2016年03月19日

違法薬物&暴力団&新宗教

kiken.jpg 日本の危険ドラッグ・指定薬物使用者の裏サイトで「共感覚」の語がはっきりと確認できるようになったのが、2011年。大学・研究機関における共感覚者・共感覚研究者の世界でついに危険ドラッグ・指定薬物使用者に出くわしたのが、2013年。

 私は、刑法犯罪にしても薬物犯罪にしても相当な厳罰主義者であるし、どうやら「人の目を見れば分かる」という直観は人一倍あるらしい。目の利く警察は、車の走りを見ただけでドライバーが薬をやっているかどうかが分かるらしいが、ある人の共感覚が、生得的な身体と感性だけをもって生じた共感覚か、体内で生成されない何物かを摂取して生じた共感覚かくらいは、何となく目と挙動で分かる。

 と言いつつ、今回のショーンK氏の学歴詐称は全く分からなかった私なのであった。佐村河内守のゴーストライター問題の時も、小保方晴子のSTAP論文の時も、やや胡散臭いとは思いつつも、結局は分からなかった。共通しているのは、これらの人々には現実に会ったことがないという点。つまり、体臭とまではいかなくとも、本人の身体から実際に漂ってくる化学物質の微妙な違いなども含めて、私は人の虚構を嗅ぎ取っているということなのだろう。

 それはともかく、覚醒剤使用者と麻薬使用者は、まだ共感覚界では見たことはなく、危険ドラッグ使用者のみだが、こういうものは、時間の問題でバレるか、あるいは、すでに使用者がいながら周囲の人々の洞察力の欠如によりバレていないだけだ。本当にまじめに共感覚を研究したいなら、教員、研究者、学生の浄化が必要だ。共感覚を得たいと思って違法薬物に手を出している人が周りに一人もいないという考えの持ち主がいるとしたら、それは時代と社会を見ていない浅はかな教養から出るものだ。

 時々、「大麻くらいなら、タバコよりも安全だから、やってもいいと思う」という共感覚者もいるし、大麻合法化の支持者も大学レベルの共感覚研究者に結構いるのだが、「生理学的安全性」と「倫理道徳的善」と「合法性」と「日本の思想風土への適合性」とは全て異なっていることに注意すべきである。

 大麻や売春を、欧米、特にアメリカの一部の州やオランダのように、日本でも合法化したとして、日本人が突然欧米人気質になってそれらを運用できるわけがない。

 それに、カント哲学の普遍的律法に裏付けられるべき「善のための善」でさえ、違法薬物や殺人や売春を肯定も否定もできない。法的にアウトであるものは徹底的に法的にアウトであるべきであって、医学的安全性や崇高な倫理的善とは異質であるからこそ、違法薬物に手を出した人物については、例え目上の人物であろうと問答無用で公安・警察に突き出すべきだと私は考えている。

 このあたりは、今回の清原和博被告についても同じことを思った。清原被告のような男は法的・社会的制裁を受け、スポーツ界から永久に追放されるべきだという主義主張と、清原被告(清原少年)の極度に優しく脆い性格や生い立ち・悪運への理解とは、私個人としては全く矛盾していない。

 清原被告の出身校のPL学園は、PL(パーフェクト リバティー)教団が母体だが、清原被告は、パーフェクトなリバティー(「完全なる自由」、「真の自由」)を「覚醒剤の自由な使用」という直球ホームランで実践した点において、「生の哲学」畑の私からすれば、清原被告自身の実存から生じた虚無についての被告のこれまでの超克方法に関心がある。

 無論、虚無の超克方法の能動性・創造性が清原被告には欠如しているとは思うが、カント的律法やベルクソン的「生の飛躍」は、桑田よりもむしろ清原にあるというのが私の考え方で、清原の理性はカント的だが、桑田の理性はあくまでも本能に対するそれだ。現代日本社会において良い評判と高い社会的地位とを獲得できる処世術を持っているのは、後者のほうなのだろう。

 それにしても、怪しい薬を使って自身が仏陀やキリストの再臨であると謳う新宗教団体の教祖たちと違って、清原被告個人の手法は、パーフェクトなリバティーであることだけは間違いない。

 ともかく私は、共感覚それ自体の研究ではなく、共感覚を巡る日本人の動きを観察するべく、日本共感覚関連動向調査会、そして日本共感覚研究会とサークルを運営してきた。ただし、サークルの実状は、調査会の時のままで、ほぼ私のサイトから派生した他の傘下サークルと変わらず、「やはり岩崎さんは、独自路線を貫いて、岩崎サークル群を形成するべき」というご意見の方が多かったので、「日本」という名も大げさかなとは思っている。未だに日本共感覚協会と日本共感覚研究会を間違える人がいるのも、かなり困っている。

 ただし、私は無論、公安・警察でも何でもないから、「岩崎さんみたいなイケてる共感覚を得るには、どうすればいいっすか?」という怪しい問い合わせに、あくまでも私人として目を光らせるばかりだ。とりあえず、私の共感覚はイケてるらしい。しかし、この分野については、清原和博被告やASKAがその道のプロなので、そちらに尋ねてほしいところだ。

 そもそも、覚醒剤と麻薬と危険ドラッグと指定薬物の定義をもっと広げつつ厳格にしなければ、いたちごっこになるだけだ。

 最近は、違法薬物の親友である暴力団の動きも慌しい。とりわけ、山口組と神戸山口組の抗争が目立ってきた。

 私の地元岡山県内の山口組系二次・三次団体は、ほとんどが神戸側に移ったようである。と言っても、以前から岡山の山口組陣(池田組、熊本組など)は反六代目の色が濃かったが、つまりは、山口組の「名古屋化」を嫌っているようである。

「あらゆる違法薬物の現状や暴力団の情勢や新宗教の動向を、他の社会情勢と同様、知識として徹底的に得て、かつ自らはそれらのいずれにも手を出さなければ属しもしない生き方」

 私としては、これが自分の生き方だし、これを最期まで貫徹できた男を「任侠道」を全うした男と言うのだと考えているが、山口組も神戸山口組も、清原和博被告もそうは考えておらず、小学校の通学路のそばで発砲したり車で家に突っ込んだり、覚醒剤に手を出したりしている。世の中には色々な思想・信条や任侠・義侠があるから、致し方がないのである。

 しかし、どこかに真の任侠道・義侠道があるという気がする。


【画像出典】

脱法ドラッグ(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B1%E6%B3%95%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B0
posted by 岩崎純一 at 21:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・宗教論

2015年08月08日

タカ(鷹)やハト(鳩)のような本物の「右翼」兼「左翼」人間(動物)でありたい

 あなたは右翼ですか、それとも左翼ですか? タカ派ですか、それともハト派ですか? ところで、以下の写真は、右翼と左翼のバランスが非常によいタカとハトの写真です。

 そういう冗談はさておいて・・・本題に入ります。

(この一見ふざけたようで真剣な冗談は、色んなところで結構使っているのですが、中学・高校・大学生ならまだしも、反政府デモに参加しているような大学院生やいい大人にも、この我ながらナイスなジョークが通じないことが増えているので、空回りして独り笑いしている今日この頃の私です。)

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 今回書くのは、私は普段は自分を「中道・中立」だと思っているし、どんな人間関係でも職場でもブログ執筆時でもそのように言動をしているつもりなのだが、世相を眺めれば眺めるほど、実は私は、「右派」と「左派」の性質を寸分の狂いもなく同じ質量ずつ持つ人間という意味での「中道・中立」、つまり、「右派兼左派としての中道(いわば、プラス値とマイナス値がピタリと一致した、いわゆるプラスマイナスゼロ)」を自負してよい人間なのではないか、と思え、そんなニーチェの『ツァラトゥストラ』並みのナルシシスティックな危険思想かつ健全思想が我ながら好きである、という内容です。

 ともかく、世の中には「右翼」・「右派」や「左翼」・「左派」といった言葉があります。それぞれ、「保守」と「革新」を意味しますが、これは一説には、フランス革命当時の議会において、議長から見た保守派議員の着席位置が右、急進革命派議員の着席位置が左だったことによります。

 しかし、日本では、「右翼」・「右派」・「保守」、「左翼」・「左派」・「革新」のそれぞれの単語は、「過激さの度合い」によって使い分けられ、過激な保守主義者・天皇主義者・軍国主義者・街宣右翼集団などが「右翼」と呼ばれ(やや弱いニュアンスが「右派」)、過激な革新主義者・共産主義者・天皇廃止論者・女尊男卑論者・フェミニズム論者・反原発論者などが「左翼」(やや弱いニュアンスが「左派」)と呼ばれ、「保守」や「革新」は、最も過激性・危険性を排除した場面で使われる傾向にあるかと思います。それぞれ、最も過激な勢力は「極右」・「極左」と呼ばれています。

 また、「タカ派」と「ハト派」については、個人や政党がこれらで呼ばれる場合には、それぞれ「右派」と「左派」を指しますが、同一政党内(例えば自民党内)の各議員や各派閥が派閥抗争の構図などにおいてこれらで呼ばれる場合には、それぞれ外交政策や憲法改正論などにおける「強硬派」と「穏健派」を指すことが多くなっています。

 従って、「右派政党のハト派」も「左派政党のタカ派」も存在します。ただし、自民党一党の派閥構造を見ただけでも、「右派」と「強硬派」、「左派」と「穏健派」とが比較的対応しているということは言えます。

 私は、「極左フェミニスト」や「極左反原発運動家」は「極右」並みの好戦主義者・暴力主義者であって、反戦・反原発主義者であるとは思っていません。電力会社の旧態依然とした体制を打倒し、原発を無能にし、原発関連労働への従事者の新たな雇用を代替エネルギー業界に見出す最良の方法は、電気をバカ食いするデモに参加することではなく、東京電力から頂いている自宅のいらぬ電気をこまめに消しつつ、パソコンの電力は存分に使って、こうして一生涯飽きもせず文筆を継続することであり、それが真の実効的なデモであると信じています。

 ということは、私はデモ参加者どころではない「極左」人間であるということになるはずなのです。事実、最大の暴力は言葉・文筆であって(言葉・文筆は人を生かしも殺しもする)、私はそれをやっているからです。

 さて一方で、三島由紀夫について「右翼」・「極右」だと言う「左翼」・「極左」がいますが、これもおかしな話なのです。

 ここで、三島由紀夫の思想を改めて確認しましょう。せっかくなので、三島が「言葉で」遺した主張の中で、私が最も爽快感を覚えるフレーズを三つ挙げます。

「私にとっては、自民党も共産党も同じもの」
「私は今でも極端な反戦主義者」
「昭和天皇みたいなオッサンが天皇になるくらいなら、美輪明宏のような美少年が天皇になったほうがマシだった」

 私は、最初の二つについては賛同し、最後については三島とは意見が合いません。美輪明宏を美少年とは思いませんし、美輪明宏ではなく昭和天皇が昭和の天皇で本当によかったと思っています。

 昭和天皇は玉音放送で「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」と仰せになりましたが、美輪明宏は「我慢できないことは我慢しないことにしたのよ、オホホ」と「オーラの泉」など色々なスピリチュアルの場でおっしゃっていましたね。私の目には、次元が違って見えますが、三島由紀夫にはそこが見えていません。むろん、三島は、スピリチュアル業界と結びついてからの美輪明宏を見ることはありませんでしたけれど。

 それにしても、これらのどこをどう見て、「左翼」は三島を「右翼」と言うのでしょうか。不思議です。どれもこれも、三島がラジオや講演などあちこちで言っていた主張です。三島は、昭和天皇の肉体的脆弱性や口調をバカにしていましたが、全く同じような論理で太宰治のこともバカにしていました。

 前述の「右翼」・「左翼」の定義で言えば、三島よりも、天皇をバカにしたことがない私のほうが真の「右翼」の称号を頂きたいくらいですね。

 ところが世の中では、憲法9条に関しては、9条革新論者が右派、9条保守主義者が左派などと呼ばれています。さすがは、「まあまあ、言葉なんてどうでもよく、なあなあ、あいまいな感じで行きましょう」という日本人気質がよく表れた用語の使用法だと、いつも感心しています。

 しかし、「9条を変えない態度で何でもやってやるぜ、というモノの考え方」が「左翼」であるという世間の考えに合わせるのならば、例えば安倍首相は、改憲論から解釈変更に切り替えたのですから、現在は究極の護憲派であり、ある意味「極左」ですね。

 しかも、言語学・国語学をやっている人なら分かると思いますが、安倍首相は「言葉によって意味されるもの(シニフィエ)は、記号表現たる言葉(シニフィアン)との関係において、それが憲法の条項であれ、恣意的である」と考えていることになりますから、過去の帝国憲法時代の日本の国語学者や憲法学者でさえ持ったことがない国語観で国家運営をやろうとしている点において、非日本的な人間どころか、国語破壊者であると私は思います。

 というわけで私は、「国語」死守という意味において、「安倍首相の非日本的日本語観から日本と日本語を守る運動」を一人で自宅でコソコソとやろうと思っています。

 それから、「街宣右翼」と呼ばれる勢力がありますね。これも、天皇主義・国体護持を掲げながら、衆参両院の議長が奏上し、内閣総理大臣と法務大臣が承認し、天皇が公布し、警察庁が運用する道路交通法にひたすら違反して蛇行・絶叫していますから、実際は不敬の極みであり、反天皇・反体制・極左勢力であると思います。これのどこが「右翼」なのでしょうね。

 最近では、自民党の武藤貴也衆院議員が学生集団SEALDsの行動についてTwitterでツイートした件が、波紋を広げていますね。「彼ら彼女らの主張は“だって戦争に行きたくないじゃん”という自分中心、極端な利己的考えに基づく」とツイートしたようです。

 しかし、自民党・自民党支持者とSEALDsは、これまでにもお互いが全く同じような口調で同じような内容でやり合っているので、何を今さらと思いますし、どっちもどっちだと感じます。「SEALDsは左翼だ!」といった、武藤議員どころではない口調による名指し批判も、すでにTwitterに限らずネット上でありましたし、SEALDsもSEALDsで、自民党に向かって「ボケ!」、「カス!」などと攻撃しています。

 私は、今の自民党も民主党も共産党もSEALDsも親原発も反原発もフェミニズムも好きではありません。嫌いです。それは正直なところ、感情的なものから来る意見でもあるし、自分なりの論理的な帰結でもあります。ただし、日本が、誰かや何かについて好きか嫌いかをはっきり言える言論の自由が認められた国であることだけは誇りです。

 すでに日本が受験戦争、就活戦争、婚活戦争、いじめ戦争などの戦争・内戦をやっていることに気づかないのもどうかと思いますが(私はこれらについて、これらが日本人の戦争のやり方の「表れ」・「表象」だというだけであって、レトリックではなく純粋に社会学的・宗教学的な意味で、これらは諸外国の戦争やイスラム過激派のテロに共時態的に対応する(即、置換できる関係としての)、日本人のリビドーにおける戦争・内戦である、と考える)、やはり自民党の敵は、外国ではなくてSEALDsなどのデモ団体や自国民なのだなと改めて思うところです。

 こうして、日本の色々な勢力を逐一分析していますと、どんどん疲れるばかりと言いますか、どれもこれも同じ顔をした人間集団が、お互いに呼び方が重ならないように自分たちを右翼とか左翼とか保守とかリベラルとか中道左派と言っているだけの社会現象であると私は感じますし、ここまで多種多様な哲学をやったのに、これ以上の何の高尚な哲学書を読めば各勢力の思想の違いが分かるのだと思うと、疑問です。つまりは、最初から何も高尚な思想はないのだと思います。

 私としては、そろそろ挙国一致・大政翼賛運動を開始して、「自民民主公明維新次世代社民共産オリンピック・パラリンピックに向けて頑張る党」でも立ち上げたらどうかと思っていますが、日本が日本人的に日本だけで、同じ低俗性を異なる高潔性のように名乗って集団で内戦をしている状況なのですから(しかも、戦場はデモ会場だったり、Twitterだったり、婚活会場だったり、そこら辺りのいじめ現場の教室だったり河原だったりするわけで)、そんな中で、陸海空の各自衛隊までもが流行に乗って、露出度の高いいわゆる萌え萌え少女自衛官キャラクターがきゃあきゃあ言っているポスターで自衛官を募集したり国民の士気を上げようとしたところで、「人として両翼のバランスがよく取れた、本物の右翼兼左翼」からすれば、ケンカを売っているのか、ナメているのかと思うはずなのですし、私は、まじめにかつ本気で、感情的かつ論理的に腹が立つのです。

 私は、世相や物事に対するこういう見方・とらえ方をする人間・日本人を「健康・健全な人間・日本人」と言うのだと思っています。

 私も、軍隊のない世界が究極の理想ですが、軍隊自体がそんな作り方をするようなチャチなものであってはいけないと考えます。自衛隊を正規の軍隊にするか否かという以前に、今の日本国政府および自衛隊の精神が真の軍隊を作り上げる気高さを持ち得ていないところに、絶望を覚えます。

 私が今でも信用しているのは、大学時代に研究していたニーチェ哲学の「能動的ニヒリズム」・「永劫回帰」や、井筒俊彦の「言語アラヤ識」や、般若心経や法華経に描かれる宇宙観などだけですし、それらから見れば、自民党も民主党も程度が低いとしか言いようがなく、これらを含めた前述の全ての集団よりも、北一輝・石原莞爾・山本五十六などのほうが数段上級の人格者であり平和主義者だったと私は本気で信じています。

 しかし、最近思うのですが、こういうことはそれこそ一種の霊感・直観で分かるべきものであって、そんなことを感じたことも考えたこともないデモ参加者や政治家にはさっぱり意味が分からないのではないかと感じるわけです。

 つまり、前述の「右翼」集団も「左翼」集団も同じくらい「日本人気質という温泉」に浸かって行動しているにもかかわらず、「そんな俺たち私たち」に気づかないということが、北一輝・石原莞爾・山本五十六などの持っていた世界観・宇宙観から見れば何と低俗なことかということが自明である、ということを私は思うのであり、その意味で後者のほうが「数段上級の人格者であり平和主義者」であると書いたのです。

 こうして考えてくると、どうも私は「それなりに本物の右翼兼左翼としての中道(プラス値とマイナス値がピタリと一致した、いわゆるプラスマイナスゼロ)」の称号を得ることはできそうだと、我ながら思いますし、三島由紀夫はなぜか天皇や太宰治の肉体的・知能的不全を平気でバカにしている点で私よりも不十分な右翼、ニーチェは私と全く同じ心境のドイツ版の人間、ハイデガーは絶対者への認識論への詰めが甘かった点で「守るべきもの」を途中で見失った左翼、北一輝・石原莞爾・山本五十六などは「およそ男が生涯に持ちうる最大限の内面的な優しさから、実務だけを誤ってしまった」東洋的実存としての中道右派兼中道左派、などと、私ならとらえるわけです。

 片や、実はあまり深い思想も思念も知識もないにもかかわらず、見た目上でのカッコよさ、「改憲論や解釈変更や護憲論や親原発論や反原発論やデモなんていうカッコいいものに関係・参加している俺たち私たちを世の人々や国民や友人や恋人や親が見たときのイケてる感じ」を出そうとするときに、お互いに団体の立ち位置や名称が重ならないようにするために、同じ低俗性を異なる高潔性であるかのように、わざとらしく右翼とか左翼とか保守とかリベラルとか中道左派などと呼び分けているだけのものが、今の自民党、民主党、維新の党、社民党、共産党、SEALDs、親原発団体、反原発団体、フェミニズム団体、街宣右翼、宗教団体などだと感じるわけです。

 完璧にバランスの取れた「右翼」と「左翼」という翼を一対ずつ持つ、タカやハト。私は、まじめにタカやハトのような人間(動物)を目指したいと思っています。

 人間は(日本人は)、自分の中に「右翼性」が30あるなら「左翼性」も30なければならず、「右翼性」が50あるなら「左翼性」も50なければならない、というのが私の人間論(日本人論)だなと、最近改めて思います。左右の両翼のバランスが取れていないと、鳥はうまく飛べないのです。

 しかも、そのような「右翼性」と「左翼性」の共存関係は、ヘーゲルの言うようなテーゼとアンチテーゼのアウフヘーベン(止揚)、すなわち矛盾の打破とは、やはり異なるものであり、むしろ、「色即是空」・「有即無」における「色と空」・「有と無」の関係でなければならない、つまり「即然性」がなければならない、と私は思います。

 矛盾というものを感じているうちは、低俗の域にとどまっているのであって、タカやハトの存在論的レベルに達していないと思うのです。


【画像出典】

●タカ亜目(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%AB%E4%BA%9C%E7%9B%AE

●ハト目(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%88%E7%9B%AE
posted by 岩崎純一 at 17:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・宗教論

2015年05月21日

大阪都構想の蹉跌(高齢者と若者、南北格差、出自による差別問題、女性の「橋下キライ票」など)

目次
■序
■(1) 賛否両陣営の得票数と棄権・無効票
■(2) 支持政党別の対立軸の信憑性
(橋下大阪市長・大阪維新の会・維新の党・官邸・政府の支持層と、自民党大阪府連・公明党・民主党・共産党の支持層との対立)
■(3) 高齢者(高投票率)と若年者(低投票率)の対立軸の信憑性
(実は、今回に限れば(2)(4)(5)に比べて二次的な要素)
■(4) 大阪市北部と南部の対立軸の信憑性
(一部のマスメディアにとっては、「誤った部落民に対する正しい部落民の勝利」として理解される。川崎市の簡易宿泊所の火災と共通する日本社会の闇。)
■(5) 男性と女性の対立軸の信憑性
(女性による「橋下キライ票」の威力。実は、(3)(4)よりも結果に影響した。)
■結
【画像出典】



■序

 大阪都構想は、今回の住民投票で大阪市民自身の意志によって蹉跌をきたすこととなったわけだが、投票結果について、以下のようないくつかの対立軸による分析が出ていることが大変に興味深い。

 私個人は、政治論や都市論としては都構想に賛成であったが、それはある種の「都市美学」的な観点からのもので、「二重行政の無駄」は橋下市長が強調するほどは存在しないだろうと思っているし、都構想が実現すれば各区による税収格差が生じてしまう現実についても素人なりに分かってはいた。

 このように、自分の考えは一東京都民としての勝手な遠吠えのようなものだったし(出身地も「関西文化圏」とは言えない岡山であるし)、結果的に以下の(1)〜(5)の現実を見せつけられたというのが正直なところだ。

 当然、事前の世論調査と投票当日の出口調査と投票後の集計結果とでは統計に差があるため(掲載しているグラフもこれらの統計が混在しているため)、この点に留意しつつ、(1)〜(5)それぞれの詳細を書いてみたい。


osakato-zentai.jpg■(1) 賛否両陣営の得票数と棄権・無効票

 まずは、都構想の賛否と棄権・無効票の割合について見ておく。三者とも拮抗している。


osakato-seito.jpg■(2) 支持政党別の対立軸の信憑性
(橋下大阪市長・大阪維新の会・維新の党・官邸・政府の支持層と、自民党大阪府連・公明党・民主党・共産党の支持層との対立)


 元より自民党支持者に大阪都構想支持者が多い傾向にはあったものの、基本的には維新以外の政党は、自民党大阪府連から共産党までが歩調を合わせて都構想に反対しており、憲法や安全保障のあり方が如実に問われる国政選挙とは全く異なった構図が見られた。

 憲法問題・安全保障問題については、橋下市長自身は政府・自民党保守派に近いにもかかわらず、都構想については、大阪市民は橋下氏に対してこれらとは異なる角度から評価か批判を投げかける結果となった。

 従って、安易に保守と革新の争いだったという言い回しさえ成立しない。ある意味では、都構想について最も党としての見解がまとまっていないのが自民党であると言える。

 結論としては、自民党支持層以外の大阪市民においては、都構想への賛否が比較的明確であったということになる。(2)の対立軸は、かなり大きな要素であったと言えるだろう。

 しかし、北朝鮮による日本人の拉致問題への対応と同じく、自民党内、あるいは自民党政府と自民党で意見が正反対というのはよくある話で、今回についても(2)の要素は驚くべきことではないかもしれない。


osakato-seibetsu-sedai.jpg■(3) 高齢者(高投票率)と若年者(低投票率)の対立軸の信憑性
(実は、今回に限れば(2)(4)(5)に比べて二次的な要素)


 都構想に反対する高齢世代によるいわゆる「シルバーデモクラシー」によって、都構想に賛成していた若者が敗北したとする論調は、辛坊治郎氏をはじめ、ニュースキャスターに多く見られる。

 ただし、20代のみと65歳以上、あるいは20代と敬老優待乗車証(敬老パス)の交付を受けられる70歳以上とを比べれば、それは成り立つものの、20代〜30代ないし40代までと65歳以上(あるいは70歳以上)とを比べれば、そもそも人口は逆転し、結局は「高齢者が高い投票率を誇り、若者の投票率が異常に低かったから」以外の理由はなくなる。

 高齢者が普通に投票に行き、若者が与えられた権利を行使しなかった結果がこれなのだから、こればかりは高齢化社会とはあまり関係がないようである。

 むろん、そうは言っても、敬老優待乗車証の有料化への不満といった極めて身近なトピックへの不満が高齢者の票を決める現実については、若者がどうもがいたところで仕方がなく、当然高齢者の動きは都構想の頓挫に貢献しただろう。

 とにもかくにも、本気で高齢世代の最期の勢いに対抗しようと思うのだったら、それ相応の行動力と知力が必要であり、若者の投票率が上昇し、なおかつそれなりに政治が語れるようでなければならないという現実が変わるわけではない。

 (3)の対立軸の存在は、半分半分か、思っているほどにはないといったところだろう。


osakato-ku.jpg■(4) 大阪市北部と南部の対立軸の信憑性
(一部のマスメディアにとっては、「誤った部落民に対する正しい部落民の勝利」として理解される。川崎市の簡易宿泊所の火災と共通する日本社会の闇。)


 新たに北区となる予定であった区では全区をあげて賛成多数であった一方で、南部および北部の周辺部では反対多数であった。これについては、様々な分析があるようだが、一つだけ、大阪市民に限らず我々国民が避けて通ることができない大きな問題が含まれている。

 私は、朝日新聞社に朝日新聞とは無関係の仕事で出入りすることが多い。

 2012年の『週刊朝日』と佐野眞一による連載「ハシシタ・奴の本性」をめぐる問題では、橋下大阪市長の出自が取り沙汰され、朝日新聞社・朝日新聞出版が(歯切れは悪かったものの)一応は謝罪したのだった。

 しかし、その後も同社には、大阪都構想に反対する大阪市民の貧困層による一連の運動について、「部落民に対する部落民の闘い」という言い回しをする社員は少なからずいた。非常に気分が悪かった。

 この言い回しはすなわち、「改憲論者であり、従軍慰安婦問題や在日米軍司令官に対する沖縄の風俗活用推奨についての発言を行うなどした、(同社にとっては不都合な、いわば道を誤った保守系の部落出身者たる)橋下市長に対し、橋下市政によって見捨てられるであろう(と同社が考える)被害者たる(あいりん地区などを含む)南部の日雇い労働者・貧困層・部落民と女性とが大量の反対票を投じる闘い」を期待するニュアンスを部落差別・女性差別に引きつけて言ったものである。

 そして、この朝日新聞や朝日新聞出版の希望的観測(橋下市長の敗北)は、この(4)として現実のものとなった。

 当然、それぞれの新聞社にはそれぞれの社風というものはあるが、しかし朝日新聞に限らず、多くのマスメディアにとってこの問題は根底に生き残ったままだ。まさに日本社会の闇である。それに、日雇い労働者と貧困層と部落民とが完全に重なるわけがないのに、一緒に扱うきらいも多くのマスメディアで見られる。

 マスメディアは、事前分析・結果予測は正しく精神が間違っている場合があるということがよく分かる。結果的に今回は、むしろ産経新聞のほうが、出口調査でも「賛成多数」の結果が出たと自信を持って盛んに報道していたが、分析も間違った。だから、余計に厄介なのだ。

「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」旨を定める日本国憲法第14条に対する新聞社・マスメディアの無理解については、個人的な寂しさももちろんあるが、ともかく、この問題は大阪においてとりわけ顕在化する問題であることは間違いないのである。

 橋下市長の出自のことはマスメディアが勝手に書いたが、大阪市に微妙な南北格差があることは大阪市民自身が投票行動によって示したこと自体が、大変な皮肉に思える。

 国立環境研究所の五味馨氏などのように、南北格差など存在しないと主張する論者も存在するが、さすがにそれは大阪に残る問題を覆い隠してしまう気がするし、今現在も一部のマスメディアがどれほど橋下市長を「部落民の間違った成り上がり方」だと見て「正しい部落民と女性の力」によって打倒したがってきたかは、先に示した通りである。

 そもそも、橋下市長とて、都構想自体の良し悪しは別にして、南部地域を貶めようとして都構想を掲げたわけではないだろう。そのことだけは信じるし、この問題については新聞社をはじめとするマスメディアの責任が極めて大きいと思う。

 大阪市で住民投票が終わった日の未明には、神奈川県川崎市で簡易宿泊所二棟が燃える火災が発生した。川崎市も、全国的に見れば、もし同じような住民投票が行われたなら、各区で投票結果が異なることが予想される市である。

 少なくとも自分は、そんないざこざから超然として、身分や出自が何であれ、死者を心から悼むということに徹する人間でありたいと思う。

 ともかく、(4)の対立軸の存在は、投票結果においては予想していたより目立たなかったが、気にすべき人にとっては最も気にすべき対立軸であるということがよく分かった。


osakato-seibetsu-sedai.jpg■(5) 男性と女性の対立軸の信憑性
(女性による「橋下キライ票」の威力。実は、(3)(4)よりも結果に影響した。)


 今一度、(3)で挙げたグラフを載せておく。

 実際のところ、この(5)こそが最も(事前の世論調査、投票当日の出口調査、投票後の集計結果の全てにおいて)有意な対立軸・意識格差を示した要素であった。おそらく、夫婦どうし、パートナーどうしで都構想の賛否が分かれたケースがかなりあったのではないかと思う。

 むろん、以前の世論調査の段階から男女差が顕著ではあったが(男性は都構想賛成、女性は反対がそれぞれ上回っていたが)、従軍慰安婦問題や在日米軍司令官に対する沖縄の風俗活用推奨についての発言以降は、20代の女性の支持の落ち込みが激しくなった。

 結果的に、反対に回った20代女性の票が再び丸ごとひっくり返るだけでいくつかの区で賛成多数となっていた可能性がある、という皮肉な結果になってしまった。

 私も、最も大きな対立軸・格差要因は、当然のごとく(3)や(4)であると考えていたから、やや驚いた。しかし、結論から言えば、橋下市長という男が、それだけ女性にとって好き嫌いの分かれる男だったということに尽きるのかもしれない。

 むろん、大阪市の20代女性たちがここ数年で突然、同世代の女性の都構想についての見解を気にして統計情報を追ってみたり、都構想のデメリット研究に目覚めたりして、集団で反対票を投じた、などということはあり得ない。

 そうではなくて、個々の女性が「生理的嫌悪感」からそれぞれの投票行動をとったところ、結果的にこうなったとしか言いようがないのだろう。

 しかし、「生理的嫌悪感」と言っても、最近の若い女性が(4)のようなことにこだわって男性を見ることはあまり考えられないから、やはり「生理的嫌悪感」は橋下市長の出自などではなく言動に対するものだと見てよいのだろう。(4)のようなことにこだわるのは、やはり年配の女性のほうだろう。

 ただし、スマホでネットを見て回ったり、ネタ的・週刊誌的な記事にいち早く辿り着けるのも若い女性や主婦なら、それを大まじめに鵜呑みにしてしまう心をまだ持っているのも、また若い女性や主婦であると思う。

 橋下市長が飛田新地の顧問弁護士をしていたとか、橋下市長自身がよく風俗に通っていたとかいった記事をよく知っているのも、若い女性・主婦のほうだ。多くの高齢者女性は、そんな情報にさえ出会わないか、出会ったとしても、「昔はよくあったこと」として「生理的嫌悪感」にまでは至らないのだろう。その意味では、橋下氏は年配女性からの徹底抗戦は受けずに済んだといったところなのだろう。

「わたしは、大阪都構想ってよく分からないけど、とにかく橋下徹という男が生理的にキライです」。

 おそらくはこれこそが大阪市の20代女性の論理なのであり、投票権を行使できる以上、当然そういう論理もあってよいわけだ。そういった「橋下キライ票」に高度な政治判断がないことを不満として、スーツ姿の男性が若い女性を嘆き、もがいたところで、それもまた民主主義ではなくなる。

 しかし、社会人として、「なぜ反対なのか」と問われたなら、若い女性も当然、反対理由(「生理的に嫌いな男性だから」)をそのまま堂々と答えられなければならない。「わたしは都構想のデメリットを政治論理的に理解し、一票に賭けたから」といった嘘はダメである。それは、投票権者として当然の責任だと思う。

 そして、沖縄どころか、全国の風俗店で、強制的にではなく自主的に働く20代女性も、そしてそれを買う男性も、また大勢いるわけである。

 ともかく、この(5)は、今回の都構想否決の最も有意な根拠となってしまった。そして同時に、マスメディアが最も取り上げない話題でもある。


■結

 今回の大阪都構想の是非を問う住民投票は、大変に勉強になるものではあったが、日本と大阪の様々な闇が見える機会でもあった。


【画像出典】
●大阪都構想(Wikipwdia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E9%83%BD%E6%A7%8B%E6%83%B3
●出口調査 支持政党別(2015年5月17日、JNN NEWS)
●【大阪都構想】都構想 20代女性、調査のたび「賛成」低下…男性は「賛否」拮抗(2015年5月11日、産経新聞)
http://www.sankei.com/west/photos/150511/wst1505110012-p1.html
●大阪都構想賛否、地域差くっきり 幻の北区は一丸で賛成(2015年5月18日、朝日新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150518-00000030-asahi-pol
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2015年04月26日

我々人間はどんな時に自殺するのか(萩原流行さんの「うつ病自殺」説と妻の言動への不審を示す国民の反応を例に)

目次
■萩原流行さんの事故死に関するネット上の反応
■「うつ病」の特徴は「暗い気分」ではない
■我々人間が自殺するときに必要な条件
■自殺と事故死の間にある「未必の故意」による自殺を含むうつ病者の不審死



■萩原流行さんの事故死に関するネット上の反応

 22日に、俳優の萩原流行さんがバイクで走行中に警察車両と接触、転倒して事故死した件について、事故の不可解さと妻・まゆ美さんのなぜか気分爽快な言動に関するネット上の議論が非常に興味深いので、色々と見ていますが、案の定、賛否両論があるようです。

 とりわけ、ご夫妻共にうつ病のご経験がある点が話題となっています。萩原流行さんが、今回に限らず頻繁に事故を起こし、ひき逃げ容疑で書類送検された過去があり、今回も警察車両が車線変更するより前からバイクがふらついていたことから、むしろ普段から意図的に近くを走行中の車両に接近、並走して、自殺のチャンスを狙っていたのではないか、それで人を巻き込んでひき逃げしてしまったことがあるのではないか、と見る人も多いようです。

 簡単に言えば、これらのネットユーザーや視聴者が言いたいのは、いわば「うつ病」者の結末としての「未必の故意」による自殺ではないかということだと思います。

 確かに、もしそうであるなら、ほんの少しのタイミングの違いで加害者にも被害者にもなってきた説明が付きますし、「自殺のチャンスをうかがって、かえって周囲の人を巻き込む行動」は、「うつ病」や「躁うつ病」でしばしば見られるものではあります。

 このほか、萩原さんの反日映画好きや薬物疑惑を報じる週刊誌のネタ記事を拾った議論もあるようです。

 また、夫の死からたったの四日しか経っていないのに、夫人が笑顔で「俳優として死んでよかった」とか「最後に大花火を打ち上げて逝った」などと夫の死を賛美するような不可解な発言をしていることも、議論の白熱化に拍車をかけているようです。

 萩原流行さんのバイクの後続車両の運転手が「火花が散っていた」と証言していることから、「火花と言おうとして花火と言い間違えたのでは」という杞憂さえありましたが、やはり夫人は「大花火」と笑顔で発言されています。
(ただ、いずれにせよネットユーザーも、警察側の対応への批判と夫人への同情は持っている人が多いようです。)

 これについては、正直なところ私も、夫人は「夫の何らかの行動の異変に勘付いており、死後の今になって気が晴れたのはそのせいかもしれない」などと思った一人ではあります。


■「うつ病」の特徴は「暗い気分」ではない

 私としては、賛否両論があるのはよいと思うのですが、結論から言えば、この賛否両論の原因は、俗語表現としての「うつ(鬱)」と精神病理学用語としてのそれとの齟齬だと思っており、今回のケースは、「日本人らしい性質があまり良くない意味で他人観察において現れた典型例」であると思います。

 特に、「夫婦そろってうつ病なのに、バイクを運転したり、人の死に笑顔でコメントしたりできるのはなぜだろう」という「正しそうで実は誤っている」心配の声が、その齟齬を如実に表していると思います。

 少し難しい言い方をすれば、我々一般のテレビ視聴者やネットユーザーが「悲嘆反応」や「複雑性悲嘆」(※)をどうとらえているかということです。

 まずは、勘違いされても困るので、萩原流行さんの事故が何らかの自殺行動である可能性を探る前に、夫人の言動を例にとって、「うつ病」(最新の精神疾患分類ではほぼ「単極性障害」に相当)がどのようなものであるかを確認しておきます。

 一般に、「私、最近うつだから仕事に行けてないの」とか「あの人と一緒にいるとうつになる」と言うときの「うつ」(俗に言う「マイナス感情」)は、「うつ」ではなく「全般性不安障害」や「ストレス障害」や「身体表現性障害」に近いか、それにさえ当てはまらない軽度の「神経症性障害」であり、かつて「神経症(ノイローゼ)」と呼ばれたものに該当します。(※)

 これらの重症のもののうち、「人前に出たくない」場合は「社交不安障害(SAD)」となり、悲嘆反応を生じさせている心的外傷が高い確実性をもって観察される場合は「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」となります。また、悲嘆反応によって自我・自己意識の変容、分断、健忘、遁走、複数化などが起きた場合は、「解離性障害」とされます。(※)

「うつ病」がほぼ最新分類の「単極性障害」と重なる「気分障害」の一種であるのに対し、「全般性不安障害」や「社交不安障害」は「不安障害」圏、「PTSD」や「解離性障害」は「ストレス障害・神経症性障害」圏の症状であって、単に俗語表現として「暗くつらい気持ち」や「動きたくない、外に出たくない心境」を述べているものは、考えられるとしてもこれらのいずれかの極めて軽度のものであり、大抵は「うつ病」・「気分障害」ではありません。

 それがために、「夫婦そろってうつ病なのに、バイクを運転したり、人の死に笑顔でコメントしたりできるのはなぜだろう」という「正しそうで実は誤っている」心配が生じます。日本人らしい心配性、お節介が自分たちの学問理解を誤らせ、誤ったままで他人観察をおこなってしまっている典型例だと感じます。

 この萩原流行さん・まゆ美さん夫妻に「うつ病」を診断した医師は、お二人の「暗い気持ち」や「動きたくない心境」に「うつ病」を診断したのではないと私は考えます。

「うつ病」または「単極性障害」に特徴的なのは、むしろ(不安障害や神経症性障害と重なることがある)「暗い気持ち」の部分ではなく、「平板な感情」の部分です。どういうことかと言うと、「うつ病」者では、「楽しいことを笑わない」のと同じくらい、「悲しいことを泣かない」ケースが頻繁に見られます。

 従って、まゆ美夫人が、夫が花火を打ち上げて死んだと平然と言ってのけた状況は、むしろ、この一女性が強度の「ストレス脆弱性」(※)を持つ「ストレス障害」圏の人物ではなく、「気分障害」圏の人物であると診断した医師の視点が、現時点では誤っていないことを示しているかと思います。

 人の死について涙を流してわんわん泣けるほどの「健全すぎる」状態なら、その人には不安障害やストレス障害を診断するだけで足りるか、精神疾患自体を診断しないことが望ましいと思います。


■我々人間が自殺するときに必要な条件

 唐突ですが、我々一個体としての人間が自殺を遂行するために必要なものは何でしょうか。

 自殺に必要なものは「暗く落ち込んだ気持ち」や「死にたい気持ち」ではありません。これは、精神科医が、うつ病や躁うつ病の患者の自殺を、むしろ患者の気分が明るい時、躁状態の時、軽快・寛解しかけの時に最も心配する根拠でもあります。

 自殺の遂行に必要なものは、現実的には以下のようなものだと言えます。

●外出
 自殺の方法には、首を吊る、橋の欄干やマンションのベランダや窓の手すりを乗り越えて飛び降りる、ホームから電車に飛び込む、割腹するなど、色々ありますが、自宅や職場内の刃物・日用品・薬物などを用いない限り、肉体、とりわけ心肺機能や頭部を破壊・挫滅できるほどの自然落下や重厚な車両の激突が必要になります。
 当然、うつ病や社交不安障害やストレス障害などにより寝込んだままのタイプの人は、これらの方法は使えません。

●体力
 橋の欄干やマンションのベランダの手すりを乗り越えるにも、割腹するにも、それだけの体力が必要です。当然、自殺の成功率・既遂率は体力・腕力のある人ほど高くなります。

●秒単位で死のタイミングをはかる知力と運動能力
 しばしば「人身事故により電車が遅れている」旨の車内アナウンスが流れますが、これには人身事故と自殺が含まれ、後者においては「全身を強く打った」と表現される場合のみ胴体や四肢がレール上でバラバラになっていると「考えられているようです」。
 この言葉遣いの真相は、鉄道事業者によりタブーだったり定義が曖昧だったりしますが、「全身を打った」と「強く」が抜けている場合、生きているか、飛び込むタイミングがずれてホームの客たちに跳ね返ってきているケースも多いです。
 電車の勢いを利用する場合でさえ、一瞬で終わるように秒単位でタイミングをはかることは難しく、高齢になればなるほどその能力は鈍るでしょう。逆に、認知症ではないシャキッとした高齢者のほうがスムーズに自殺を完遂する可能性があるわけです。

●自殺が可能であると信じる心、万能感
 一見すると、自殺者は「何もできない自分」を殺したくて自殺しているかのように見えますが、そもそも少なくとも自殺だけは「できなければ」自殺できません。むしろ、無気力で寝込んでいるようなタイプのうつ病者は、いつまで経っても自殺をせず、かえって万能感にまで達するような気分爽快な躁うつ病者のほうが自殺を既遂にまで持っていくことができるわけです。

●社会との関係性
 一見すると、自殺者は「社会との関係を築けない自分」を殺したくて自殺しているかのように見えますが、特にマンションなどの人工建造物や交通機関を利用して自殺する場合、そこにはすでに社会性が介在するわけです。そうでなくても、特定の死に場所を選択した時点で、社会を気にしていることになります。
 むしろ、本当の自殺(自分だけの力で死ぬ事態)は場所を選ばない自然死以外にありえず、逆に「全ての自殺は社会的である」とも言えると私は思います。

 以上、我々人間は、「死にたい気持ち」があってもこれらの条件のいくつかがそろわなければ自ら死ねませんし、逆に、これらの条件がそろっていればいるほど、「死にたい気持ち」が希薄であっても何かの拍子で自殺を遂行することがあります。


■自殺と事故死の間にある「未必の故意」による自殺を含むうつ病者の不審死

 こう考えてみると、うつ病が軽快しバイク乗りも普通にできるようになっていた萩原流行さんには、確かにこれらの条件がそろっており、実際にひき逃げ歴まであることを考慮すると、むしろ最近は行動的な状態にあり、あながち自殺説が出てきてもおかしくはないと思います。

 ただし、その可能性があるとしても、以上の「うつ病」に関する考察を踏まえれば、一部のネットユーザーが主張するような積極的・計画的な自殺ということはあまり考えられず、あっても「未必の故意」によるものだと私は考えています。

 そもそも、自殺と事故死の間にある「未必の故意」による自殺と言えるうつ病者の死の例は、特に珍しいことではありません。

 一方で、警察車両の動きにもかなり問題があったようです。もし万が一、警察車両の車線変更以前から萩原流行さんのバイクが意図的にふらついて車両に接近していたとしても、やはり警察は、プロらしい安全運転によって「未必の故意」による自殺を頓挫させることはできるわけです。いずれにしても、警察側による事故の責任の揉み消し自体は許されてはならないと思います。

 ただし、もしそれもこれも全ての可能性を含めた上で、まゆ美夫人が夫の死を「大花火」に喩えたのであれば、極めて優れた比喩であることになると思います。もしかしたら、夫人の発言が一番本当なのかもしれません。

 とにもかくにも、うつ病者の自殺の遂行は、先ほども書いたように、症状が軽快・寛解しかけの時に(すなわち、もはや必ずしも「うつ病」ではない時に)自然落下や交通機関などの「他力」を自己との間に介在させて利用し、高い社会性のもとで自然死を否定することによってしか成り立たないわけです。

 私自身は、「人間は、自殺しようともがけばもがくほど、真の自殺たる自然死からは遠ざかるばかりだ」と考えています。その意味で私は、極端な自殺主義者なのかもしれません。

(※)【参考文献】
American Psychiatric Association (2013). Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders (5th ed.). Arlington, VA: American Psychiatric Publishing.
American Psychiatric Association (2000). Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders (4th ed., text revision). Washington, DC: American Psychiatric Publishing.
Prigerson H.G. & Jacobs S.C. Traumatic grief as a distinct disorder. Stroebe, M.S., Hansson, R.O. et al ed. Handbook of bereavement research- consequences, coping, and care. pp613-645, Washington DC, 2002
DSM‒5 病名・用語翻訳ガイドライン(公益社団法人日本老年精神医学会)
http://184.73.219.23/rounen/news/dsm-5_guideline.pdf
「悲嘆反応」や「複雑性悲嘆」の解説(独立行政法人 国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所)
http://www.ncnp.go.jp/nimh/seijin/www/for-sufferers/shinri_07.html


【関連ブログ記事】

●鬱病が鬱病を疎外する〜「本当の鬱病は美しいもの」〜
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/41932955.html

●なぜ戦後日本人のうち「一部のみ」が「確実に」鬱や社会不適応になるのか -「宗教儀式」としての戦後日本社会、「宗教儀式批判」としての鬱と社会不適応(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/49231797.html

●なぜ戦後日本人のうち「一部のみ」が「確実に」鬱や社会不適応になるのか -「宗教儀式」としての戦後日本社会、「宗教儀式批判」としての鬱と社会不適応(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/49405339.html

●なぜ戦後日本人のうち「一部のみ」が「確実に」鬱や社会不適応になるのか -「宗教儀式」としての戦後日本社会、「宗教儀式批判」としての鬱と社会不適応(その三)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/49662507.html

●なぜ戦後日本人のうち「一部のみ」が「確実に」鬱や社会不適応になるのか -「宗教儀式」としての戦後日本社会、「宗教儀式批判」としての鬱と社会不適応参考模式図
http://www.iwasaki-j.sakura.ne.jp/ronbun_ippan/utsu_to_shokugyo.htm

●高齢化社会、自殺社会、「男女平等」の幻想、女性どうしの心理格差など
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/52023044.html
posted by 岩崎純一 at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・宗教論

2015年04月13日

日本が現地に残した文化やインフラを大切にするパラオ・太平洋の人々から日本人の私が学びたいこと

800px-Flag_of_Palau.svg.png 天皇・皇后両陛下がパラオを訪問されたことにちなんで、戦後の日本や太平洋の文化について、個人としても日本人としても色々と考えました。
(右はパラオ国旗)

 パラオは今でも大変な親日国・親皇室国ですが、今回の天皇・皇后両陛下のご訪問についても、現地の政府高官・警察官から一般市民・子供たちまでもが、事前に日の丸掲揚や『君が代』・『仰げば尊し』・『蛍の光』斉唱を練習したり、日本が援助した道路・橋・電気・水道などのインフラを徹底的に清掃したりなど、驚くほど歓迎されている様子でした。

『蛍の光』は、元のスコットランド民謡のメロディーに稲垣千穎が日本語詩を付けたものです。戦前には、NHK連続テレビ小説「マッサン」でエリーが歌っていたようにスコットランド英語と日本語の両方で歌われ、戦時中には、敵国のメロディーだからという理由で学校の卒業式では歌われなかったにもかかわらず、帝国海軍では歌われ、それが戦後には、パラオの人々が日本語で継承し、日本人・皇室を迎えるために歌い、一方で日本の学校の卒業式では、盛り上がれない歌だからという理由でどんどん斉唱が廃止され、代わりにJ-POPを歌って踊っているわけです。「いったい何なんだ、これは」としか言いようがない皮肉な気分です。

 天皇・皇后両陛下がパラオを訪問されたことについて、右派団体から左派団体(特に反戦・反原発・フェミニズム団体・NPO団体)まで、様々な意見があるようですが、両陛下のご意向としては、そういった政治的問題から超然として「全ての戦死者を悼み、平和を願う」以外の何物でもないと思います。そこから学ぶべきことは多いと私自身は感じています。

 それにしても、やはりご訪問先としては、あくまでも「無難な」ペリリュー島の慰霊碑などの場所だけで終わってしまうのは仕方がないと思います。結局、もう二度と日本の天皇・皇后両陛下が訪れることのない「正当な歴史から排除されたアウトサイドな」場所というのもあるわけです。それは、皇室さえも(天皇が政治的発言をすることが許されない象徴天皇制のために)もう触れることのできない「歴史の間隙」なのだと思います。

「日本のマスコミも宮内庁も腫れ物として触れようとしないもの」というのが、あるはずだと私は思います。そこをえぐらないと面白くない気分です。

The_Headquarters_of_the_South_Pacific_Mandate.JPG 日本の南洋庁による委任統治からアメリカの信託統治に移行して以降、現在まで、パラオを日本領に入れてほしいと願っているパラオ国民は少なくありませんが、立派に独立国として対等な関係を築けた以上、今になって日本編入が良いとは限りませんし、あえて日本に入る必要はないと思います。
(右は南洋庁庁舎)

 それよりも、朝日新聞の「従軍慰安婦」捏造問題と同じく、昭和天皇や軍部を中心とする韓国・中国・グアム・サイパン・パラオ人女性たちに対する組織的な性奴隷化の国策があったと考える日本国内のフェミニズム団体などの発言力の現状を考えれば、パラオ国民の悲願は今後も日本国内で表立って報道されることは少なく、私のように個人レベルで「無思想・中立の事実」だけを知りたい日本人が、自分で海外の裏ニュースサイトで知って、パラオ国民と日本の戦死者の双方に個人的に心の中だけで感謝を示していく以外に方法はないだろうと考えています。

 私個人の感想ですが、「感覚的に」戦争の悲惨さやパラオの歴史・現状を直視できているのは、日本のマスコミでも右派・左派団体でも親原発・反原発団体でも反戦・フェミニズム・NPO団体でもなく、やはり天皇・皇后両陛下と、一部の知的洞察力と感覚的鋭敏さを持つ国民のみではないかという感慨があります。

Establishment_of_Nan'yo_Shrine_01.jpg パラオの戦前・戦中・戦後の歴史や現状については、私自身は、かつて戦前・戦中に日本が創建したパラオの各神社(ペリリュー神社、アンガウル神社、南洋神社、朝日神社など)の巫女さんの子・孫・ひ孫に当たるパラオの巫女さんたちを訪ね続けている日本の神社の巫女さんたちを通じた、文芸(和歌)や工芸の事情くらいしか知識がなく、政治的なことは分かりません。単に和歌をやっているというだけの薄いつながりで、「友人の友人から聞きました」程度の「また聞き」の知識が多いです。
(右は南洋神社の1940年の鎮座祭)

(ちなみに、私が個人的に数名のご協力を頂いて作成している「旧派歌道・歌学の流派・家元・団体の総覧」の「海外歌壇の形成」の部には、パラオをはじめ、琉球、台湾、朝鮮、中国、満州、サイパン、樺太の和歌の実状を追って掲載しています。何か情報をお持ちの方は、ぜひご連絡いただければ幸いです。)
「旧派歌道・歌学の流派・家元・団体の総覧」
http://iwasakijunichi.net/ronbun_ippan/kado.htm

 先述の神社は、アメリカの信託統治への移行後にほとんどが廃社となり、それらの廃墟・残骸や、かろうじて息をひそめて生き延びた小神社は、現在は現地の神官・巫女さん・有志の市民と日本からの有志の巫女さんたちによって管理されています。

 南洋神社など、再建された大神社もありますが、規模的には以前よりもずっと小規模なものです。それに、日本からの有志の巫女さんと言っても、旧社格制度における下級神社の、現在は国や自治体や神社庁や神社関係の単立宗教法人から見向きもされない小神社の巫女さんばかりです。南洋神社を官幣大社に列するなどかつてのパラオの神社に対する日本の厚遇があった時代とは、天と地の差がある状況です。

 敗戦後に日本の自民党政府もGHQも(まるで西洋文化に対する東洋文化の敗北であるかのように)放置した神社をパラオの巫女と市民が愛したという事実を、日本のマスコミが表立って報道することはないと思います。このほか、サイパン島、テニアン島、ロタ島、ヤップ島などにも神社がありましたが、基本的には残骸程度のものが残っているか、ちょっとした歌会・歌壇が残っている程度のようです。

 これらの神社は、日本政府とGHQによる無視・放置をチャンスと見た右派団体や指定暴力団が主宰する団体、「日本−パラオ心を結ぶ会」や「南洋交流協会」が再建に関わっていた面があることはありますが、その目的は極めて日本・パラオ間の文化交流を軽視した日本優生思想的なもので、主宰神の天照大神を祀る神聖な宗教施設としての神社(ひいてはパラオの巫女や国民)のあり方ともまた異なっていたがために、神社を管理している現地パラオの巫女や住民の意志ともかなりぶつかって、結局頓挫しているものが多いです。

Koror_in_the_Japanese_Period.JPG むしろ、戦時中に南洋庁は、パラオ文芸・工芸の衰退を阻止するために、現地の村民を集めてきて、文芸品・工芸品を作らせています。例えば、伝統的なトコベイ人形の職人を絶やさないために、コロール島、トビ島、アラカベサン島などから村民を呼んできて作らせていました。

 和歌についても、今では、台湾やサイパン、パラオの歌壇が島から和歌文化が消えないようにと歌人たちが必死になっています。そして、なおかつそれぞれの島々の伝統文化も継承しているのです。
(右は日本の委任統治領時代のコロール)

 1944年のペリリューの戦いでは、日本軍がパラオ住民を事前に強制退避させたために、パラオ住民の死者は0名と言われ、一方で日本兵の死者は1万人を超えましたが、今となっては、島民の生命や文化に対する日本の姿勢と対応はそれでよかったと思います。ここで生き残ったパラオ住民たちの子・孫・ひ孫たちが、先述の日本文化・パラオ文化双方の担い手となっているわけです。

 私は別に三島由紀夫のような作家でも南方熊楠のような民俗学者でもありませんが、こういうことに興味や感慨が湧くかどうかは、個人の「美意識」や「文化意識」、「生き方」そのものが関わると感じています。私などは、日本のマスコミや宮内庁や右派・左派団体の動向とは全く関係のない「下っ端」のところで、日本の巫女さんとパラオの巫女さんとの質素ながらも濃密な交流があると聞くだけで、一種の爽快感を覚えます。

 右派思想と左派思想の両方から最も離れたところに「日本」があると考えたり、そのことを天皇・皇后両陛下の姿勢から学んでいると考える思考の人にとっては、「右派と左派の対立を天皇主義と反天皇主義、日本派と反日本派の対立」ととらえる昨今の思考がどうしても低俗に思えてなりません。

 天皇・皇后両陛下にとって、パラオご訪問は「悲願のライフワーク」でしたが、もしその中に政治的問題から超然とした、平和的な宗教施設としての神社や心の交流としての文芸文化の継承といった点が含まれていたなら、やはり個人的には、日本の多くのマスコミや右派・左派団体よりも天皇・皇后両陛下の「日本観・戦争観」のほうが清く正しいと思うばかりです。

 また、パラオの人たちが日本が援助した交通網やインフラを守ろうとしたり、日本が残してきた神社や文芸を守ろうとしたりしているところに、何らかの「思想」を持って手を出そうとするならば、それが右派団体であれ左派団体であれ、かつてのパラオ在住日本人や南洋庁とパラオ原住民との絆の歴史を邪魔するものでしかないと思います。


【参考文献・画像出典】

●『官幣大社南洋神社御鎮座祭記念写真帖』(海外神社(跡地)に関するデータベース 神奈川大学非文字資料研究センター)
(パブリック・ドメイン)
http://www.himoji.jp/himoji/database/db04/syoseki/004.html

●『南洋群島写真帖―昔のmicronesia』(小菅輝雄、グアム新報社東京支局、1978)

●大坪潤子「南洋群島に神社をたずねて」(『非文字資料研究』第6号、神奈川大学21世紀COEプログラム研究推進会議、2004年12月)

●冨井正憲、中島三千男、大坪潤子、サイモン・ジョン「旧南洋群島の神社跡地調査報告」(神奈川大学21世紀COEプログラム研究推進会議『年報 人類文化研究のための非文字資料の体系化』第2号、2005年3月)

●中島三千男、津田良樹、冨井正憲「『海外神社』跡地に見る景観の変容とその要因」(神奈川大学21世紀COEプログラム「人類文化研究のための非文字資料の体系化」研究成果報告書『環境に刻印された人間活動および災害の痕跡解読』、神奈川大学21世紀COEプログラム研究推進会議、2007年12月)


【関連するブログ記事】

●私の和歌人生史、平成日本における伝統和歌の現状(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/50386486.html

●私の和歌人生史、平成日本における伝統和歌の現状(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/50713456.html
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2015年02月12日

ISIS(イスラム国)の斬首・焼殺動画とバタイユ的エロティシズム

目次
■「あなたはISIS(イスラム国)の惨殺動画を見ましたか?」
■バタイユの『エロスの涙』や映画『カリギュラ』、エログロナンセンスに見るサディズム・マゾヒズムと恍惚の同根性
■死者の亡霊への恐れおののきから来る責任回避の心理
■エログロ・SM雑誌を見ながらリストカットをする解離性障害・境界性パーソナリティー障害者の心理
■エロティシズム・グロテスク様式美のないISISの動画、そして昨今の国内の殺人事件
■関連ページ・ブログ記事
■画像出典


■「あなたはISIS(イスラム国)の惨殺動画を見ましたか?」

 最近は、ISIS(イスラム国)による惨殺動画を授業で使う小中学校の教師がおり、問題になっているようである。

 その是非についての感想は結末で述べるとして、ともかく、見たくない子供たちはもちろん「見ろ」と言われる必要などないし、一方で、逆にこの動画がこうして話題になったがために、「見るな」と親から言われて余計に見たくなった子供たち、特に男子たちの間では、映画『カリギュラ』で知られるところのカリギュラ効果が発生し、親に内緒でインターネットの使用などによって動画が閲覧されていることだろう。

 時々、ISIS(イスラム国)による斬首動画や焼殺動画を見ていない、あるいは見たくないという人から、「純一さんは見ました? どんな動画でした?」と恐る恐る内容を聞かれることがある。聞いてくるのは、ごく一般の健康な大人である。私だって、もし自分が見ていなかったならば、好奇心から人にそう尋ねたかもしれない。

 一見すると、いかにも動画を見そうな知人である私に対する、ただの好奇心による他意のない質問に思えるので、いかにもテレビのコメンテーター気取りに「ああ、残忍だよ」などと答えているのだが、あとでよくよくその質問と好奇心とを思い返してみるに、だんだんと手に汗がにじむことがある。

 ここに書くことは、我々日本人の潜在意識、戦後の死生観・霊魂観・美意識の変容や大衆心理といったことと関連するかもしれない。そして私自身も、日常生活の中で他人に対してそのような態度で接している可能性がある「平和ボケした無血テロリスト」たる日本人の一人ではないかと自省してみるのである。

 大学のときはニーチェばかり読みあさり、今では、西洋絵画一つを取ってもモローやシャヴァンヌやデルボーやルドンなど陰鬱でグロテスクな唯美主義・象徴主義ばかり追っていたり、DV・性暴力・虐待被害を受けて自殺未遂・リストカットを繰り返す方々と交流して一緒に泣いたりと、極めてグロテスク耐性の高い私でさえ、何に身震いするのかをつくづく考えている。

 私は、自省のために、もっと言えば内省・内観のために、あるいは、ISISの動画が私自身にとって崇高なエロティシズムが欠落した単なる惨殺動画であることを確認するために、某アラブの反ISISサイトにて、ISISの惨殺動画を見続けていると言える。


215px-Caligulaposter.jpg■バタイユの『エロスの涙』や映画『カリギュラ』、エログロナンセンスにに見るサディズム・マゾヒズムと恍惚の同根性

 ジョルジュ・バタイユは『エロスの涙』の中で、中国に残る公開処刑において、処刑人・見物人たちだけでなく、被処刑人自身が同様に恍惚の表情を浮かべる場合があることを記録している。西洋列強がこれを残虐だとして廃止させようとしたわけだが、もし本当に被処刑人が恍惚を感じていたなら、つまり、この処刑そのものが処刑人・見物人・被処刑人の全員によって創られたある種のスペクタクル・作品であったなら、それは処刑と呼んでよいものではなく、罪人を処罰するという近代精神そのものによる解釈が介在し得ないことになる。

 映画『カリギュラ』では、首だけを地面から出した被処刑人たちが巨大な斬首マシンによって処刑されていくシーン、それをカリギュラが笑いながら見るシーン、男女の乱交シーン、裸の女性たちがハチャメチャにはしゃぐレズ・マスターベーションシーンが絡み合う。

 映画『サロン・キティ』では、どす黒いハーケンクロイツ(卍の印)のナチスの旗の前に、エログロ全開の女たちがズラッと立ち並ぶ。

220px-Salon_Kitty_(film).jpg こういった悪趣味への憧れは、悪趣味というよりは、古代から現在に至るまで、人間の本能そのものなのだろう。

 日本においても、かつてエログロナンセンスが流行したものである。私が生まれる前の話だが。谷崎潤一郎がその嚆矢かもしれないが、『金閣寺』を書いた三島由紀夫に至っては、人体ばかりか「ただの金ピカの」建造物でさえ、絶対美・エログロ・嫉妬の対象なのであった。三島の中では、天照大神(アマテラスオホミカミ)と絶対美とエログロとザドマゾと天皇と自衛隊の全てが、分子の共有結合のように不可分のものだった。世俗の凡人たる大衆とは、世に落ちている「素材」の組み合わせ方・コンテクストが全く違っているのである。元より悪趣味な私としては、三島の「気分」については非常に親近感を覚える。


■死者の亡霊への恐れおののきから来る責任回避の心理

 ISISの動画の話に戻る。本来、惨殺動画を見たくないという人は、他人に対しても閲覧体験や内容を(学術目的以外に日常会話で)尋ねない、あるいは動画の内容をできれば知ってはおきたいという夢想さえも捨てる、均衡のとれた姿勢を貫くべきだとも言えるはずである。

 なぜなら、純粋に宗教学的・社会学的・民俗学的な観点から真摯に覚悟を決めて閲覧した人にとって、すなわち、ISISの思想への共鳴の結果や犯罪などへの悪用目的で閲覧したわけではない人にとって、その内容は質問者に「見てもらわなければ」即答できるような楽観的なものではないからであり、かつ即答できるような楽観的な内容ではないだろうと質問者が最初から了解しているがために「見たくない」のであろうからである。

 ここにおいて、「見たくない」と言いつつ他人に内容を尋ねる行為は、本来は自らが体験すべき(閲覧すべき)心的外傷的・急性ストレス障害的な悲劇体験を他者の身に降りかからせておき、そこから生産された果実(情報)を享受する点において、一般住民や民間人を殺害しつつ自己を正当化するISISに潜在意識的にはうっすらと共鳴的であり、覚悟を決めて動画を閲覧した人と少しの差異もなく原罪的で、抑えがたい残虐性やリビドー・性衝動を表明しているのではないかという視点が立ち上がってきてもよいはずである。

 このような我々の好奇心のあり方を「無血テロリズム」と名付けてみるとする。文字通り、血は流さず、傷も残さないのだが・・・しかし、全てを見抜いている被処刑人の亡霊は、このような我々日本人にも取り憑くのではないかという気がしてくる。

 数日前から、ISISがヨルダンのムアズ・カサースベ中尉を焼殺する前に鎮静剤を大量に飲ませていた可能性があるという指摘が、欧米の医学者たちから出ている。もしこれが、「自分たちにもこれだけの慈悲深さがあるのだ、アッラーよ」という、惨殺後に襲ってくるかもしれない「アッラーのたたり」への一抹の不安からくる口実であるならば、例えば、1988年に起きた女子高生コンクリート詰め殺人事件で、犯人らが女子高生の亡霊を恐れ、女子高生が生前に見たがっていたビデオをわざわざ借りてきて一緒にドラム缶に放り込んだ事例と似ている。

 そして、このような「亡霊への恐れおののき」を根底に持つ、「自分では汚く醜いものを見ようとしないが、見た者には好奇心で尋ねたがる性質」は、我々日本人において珍しくないものであると感じる。そもそも、日本のマスメディア、とりわけ新聞とテレビが、戦後の民主主義そのものが、そういう構造をしていると私は思う。

 本当は、動画(というよりも、惨殺の手法や光景そのもの)にうっすらと興味があり、自分が動画を見てしまったら、少なくとも心の内ではある種のマスターベーションをしてしまうことに気づいているがために、「死者の亡霊」が取り憑く気がしてあえて見ていない日本人も少なくないのではないだろうか。

 これは、「私だけは亡霊の怨みを買うようなことをしていないと思いたい心」、あるいは「死への恐れ」そのものと深く関わっているはずである。

 そういえば、東日本大震災が起きてから私は、早急な経済復興ばかりではなく、この荒廃した光景、生命が一挙に頓挫した殺風景を味わう半ば退廃的で鬱病的なエロティシズムこそ重要であり、それは被災者を軽視するどころか弔うことになるという旨のブログ記事を、藤原定家の「見渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」の歌に仮託して書いたのだった。(下掲の関連ブログ参照)


■エログロ・SM雑誌を見ながらリストカットをする解離性障害・境界性パーソナリティー障害者の心理

 サイトの精神疾患のページに掲載はしていないが、かつてサイトの同コンテンツを通じて、エログロ・SM雑誌を見ながらのリストカットがやめられないという解離性障害・境界性パーソナリティー障害の女性の話を聞く機会を得た。

 もっともその裏には、児童期の虐待や性暴力、親の愛情不足などが典型的要因としてあるため、話を聞く側も正気ではいられない。

 しかし、おかげで『奇譚クラブ』や『風俗奇譚』などのカストリ雑誌の知識を得ることとなった。それにしても、共感覚の公表以来、色々な世界に迷い込んだものだ。だが、これは収穫である。

 時々、ある知人の解離性障害者が殺人願望を口にすることがある。「どうして魚は殺していいのに、人は殺しちゃいけないんだろうね。実行はしないけど・・・人を殺す前に、自殺しようと思う」

 私はそれを、ブログにも論じた佐世保女子高生殺害事件と比較している。私にとっては、やはりこの女性の殺人発言のほうが、ニーチェ的・バタイユ的均衡、殺しそうでありつつ殺さないところで止まるエロス的均衡を保っており、佐世保事件のほうは、ブログで「発達障害診断批判」の観点から緻密に分析したように、計算高い近代殺人の可能性を多少は残しているように思えている。(下掲の関連ブログ参照)

「自分は死体である」、「藤野一友の描くような女になって切り刻まれたい」などと主張するコタール症候群患者(下掲の関連ページ参照)の女性にも、話を伺ったことがある。

 私にとっては、これらの精神疾患者の残酷さと、ISISの残酷さとは、どこか違っている。今私は、前者のほうをエロティシズムと名付け、後者をただの国際犯罪と名付けたい。

 このほかに私が見たバタイユ的・『エロスの涙』的な恍惚の光景は、ある中規模神社の巫女たちが自分たちの勤めるその神社に内緒で作る和歌の会における、いわば「エログロ・レズ・マスターベーション歌会」だった。このことについては、以前、少しためらい気味に、「女性の集団ヒステリー」という違った角度から憑依障害や転換性障害などの一種と見て、ブログに書いたことがある。(下掲の関連ブログ参照)

 このエロティシズムもまた、テレビで見かける一部のタレントの世俗的同性愛とは全く異質の、異性愛の変型であり、世俗から超絶しているように思えた。

 厳密には、いわゆる「マスターベーション」と言えるようなものではないが、和歌を詠むにあたり、いちいち自分が月経中か否か、性器の状態がどうか、差し当たり性愛的気分か否かにこだわるので、こちらの頭が痛くなりそうな気分なのであった。しかし私は、嫌悪感どころか親近感を覚えた。あるいは、これに私は嫉妬した。

 もっとも、もう少し「小綺麗な」話から言えば、和歌関連の交流のプロセスで、内掌典経験者の女性や旧官幣・国幣社の巫女経験者にも出会ってきたし、それはそれで大変に美しく、特に以下に挙げた和歌関連のブログ記事にそのことは書いてきた。これらの世界も、月経中の一挙一動、手指の動作までもが制限され、旧暦で生活するなど、我々の俗なる社会からは半ば信じがたい世界であることを知ったが、私としては、それでも心のどこかで、やはりその文化習俗は戦後日本の現代民主主義社会の悪しき部分に侵されている気がしていた。これらの世界でさえ、性的儀式、エログロ的儀式、サドマゾ的儀式は排除されつつある。

 私はそれよりも、戦後日本の現代民主主義社会そのものから超絶し、エログロ側・サドマゾ側にスライドしており、かつ昨今のセクハラや痴漢や児童虐待や殺人事件からも超絶し、それらを無言で見下すほどの崇高なエロスに基づく文化習俗を知りたかったから、上記の体験は、自分自身の共感覚の探究に始まるライフワークにとっての、一つのゴールであった。

 ニーチェは、性行為は殺人的であると言った。バタイユも、エロティシズムは有限な個においてしか現れないと言った。エログロ巫女たちのほうの儀式は、有限な個としての自己を真っ正面から受け止める殺人的エロスであった点において、突き抜けた美と言えると考えると私は感じた。

 それは、「極端な生き姿」でありながら、一歩間違えばお互いに殺し合いが始まるのではないかと思わせる「ある種の死に姿」でもある点で、ニーチェやバタイユが書き遺したエロティシズムそのものであった。


■エロティシズム・グロテスク様式美のないISISの動画、そして昨今の国内の殺人事件

 ISISの動画を見続ける中で感じたことは、その凄惨さに対する嫌悪感以上に、殺人行為そのものに何の凄惨さも絶対美も退廃も醜さもイスラム教も古代も近代も込めることに成功していないのではないかということだ。

 その原因はただ一点で、斬首したジェームズ・フォーリー氏や後藤健二氏、焼殺したヨルダンのムアズ・カサースベ中尉との間に何の「エロス的契約」も結んでいないという点に尽きると思う。この殺人動画がグロテスク・スペクタクルでないということは、ある意味では、それを平然と閲覧する姿勢は反テロリズム的姿勢であり、一方で、閲覧者がそこにグロテスクさを見出すことは彼らにとってエロス的成功なのかもしれない。

 我らこそが一神教たるイスラム教の権化と主張しているはずのISISの一連の殺害行為の最大の原罪的な誤謬は、被処刑人であるジェームズ・フォーリー氏や後藤健二氏、カサースベ中尉が恍惚を要求していないにもかかわらず、それを分かって殺害するほどの計算高い知性が実はある点、すなわち殺害者と被殺害者の相互のエロス的要求が不均衡であるという点ではないだろうか。

 ISISの行為、あるいは国内の様々な殺人事件は、殺人・エログロ・サドマゾそのものの善悪というよりは、執行者と被執行者との阿吽の呼吸の有無、事前の美的要求の均衡の確認の有無によって、断罪されるべきではないだろうか。

 言い換えれば、ISISによってあのオレンジ色の服を期せられた被処刑人は、もはや一点の恍惚を『エロスの涙』の被処刑人のように見出す以外に、最期を耐え切るすべがなかった。すなわち、私もサイトの解離性障害のページで解説しているようなストックホルム症候群を被処刑人らが引き起こすこと、ISIS戦闘員とエロス的同化をおこなうことによってしか、耐えられなかったはずである。ISISの残忍さとは、そのような残忍さとして語られるべきものではないかと私は思っている。

 ISIS(イスラム国)による惨殺動画を授業で使う小中学校の教師がおり、問題になっている旨を冒頭に書いたが、これを止めたほうがよいと思う理由も、教師が児童・生徒にエロス的同化の準備時間を与えないからである。

 あくまでもここでの視点は、教師(処刑人としての教育者)と児童・生徒(被処刑人としての被教育者)との間にエロス的同化が生じるか否かの確認であって、殺人そのものが善か悪かとか、映像を見ることが子供の精神に悪影響を与えてPTSDや犯罪を誘発するか否かといったことは、全く問題にならない。

 全ての教師が、おふざけで見せたのではなく、大まじめに取り上げたものと思いたいが、いずれにせよ、ほとんどのケースで教育効果と呼べるようなものは見られず、いわば教師のマスターベーションと呼べるような事態として終わるのではないかと思う。こういったことも踏まえて、ISISの動画とエロスについて今後も考察したい。

 ある意味では、先述の質問をしてしまいがちな我々の潜在意識にあるうっすらとしたテロリズムへの好奇心こそ、動画を見るということによってしか振り落とされ浄化されず、あるいは急性ストレス障害やPTSDに陥ることによってしか自分自身に気づかれないものであるのかもしれない。

 アメリカの原爆が「極めて緻密に計算されたアメリカの近代知性」によって「マゾヒズム的恍惚を要求しているわけではない広島・長崎市民」に投下されたものであるように、実は、ISISも、そして先ほどの質問を発する平和な我々日本国民自身も、本当は皆同じ穴の狢だと言えるのかもしれない。それがために、私の身震いも生じるのかもしれない。


■関連ページ・ブログ記事

●コタール症候群
http://iwasakijunichi.net/seishin/cotard.html

●解離性障害
http://iwasakijunichi.net/seishin/kairi.html

●女性の集団ヒステリーを考える
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/71190712.html

●佐世保女子高生殺害事件についての私見 ―「人は、人になったヒトである」ことをとらえ損ね続ける日本の「親切な」精神鑑定の現状(1)―
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/102240125.html

●佐世保女子高生殺害事件についての私見 ―「人は、人になったヒトである」ことをとらえ損ね続ける日本の「親切な」精神鑑定の現状(2)―
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/102240150.html

●巫女・陰陽師と解離・離人・憑依などとの関係
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/78118363.html

●現代の巫女と一般女性とに共通する潜在的古代的共感覚について
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/46343132.html

●私の和歌人生史、平成日本における伝統和歌の現状(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/50386486.html

●私の和歌人生史、平成日本における伝統和歌の現状(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/50713456.html

●東日本大震災と宮沢賢治の自然観について(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/46752749.html

●東日本大震災と宮沢賢治の自然観について(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/46935386.html

●今後の日本史の教科書に書いてほしいこと「東北縄文時代から東日本大震災へ」
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/47050302.html

●「秋の夕暮」的退廃美に見る「大自然本位」の震災復興の鍵(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/47210860.html

●「秋の夕暮」的退廃美に見る「大自然本位」の震災復興の鍵(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/47410388.html


■画像出典
http://en.wikipedia.org/wiki/Caligula_%28film%29
http://en.wikipedia.org/wiki/Salon_Kitty_%28film%29
posted by 岩崎純一 at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・宗教論

2015年02月09日

「ISIS(イスラム国)」の呼称論争について思うこと

 昨日もTwitterで簡単につぶやいたのだが、ここ二週間ほど、日本では(特にネット上やイスラム学界・国内のモスクでは)、「イスラム国」の呼称を「イスラム国」・「IS」・「ISIS」・「ISIL」・「DAIISH」などのうちのどれにするかで、かなりの論争が起きている。

 その中でも、「イスラム国」は圧倒的に不人気のようで、少なくともそれ以外の英語・アラビア語の略語で呼ぶべきだとする意見がほとんどである。日本政府は、すでに「ISIL」や「いわゆるイスラム国」と呼称することを明言している。

 エジプト出身のフィフィさんなどのタレントも、Twitterで、政府の言う通り「イスラム国」を「ISIL」に変えるよう結構厳しい口調で主張している。

 こうして、過激派テロ組織について、それこそ過激な呼称論争が日本人どうしで勃発しているわけだが、これらの呼称は結局、どれも「国」と言っているのであり、呼称の調整がどこまで日本国民の誤解・イスラム教差別の防止や対日テロ対策として有意で実効的な試みかは不明だと思う。

 そもそも、「IS〜」は「イスラム国」のことであり、「イスラム国」は「IS〜」のことなのだから、これは「言い換え」や「ニュアンスの変更」や「イスラム教差別の防止措置」ではなく、日本国内だけの「翻訳問題」や「略語問題」にすぎないのではないだろうか。

 これらの呼称の中で、「イスラム国」という訳語を一番問題に感じ、イスラム教差別だと思うのは、日本語の分かる我々だけ(日本人や、日本語の分かる外国人・イスラム教関係者・ISIS戦闘員だけ)である、という点が盲点になりすぎていて、いったいISISに腹を立てているのか日本人どうしで腹を立て合っているのか、何だか分からなくなってきた。

 元より、「イスラム国」と「イスラム国家・イスラム諸国」とを混同する日本人があまりに多すぎる(実際に混同しながら発言した被害者親族やコメンテーターがいる)という観点からも、呼称の調整必要論、訳語の廃止論が出ているのだとは思うが、よく考えてみれば、これは言葉のせいではないと思う。

 テレビやスマホで「イスラム国」という表記を初めて見たときに、「待てよ、そんな名前の国があったかな。イスラム国家ともイスラム諸国とも、何だか違うようだな。もしかして、そういう固有名詞を名乗る何らかの組織・集団かもしれない。調べてみよう」というくらいの注意力があったかなかったかの問題で、政府や世の中が呼称を変えたところで、呼称の変更自体に気づくのもまた、そういう注意力がある人だけなのだから、残念ながら、ほとんど不毛な議論ではないかとずっと思っている。

「ISIS」と「ISIL」の違いは、最後が「al-Sham」か「the Levant」かの違いだが、私は一応、ブログでは、アメリカ政府や日本政府の「ISIL」ではなく、CNNなどの海外メディアの「ISIS」を使うことにしている。

 また、「DAIISH」という語には、ISISが嫌悪するニュアンスが含まれており、実際にISIS側のメディア「フルカーン」もそう呼ぶなと反論しているが、どうやら組織の総意というわけではなく、単なる一部の戦闘員の好みの問題のようで、「ISIS」・「ISIL」の穏健なニュアンスを大きく覆すには至っていないようである。

 従って、

(1) 日本国内での呼称は、「イスラム国」・「ISIS」・「ISIL」・「DAIISH」のいずれであろうが、どの過激派組織を指しているか、そして該当組織が国際犯罪組織であることが、国民の「知る権利」の範囲で分かっていればよい。

(2) 「イスラム国」と「イスラム国家・イスラム諸国」との区別が付かないのは、区別が付かない人自身の問題であり、日本の反政府系マスコミがISISの印象を良くし政府を批判するための策略として「イスラム国」の呼称を頑なに変えていないのだという説は、(そもそもこれが国内の翻訳問題や略語問題で、印象操作自体が不可能である以上、)現時点では信憑性に欠けるようだ。

 私が現在感じるところとしては、以上のようなことだ。

 ところで、かつて私が学んだ山内昌之先生などは、「イスラム国ではない、イスラーム国だ」と怒っていらっしゃるかもしれない。
posted by 岩崎純一 at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・宗教論

2015年02月01日

過去の対日テロ事件との比較から今後の対策を考える 〜イスラム過激派とオウム真理教を同種・同質集団と見たアメリカの現代感覚の良し悪しを踏まえて〜

目次
■日本人人質の殺害
■過去の対日テロ事件に対する欧米キリスト教諸国(特にアメリカ)の態度を振り返る
(「どれもイスラム過激派のテロ」という意識)
■三つの対日テロ事件の比較(地下鉄サリン事件、シガチョフ事件、ISIS日本人拘束事件)
■海外産・日本産テロリズムの双方に警戒しなければならない点は変わらない
■参考文献・サイト


■日本人人質の殺害

 ついに後藤健二氏までもがISISに殺害されたと思われる動画が今朝、YouTubeにアップロードされた。政府も、殺害されたのが後藤氏本人で、これまでの動画と同様、合成・細工などはないとしている。

 新鮮な感想が衰えないうちに、今回の一連の日本人拘束事件について頭にあることを書きたい。

◆取り上げるテロ事件
(1) 地下鉄サリン事件(1995年3月20日)
(2) シガチョフ事件(2000年3月〜2001年7月13日)
(3) ISIS日本人拘束事件(2014年8月〜2015年2月)

 今回のテロ犯罪も、我々個々人の日常生活にとっては遠い出来事ではあるし、事件をあまり重く深くはとらえない人も多いようである。氏名も顔写真も出さずに無責任な書き込みができるTwitterや掲示板では、日本人二名の拘束動画をコラージュした画像・動画がアップロードされたり、直接ISIS戦闘員のアカウントに書き込みがなされたりし、ISISから反応があったりなど、実際に非政府レベル、SNS・サブカルチャーレベルでISISを刺激していたことも大変に印象に残った。

 早速、YouTubeが規約違反として淡々と削除してきた今までのISISの斬首動画を転載しアーカイブを作成しているカルト宗教・テロリズム関連ウォッチングサイトで、斬首動画の一部始終を見たところ、やはり斬首実行者は、これまで同様「ジハーディー・ジョン」のようである。(一方で、実行者は別にいて、「ジハーディー・ジョン」は映像でのコメントと斬首のフリのみの担当であるという説も飛び交っている。それ以上の詳細は不明。)

kenji-goto1.jpg ISISによるジェームズ・フォーリー氏殺害以降、同じ日本人として上記のような揶揄・コラージュ文化に対しても嫌な思いをしていたので、それをかき消すような意識で、自分の目で「ジハードのジョン」による斬首動画を全て見てきたが、ナイフを首に当てられる直前に、後藤氏が覚悟を決めたように自ら目を瞑って準備していたのが、かえって後藤氏の生前の活動の積極性を暗示させられるようであった。
(右は後藤健二氏の生前のTwitterでの言葉。)

 などと感じていたところ、早速、時事通信が「ほとんど身じろぎしない。首にナイフが当てられると覚悟を決めたように目を閉じた。」と報道していた。「動画における個人の一挙一動の情による解釈」に触れるのは、こうして個人のブログでの感想にとどめたほうがよいのではないか、権威あるマスコミにおいて述べても大丈夫なのだろうか、と少し心配になった。

 これまで日本はテロの標的になりにくかったからか、「やはり自分たちは無宗教の日本人でよかった」という人も多くいるし、私だって内心そう思うのだが、最大のムスリム人口を抱えつつ過激派が少ないインドネシアでさえ、無宗教は禁止されており、無宗教を名乗ると、運が悪ければ政府当局に密告されて逮捕されることもある。ムスリムにとって、アッラーフという存在がどういうものか、まずは比較的過激派の少ない(または、まだ影をひそめている)イスラム国家から勉強するのがよいのかもしれない。

 すでに後藤氏の件に関して、「もっと多くのジャップ(Jap)が後藤氏のような刺身になることを望む」と書き込んでいる親ISIS派の人たちや小グループも欧米圏に多数おり、彼らにとっては、「無宗教の日本人」は「1億人規模のアメリカ従属教というカルト宗教」という意識なのかもしれない。

 それにしても、動画が合成だ、いや合成でないとか、後藤氏の声だ、いや別人の声だ、後藤氏のまばたきがモールス符号になっている、いやなっていないなど、日本国民どうしで分析結果が最後まで真っ二つであったのは、いったい何だったのだろう。ISISのメディア部門「フルカーン」が、わざと「合成のように」作って撹乱し、それに我々日本人がまんまと引っかかったのだろうか。よく分からない。

 こういう動画は、「人類の悲惨な歴史の記録(アーカイブ)」としては、むしろネット上に残されなければならないと思う。「玉石混交」の情報社会の中で、徹底して「玉」を集める一方で国民に見せる「玉」と隠す「玉」とを選別せざるを得ない政府の行動と、「玉」も「石」もとりあえずネットワーク上に流しておくテロリズムウォッチャーの行動と、両方が五分五分に存在するのがよいと思う。


■過去の対日テロ事件に対する欧米キリスト教諸国(特にアメリカ)の態度を振り返る
(「どれもイスラム過激派のテロ」という意識)

 私は個人的には、今後も日本においては、ISISなどのイスラム過激派によるテロよりも、日本国内のカルト宗教・新宗教団体によるテロのほうが高確率で起きやすいと考えている。というより、ISISのようなイスラム過激派思想の影響をもろに受けやすい危険性を持っているのは、日本国内のムスリムであろうはずがなく、カルト宗教・新宗教団体、そして、ごく一般の一部の社会人・学生・大学教員などのほうだと考えている。

 そして、あくまでも個人的なカルト宗教・テロリズム事件ウォッチャーとしての見解にすぎないが、二人の日本人がISISに拘束された最初の動画を見て、なぜか私は、一見すると共通点のなさそうなシガチョフ事件(ロシア人によるテロ)、そしてその契機となった地下鉄サリン事件(日本人によるテロ)のことをふと考えた。

 しかし、よく思い出してみれば、これら二つの対日テロ事件は、多くの欧米のキリスト教諸国、特にアメリカが、当初アラブ・イスラム過激派テロリストの犯行と見ていた事件である。なるほど、「見誤ることがある欧米諸国の目」というつながりから、これら二つのテロ事件を思い出したのだ。欧米の報道各社にも、当初イスラム過激派の犯行と勘違いして報じたところがあった。

 そして何より、ISISの前身のアルカイダこそ、かつてアメリカが組織したムジャーヒディーン集団であるわけだが、アメリカ同時多発テロ事件をはじめとして、今やアメリカが最も扱いにくいテロ集団となってしまったようである。

 今回のISISによる日本人の拘束・殺害を一つの契機として、今後の対日テロ対策を冷静に(ある意味では冷徹に)考えていきたいと思うならば、「欧米諸国(の政府・報道機関)の目には、第一印象の段階では、イスラム過激派であろうが日本のカルト宗教であろうが、とにもかくにも“この種のテロ”が全く同種の“イスラム的な何か”として片付けられる蛮行と映る」ということは知っておいたほうが無難であろうし、やはり私としては、それが欧米、特にアメリカのキリスト教市民社会の功罪であるとも考えている。

 これは見方を変えれば、欧米諸国、そして欧米諸国に追随する中東やアフリカの親欧米政権の、「テロはテロで、どの宗教を標榜していても先進国の人権意識やキリスト教精神の敵であるから空爆する」という非常に分かりやすい態度が、他国で起きたテロの緻密な分析・選別、もっと言えば宗教学的・理念的な微妙な差異をすぐにとらえる嗅覚のようなものをあまり持たない、ということを意味しているように見える。

 もっとも、例えば、欧米諸国がロシア人が起こしたシガチョフ事件をイスラム過激派の仕業と見た理由も、無理に探そうとすれば、無くは無いと思う。現在のISISの戦闘員の内訳を見ても、アラブ人・ムスリムに次いで、ロシア人はチュニジア人と同じくらい多く、イギリスやフランスからの参加者数をしのいでいる。

 ISISに限らず、チェチェン紛争時代からずっと、イスラム過激派に占めるロシア人の割合は高い。イスラム過激派思想もオウム思想・シガチョフの思想もソ連崩壊後のロシア人の精神性に肯定的に響きやすかった共通点があるという意味では、欧米(あるいは旧西側・NATO側)諸国の目にはなかなか区別は付きにくいのかもしれない。

 ともかく、おそらく今述べたような「テロ=イスラム教そのものが内包する傾向・欠陥」と見てしまうようになった欧米諸国の一足飛びの態度は、今後の対日テロ分析に対しても適用される態度かもしれないわけだから、その点は日本人である以上、心しておいたほうがよいと思う。

 しかしやはり、そういったキリスト教精神を中軸とする先進国にオウム真理教のような日本産カルト宗教の思想を「イスラム教の影響を受けたテロ集団」と間違えて片付けられてもらっては、一般のムスリムや日本人が困ることになる。特にアメリカにその傾向が強いのは、かつて自らが組織しておきながら手に負えなくなったアルカイダを突き放して以来、他国の過激派の区別があまりつかなくなったからなのかもしれない。

 以下のように、欧米諸国がイスラム過激派と勘違いしたサリン事件とシガチョフ事件を起こしたオウム真理教は、「教義」上はイスラム教から最も遠いところから生まれているのである。そして、最終的に「同種・同質のテロ集団」となっただけで、今回挙げる三つのテロ事件は、「イスラム」とはもはや無関係の国際犯罪なのである。

 サリン事件の95年には、私はまだ小学六年生だったから、CNNなどが「アラブ・イスラム過激派の犯行」と報じたことはのちに様々な文献から知ったのみであるが、シガチョフ事件に関しては、アメリカ市民までもが誤解してネットでイスラム過激派を非難していながら、日本ではこの事件の存在そのものがほとんど放映されなかったことを覚えている。


■三つの対日テロ事件の比較(地下鉄サリン事件、シガチョフ事件、ISIS日本人拘束事件)

 さて、改めて三つの対日テロ事件を挙げてみよう。そのあとに、それぞれの共通点と相違点が分かりやすいように、事件の特徴を列挙した。

◆取り上げるテロ事件
(1) 地下鉄サリン事件(1995年3月20日)
(2) シガチョフ事件(2000年3月〜2001年7月13日)
(3) ISIS日本人拘束事件(2014年8月〜2015年2月)

●報道各社の第一報
(1) アラブ原理主義・イスラム過激派の犯行
(日本の公安当局がオウム真理教の犯行と見たのちも、欧米諸国、特にアメリカではイスラムの犯行と報道。)
(2) アラブ原理主義・イスラム過激派の犯行
(日本の公安当局がロシアのオウムの残党の犯行と見たのちも、欧米諸国、特にアメリカではイスラムの犯行と報道。当時は、直前に第二次インティファーダ、アルカイダによる米艦コール襲撃事件などが発生。直後にアメリカ同時多発テロ事件が発生。)
(3) アラブ原理主義・イスラム過激派の犯行
(今回は、首謀組織が積極的にサイト・YouTube・Twitterなどで声明・動画を公開。日本や欧米諸国に残された行動は、その動画などの真偽や合成の有無の分析であって、従来のような「テロ=イスラム教そのものが内包する傾向・欠陥」という態度による間違いは起こり得なかったと思われる。)

【参考】
 ちなみに、キリスト教原理主義者の青年によるノルウェー連続テロ事件においても、当初欧米諸国の多くは、便乗したイスラム過激派によるネット上のニセの犯行声明を見破ることができず、「イスラム過激派のテロの可能性」を報道。

●事件におけるインターネットの使用(事件時点でのインターネット情勢)
(1) 未使用。当日まで秘密裏のテロ計画。
(Windows 95の発売直前。ネットは未成熟だが、事件前の94年に日本の首相官邸がウェブサイトを初めて開設。その他の政府機関もサイトを次々と開設。教団が首相・閣僚などの動きを精査。)
(2) 使用。麻原死刑囚の思想を実現しない場合のハルマゲドン・全人類の滅亡の訪れと、日本人大量殺戮・日本破壊計画の構想をインターネット上で記述。
(GoogleもYouTubeもなかった時期で、ほとんどの日本国民は当事件の事前の知識が皆無。)
(3) 使用。メディア部門「フルカーン」および複数のウェブサイト・Twitterアカウントを有して日本人人質の殺害を警告し、YouTubeに犯行声明・殺害動画をアップロード。

(使用しているSNS・動画サイトや携帯型端末そのものは、一般の日本国民と全く同じ。)

●事件の結果(見逃した機関当局、阻止した機関当局)
(1) 既遂。阻止できず。
(2) 未遂。見逃し:東京入国管理局、警視庁、福岡県警 阻止:FSB(ロシア連邦保安庁)
(3) 既遂。阻止できず。

●首謀組織(首謀者・実行犯)
(1) オウム真理教
(首謀者:麻原彰晃、指揮・サリン製造・サリン散布・運転・運搬等の各省庁長官・幹部をはじめとする実行犯十数名)
(2) オウム真理教のロシア人信者
(首謀者:ドミトリー・シガチョフ、他ボリス・トゥペイコら幹部4名、協力者十数名)
(3) ISIS(ISIL、イスラム国、DAIISH)
(首謀者:アブー・バクル・アル=バグダーディー、他「ジハードのジョン」ら実行犯数不明)

●首謀組織の統治体制・国家転覆計画
(1) 国家を標榜し、省庁制を採用。ハルマゲドン(の捏造)。
 「日本シャンバラ化」を計画(日本国の打倒、東京都民・国民の大量殺戮、天皇・首相・議員の殺害、新聞社への襲撃、オウム国家の建設)
(2) 「日本シャンバラ化計画」の再興。ハルマゲドン(の捏造)。麻原彰晃の奪還。
(3) 国家を標榜し、行政・司法・警察機関などを設置。中東・トルコ・アフリカ・イベリア・ウイグルに至る統一カリフ・イスラム国家の建設。

●「殺人」の隠語(原典には以下のような過激な意味はない。)
(1) ポア、救済、精進(全て「殺人」そのものと曲解)
(2) 同上
(3) ジハード、キサース(「殺人」や「レイプ」と曲解)、ディーヤ(「欧米が支払うべき血の賠償金」と曲解)

●被害者
(1) 死者13人、負傷者6000人以上
(2) 未遂
(3) 死者2人(全世界の死者・負傷者数は不明)

●思想的支柱・原理(自称)
(1) チベット密教、原始仏教、ヨーガを中心とし、儒教、道教、ゾロアスター教、キリスト教を混在させた「真理」の追求
(2) 同上
(3) イスラム教スンニ派、サラフィー・ジハード主義

●組織の規模、国籍、兵力
(1) 1万人以上(日本人。東京大学・早稲田大学など一流大学出身の有能者、医師、科学者、弁護士などが幹部・省庁大臣に就任。出家・在家信者に分かれる。)
(2) ロシア人信者3万人以上(日本国内の信者の数倍)、教祖に忠誠を誓うテログループが複数存在し、うち一つがシガチョフのグループ
(3) 戦闘員1万人〜3万人?(支配下にある住民は1000万人?)、アラブ人・パレスチナ人・ロシア人・チュニジア人・エジプト人・欧米人・ウイグル人(民族)・中国人(漢民族)・日本人などが参加

●女性・女児の扱い
(1) ハーレムを形成(ダーキニー)、新規入信女性の選別によるダーキニー登用
(3) 性奴隷として誘拐、現世におけるフーリー(「天女」ハーレム)の養成・強制的性労働


■海外産・日本産テロリズムの双方に警戒しなければならない点は変わらない

 こうして見てくると、今後、日本として対日テロを阻止していくために重要なことは、「何の情報分析もしていないのに、組織の構成・行動・統治体制・国家志向などが似ているからという理由だけでとりあえずイスラム教関連のしわざにしておく、という態度を日本は持っていない」ということを、世界に、特に空爆の主導者アメリカ、そして今回日本政府が頼ったヨルダンなどの空爆国に対し、徹底的に発言していくことなのかもしれない。

 そもそも防ぐべきものは、イスラム教との交流でさえなく、海外産テロリズムまたは日本産テロリズム(日本人によるホームグロウン・テロリズム)なのであるから、日本国内の一般のムスリムよりも、仏教カルトや神道カルト、一部の社会人・学生などのほうがISISの思想の影響を受ける可能性があると見るのが妥当ではないだろうか。

 ISISのテロと全く同様に、これらをも阻止する態度を明確にし、法整備を進めていかなければならない。

 私は普段、政治的立場がお互いに全く異なる場所に出入りすることもあり、むしろ観察していて日本人による同士討ちテロの不安のほうを身近に感じることが多いのだが、それもあって今回のようなブログ記事を即日書いておいた。


■引用元サイト

後藤健二(@kenjigotoip) Twitter
https://twitter.com/kenjigotoip(2010年12月2日の記事)

■参考文献・サイト

Jihadi John(ジハードのジョン)
http://en.wikipedia.org/wiki/Jihadi_John

“FALSE PROPHET: THE AUM CULT OF TERROR” crimelibrary.com
http://www.crimelibrary.com/terrorists_spies/terrorists/prophet/1.html

オウム真理教対策(警察庁)
https://www.npa.go.jp/archive/keibi/syouten/syouten269/sec03/sec03_04.htm

オウム真理教(公安調査庁)
http://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/ES_E-asia_oce/aum.html

破壊活動防止法(昭和二十七年七月二十一日法律第二百四十号)
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S27/S27HO240.html

「イスラム国」と過激派の実像(時事ドットコム)
http://www.jiji.com/jc/isk
「身じろぎせず覚悟の表情=後藤さんとみられる男性」(時事ドットコム、2015年2月1日)など
http://www.jiji.com/jc/isk?g=isk&k=2015020100030

「後藤さん殺害か 祈るように目閉じる」(日刊スポーツ、2015年2月1日)
http://www.nikkansports.com/general/news/1428900.html
posted by 岩崎純一 at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・宗教論

2015年01月23日

剣を持たずペンで書いてみるだけの私のイスラム観

ToshihikoIzutsu.jpg 宗教・宗教論については、メインブログでもたびたび書いてきているが、昨年の5月15日に、この第二ブログで書いた「井筒俊彦生誕100周年」という記事を今読み返して見たところ、これが一番私のイスラム観の適度な概要の説明にもなっていると感じたので、もう一度自分で自分のイスラム観を確認し直す意味も兼ねて、リンクしておこうと思う。

「井筒俊彦生誕100周年」
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/96590029.html

 当然ながら、日本人の人質二名(後藤健二氏と湯川遥菜氏)の拘束のニュースに関連しての反応として、井筒俊彦や大川周明の著作や自分の記事を読み返してみたわけである。むしろ、こういうときにいつも考えてしまうのは、良し悪しは全く別にして、現地に赴くカメラマンやジャーナリストの関心の対象や自己の脳が欲している自己の行動と、宗教学・宗教論上の思案・思惟そのものに重点を置いてしまう自分のような人間のそれらとが、全く違うのだという点である。それは、敬意と違和感のどちらでもある。

 ところで、イスラム国が目指しているとされる最大版図を見てみると、西はイベリア半島、東はインドやウイグルの居住地域にまで至っているから、過去にイスラム勢力が一度でも征服したことのある土地全てを再征服することが目的のようだ。ナスル朝のグラナダ陥落によるレコンキスタ終結以前およびムガル帝国以前を版図の理想とし、いわゆるイギリスの「三枚舌外交」以前のオスマン帝国を統治体制の理想としているようである。

 もっとも、昨年の私の記事は非常に言語論寄りで、イスラム教徒の自己そのものやクルアーン・アラビア語そのものに対する日本人としての思惟の態度を示したものである。井筒俊彦の「言語アラヤ識」や大川周明の洞察眼とチョムスキーの「生成文法理論」との比較を主に書いていて、その上で、彼ら賢明な日本人が「SAE(Standard Average European=標準平均欧州言語)に基づく従来の優勢学的言語学」への反骨精神をクルアーン・アラビア語の中に見たという「予感」を、私自身が彼らの著作やクルアーンから感じたということを述べたものである。

 私が、昨今の日本の店頭に並ぶビジネスマン向けの仏教書が語る仏教よりも、井筒俊彦や大川周明のイスラム観、あるいは彼らが出会ったイスラム教そのものを、自分の多神教的・仏教的あるいは神道的実存の仕方に近いものだと解釈する(いや、感じ取っている)態度は、決して偶然の産物ではなく、多分に論理的で平和的な態度であるという自負を、最近のイスラム過激派勢力の動向を見ていて改めて持った。

 それにしても、井筒俊彦の愛弟子である五十嵐一氏が殺害された悪魔の詩訳者殺人事件のことが、今また個人的に気になっている。


■画像出典

井筒俊彦(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E7%AD%92%E4%BF%8A%E5%BD%A6
posted by 岩崎純一 at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・宗教論

2014年07月01日

憲法第99条と憲法制定権力と安倍政権

 ついに本日、集団的自衛権の行使容認が閣議決定された。今日は、これと関連して、憲法の原理について仕事からの帰宅中に考察しメモしたことを転載しておこうと思う。

 私としては、今回の解釈変更と集団的自衛権の行使容認によって、日本が戦争に巻き込まれる危険性は上がりも下がりもしないと考える。また、自衛隊が戦争に巻き込まれることと、日本の国土が戦場となり一般市民・非戦闘員が殺傷されることとは、国際法上も著しく異なっているが、これを区別して議論している有識者が改憲派にも護憲派にも少ないことが不満である。

 日本国民(私も含めて)の良くも悪くも不思議な点だと最近思うのは、平時・日常において憲法とは何かを問われたなら、「国民皆で守るべき、色んな法の上に立つ一番大事な法」という答え方をする人が多いにもかかわらず(国民自らにとっての絶対的な最高法規性)、今回の安倍政権の行動(改憲の意志の表明、解釈の変更)については、それが憲法典の原理を脅かしていないかどうかを、まだ無意識ながらも、より自覚的に感じている点である。

 すなわち、平時・日常においては「憲法は為政者や国家の全体(何ものか)が国民宛てに定めた、国民皆で守るべきルールブック」と考えられ、これが例えば「平和は自分たちで守るもの」といった極めて抽象的な「人の道」・「道徳」の主張の根本原理として使用されており、ところが、有事に対する「不安感」を問題にする状況においては、「憲法制定権力が正当に行使された結果、国民が国家・為政者に課したルールブック」であり、「平和は為政者に守らせるもの」と、脳のはたらきが大転換している。

 とりわけ、いわゆる左派・護憲派を謳う日本国民においては、自国の為政者自身の手によって有事の不安が増した(自国の為政者のせいで内憂外患が増えた)という自覚がなされた場合に、急に憲法制定権力に裏付けられた憲法の実定的意味や対為政者の束縛性が第一義にのぼっている現状は、私個人としては、日本人の憲法論と脳認知の関わり方の特徴を如実に示す例として大変に興味深く思っている。
(それは、義務教育でも教えられていないのに、まるでチョムスキーの生成文法のように生得的なふるまいを見せる、不思議な脳認知のあり方だと思う。)

 近代西洋、現代欧米においては、憲法の絶対的意味、相対的意味、実定的意味、最高法規性などは、ほとんど自動的に同列に語られるものであって、内憂外患の有無や世界情勢の変化に伴って、国民の意識において優先度が事後に変わるというような性質のものでさえないし、そのような性質であってはならない。
(カール・シュミットなどの「憲法の意味」の共時的分類など。)

 こうして見ると、日本人は、マスレベル(大衆レベル。個々の学者・識者の意識は除く)では、有事の(現在を有事に向かう過渡期であると自覚した)際にしか世界的に常識的な憲法論を認識・展開することができないように思う。

 だから、今回の安倍首相の行動に対して改憲派からも護憲派からも出ている反発が、本当に多くの国民による原理的な憲法制定権力への正当な認識に基づくものだとすれば、まずは、今回の安倍政権の行動は憲法制定権力がいさめるべき性質のものであるかどうかが問われ、次に、もしそういう性質のものであるなら、現憲法が為政者をいさめるだけの憲法制定権力が発動して制定されたものかどうかが問われ、さらに、為政者や事実上の元首である天皇が現憲法において定義可能かどうかが問われることになる。

 ところが、このような議論に耐えうるだけの条文、このような問いに対する答えを、現憲法は持たない。

 さらに、国民の憲法制定権力が正当に発動して制定されたかどうかが不明であるまさにその現憲法でさえ、第99条で天皇や首相、国務大臣に対して憲法擁護の義務を負わせている。

第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 憲法制定権力が憲法改正や新憲法制定の限界性(硬性憲法としての性質)を創出しているかどうかは、憲法改正権が憲法制定権力ではなく憲法改正権を規定した憲法自身の束縛を受けることなどから、憲法制定権力は憲法改正を制約しているが、新憲法制定は制約していないと考えられる。

 いずれにせよ、憲法が、「国家が国民に定め与えるもの」ではなく、「国民が国家に定め与えるもの」でもなく、「憲法制定権力が人民をして、特別な制定手続き(憲法制定会議)における人民の議論に基づいて立法権・行政権・司法権などの国家作用を創出せしめ、為政者に定め与えるもの」であるというイメージ自体は、現憲法にも描かれているのであり、また、それは国民が国家や為政者に先立って守るものではなく、まずは天皇や首相や国務大臣が守るものであり、それは「義務」であり、国民に対するよりも先に憲法制定権力が立法的におこなった根本的決定に対して負う義務である。

「憲法に定められた改定手続きを経ずに憲法を改定することができるのは、憲法制定権者のみである」という基本は変わらないはずである。

 結局のところ、現政権は憲法の基本部分たるこの「理念」に抵触しそうになったから、改定ではなく解釈変更の道に進んだと言えると思う。しかしいずれにせよ、解釈変更という以前に、現政権による憲法改定についての見解は、おそらく欧米から見れば前例にない憲法観だから、観念的に存在することで憲法改定の不可能論も憲法改定の無限界論も防いでいる憲法制定権力との整合性を研究するのに格好の材料かもしれない。

 憲法は、決して曖昧すぎる心の動きや道徳、処世訓を書き連ねるような性質のものであってはならないという「理念」は、現憲法と同程度に、大日本帝国憲法においても明らかに意識されていたと思う。

 こうして見ると、どこかの国家の憲法改定・憲法解釈の変更によって創出された性質のものではない外患のために、憲法において道徳を説くために憲法改定・憲法解釈の変更を考える(第9条を守るべきという道徳と、同盟国を守るために解釈を変えるべきという道徳の、両方を含む)ことは、自明であるがゆえに元より憲法にさえ記述されていない憲法制定権力への重大な挑戦であり、この自明的な権力の一端を明文化したものである現憲法第99条への重大な挑戦であると思う。

 ともかく、先にも述べたように、憲法の実定的意味と向き合う時のバランス感覚は、むしろ現憲法と帝国憲法とにこそ、実は相通じるものがあると私は考えている。現政権による憲法の実定的意味に対する理解には、私自身がむしろ「やや保守的な憲法観を持っている」からこそ、疑問を感じる。

 しかし、いくら憲法第9条の解釈の変更や改定を行おうとも、一方で保護運動を行おうとも、ただ我々が疲れ果てて終わるだけであり、憲法制定権力が最初に信じた第1章が、自らいっそう燦然と輝くことになるのだ。そうなると、現在の改憲派も護憲派も、根本的に天皇主義的ではないかということになる。

 現政権の憲法観による平和よりも現天皇・皇后両陛下の稀に見る温かさによる平和のほうを信じる私としては、日本が中国や北朝鮮と戦うどころか、日本国民どうしが改憲派と護憲派に分かれて喧嘩をしている現状は、不安に感じながらも、爽快にも感じている。
posted by 岩崎純一 at 22:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・宗教論