2016年03月26日

乙武洋匡氏、他の先天性四肢欠損症者、コタール症候群女性(胴体・生殖器欠落妄想)の身体感覚・性衝動・生き方の比較・考察

 乙武洋匡氏の不倫騒動とショーンK氏の学歴詐称問題とで巷が忙しいが、今のところ、私の周囲でもネット上でも、女性においては「ショーンK氏は許すけれど、乙武氏は許さない」という意見が多いようである。こういうとき私は、「なぜそういう意見になるのか」と考えるよりも前に、「女性の第一直観は大抵当たっている」と考えるようにしている。むしろ、当たっていそうな恐怖を覚える。そう考えてみれば、色々と考察が深まるというものである。

 ところで、国民の本音が最もよく表れるネット上の書き込みによれば、国民(男女問わず)が一番知りたがっているのは、不倫の善悪よりは、乙武氏の教育者・父親・障害者の人権活動家としての資質の適合性の有無であり、さらにそれ以上に、(個々人で勝手に答えを夢想しながら)「乙武氏はどうやって服を脱いでベッドに上がったのか」とか、「電動車椅子からは当然降りたのだろう」とか、「乙武氏と相手の女性陣は、性行為の際に何をどうしてどうなったのか」ということのようである。

 そこで、以下の図や資料を用いながら、「目に見えないからこそ勘違いしやすい、障害者の身体感覚・性衝動・生き方」について考えてみたい。

ASURA_Kohfukuji.jpg20160326cotard.png

↑ 今回比較する、乙武洋匡氏(先天性四肢欠損症)と妄想性障害女性(胴体・生殖器欠落妄想)の「事実上の」身体感覚の模式図

乙武洋匡氏の医学的現状・・・
 頭部・胴体・生殖器があるが、四肢がない。性衝動があり、それを性倫理を逸脱して押し通すだけの万能的「自己」が確認できる。著作やネット、各メディアでの氏の言動には、自身の外性器の大きさや生殖機能を自慢する表現が散見される。他の先天性四肢欠損症者と同様、当然自力では性行動を行えないため、妻の力は借りるが、他にも5人以上の女性の手足を自らのもののごとく扱える環境で生活している。(氏自身によれば、少なくとも5人の不倫相手がいる。)

今回挙げる数人の妄想性障害女性たち(図と資料の6番に該当)の医学的現状・・・
 欠損している身体部位はないにもかかわらず、「自分には、頭部・四肢はあるが、(性的暴行被害を受けた)胴体・生殖器はなく(消え)、頭部・四肢が宙に浮いている」と訴える。性衝動はあるが、それに対応する性行動を忘却している。自身の性衝動を恨み、性倫理を逸脱して性衝動を押し通す異性に強い抵抗感を覚えて涙を流す虚無的「自己」が確認できる。著しい処女回帰願望や希死念慮を示す。


●自己意識の減失・解体・分裂などを特徴とする精神疾患女性に見られる鋭敏な共感覚について(私の講話などで用いたテキスト)
http://iwasakijunichi.net/koen/koen110619.pdf

●コタール症候群・妄想性人物誤認症候群(私のサイト内の解説ページ)
http://iwasakijunichi.net/seishin/cotard.html


 単純に見れば、乙武氏は今現在、日本の先天性四肢欠損症やテトラ・アメリア症候群の男性の中で、最も高い知名度と豊富な性経験と(女性との)人脈とを持っている人物であると言える。氏自身が暴露したところによれば、女性の四肢が少なくとも「一人4本×女性6人(妻と氏が暴露した不倫相手5人)」の計24本も周囲にある環境で生きてきたのだから、もはや障害者特有の不満・不便を感じるほうが困難な人生だろう。

 我々一般の「五体満足」の定型男性は、乙武氏を、一般男性をも越え、煩悩を押し通して多数の手足を獲得した「五体過剰満足」の阿修羅だと見るのが筋なのかもしれない。そして、非正規で懸命にあくせく働くばかりで結婚できない未婚男性のほうが、もはや手足がなく、本当に救われるべき人生と言うべきなのかもしれない。文字通り、「手も足も出ない」晩婚・未婚化社会の到来だ。

 先天性四肢欠損症で有名な方には、佐野有美さんやニック・ブイヂ氏がいらっしゃるが、ともかく、先天性四肢欠損症者にも老若男女様々いるのであり、全員が同じ性格であるわけがなく、手足がなくて不倫する人は手足があっても不倫するのである。

 Twitterなどのネットを含めたメディアでの乙武氏の言動には、自らの性器の大きさや生殖機能を薄々自慢する表現が散見される。不倫も、その「万能感創造人生」の上にあるのだろう。たとえそれが、先天性四肢欠損症についてのコンプレックスの裏返しであったとしても、氏のような生き方を選んでいない先天性四肢欠損症の男性たちの存在を、氏は知らないか、知っていても見て見ぬふりをしてきたのかもしれない。

 ニック・ブイヂ氏は、日本人女性と結婚し、二児をもうけている。聖書に助けられ、キリスト教伝道師となった。乙武氏にとっては、頭の痛い例だろう。それ以前に、仏典や聖書や宗教心と「障害を乗り越える怒涛の努力や気骨」とがどうして関係しうるのか、などについての思考そのものが存在している痕跡が、乙武氏の著述や言動には見当たらない。乙武氏は、そういうことに全く興味がない人なのだろう。

「本当に怒涛の努力をしている」先天性四肢欠損症の方々の話を聞いていると、女性の場合は、自力での性的欲求の発露・解消の機会を奪われていることよりも恋愛・結婚できない(男性から振り向いてもらえない)ことのほうを悲しんだり恐怖している一方で、男性の場合は、自力での性的欲求の発露・解消の機会を奪われていること自体に怒りを感じたり絶望しているケースが多い。これらは、もし我々「五体満足」の人間が四肢を失った場合に露骨に現れ出るであろう、我々自身の生物としての本音と実態なのである。

 その意味においては、乙武氏はおそらく、日本で最もこのような絶望体験からほど遠い先天性四肢欠損症の男性であり、恋人ばかりか妻がそばにおり、妻ばかりか少なくとも5人以上の愛人女性がそばにいるというから、あの『五体不満足』ブーム以降、日本の他の先天性四肢欠損症の男性の生き方や価値観との相違には、天と地の差が生じていたと思われる。氏はついに、多手・多足の人間となった。その結果が、今の状況なのだろう。

 乙武氏は、我が子のみならず他の児童に教育と称して自身のトイレの処理をさせてきたほか、レストランでも店員が入り口まで降りてきて自身の世話をすべきだとの主張を持っているわけで、その根底には、自身の性衝動(リビドー)と性処理問題の精神的・身体的な不始末があり、それが周囲の人々との摩擦を引き起こしている点で、氏には極めて古いタイプのフロイトの防衛機制の失敗が散見される。それは、著作やTwitterからも見て取れる。小学校の児童に対する道徳教育に使えないのはもちろん、大学や精神医学のレベルにおいても、その初歩的な行動パターンが学術的意義を持つとは到底考えられないと、私ならば感じる。

 無論、この私の見解は、「手足には性欲が宿らない」とか「性欲は脳が支配する」というペンフィールド並みの身体部位の機能分化論を前提している見解である。ただし、これは大まかに見れば正しい。基本的に、四肢の有無によって間脳視床下部などのはたらきや性的欲求の強度が異なるとの海外報告も見たことがない。

 一方で、手足があって外性器だけを切り取った場合には、違うことが起きる。男性の場合は、睾丸を残して陰茎だけを去勢した場合でも、女々しく柔和な性格になるかと思いきや、凶暴な性格になることが確認される。

「男のリビドーの安定は、脳と陰茎と睾丸との適切な関係に宿る。」

 これは、人体実験ができるわけがないので、歴史を証人とするほかないわけだが、中国やイスラム国家の宦官をはじめ、その圧倒的な暴政ぶりを見ても分かる。

 ところで、四肢があって五体満足であるのに四肢がないと感じられる症状や、四肢がないのに四肢があると感じられる「幻肢」などの症状は、共感覚研究などでも知られるヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン氏らによって研究されている。「幻肢」の多くは、元々持っていた四肢が交通事故などで失われた場合に起きる。事実、先天性四肢欠損症である乙武氏の著述や言動からは、氏に「幻肢」がないことが伺われるし、そもそも氏にとっては、身体障害者である自分の人権の向上が関心の全てであって、「幻肢」の苦しみといった、世にいくらでも転がっている内面的テーマそのものへの関心は観察されない。

 ならば、性器があるのに性器がないと感じられたり、自ら性器を切り取りたいと渇望したり、自身の性欲を恨んだりするケースは、性被害を負ったPTSDや解離性障害、不安障害、強迫性障害の女性たちに偏って見られる。

 このうち、最も重症なのが、コタール症候群 (Cotard delusion)、カプグラ症候群 (Capgras delusion)、フレゴリ妄想 (フレゴリの錯覚・Fregoli delusion)、相互変身症候群 (Intermetamorphosis)、自己分身症候群 (Syndrome of subjective doubles)などと名づけられている一連の妄想性の症候群で、日本においては、一括に「気分障害」の「単極性障害」、つまり「うつ病」として診断されることが多い。海外においては、妄想性障害、つまり統合失調症圏の症状であると見なされるケースも多い。コタール症候群以外は、妄想性人物誤認症候群とまとめられることもある。

 これらの妄想性障害については、以前、私がこれらを抱える女性たちと直接話をして、一気に知識が得られた。

 女性たちが訴えている妄想の例は、冒頭に挙げた資料やページの解説の通りである。以下に引用しておく。強迫性障害のように、妄想であるとの自覚がありながらやめられないケースもあれば、妄想かどうかを尋ねてきたり、妄想ではないと確信しているケースもある。

 ある女性は、突然「私の体の真ん中が消えたので助けてほしい」、「私は、手足だけが浮いて動いている」と訴えたが、これも、性被害によって極度の複雑性PTSDが妄想性障害を併発した例である。いわば、頭部を除き、乙武氏や佐野有美さんにない身体部位があって、氏らにある身体部位がない状態を、本人が自覚しているということである。この女性は今、元々腕がないのにあると感じて苦しんでいる「幻肢」の女性と仲良くしている。どうして気が合うのかが、私には分かる。


▼私が交流してきた日本の性被害女性(精神病性障害・妄想性障害を発症)に特徴的なコタール症候群の妄想

「私はすでに死んでいる」
「私はまだ生まれていない」
「私には性器・胸部・口唇部が存在しない」=性的被害に遭った部位を脳が無視
「私の頭や体は、それらの部位を虐待で殴打されたときに消滅した」=虐待被害に遭った部位を脳が無視
「私はこの苦悩のまま永遠に生き続けなければならない(いかなる方法によっても死ぬことができない)」(不死妄想)

▼私が交流してきた日本のの性被害女性(精神病性障害・妄想性障害を発症)に特徴的な妄想性人物誤認症候群の妄想

「本物の私はどこかに別に存在する」
「私の家族は替え玉で、同じ顔をした本物の家族はすでに死んでいる」
「私の部屋にあるぬいぐるみは、昔捨てたぬいぐるみの生まれ変わりで、私を呪うためにやって来た」
「私のかっこいいパートナーは、自分をだます(恋に落とす)ために宇宙軍から送り込まれた男で、同じ顔をした本物のパートナーは別の場所にいる」
「私の性器・胸部・口唇部は常に新品で、性的被害を受けたりパートナーに接触されたりして古びるたびに、性器製造工場などから新品が供給されている」


 一方、乙武氏の場合、「四肢がないこと自体の苦しみ」がほとんど観察されない一方で、「“四肢がないこと自体の苦しみがあるかのような自己を作っている自己”を見抜いている世論への不満の爆発」が自身の性衝動(しかも、満たされない性衝動ではなく、不当に満たされているはずの性衝動)についての処理能力の欠如に根ざしている点で、私個人から見ると、氏の障害者観や男女観には感動を覚えないし、ベルクソンの言う「生の躍動」としての「エラン・ヴィタール」も全く感じない。

 私は『五体不満足』も読んだし、最近の乙武氏の思想や行動もずっと追ってきた。しかし、今述べた「幻肢」体験者やコタール症候群を抱える性被害女性から学んだようなことは、氏からは学べなかった。性被害女性への支援を謳っているNPOの女性幹部たちからも学べなかった。私のように、助けたい「障害者」と助ける気が起きない「障害者」とがはっきりしている人間も少ないのだろう。ただし、それは冷酷な仕打ちではなく、むしろ適切な優しさであると確信している。

「ショーンK氏は許すけれど、乙武氏は許さない」という女性たちの意見は、以上のことを本能的・直観的に踏まえた上での意見であろうというのが、私の見解である。

 一つだけ分かることは、乙武氏は今回述べたような女性を好まないか、性欲の対象としてしか見ないかもしれないし(乙武氏と違って、ほぼ皆全身のパーツがそろっているのだし)、逆に、これらの女性たちは乙武氏のような男性に強い抵抗感を示し、道を誤った阿修羅の姿を見るだろうということである。


【画像出典】
●阿修羅
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BF%AE%E7%BE%85

2016年03月19日

違法薬物&暴力団&新宗教

kiken.jpg 日本の危険ドラッグ・指定薬物使用者の裏サイトで「共感覚」の語がはっきりと確認できるようになったのが、2011年。大学・研究機関における共感覚者・共感覚研究者の世界でついに危険ドラッグ・指定薬物使用者に出くわしたのが、2013年。

 私は、刑法犯罪にしても薬物犯罪にしても相当な厳罰主義者であるし、どうやら「人の目を見れば分かる」という直観は人一倍あるらしい。目の利く警察は、車の走りを見ただけでドライバーが薬をやっているかどうかが分かるらしいが、ある人の共感覚が、生得的な身体と感性だけをもって生じた共感覚か、体内で生成されない何物かを摂取して生じた共感覚かくらいは、何となく目と挙動で分かる。

 と言いつつ、今回のショーンK氏の学歴詐称は全く分からなかった私なのであった。佐村河内守のゴーストライター問題の時も、小保方晴子のSTAP論文の時も、やや胡散臭いとは思いつつも、結局は分からなかった。共通しているのは、これらの人々には現実に会ったことがないという点。つまり、体臭とまではいかなくとも、本人の身体から実際に漂ってくる化学物質の微妙な違いなども含めて、私は人の虚構を嗅ぎ取っているということなのだろう。

 それはともかく、覚醒剤使用者と麻薬使用者は、まだ共感覚界では見たことはなく、危険ドラッグ使用者のみだが、こういうものは、時間の問題でバレるか、あるいは、すでに使用者がいながら周囲の人々の洞察力の欠如によりバレていないだけだ。本当にまじめに共感覚を研究したいなら、教員、研究者、学生の浄化が必要だ。共感覚を得たいと思って違法薬物に手を出している人が周りに一人もいないという考えの持ち主がいるとしたら、それは時代と社会を見ていない浅はかな教養から出るものだ。

 時々、「大麻くらいなら、タバコよりも安全だから、やってもいいと思う」という共感覚者もいるし、大麻合法化の支持者も大学レベルの共感覚研究者に結構いるのだが、「生理学的安全性」と「倫理道徳的善」と「合法性」と「日本の思想風土への適合性」とは全て異なっていることに注意すべきである。

 大麻や売春を、欧米、特にアメリカの一部の州やオランダのように、日本でも合法化したとして、日本人が突然欧米人気質になってそれらを運用できるわけがない。

 それに、カント哲学の普遍的律法に裏付けられるべき「善のための善」でさえ、違法薬物や殺人や売春を肯定も否定もできない。法的にアウトであるものは徹底的に法的にアウトであるべきであって、医学的安全性や崇高な倫理的善とは異質であるからこそ、違法薬物に手を出した人物については、例え目上の人物であろうと問答無用で公安・警察に突き出すべきだと私は考えている。

 このあたりは、今回の清原和博被告についても同じことを思った。清原被告のような男は法的・社会的制裁を受け、スポーツ界から永久に追放されるべきだという主義主張と、清原被告(清原少年)の極度に優しく脆い性格や生い立ち・悪運への理解とは、私個人としては全く矛盾していない。

 清原被告の出身校のPL学園は、PL(パーフェクト リバティー)教団が母体だが、清原被告は、パーフェクトなリバティー(「完全なる自由」、「真の自由」)を「覚醒剤の自由な使用」という直球ホームランで実践した点において、「生の哲学」畑の私からすれば、清原被告自身の実存から生じた虚無についての被告のこれまでの超克方法に関心がある。

 無論、虚無の超克方法の能動性・創造性が清原被告には欠如しているとは思うが、カント的律法やベルクソン的「生の飛躍」は、桑田よりもむしろ清原にあるというのが私の考え方で、清原の理性はカント的だが、桑田の理性はあくまでも本能に対するそれだ。現代日本社会において良い評判と高い社会的地位とを獲得できる処世術を持っているのは、後者のほうなのだろう。

 それにしても、怪しい薬を使って自身が仏陀やキリストの再臨であると謳う新宗教団体の教祖たちと違って、清原被告個人の手法は、パーフェクトなリバティーであることだけは間違いない。

 ともかく私は、共感覚それ自体の研究ではなく、共感覚を巡る日本人の動きを観察するべく、日本共感覚関連動向調査会、そして日本共感覚研究会とサークルを運営してきた。ただし、サークルの実状は、調査会の時のままで、ほぼ私のサイトから派生した他の傘下サークルと変わらず、「やはり岩崎さんは、独自路線を貫いて、岩崎サークル群を形成するべき」というご意見の方が多かったので、「日本」という名も大げさかなとは思っている。未だに日本共感覚協会と日本共感覚研究会を間違える人がいるのも、かなり困っている。

 ただし、私は無論、公安・警察でも何でもないから、「岩崎さんみたいなイケてる共感覚を得るには、どうすればいいっすか?」という怪しい問い合わせに、あくまでも私人として目を光らせるばかりだ。とりあえず、私の共感覚はイケてるらしい。しかし、この分野については、清原和博被告やASKAがその道のプロなので、そちらに尋ねてほしいところだ。

 そもそも、覚醒剤と麻薬と危険ドラッグと指定薬物の定義をもっと広げつつ厳格にしなければ、いたちごっこになるだけだ。

 最近は、違法薬物の親友である暴力団の動きも慌しい。とりわけ、山口組と神戸山口組の抗争が目立ってきた。

 私の地元岡山県内の山口組系二次・三次団体は、ほとんどが神戸側に移ったようである。と言っても、以前から岡山の山口組陣(池田組、熊本組など)は反六代目の色が濃かったが、つまりは、山口組の「名古屋化」を嫌っているようである。

「あらゆる違法薬物の現状や暴力団の情勢や新宗教の動向を、他の社会情勢と同様、知識として徹底的に得て、かつ自らはそれらのいずれにも手を出さなければ属しもしない生き方」

 私としては、これが自分の生き方だし、これを最期まで貫徹できた男を「任侠道」を全うした男と言うのだと考えているが、山口組も神戸山口組も、清原和博被告もそうは考えておらず、小学校の通学路のそばで発砲したり車で家に突っ込んだり、覚醒剤に手を出したりしている。世の中には色々な思想・信条や任侠・義侠があるから、致し方がないのである。

 しかし、どこかに真の任侠道・義侠道があるという気がする。


【画像出典】

脱法ドラッグ(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B1%E6%B3%95%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B0
posted by 岩崎純一 at 21:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・宗教論

2015年08月08日

タカ(鷹)やハト(鳩)のような本物の「右翼」兼「左翼」人間(動物)でありたい

 あなたは右翼ですか、それとも左翼ですか? タカ派ですか、それともハト派ですか? ところで、以下の写真は、右翼と左翼のバランスが非常によいタカとハトの写真です。

 そういう冗談はさておいて・・・本題に入ります。

(この一見ふざけたようで真剣な冗談は、色んなところで結構使っているのですが、中学・高校・大学生ならまだしも、反政府デモに参加しているような大学院生やいい大人にも、この我ながらナイスなジョークが通じないことが増えているので、空回りして独り笑いしている今日この頃の私です。)

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 今回書くのは、私は普段は自分を「中道・中立」だと思っているし、どんな人間関係でも職場でもブログ執筆時でもそのように言動をしているつもりなのだが、世相を眺めれば眺めるほど、実は私は、「右派」と「左派」の性質を寸分の狂いもなく同じ質量ずつ持つ人間という意味での「中道・中立」、つまり、「右派兼左派としての中道(いわば、プラス値とマイナス値がピタリと一致した、いわゆるプラスマイナスゼロ)」を自負してよい人間なのではないか、と思え、そんなニーチェの『ツァラトゥストラ』並みのナルシシスティックな危険思想かつ健全思想が我ながら好きである、という内容です。

 ともかく、世の中には「右翼」・「右派」や「左翼」・「左派」といった言葉があります。それぞれ、「保守」と「革新」を意味しますが、これは一説には、フランス革命当時の議会において、議長から見た保守派議員の着席位置が右、急進革命派議員の着席位置が左だったことによります。

 しかし、日本では、「右翼」・「右派」・「保守」、「左翼」・「左派」・「革新」のそれぞれの単語は、「過激さの度合い」によって使い分けられ、過激な保守主義者・天皇主義者・軍国主義者・街宣右翼集団などが「右翼」と呼ばれ(やや弱いニュアンスが「右派」)、過激な革新主義者・共産主義者・天皇廃止論者・女尊男卑論者・フェミニズム論者・反原発論者などが「左翼」(やや弱いニュアンスが「左派」)と呼ばれ、「保守」や「革新」は、最も過激性・危険性を排除した場面で使われる傾向にあるかと思います。それぞれ、最も過激な勢力は「極右」・「極左」と呼ばれています。

 また、「タカ派」と「ハト派」については、個人や政党がこれらで呼ばれる場合には、それぞれ「右派」と「左派」を指しますが、同一政党内(例えば自民党内)の各議員や各派閥が派閥抗争の構図などにおいてこれらで呼ばれる場合には、それぞれ外交政策や憲法改正論などにおける「強硬派」と「穏健派」を指すことが多くなっています。

 従って、「右派政党のハト派」も「左派政党のタカ派」も存在します。ただし、自民党一党の派閥構造を見ただけでも、「右派」と「強硬派」、「左派」と「穏健派」とが比較的対応しているということは言えます。

 私は、「極左フェミニスト」や「極左反原発運動家」は「極右」並みの好戦主義者・暴力主義者であって、反戦・反原発主義者であるとは思っていません。電力会社の旧態依然とした体制を打倒し、原発を無能にし、原発関連労働への従事者の新たな雇用を代替エネルギー業界に見出す最良の方法は、電気をバカ食いするデモに参加することではなく、東京電力から頂いている自宅のいらぬ電気をこまめに消しつつ、パソコンの電力は存分に使って、こうして一生涯飽きもせず文筆を継続することであり、それが真の実効的なデモであると信じています。

 ということは、私はデモ参加者どころではない「極左」人間であるということになるはずなのです。事実、最大の暴力は言葉・文筆であって(言葉・文筆は人を生かしも殺しもする)、私はそれをやっているからです。

 さて一方で、三島由紀夫について「右翼」・「極右」だと言う「左翼」・「極左」がいますが、これもおかしな話なのです。

 ここで、三島由紀夫の思想を改めて確認しましょう。せっかくなので、三島が「言葉で」遺した主張の中で、私が最も爽快感を覚えるフレーズを三つ挙げます。

「私にとっては、自民党も共産党も同じもの」
「私は今でも極端な反戦主義者」
「昭和天皇みたいなオッサンが天皇になるくらいなら、美輪明宏のような美少年が天皇になったほうがマシだった」

 私は、最初の二つについては賛同し、最後については三島とは意見が合いません。美輪明宏を美少年とは思いませんし、美輪明宏ではなく昭和天皇が昭和の天皇で本当によかったと思っています。

 昭和天皇は玉音放送で「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」と仰せになりましたが、美輪明宏は「我慢できないことは我慢しないことにしたのよ、オホホ」と「オーラの泉」など色々なスピリチュアルの場でおっしゃっていましたね。私の目には、次元が違って見えますが、三島由紀夫にはそこが見えていません。むろん、三島は、スピリチュアル業界と結びついてからの美輪明宏を見ることはありませんでしたけれど。

 それにしても、これらのどこをどう見て、「左翼」は三島を「右翼」と言うのでしょうか。不思議です。どれもこれも、三島がラジオや講演などあちこちで言っていた主張です。三島は、昭和天皇の肉体的脆弱性や口調をバカにしていましたが、全く同じような論理で太宰治のこともバカにしていました。

 前述の「右翼」・「左翼」の定義で言えば、三島よりも、天皇をバカにしたことがない私のほうが真の「右翼」の称号を頂きたいくらいですね。

 ところが世の中では、憲法9条に関しては、9条革新論者が右派、9条保守主義者が左派などと呼ばれています。さすがは、「まあまあ、言葉なんてどうでもよく、なあなあ、あいまいな感じで行きましょう」という日本人気質がよく表れた用語の使用法だと、いつも感心しています。

 しかし、「9条を変えない態度で何でもやってやるぜ、というモノの考え方」が「左翼」であるという世間の考えに合わせるのならば、例えば安倍首相は、改憲論から解釈変更に切り替えたのですから、現在は究極の護憲派であり、ある意味「極左」ですね。

 しかも、言語学・国語学をやっている人なら分かると思いますが、安倍首相は「言葉によって意味されるもの(シニフィエ)は、記号表現たる言葉(シニフィアン)との関係において、それが憲法の条項であれ、恣意的である」と考えていることになりますから、過去の帝国憲法時代の日本の国語学者や憲法学者でさえ持ったことがない国語観で国家運営をやろうとしている点において、非日本的な人間どころか、国語破壊者であると私は思います。

 というわけで私は、「国語」死守という意味において、「安倍首相の非日本的日本語観から日本と日本語を守る運動」を一人で自宅でコソコソとやろうと思っています。

 それから、「街宣右翼」と呼ばれる勢力がありますね。これも、天皇主義・国体護持を掲げながら、衆参両院の議長が奏上し、内閣総理大臣と法務大臣が承認し、天皇が公布し、警察庁が運用する道路交通法にひたすら違反して蛇行・絶叫していますから、実際は不敬の極みであり、反天皇・反体制・極左勢力であると思います。これのどこが「右翼」なのでしょうね。

 最近では、自民党の武藤貴也衆院議員が学生集団SEALDsの行動についてTwitterでツイートした件が、波紋を広げていますね。「彼ら彼女らの主張は“だって戦争に行きたくないじゃん”という自分中心、極端な利己的考えに基づく」とツイートしたようです。

 しかし、自民党・自民党支持者とSEALDsは、これまでにもお互いが全く同じような口調で同じような内容でやり合っているので、何を今さらと思いますし、どっちもどっちだと感じます。「SEALDsは左翼だ!」といった、武藤議員どころではない口調による名指し批判も、すでにTwitterに限らずネット上でありましたし、SEALDsもSEALDsで、自民党に向かって「ボケ!」、「カス!」などと攻撃しています。

 私は、今の自民党も民主党も共産党もSEALDsも親原発も反原発もフェミニズムも好きではありません。嫌いです。それは正直なところ、感情的なものから来る意見でもあるし、自分なりの論理的な帰結でもあります。ただし、日本が、誰かや何かについて好きか嫌いかをはっきり言える言論の自由が認められた国であることだけは誇りです。

 すでに日本が受験戦争、就活戦争、婚活戦争、いじめ戦争などの戦争・内戦をやっていることに気づかないのもどうかと思いますが(私はこれらについて、これらが日本人の戦争のやり方の「表れ」・「表象」だというだけであって、レトリックではなく純粋に社会学的・宗教学的な意味で、これらは諸外国の戦争やイスラム過激派のテロに共時態的に対応する(即、置換できる関係としての)、日本人のリビドーにおける戦争・内戦である、と考える)、やはり自民党の敵は、外国ではなくてSEALDsなどのデモ団体や自国民なのだなと改めて思うところです。

 こうして、日本の色々な勢力を逐一分析していますと、どんどん疲れるばかりと言いますか、どれもこれも同じ顔をした人間集団が、お互いに呼び方が重ならないように自分たちを右翼とか左翼とか保守とかリベラルとか中道左派と言っているだけの社会現象であると私は感じますし、ここまで多種多様な哲学をやったのに、これ以上の何の高尚な哲学書を読めば各勢力の思想の違いが分かるのだと思うと、疑問です。つまりは、最初から何も高尚な思想はないのだと思います。

 私としては、そろそろ挙国一致・大政翼賛運動を開始して、「自民民主公明維新次世代社民共産オリンピック・パラリンピックに向けて頑張る党」でも立ち上げたらどうかと思っていますが、日本が日本人的に日本だけで、同じ低俗性を異なる高潔性のように名乗って集団で内戦をしている状況なのですから(しかも、戦場はデモ会場だったり、Twitterだったり、婚活会場だったり、そこら辺りのいじめ現場の教室だったり河原だったりするわけで)、そんな中で、陸海空の各自衛隊までもが流行に乗って、露出度の高いいわゆる萌え萌え少女自衛官キャラクターがきゃあきゃあ言っているポスターで自衛官を募集したり国民の士気を上げようとしたところで、「人として両翼のバランスがよく取れた、本物の右翼兼左翼」からすれば、ケンカを売っているのか、ナメているのかと思うはずなのですし、私は、まじめにかつ本気で、感情的かつ論理的に腹が立つのです。

 私は、世相や物事に対するこういう見方・とらえ方をする人間・日本人を「健康・健全な人間・日本人」と言うのだと思っています。

 私も、軍隊のない世界が究極の理想ですが、軍隊自体がそんな作り方をするようなチャチなものであってはいけないと考えます。自衛隊を正規の軍隊にするか否かという以前に、今の日本国政府および自衛隊の精神が真の軍隊を作り上げる気高さを持ち得ていないところに、絶望を覚えます。

 私が今でも信用しているのは、大学時代に研究していたニーチェ哲学の「能動的ニヒリズム」・「永劫回帰」や、井筒俊彦の「言語アラヤ識」や、般若心経や法華経に描かれる宇宙観などだけですし、それらから見れば、自民党も民主党も程度が低いとしか言いようがなく、これらを含めた前述の全ての集団よりも、北一輝・石原莞爾・山本五十六などのほうが数段上級の人格者であり平和主義者だったと私は本気で信じています。

 しかし、最近思うのですが、こういうことはそれこそ一種の霊感・直観で分かるべきものであって、そんなことを感じたことも考えたこともないデモ参加者や政治家にはさっぱり意味が分からないのではないかと感じるわけです。

 つまり、前述の「右翼」集団も「左翼」集団も同じくらい「日本人気質という温泉」に浸かって行動しているにもかかわらず、「そんな俺たち私たち」に気づかないということが、北一輝・石原莞爾・山本五十六などの持っていた世界観・宇宙観から見れば何と低俗なことかということが自明である、ということを私は思うのであり、その意味で後者のほうが「数段上級の人格者であり平和主義者」であると書いたのです。

 こうして考えてくると、どうも私は「それなりに本物の右翼兼左翼としての中道(プラス値とマイナス値がピタリと一致した、いわゆるプラスマイナスゼロ)」の称号を得ることはできそうだと、我ながら思いますし、三島由紀夫はなぜか天皇や太宰治の肉体的・知能的不全を平気でバカにしている点で私よりも不十分な右翼、ニーチェは私と全く同じ心境のドイツ版の人間、ハイデガーは絶対者への認識論への詰めが甘かった点で「守るべきもの」を途中で見失った左翼、北一輝・石原莞爾・山本五十六などは「およそ男が生涯に持ちうる最大限の内面的な優しさから、実務だけを誤ってしまった」東洋的実存としての中道右派兼中道左派、などと、私ならとらえるわけです。

 片や、実はあまり深い思想も思念も知識もないにもかかわらず、見た目上でのカッコよさ、「改憲論や解釈変更や護憲論や親原発論や反原発論やデモなんていうカッコいいものに関係・参加している俺たち私たちを世の人々や国民や友人や恋人や親が見たときのイケてる感じ」を出そうとするときに、お互いに団体の立ち位置や名称が重ならないようにするために、同じ低俗性を異なる高潔性であるかのように、わざとらしく右翼とか左翼とか保守とかリベラルとか中道左派などと呼び分けているだけのものが、今の自民党、民主党、維新の党、社民党、共産党、SEALDs、親原発団体、反原発団体、フェミニズム団体、街宣右翼、宗教団体などだと感じるわけです。

 完璧にバランスの取れた「右翼」と「左翼」という翼を一対ずつ持つ、タカやハト。私は、まじめにタカやハトのような人間(動物)を目指したいと思っています。

 人間は(日本人は)、自分の中に「右翼性」が30あるなら「左翼性」も30なければならず、「右翼性」が50あるなら「左翼性」も50なければならない、というのが私の人間論(日本人論)だなと、最近改めて思います。左右の両翼のバランスが取れていないと、鳥はうまく飛べないのです。

 しかも、そのような「右翼性」と「左翼性」の共存関係は、ヘーゲルの言うようなテーゼとアンチテーゼのアウフヘーベン(止揚)、すなわち矛盾の打破とは、やはり異なるものであり、むしろ、「色即是空」・「有即無」における「色と空」・「有と無」の関係でなければならない、つまり「即然性」がなければならない、と私は思います。

 矛盾というものを感じているうちは、低俗の域にとどまっているのであって、タカやハトの存在論的レベルに達していないと思うのです。


【画像出典】

●タカ亜目(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%AB%E4%BA%9C%E7%9B%AE

●ハト目(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%88%E7%9B%AE
posted by 岩崎純一 at 17:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・宗教論