2017年07月30日

『巫女神道探訪記 ― 日本的アニミズム感覚の源流を訪ねて ―』(8) 巫女が詠む和歌の呪力・魔力について

巫女が詠む和歌の呪力・魔力について
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【リンク元】
岩崎純一のウェブサイト 特設サイト 「神道・仏教研究」 (http://iwasakijunichi.net/shinto-bukkyo/
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巫女神道
つくりつくり姫 --- 2012年11月2日

 岩崎様と同じく和歌を伝承している巫女として申しますと、和歌というのも本来は聞き手・受け取り手(恋の和歌の受け取り手や、歌人から呪われる側など)を良くも悪くも金縛りや催眠術にかけることができるものでした。これは、ある一定の音の数や並び方を持つ音波が実際に脳波や身体に影響を与えることで生じるもので、例えば、テレビの光の点滅を見ててんかん型脳波が発生するのと同じ原理だと私は考えています。
『万葉集』より以前の歌垣の世界、妻問婚・女系時代の頃は、男が詠んで自分が妻にしたい女性を暗示で縛ったり、反対に女性・巫女が男に詠んで浴びせて心身の失立状態にしてから追い返すようなことのできるものでした。

 誤解を恐れずに言えば、合気道の「遠当て」と呼ばれるものに近く、原点からずれてしまいスピリチュアリズム化してしまった流派もあるのですが、私たちの場合は、巫女舞の旋回パターンで和歌の言葉と同じ作用を生み出すことができます。
 歌垣が一般的だった頃は、短歌以外にも長歌や祝詞の原型が見られますので、鬼道・呪術そのものという扱いで色々な型があったのかもしれないと思います。

 岩崎様の和歌によっても時々、私たちの巫女舞や和歌が生み出す催眠効果と同じような催眠が私たちのほうにかかることがありますが、私の体感では、岩崎様の共感覚的な催眠術能力は、万葉的な呪力ともやや違って、魔術的リアリズムのような感じがあり、やはり岩崎様の根底にある、現代の短歌結社文化や神道・仏教への反発心が影響している気がしています。岩崎様の「対女性共感覚」も、もしかしたらこれに近いと思います。


岩崎純一 --- 2012年11月5日

 私の和歌の真髄をよく突いていらっしゃる気がします。
 単なる私の修辞技巧上の和歌観、趣味嗜好だけを取って見るならば、私は二十代半ばからは、やや京都趣味に寄りすぎているところもありまして、和歌史上において、天皇におべっかを使わずに存分に共感覚を発揮して詠まれた歌集は、『新古今集』とその前後だと考えており、最も好きな歌人は藤原定家、藤原家隆、九条良経あたりではあります。
 一方で、この頃の勅撰集は、芸術至上主義的、象徴主義的な誇張表現もありますし、和歌の真髄を標榜した名言、「やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける (中略) 力をも入れずして天地を動かし目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ男女のなかをもやはらげ猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり」は『古今集』の仮名序のものですし、和歌は万葉・古今集のずっと以前、もっぱら呪術や金縛り術として使われた時代から、共感覚文学の姿を呈していたのは確かでしょう。

 もっとも、和歌は吉備地方の隆盛の間隙の時期に最もきらびやかに京都で栄えますから、吉備生まれの身としましては、皮肉ではありますが、とりわけ巫女の詠む神懸りとしての和歌の共感覚性については、勅撰集とは別に探究してきたところです。巫女神道における歌道は、勅撰集の陰に隠れていますけれども。

 定家の「さむしろや待つ夜の秋の風更けて月を片敷く宇治の橋姫」などは、巫女的美意識(または、その観察者)の絶唱歌でしょうが、「風が更ける」、「月を片敷く」という直覚体験なしにこういう歌を詠むと、普通はこういった露骨な共感覚表現に耐えられないのではないかとも思います。
 定家はその感覚が分かっていた人ですが、それが分からないまま和歌分析をすると、新古今集はきらびやかな修辞技巧ばかりで、万葉の世界こそ素朴な自然主義だ、とこうなるわけです。今、アララギ系の歌壇を見てみますと、プロからアマチュアまで、ほとんどがそういう短歌観です。

 私から見ると、それはむしろ逆で、貴族政治の息がかかったり貴族らの天皇へのおべっかが入ることで、万葉歌に込められていた神託や呪いの言葉が抜け始めたのが『古今集』だと思います。枕詞というのも、本当は人心や動物の気や風や雷を起こしたり制したりする力を持つものですが、皆様のように神託に襲われたり、私のように万葉集などの和歌に呪われたり取り憑かれたりしたことがないと、こればかりは分からないと思うのです。


つくりつくり姫 --- 2012年11月9日

 巫女の和歌は、斎王歌壇以来、伊勢をとっくに離れており、今では吉備・播磨などの私たちのような社家に秘伝として継承されていますし、元から勅撰集のように共感覚的な修辞技巧などの文学能力を天皇や家臣にアピールする文化ではないですから、陰に隠れていますが、それぞれの同時代の勅撰歌よりは、万葉的な魔性を帯びているのは確かです。修辞技巧ではなくて、託宣でも詠みますから、神々の言葉が私の口をついて出たり私の手で書かせる自覚はあります。

 確かに、「さむしろや待つ夜の秋の風更けて月を片敷く宇治の橋姫」のような歌では、共感覚表現が美しいと同時に、ややわざとらしさも目立つので、金縛りや神託はかかりにくい気はしますね。ただ、実践してみればわかりますが、我が家に伝わる韻律と巫女舞で唱えば、私のそばにいていただければ、ある程度の確率でかかると思います。


神代の巫女 --- 2012年11月12日

 伊勢の斎宮歌壇と賀茂の斎院歌壇では、神降ろししながら和歌を瞬時に詠む、歌垣時代の託宣が長らく行われていたと思いますし、その後も実は託宣による歌詠みが保たれていて、肝心の天皇への天照大神の託宣儀式のほうが早くから形骸化していたのですが、賀茂真淵による国学以降は、賀茂社家自ら中世歌道から国学へ乗り換えて、巫女の和歌も神降ろしも邪教扱いとなったのです。これは、岩崎様がお作りの歌道流派リストにも入っていますけれど。
 巫女禁断令のときも、巫女の歌詠みは軽視されました。


吉備の斎の巫女 --- 2012年11月13日

 神懸りの儀式による歌詠みは、全国的に見ても吉備地方にはよく残っているようです。
 朝鮮半島では、口寄せ系や、郷歌(ヒャンガ)のなごりのような言葉のフレーズを託宣するシャーマンである巫堂(ムーダン)がかなりいると言われていますが、実態はよく分りません。伝統をしっかり守っているシャーマンも多くいると思いますが、一方で、神託を詐称する卜占業なども多いと思われます。

『巫女神道探訪記 ― 日本的アニミズム感覚の源流を訪ねて ―』(7) 神懸りと物理学上の電磁波動の関係について

神懸りと物理学上の電磁波動の関係について
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【リンク元】
岩崎純一のウェブサイト 特設サイト 「神道・仏教研究」 (http://iwasakijunichi.net/shinto-bukkyo/
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巫女神道
岩崎純一 --- 2012年10月17日

 私の知る斎の巫女の皆様は、かなりの割合で最新の物理学や数学に詳しく、非常に面白い傾向だと思っています。以前関わった数名の内掌典の皆様や尼門跡の皆様もそうでした。先ほどの耀姫様の量子脳理論のご研究もそのようです。

 かくいう私も、最新の素粒子物理学、地球電磁気学、超数学などを追っていますが、神典・仏典でも読んだかと思うような禅問答的な言説を唱える西洋の物理学者や数学者も出てきて、それは相当面白い光景だと思っています。
 直観論理にしても、多値論理・ファジィ論理にしても、けっこう道教や陰陽道、陽明学に手を出している学者はいます。しかし、その視点がアニミズムの境、少なくとも汎神論的な世界観に入っているかというと、それは怪しいと考えていますが。


吉備の斎の巫女 --- 2012年10月19日

 今の量子脳理論などは、巫女の神懸り体験と相当整合性がありますから、自然な流れだと思います。
 岩崎様が、自己紹介のところでお書きになった超高速計算や、ブログでお書きになっていた自閉症者の先見性と同じようなことです。
 巫女の神懸り体験でも、全記憶の超高速検索をやっていたり、「素粒子(光子・電子などの素粒子)を観る、聞く、匂う」というような知覚世界に行きますから、脳のミクロの電磁気的な情報処理過程への関心が生じるのは必然だと思います。

 私たち斎の巫女の神懸り体験は、社家に伝承されたり神社に祀られたりしている神々や過去の賢者の智恵を借りる自己催眠、知覚の鋭敏化であり、どこかにある霊界・天上界の神々を自らの体に持ってくる行為ではありませんから、整合性があるのは確実なのです。

 岩崎様のお母様が、数日前からご近所の方々や動物の死を言い当てたり、地震を察知したりなさるのも、なんらかの電磁波や化学物質の微妙な変化をとらえていらっしゃるものと思います。
 岩崎様の、地震・台風や女性の身体現象を察知できる共感覚もそれでしょうし、岩崎様がほとんど私たち巫女の神懸りや身体現象に精神感化されたためしがないのも、岩崎様の脳や身体が私たちとほぼ同じ電磁気的な体質(男覡の体質)をお持ちで、私たちに対して跳ね返す能力があるからです。
 このような男性は、神社にお参りしたり巫女に神託を授かりに行くのではなく、ご自身がそれを人に(氏子の方々に)授けることができるタイプです。簡単に申しますと、ご自身は呪いや祟りに引っかからず、それらを人にかけると本当にかかってしまうタイプ、人を本当に呪ってそれに対応する禍(まが)を引き起こすことさえできるタイプということです。私たちの家では、修験道に励む男衆の中に、そういう男性がいらっしゃいます。


岩崎純一 --- 2012年10月22日

 私自身がそのような体質の人間であることは、薄々分かっている、というよりも、生まれてこの方、ずっと気づいており、強く意識して生きてきました。

「知覚の鋭敏化」について、私の場合は、そのまま「共感覚」と呼んでみたり、「全知覚・総合知覚の発露」と呼んでみたりするわけですが、斎の巫女の皆様の脳の電磁気的状態、量子的状態は、人間以外の動物のメスのそれらに近いのではないかと考えています。
 私の能力も、自分ではオスザルの能力、チンパンジーのオスの能力だと述べているのですが、斎の巫女の皆様の神懸り体験にはかないません。その点だけは、私とて深い畏怖のようなものを持っています。

 超高速や「素粒子を観る、聞く、匂う」という言葉からは、(超)光速という概念が思い浮かぶわけで、よく「光速度は秒速30万km」と言われますが、あれは「“質量ゼロの速度”の人間界(あるいは、人間の顕在意識)における名称を秒速30万kmと言う」と言ったほうが適切かと思います。ほとんどの物理学者は前者の言い回しですけれども。
 例えば、これは天台宗でよく言われますが、「止観」という言葉があります。これは、「止」と「観」という瞑想の二側面を言った言葉で、いずれにしても、単なる「停止」や「観察」の意味ではなく、「自分の思考・観察・直観を一度は止めてみることだ」ということを言っているだけでなく、「止観によって自分の時間も止まる」と言っている仏僧がいます。
 時間が止まるということは、光速自体になることですから、質量がゼロ、つまり、それと等価のエネルギーがゼロ(思考に使用しているエネルギーがない、つまり、思考してしない)ということになるわけで、そこで「無心・無思考(瞑想)は全思考・超高速思考に同一である」との究極の悟りが生じることになるわけですが、観測者(自分の脳を観測する仏僧自身や、仏僧を観測する科学者)によって観測される仏僧の神経伝達物質やニューロン発火それ自体は、それらの構造体自体の質量や抵抗の存在によって光速になり得ません。いかなる思い出の想起や、アイデア、発想・構想、ひらめきも、相対性理論と量子力学の適用を当然受けますから、電磁波動それ自体(無限大の高速度、無限大の「走馬灯))にはなり得ません。

 ここで、それら仏僧たちの言うこと(「自分の時間が止まって見える」など)を信じられるかどうかという話ですが、仏僧の脳を西洋的・一神教的まなざしで観測しなければ、そして、人間の思惟・思考は神経伝達物質や脳電位の順列組み合わせのみによっては生じておらず、多くの神仏と人間との狭間にある「合気(場)」それ自体が生じさせていると考えれば、信じられるわけです。電磁場というものは、本当はそのような「場」であると考えます。


神代の巫女 --- 2012年10月23日

 面白い解釈だと思います。神と巫女の関係も、「神が私に入る」関係であると同時に、「私が神に入る」関係でなければなりません。巫女舞でも、どちらかがどちらかの上に立って「観測する者」と「観測される者」に分裂すると、それは神託の失敗です。最も心地よい神懸り体験は、ミクロ世界では電磁波動の最も良い共鳴としてとらえられるのでしょう。

 ただ、スマホやコピー機などの電子機器類に、巫女舞に入る直前か巫女舞が終わった直後の私が近づくと壊れることが多いのは、いただけませんが。


岩崎純一 --- 2012年10月25日

 神代の巫女様がおっしゃっている、「観測する者」と「観測される者」の分裂、神託の失敗というものは、私の専門である哲学(というより、私の哲学史観)から申しますと、ユダヤ教の発祥そのものだと考えます。もちろん、ユダヤ人の脳によっては、それは「一神教的神託の成功」と認識されています。
 よく、日本神道とユダヤ教との同一視や近縁性の主張をする、つまりは「日ユ同祖論」を唱える日本人がいますが、日本神道のアニミズムに近いのは、ユダヤ教発祥以前のオリエントの多神教文化であって、私から見ると考えられない宗教の見識です。
 相対性理論は言うまでもなく、ニュートン力学・古典物理学を超克する多くの近現代の新物理理論は、ユダヤ系物理学者(ユダヤ教徒)が発見しておりますが、それとて彼ら自身には、一神教的世界観の超克と汎神論的世界観への回帰という意識はないらしく、あくまでも一神教信仰の賜物であると述べる物理学者が多いです。

 言われて思い出しましたが、私も電子機器類に近づくと、よく停止したり挙動がおかしくなります。ただし、私はパソコン・ITマニアでもありますので、直すのも早いです。それに最近は、私の思考や身体は、パソコンやスマホの挙動にはほとんど影響しなくなりましたが、テレビやエアコンのリモコンの挙動のほうにしばしば影響しています。


つくりつくり姫 --- 2012年10月25日

 巫女舞や神託をしているときの私たちの体も、私たちの社家の神剣・神鏡なども、計ってみると異様な電磁気を帯びています。体がリモコンになれるという言い方でもよいかと思っています。


吉備の斎の巫女 --- 2012年10月26日

「“質量ゼロの速度”の人間界(あるいは、人間の顕在意識)における名称を秒速30万kmと言う」というのは、一見物理学者に対する嫌がらせのようで、かなり正しい表現だと思います。このあたりの感覚なら、うちの巫女たちは皆共有している気がします。知識として持っている巫女もいます。
 ニュートリノも、質量はあるものの、強い相互作用と電磁相互作用を生じないのでわかりませんが、私たち斎の巫女の体も、いわば「天然のスーパーカミオカンデ」、「波動や粒子を受け止める器」とも考えられます。

 話はやや変わりますが、以前、岩崎様が二冊目のご著書をめぐるご縁で三砂ちづる先生にお会いになったり先生のご著書をお読みになった際、納得できる点と違和感を覚える点の両方についてお書きになっていましたが、岩崎様のお考えと私の考えは近いと改めて感じました。私は例えば、高岡英夫氏の身体論についても、同じ違和感を覚えます。
 これは、以前岩崎様とのお話で出た、黒住教や金光教のニューエイジ化・ヒーリング宗教化への違和感とほとんど同じものだと思います。このあたりにつきましても、またお話させていただければと思います。


岩崎純一 --- 2012年10月29日

「因果応報」という言葉も、「人に悪いことをすれば、そのうち自分に跳ね返ってきて悪いことが起きる」という解釈が主流ですが、この解釈にはかなりニュートン力学的な浅薄さが漂っていると私は思っていて、本来は「原因それ自体が結果を含む」、「原因は結果である」が正しいわけです。「原因、即、結果」であるとか、「結果が原因よりも先に起きることがある」ことが体得できていないと、これは分からないと思います。

 人間の自由意志についても、ベンジャミン・リベットなどの検証実験により、「自分の手を運動させる脳電位の発生時刻」が「自分が手を動かそうと思ったと自覚した時刻」よりも前で、かつそれらのどちらよりも「自分の手が実際に動いた時刻」が早い時刻だったというようなことは、すでに観測されています。

 私から見れば、こういったことを体得なさっている皆様の日本的・東洋的身体というものに、深い感銘を受けます。

『巫女神道探訪記 ― 日本的アニミズム感覚の源流を訪ねて ―』(6) 神懸り体験の正体、「合気」としての共感覚

神懸り体験の正体、「合気」としての共感覚
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【リンク元】
岩崎純一のウェブサイト 特設サイト 「神道・仏教研究」 (http://iwasakijunichi.net/shinto-bukkyo/
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巫女神道
吉備の斎の巫女 --- 2012年9月25日

 神懸り体験の正体は、斎の巫女の身体外の主体からの働きかけに起因しない内的暗示、つまり、巫女が巫女自身に懸ける自己催眠と私は思っていますが、これも、私が生まれた家の神社に祀られる神々や神器の知識をもとに神懸かりしているので、もし本当に斎女の素養のある一般女性がいたら、脳と体の潜在能力のほうではなく、神道的知識のほうだけが不足しているにすぎないということになると思います。
 ですから、斎女の素養のある一般女性は、神道的知識に生きていないから託宣できないのであり、斎の巫女の身体性が全て失われたから託宣できないわけではないと考えます。

 神社の神々は、元から神様であったり、没後に神として祀られた人物であったり、いろいろですが、生前の何らかの業績を称える形でその神社で祀られることになったという点では共通しています。災害、飢饉、疫病などが発生したとき、あの神ならどうするだろうか、もしもあの人物がご存命だったならどう対応しただろうかと強く考えることが、斎の巫女の神懸り・神託の原点だと思います。
 そう考えますと、そのように念じて神社参拝を行っている一般女性であれば、私たち斎の巫女から遠いところにいるわけではないと思います。

 確かに、県内・播磨にゆかりのある別の社家として、日の巫女の王の名と日本の国姓の姫を女系継承する皇祖母神のお家とされる一族がいらっしゃいまして、この一族が日本の巫女神道最古の母系文化を伝承していると思われますが、そのお一人が下記のブログをお書きになっていました。世代は私たちとほぼ同じです。現在は、播磨方面に居を構えて、多氏・息長氏・渡来系秦氏関連の神社を統括管理しておられます。

 この方は、巫女以外には、バイオ関係、生命情報学、バーチャル・リアリティなどがご専門で、女性、というより人間にプロトカルチャとしてプリセットされたイデアを「生得真理」と呼んでいらっしゃいます。
 明治政府が神道国教化、国家神道の構築の過程で、巫女禁断令で巫女舞や神託を禁止して、私たち巫女の儀式が危機にさらされ、いっそう秘儀・秘伝化し始めた頃、日本がヨーロッパにつけ込まれないように、巫女がヨーロッパのカバラの家系に嫁いだりしましたので、この耀姫様もヨーロッパの血が入っているクォーターです。このような方が巫女神道の継承者として育てられるのは稀ですが。
 この耀姫様の一族(斎皇家)は、長い歴史の中で分派と再統合を繰り返しているようで、各家・各古老の方々ごとに伝承にもずれがあるようですし、耀姫様の神道観に対しても、どこまでが嘘でどこまでが本当か、色々な意見があるようです。ただし、同じ斎の巫女である私としては、家系が違えど、とても面白く、巫女神道のあり方を考える指標として真剣に読ませていただいています。

http://d.hatena.ne.jp/mayumi_charron/(耀姫の日記)

「巴紋と託宣の儀式から紐解く古代日本史。(卑弥呼と天照大神の実像)」(耀姫の日記)
http://d.hatena.ne.jp/mayumi_charron/20100218/1266474872

 ここにもありますように、私たちの神懸り体験というのは、神社に祀られている神々や神々として祀られている人物たちに近付いて心身一体になることです。
「自己催眠の暗示効果によって伝説の知恵者と催眠状態で心身一体になる、神憑りの技法を採用しているのです。(もちろん、これが全てと言うわけではありません。)このとき、神の霊といった、オカルトめいた考え方を持ち込む必要はいっさいありません。」というご説明は、私たちの斎の巫女の神懸りの実感をとてもうまく表現されていると思います。

 人間の脳は、脳自体や全身の筋肉にリミッターをかけていて、事故や災害への素早い対応のために温存しているわけです。事故のときにスローモーションに見えるのも、温存した能力によるスロー再生モードのおかげです。そのリミッターを意図的に外して、先回りして神託を得る能力の伝承こそが、私たち社家のやっていることです。前世の記憶もオカルト科学も使っていません。
 虚偽の霊能力などが入る余地はないですから、心理カウンセラーやアルバイト巫女さんたちがウソの神懸り体験を演じたり、催眠術にかかったふりをしても、見たらすぐにウソと分かります。

 自閉症・サヴァン症候群の方々が、尋常ではないスピードでジグソーパズルやルービックキューブを解けるのは、そのリミッターが外れた状態だからで、彼らにとってはそちらのほうが普通なのだと考えます。
 自然現象や女性の身体現象の察知に使えたり、超数学的能力として使えたりする岩崎様の共感覚も、そういった方々や、私たちの内的暗示、自己催眠能力と同じことと思います。もともと、女性は、排卵中や生理中はもちろん体表から出る電磁気や化学物質が変化しますが、ほとんどの男性は前頭葉によるリミッターをかけているので、遠方から犬のように女性の排卵を察知することはありません。
 それを、まだ外的要因(女性側からの「合気」)がないと解釈するから、オカルトになるのです。もちろん、男性の仕事が、数千年をかけて、狩猟や農耕から会社への出勤とサラリーの獲得に変わったので、岩崎様のような共感覚が男性にとって根本的に不要になったと思われます。

 ここで私の言う「合気」とは、「合気道」の「合気」と同じと思っていただいてよいです。合気道は、小柄な人が屈強な人をほとんど無心・無力で制する柔術ではありますが、岩崎様の知覚能力は、この同じ「合気」によるものと私は解したいです。うちの家系では、男性の能力をあえて「合気」などとは申しませんが、「女性に触れずして女性を制する」能力は「覡(おかんなぎ)」では要求される能力です。
 ともかく、岩崎様は和歌でもそれがお出来になりますし、「合気」の精神をすでに身につけていらっしゃるように感じますので、古武術、合気道でもなさるとよいかもしれません。私たちの周り(総社市)では光輪洞合気道が盛んで、岩崎様の地域もややそうかもしれませんが、岩崎様のいわば「共感覚道」には、武田惣角の大東流合気柔術と植芝盛平の柔らかな合気道を、私は感じます。合気道そのものをめぐる問題も、いろいろとあるにはあるのですが。
 排卵や地震の察知が岩崎様の個人的・私的能力なのか、男性の潜在能力の一つと見るべきかは、私の神道の立場としては、潜在能力と見たいところです。

 私たちの脳活動も、大学で専門家の方に調べていただくと、私たちが「神懸り」と呼んでいる心身状態に入り込んでいるときには転換性障害や身体化障害の女性患者と同じものが観測されます。でも、おかしなキノコを食べたときのトリップ状態とは少し違うそうです。ただし、磐座に身体を置いたまま空間移動する感覚がありますし、木々を吹く風の道が見えたり、もうすぐ亡くなることになる人や動物はそれなりに特定できるようにはなります。
 それに重要なのが、私が少なくとも男性に(父親や兄弟とのスキンシップなど以外で)触れたことがないことも関係しているでしょう。また、「おまけさん=生理」の最中は、衣食住のすべてにおいて、触っていいものといけないもの、入ったり通ったりしていい場所といけない場所があります。このことは、少なくとも私の場合、私の神懸り・憑き物体験の鋭敏化に一役買っているのですが、それはまた追い追いお話しいたします。


神代の巫女 --- 2012年9月26日

 共感覚と「合気」の関連性は興味深いです。
 私の用いている神剣は、電磁気を帯びさせることをよくしますが、これは雷や活断層の電磁気を利用したもので、これを私たち巫女も利用すると、神懸り(つまり、脳の記憶抽出や転換症状、自己催眠)が比較的容易になるからです。
 ただ、これは、自分たちの巫女としての力が弱まったのをごまかすために自然の電磁気を借りてきているというよりは、もとから自分たちの家が伝承し、自分が幼少より身につけてきた神懸り体験での「気」の感じが、雷などの自然現象で受ける電磁波動と同じように体感されるので、神懸り体験が脳と体の電磁波動だと知っているがために、時に応じて利用しているということです。

 人間の伝承されてきた精神文化を離れて、神の世界、天上界、霊界などの別世界が存在したり、霊がそれらの天界と人間界を行き来しているわけではないということです。ですから、岩崎様も『記紀』をよくお読みになると思いますが、高天原や葦原中国は創作と割り切って、巫女神道の秘儀によって見える光景とは別と思っていただけるとありがたいです。
 先ほどの「耀姫の日記」の以下の記事が、私たちが普段行っている巫女舞の一例と言えます。

「神社に祭られている神々の実用性。」(耀姫の日記)
http://d.hatena.ne.jp/mayumi_charron/20101009

 重要なのは、そういう合気や電磁波動を自ら起こせるかということで、岩崎様は起こせる能力を身につけていると思われます。


岩崎純一 --- 2012年9月27日

 どうもありがとうございます。自分の共感覚を単に我が事としてではなく日本の神道精神の普遍原理として語ることができるかということに、日々挑戦しながらも、悩んでおりますので、ご助言は大変助かります。
 私のような共感覚が、巫女の皆様の神懸り体験と同じく、脳と身体にかけられているリミッターを外す能力であるとするならば、なぜ平時(地震、雷などの自然災害や動物の脅威などの緊急時や、戦争・有事でない時)においてそれを外すことができるのかということを解明したいです。私は、その「リミッターを外す」ことを「箍(たが)を外す」と呼んできました。

 仏教哲学やニーチェ哲学が専門だった私として申し上げますと、耀姫様のおっしゃる「生得真理」とは、(仏教を、日本神道を男性中心主義化させたものと位置付けて批判なさっている耀姫様からは、お叱りを受けるかもしれませんが)、唯識思想の「阿頼耶識」そのものと思われます。耀姫様ご自身が、生得真理とは生命誕生から数十億年かけて蓄積されたものであると考えると述べておられる点からも、そのように考えることができます。
 阿頼耶識は、「種子(しゅうじ)」として「熏習(くんじゅう)」している「気分」の総体といった言われ方をします。ここでは、先験的に生まれ持った智恵と、自らが自らの阿頼耶識に溜め込んだ智恵とが合致するので、神懸りがいわば「自分懸り」であるとする皆様の感覚にも沿っているものだと思います。
 通説では、人間の阿頼耶識もアメーバ時代からの記憶を溜め込んでいて、人間は本来それを引き出せると言われるのですが、巫女の神懸り、神降ろしはまさにそれで、「外なる神の声」が「内なる神の声」である体験のことだと考えます。

 少なくとも私が個人的に評価している皆様のような斎の巫女の方々は、皆この阿頼耶識の存在と内容とを意識にのぼせることができているのではないかと私が思える巫女であるということだと、私自身は考えています。

 私に合気道を勧めて下さいましたが、合気道と教派神道系教団(特に大本)との関係については、私としては不満を覚えるところが多々あり、植芝盛平の大本入信などを追っていても、根本的なところで疑念を覚える(安っぽい、ちゃちな宗教観だと感じてしまう)私は、今まで通り、巫女の皆様との交流や、真面目に生きていらっしゃる精神障害者や発達障害者の方々との交流、自分自身の共感覚体験などから、「合気」さえ体得できていれば、いかなる武道も宗教も私には無用だろうという考えで、現在のところは生きています。


吉備の斎の巫女 --- 2012年9月29日

 岩崎様がお持ちの深い人間観・宗教観や武道への姿勢には、いつも恐れ入ります。そのようなご回答だろうとは感じていました。

 巫女の神懸りについては、一歩家を出ましたら、精神病理と扱われるおそれがありますし、私の神懸りの姿を一般の氏子の方々のお目にかけたとしても、耐えられない方々が多いですが、制御不能の病的なリミッター外しとも異なっていますから、注意が必要です。「箍が外れる現象」よりは「箍を自分で外す能力」と言えます。従って、私たちは、いくら神降ろしの儀式をやっても、それが擬似的な光や声であることを自ら失念する統合失調症にまでは、まず陥ることはありません。


岩崎純一 --- 2012年10月1日

 現存する日本の巫女、沖縄のユタ、東北のイタコなどの神懸り、憑依、神託、神通力などの体験は、精神病理学上では憑依障害、転換性障害、身体表現性障害、解離性障害に分類されていますが、統計上も、これらの全てが女性に多発するものとなっていると思います。
(統合失調症や気分障害は、診断基準に当てはまらないため、外されることが多いようです。また、解離性よりは転換性がほとんどと言われています。)
 東アジア・東南アジア圏のシャーマニズム文化は、世界保健機関(WHO)がICDを策定するときや、アメリカ精神医学会(APA)がDSMを策定するときに、いつも揉め事の種となっており、西洋の現代医学者らにとって最も不可解な文化のようです。

 今挙げた各障害は、一般女性においても一般男性よりも多発するのですから、「女性の中に憑依障害、転換性障害の者がいる」という解釈を転回させて、「女性は本来的に憑依障害的、転換性障害的動物である」とするのが私の解釈ですが、これこそが私が一般の共感覚女性研究者やフェミニズム団体から猛反発を受けた考え方です。なかなか難しいところです。

 このほか、文化依存症候群や民族依存症候群と呼ばれるものがあり、日本の対人恐怖症、朝鮮民族の火病、インドネシアのアモックなどが知られますが、日本の巫女の転換的神懸り体験は、世界的に見ても非常に平穏なアニミズム的境地を体現した文化依存症候群であると解釈できると私は考えております。この傾向は、卑弥呼の鬼道のような口寄せにさえ認められるものと思います。

 私は、自分の共感覚のルーツを探る心が高じすぎまして、東京在住の現在は、別表神社から中小規模神社まで、色々な規模の神社の巫女神道を探っておりますが、別表神社においてさえ、母系継承時代の神道の神託を現在も体験していると思われるのが、ほんの一部の内掌典と社家の斎の巫女ばかりである一方で、小規模神社を管理する一家の子女にも巫女の素養がある女性がおり、巫女の神託体験の有無が旧社格と無関係になってきている現状を、皮肉だともチャンスだともとらえております。
 私は「斎の巫女の品格」は、神懸り体験自体を背負って強く生きることだと考えておりますが、それが「神社の社格、家柄」によってもたらされるとだけ考えていたら、甘すぎる(社家内の神道継承がうまく行われていかない可能性がある)と感じます。

 吉備地域でも、その傾向はありそうなものの、やや特殊で、大規模すぎて人の目(現代的世俗の風潮)に触れている岡山縣護國神社、吉備津神社、吉備津彦神社などは別にして、自己催眠術としての託宣を行う巫女がよく現存していると感じます。
 しかし、吉備地域については、私はこの地域に特有の心配事があるのですが、それはまた後日に書きます。先ほど述べた新宗教関連のことです。


つくりつくり姫 --- 2012年10月3日

 岩崎様の「女性は本来的に憑依障害的、転換性障害的動物である」はとても正しい表現だと思うと同時に、相当直観的すぎて、うちの親族でさえ忌避する人もいるとは思います。わかる人ももちろんいますけれど。岩崎様は、本当に「一足飛び」に神道の本質に至る方でいらっしゃるがゆえに、難解な言葉(いわば神託)の持ち主でもいらっしゃいますね。阿頼耶識に最初から存在する転換性の神託体験を引き出すという意味がわからないと、岩崎様のお言葉はなかなかトリッキーに聞こえそうです。


岩崎純一 --- 2012年10月6日

 確かにそうかもしれません。
 巫女の自覚的な神懸り(西洋精神医学では憑依障害、転換性障害と見なされるほかないもの)と、ほぼ全ての統合失調症や多くの解離性障害とを、ある程度明確な形で鑑別可能だとすると、神懸り中の巫女は、例えば内的自己救済者のようなアニムスについても自覚的なのでしょうか。
 または、神懸りしていないときにすでにアニムスに自覚的な生活をしていて、それをあとは自己催眠によって呼び出すだけという感覚はありますか。
(私は、多くの解離性障害の女性にもお会いして、人格変貌や変性意識状態への没入の瞬間を目撃してきましたが、ほとんどの解離性同一性障害者の女性は、目下陥っている人格以外の人格の知識を持たないか、人格の存在に気づいていても統合し得ず、内的自己救済やアニムスに当たるものへの知的な言及は乏しいです。)


神代の巫女 --- 2012年10月8日

 どちらにも当てはまるという感じです。平時の生活自体が、まず一般の女性とは違って、深層心理、集合的無意識の奥底を掘った生活ですし、舞のときも、どの神をどのように、どの磐座から、どの木の間から、どのように舞台袖を通って降ろしたかに自覚的なのが、統合失調症や解離性障害との違いと思われます。


つくりつくり姫 --- 2012年10月11日

 そのアニムスも、わざわざユングのような「女性の無意識における男性的側面」などと私は感じているわけでもないです。ペルソナとしての顔と、インナー・セルフ・ヘルパーとしての内なる自己・真の自己を、取って付けたように区別する作業もしたことがないですし。
 ただ、学者をされているような巫女の方々は、やや違う認識のようですが。
 和歌を詠むとき、例えば男神を降ろして詠む、防人(さきもり)に成りきって詠むというようなときも、渾然一体であることが大切で、このあたりの解釈が、西洋の精神病理学では神道や和歌の心とは違うといいますか、セルフをヘルプすると解釈するのでしょうね。


吉備の斎の巫女 --- 2012年10月13日

 そこが、精神病理学や西洋魔術と、日本の神道の違いかもしれません。
 岩崎様がお詠みになる和歌も、3割くらいが岩崎様・男性の歌で、7割は女性に仮託してお詠みかとお見受けします。これも、おそらく内的自己救済行動ではなくて、岩崎様が巫に成りきっての、神懸り的な「女神・女心降ろし」だと思うのですが。


岩崎純一 --- 2012年10月15日

 そう言われてみますと、かなり整理できてきました。私の和歌についても、おっしゃる通りです。ユング的な「意識」・「無意識」の観念からさえも超然として詠んでいます。
 巫女の神託も、「内的自己」と「外的自己」の区別の消失によって生まれるということが、よく分かってきました。日本の巫女神道の本質が、「アニマ」・「アニムス」の区別さえ超克しながらも、かつ女性性を強く保つという点に、極めて強く惹かれます。

 この体得そのものは、男性には最後の最後で原理的に不可能である(男性は思惟によってその極致に達しようとするほかない)と私は感じていますが、和歌の修練も、その巫女神道のアニミズム性の極致の近くまで達観できる方法だと考えています。