナタ』のペ・ヨンジュンをはじめとする韓国人男性への強い憧れを多くの日本の女性が持っていた時期であった。

 今回の兵庫県の女子高生の件についても、18人のうちの1人で、普段から「霊感が強い」と友人たちから言われていた女子生徒の転換性の反応がきっかけであるため、警察もマスコミも「集団ヒステリーの可能性がある」という言い方をしており、この指摘の全てが間違っているわけではないが、広義の「ヒステリー」の用語自体は、精神医学上はすでに批判され放棄されている概念ではある。

 もう一歩踏み込んで、いわば今回の女子生徒たちの例に隠れた「現代の一般女性の集団ヒステリー」の特徴を見てみたい。

 まず、今回女子生徒たちに起きた「こと」は、ヒステリーと言っても、解離性ではなく転換性であることはほぼ確かであろう。つまり、「自我の変容や分裂」ではなく「精神の苦悩の身体における転換と表出」であるだろう。(詳しくは、私のサイトの解離性障害や身体表現性障害のページを参照。)

 女子生徒たちに実際に出た症状を正確に記述すると、「この成長期の女子生徒一般に起こりうる身体症状(卒倒、痙攣、悪寒、嗚咽、頭痛など)のうち、18人の個々の気分障害・不安障害・神経症性障害に随伴したものとは考えられず(「友人の霊感(なるもの)」が発端となっており)、かつ身体疾患が原因ではないもの(全員に身体の異常が認められていないにもかかわらず発症したもの)」である。

 そのため、狭義の転換性のヒステリー反応や心因性過換気・心因性呼吸困難発作・心因性心悸亢進などに該当すると見るべきであろう。

 ここで第三者が見落としがちだと思うのは、霊感が強いとされている女子生徒が最初に転換性の反応や身体化の症状を見せたことに対し、周囲の17人が「自分にも霊が見えたらどうしよう」という恐怖や不安を覚えて集団ヒステリーを起こしたなどと考えるには、人数が多すぎるという点である。このような恐怖や不安は、普通は個々人の脳において神経症的な症状として処理され収まるからである。

 やはり、単なる恐怖症性・不安症性の反応というよりは、転換性・身体化性の反応と見るべきであろう。ただし、「転換性障害」や「身体化障害」の定義の全てを満たしているわけではなく、一過性のものであるから、精神疾患とは言えない。

 むしろ、女性(特に若い女性)の身体が、身体疾患なしに、(今回の場合、単に発育段階・第二次性徴発現期の直後にあるということのみによって)転換反応を引き起こし、それが周囲の若い女性に「伝染」することがあること自体を、かつて古代には「霊」や「霊性」や「霊感」と言ったのであると思うし、そのような女性を「巫女」や「シャーマン」と言ったのであろう。このような点においては、女性のヒステリーの根本部分は古代から現代まであまり変化していないと言えそうである。

 むろん現在では、今回の女子生徒たちに起きた症状の有力候補である転換性の反応や身体表現性自律神経機能不全のような反応は心因性・旧神経症性の症状であって、精神病とはされていない。また、仮に解離性障害の下位分類である憑依性障害などであったとしても、やはり精神病ではない。

 一方で、かつては祈祷性精神病などのように、加持祈祷などの宗教的儀礼の最中に女性が集団で摩訶不思議な反応を見せる症状は、精神病の扱いであった。また、過度の妄想が入っている場合には、精神分裂病(現在の統合失調症)とされることもあった。

 ただし、現在でも、解離性障害や転換性障害が極めて精神障害に近い神経症性障害であるという認識を精神医学が捨てているわけではないし、むしろ今後も、スペクトラム(連続体)としての認識を保つため、用語は改定しても、概念を捨てる必要はないと思う。


●現代における古代的な女性の集団ヒステリー(1) 巫女の遊戯の場で見られるヒステリー

 私が見たことのある若い女性の「集団ヒステリー」と言えば、巫女による和歌などの遊戯の場と、解離性障害の女性の集団生活や集会におけるものである。

 まずは、巫女の遊戯における集団ヒステリーであるが、例えば、ある二十歳前後の巫女の女性が、ある言葉や音の列を和歌に詠み込んだときだけ、周囲の十代・二十代の巫女や下女の女性に転換性の集団ヒステリーの反応が見られた。

 もちろん、「ある言葉や音の列」と言っても、それ自体に特別な効果があるわけではなく、今回の女子生徒たちの言う「ある友人は強い霊感を持っているという噂」それ自体に似ている。

 つまり、「夕月夜(ゆふづくよ)」とある女性が詠んだとき、その女性自身が過去のある夕月夜に得体の知れぬ不安を感じたことを思い出してその場にうずくまり、突然「その夕月夜に神と性行為をしたかもしれない」と言い始め、周囲の女性がつられて同じ状況になる、といったことである。

 分かりにくいかもしれないが、女性にはそのようなことがあるのである。ただし、どうしてそのような際に生じる妄想が、今回の女子生徒の例のような「霊感」や「学校の怪談」とは異なり、いわば「性的妄想を帯びた霊性」であるかと言うに、そこには深い理由がありそうである。

 これらの巫女の女性の中には、許嫁(いいなずけ)の相手が幼少期から親によって決められていたり、一生涯を処女として過ごすことになっている女性がおり、そのような中で和歌や舞踏や祭祀を日常生活としており、常に和装や巫女装束で過ごしているのであるから、転換性の集団ヒステリーと言っても、半ば性的抑圧の解放としての機会であるかのようにも見えた。実は、この点が重要だと思うのである。

 もちろん、有史以前や万葉集時代のような、乱交を含む「歌垣(うたがき。谷や広場のあちらとこちらとで男女が和歌を詠み合ったり、叫び合ったり、性行為をおこなったりする集団儀式)」のようなことは、現在では全くない。

 しかし、神社の祭祀や、普段の歌会・裁縫・遊戯などにおいては、現在でも、若い女性どうしでこれに近いヒステリーが起きていることに変わりはない。時にそれは性的なニュアンスを帯びているし、レズビアンのような行動を伴うこともある。

 このような場合、「女性“である”こと」は「女性“にある”もの」に深く関係していることになる。そのことに女性たち自身の意識が気づくか否かに関わらず、少なくとも潜在意識的には、女性たちの脳と身体においてそのことが十分に了解されている。

 結局のところ、この場合、この女性たちの「女性であること(自我)の産物」(こう詠みたいと思って詠んだ和歌の言葉や音声)は彼女たちの「女性にあるもの(身体・子宮・女性器)の反応」(身体化反応・転換反応)にならなければならないというような強迫観念が、この女性たち自身の潜在意識にあるのだと考えられる。そうであるから、恋の和歌を詠んでいる最中に、詠み手の女性だけでなく、周囲の女性まで一斉に子宮がうごめいたり性器が湿潤になったりするものが、本物の「芸」であり「和歌」であると、この女性たち自身が考えているふしが、今でもあるように思えた。

 日本神話に限らず、世界中の神話において常識的なものではあるが、神々と性行為をおこなって神々の子を子宮(ヒステリア)に宿したり、処女懐胎したりする若い女性が登場する。

 現実に存在する、「種(しゅ。動物であるヒトとしての種)」と「種(たね。ヒトの片割れである男性性=マスキュリニティー)」の「挿入者・注入者」である男性との接触を断たれ、それによって生じた性的抑圧のはけ口が、男神たちとのセックスの妄想であったり、「狐憑き(きつねつき)」のような憑依妄想であるのだとしたら、そのような日常的な集団ヒステリーが、現代においては特定の出自の巫女や結婚相手が親などによって決定されている女性、伝統的な祭祀や芸能を担う女性の方々に集中して残っているのも納得できる。

 こうして見ると、強制的に女性に集団ヒステリーを引き起こすには、一つには(むろん、そんなことはやってはならないが、)女性を性的に抑圧すればよいことになる。


●現代における古代的な女性の集団ヒステリー(2) 性的虐待の結末としてのヒステリー

 ところで、このような性的ニュアンスや性的儀式性を帯びた女性の集団ヒステリーは、解離性障害や転換性障害と診断された女性の集団においても、起きてしまう。厳密に言えば、古代的な女性のヒステリーにほぼ該当するものは、今回の女子生徒たちのヒステリーではなく、現在の解離性障害や転換性障害の女性たちのそれであろうということである。

 もっとも、このような形での女性のヒステリーは、原始の時代においては、八百万の神々や自然災害に対して多くの女性によって引き起こされたものと思われる。それが現在では、近親者によるレイプといった極めて鋭角的・局地的な脅威によって特定の女性に引き起こされるものとなったと見るべきなのだろう。

 ちなみに、長年、日本における入院患者数の第一位の疾患は統合失調症であるが、統合失調症や解離性障害、身体表現性障害の患者には、性的虐待を伴う機能不全家庭の女性と共に、良家の若い女性もかなり多いのである。親に勘当されて、精神病棟で暮らすことになった女性もいる。

 極端な性的抑圧は性的虐待と同様の心因反応を女性にもたらすことがよく分かる。これが実は、女性の集団ヒステリー分析のカギを握っているように思える。

 性的暴行を受けた解離性障害や転換性障害の女性には、かなり限られた割合なのだとは思うが、性的暴行に耐えてきた「同志」として、DVシェルター内の女性の仲間どうしで性器を愛撫し合う行為が見られることがある。当然ながら最初は驚いたが、これについて私は、過去に男性に汚された身体部位の徹底的な「浄化」としての「女性性の浄化」・「女性性の完遂」を試みるような、一種の儀式的な行為ではないかと感じている。

 私が見る限り、性的虐待を直接的起因として解離性・転換性障害を発症した女性の、以後の「性」への対応の仕方は、徹底的に「性」を嫌悪するか、徹底的に「性的」であるかの、どちらかであるように思える。前者の場合、性的な会話を耳にしただけでフラッシュバックを起こして気分が悪くなり、再び解離・転換することもある。後者の場合、同性の解離性・転換性障害者とさえ性行為をおこなったり、援助交際・売春に走る女性もいる。

 援助交際・売春は、徹底的に「性的」でもあるが、しかし、ある意味では「性の枯渇」、「性を捨てること」でもあるのではないだろうか。すなわち、「(自分という)女性を使い切る」ことを無意識のうちに考えているのではないだろうか。援助交際・売春が、解離性障害の女性と共に、摂食障害及び境界性人格障害の女性にもしばしば見られる行動であることは、言うまでもない。

 ともかく、特に精神疾患に陥っていない現代の一般の若い女性に見られる、「学校の怪談」を発端とする淡白なヒステリーに見られないのは、このような性的なニュアンスなのであった。性的なニュアンスを帯びた女性の集団ヒステリーは、むしろ先の「性的に抑圧された家庭の出身の解離性・転換性障害の女性」のほうに、「飛び地」のように残っているのである。

 先述のような、いわば歌会や裁縫を性的遊戯の場としても生かす女性たちの身体化や転換は、今回の女子生徒たちの例とは逆に、ヒステリーを自覚する自我すなわち「私たちが女性であるということ」を、ヒステリーに反応した身体すなわち「私たち女性にあるもの」のうち「官能のための機能の発揮の機会を抑え込まれたもの(性器・子宮、あるいは胸部・唇・髪など)」に託したタイプのヒステリーであるから、この場合、女性たちはヒステリーに陥ったことを喜ぶことさえある。

 現代の解離性障害・転換性障害の女性のヒステリーや半レズビアン的な行為も、本質的にはこれに似ていると思う。女性どうしで被害部位を接触し合うことで得られる(と彼女たちが考える)「性器の浄化」と「女性性の浄化」は、やはり彼女たちにとっては、肉体の快感でも精神の喜びでもあるからである。

 今回の女子生徒たちの件を見ても分かるような、苦しくてたまらず、病院に送られるような異常事態であるはずの集団ヒステリーが、なぜ現代においても一部の巫女などの女性たちによって意図的に行われているかを考える際には、今回の女子生徒たちのヒステリーと一部の巫女などのヒステリーとの数少ない違い、すなわちヒステリーの意図と目的の違いを見るべきだということだろう。

 歌会などの遊戯の例の場合には「遊戯が彼女たちの性的抑圧の解放の機会」であり、性的虐待被害者の集いの場合には「集いが彼女たちの性器の浄化の機会」であることが言明可能なのではないだろうか。


●「性的抑圧と性的被害という両極」のない現代の一般女性のヒステリー

 逆に言えば、今回のような学校における若い女性の集団ヒステリーなどに注目してみると、上記のような性的抑圧環境や性的虐待環境に置かれていない現代一般の若い女性たちがどういうときに集団ヒステリーを起こしやすいかが分かる。

 現代の学校生活や家庭生活においては、よほど厳格な支配者や伝統的家柄の保守者としての親や教師を持たない限り、許嫁を設定されたり、性的行動を監視されたりすることはないから、小中学時代から性的抑圧を女性の自我が意識しているということはあまり考えられない。

 しかも、解離性障害や転換性障害を引き起こすトラウマの主要因である「男性からの性的暴行」を女性全員が受けているわけでもない。

 しかしその代わり、今回のように、同性どうしの霊感や憑依能力の比較の心理、すなわち、「幽霊やお化けが怖い」、「明日嫌なことが起きそうな気がする」、「悪いことをしたら神様に怒られる。ばちが当たる」といった恐怖や不安だけは、女性の永遠の本能として持ち続けている。

「女性の(集団)ヒステリーは“女性であること”が“女性にあるもの”に託される身体化や転換である」という点は、今も昔も共通しているのであるが、身体化・転換を受ける身体部位は異なっている。

 歌会などの遊戯や裁縫の場を今でも性的ニュアンスを帯びた儀式と見ている特定の女性たちと、現在解離性障害や転換性障害と診断されている一部の女性たちにおいては、まず誰かがヒステリーを起こすと、その女性の身体において反応が見られ、それが周囲の女性に伝染していく。

 その根幹にあるのは、「女性性の起動力」としての「和歌や裁縫」というとらえ方であったり、「女性性の浄化」としての「性器の浄化」というとらえ方であったりする。

 今回のような女子生徒たちにおいては、まず誰かがヒステリーを起こすと、特に性別に起因するのではない身体症状(卒倒、痙攣、悪寒、嗚咽、頭痛)が見られ、それが周囲の女性に伝染する。そこに残るのは「どうして女子ばかりが卒倒するのか」という現代の不思議であるだろう。

 それが「性的儀式」や「性的祭祀」としての女性の集団ヒステリーの幽かななごりであることに、我々は気づきにくくなっているのかもしれない。

 それは取りも直さず、少なくとも「友人の霊感の話」や「学校の怪談」という起爆剤がなければ女性でさえヒステリーを体験「できなくなった」ということでもある。しかし同時に、現代の女性であっても、宿命的に性的抑圧を受けたり、有無を言わさず性的暴力を受けたりすれば、高い確率で他の精神疾患と共に解離性障害や転換性障害(かつてのヒステリー)を発症することが予想されるのである。

 ということは、我々現代の男性が現代の女性に対して何をやってよく何をやってはならないかが、的確に絞られてくるはずである。

「ヒステリー」が今でも「ヒステリア(子宮)」の叫びであり、女性の症状であるということを、まざまざと見せつけられる思いがする。


【参考文献】

集団パニック?女子高生18人搬送
(2013年6月20日付 産経新聞 など)

アフガニスタンで続く女子生徒への毒攻撃、「集団ヒステリー」の可能性
(2012年6月2日付 AFP BBNews など)

※現在、記事中に挙げた女性の集団ヒステリーについてのインターネット上の新聞・ニュース記事は、ほとんどが削除済みとなっておりますが、以下のまとめサイトなどに情報が残っておりますので、そちらをご覧下さい。

集団ヒステリー!?次々と過呼吸を起こした18人の女子生徒
http://matome.naver.jp/odai/2137082879076514301

日本でも事例がある集団ヒステリーとは
http://matome.naver.jp/odai/2140418738350655401
posted by 岩崎純一 at 16:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 精神疾患関連の文章