2015年05月21日

大阪都構想の蹉跌(高齢者と若者、南北格差、出自による差別問題、女性の「橋下キライ票」など)

目次
■序
■(1) 賛否両陣営の得票数と棄権・無効票
■(2) 支持政党別の対立軸の信憑性
(橋下大阪市長・大阪維新の会・維新の党・官邸・政府の支持層と、自民党大阪府連・公明党・民主党・共産党の支持層との対立)
■(3) 高齢者(高投票率)と若年者(低投票率)の対立軸の信憑性
(実は、今回に限れば(2)(4)(5)に比べて二次的な要素)
■(4) 大阪市北部と南部の対立軸の信憑性
(一部のマスメディアにとっては、「誤った部落民に対する正しい部落民の勝利」として理解される。川崎市の簡易宿泊所の火災と共通する日本社会の闇。)
■(5) 男性と女性の対立軸の信憑性
(女性による「橋下キライ票」の威力。実は、(3)(4)よりも結果に影響した。)
■結
【画像出典】



■序

 大阪都構想は、今回の住民投票で大阪市民自身の意志によって蹉跌をきたすこととなったわけだが、投票結果について、以下のようないくつかの対立軸による分析が出ていることが大変に興味深い。

 私個人は、政治論や都市論としては都構想に賛成であったが、それはある種の「都市美学」的な観点からのもので、「二重行政の無駄」は橋下市長が強調するほどは存在しないだろうと思っているし、都構想が実現すれば各区による税収格差が生じてしまう現実についても素人なりに分かってはいた。

 このように、自分の考えは一東京都民としての勝手な遠吠えのようなものだったし(出身地も「関西文化圏」とは言えない岡山であるし)、結果的に以下の(1)〜(5)の現実を見せつけられたというのが正直なところだ。

 当然、事前の世論調査と投票当日の出口調査と投票後の集計結果とでは統計に差があるため(掲載しているグラフもこれらの統計が混在しているため)、この点に留意しつつ、(1)〜(5)それぞれの詳細を書いてみたい。


osakato-zentai.jpg■(1) 賛否両陣営の得票数と棄権・無効票

 まずは、都構想の賛否と棄権・無効票の割合について見ておく。三者とも拮抗している。


osakato-seito.jpg■(2) 支持政党別の対立軸の信憑性
(橋下大阪市長・大阪維新の会・維新の党・官邸・政府の支持層と、自民党大阪府連・公明党・民主党・共産党の支持層との対立)


 元より自民党支持者に大阪都構想支持者が多い傾向にはあったものの、基本的には維新以外の政党は、自民党大阪府連から共産党までが歩調を合わせて都構想に反対しており、憲法や安全保障のあり方が如実に問われる国政選挙とは全く異なった構図が見られた。

 憲法問題・安全保障問題については、橋下市長自身は政府・自民党保守派に近いにもかかわらず、都構想については、大阪市民は橋下氏に対してこれらとは異なる角度から評価か批判を投げかける結果となった。

 従って、安易に保守と革新の争いだったという言い回しさえ成立しない。ある意味では、都構想について最も党としての見解がまとまっていないのが自民党であると言える。

 結論としては、自民党支持層以外の大阪市民においては、都構想への賛否が比較的明確であったということになる。(2)の対立軸は、かなり大きな要素であったと言えるだろう。

 しかし、北朝鮮による日本人の拉致問題への対応と同じく、自民党内、あるいは自民党政府と自民党で意見が正反対というのはよくある話で、今回についても(2)の要素は驚くべきことではないかもしれない。


osakato-seibetsu-sedai.jpg■(3) 高齢者(高投票率)と若年者(低投票率)の対立軸の信憑性
(実は、今回に限れば(2)(4)(5)に比べて二次的な要素)


 都構想に反対する高齢世代によるいわゆる「シルバーデモクラシー」によって、都構想に賛成していた若者が敗北したとする論調は、辛坊治郎氏をはじめ、ニュースキャスターに多く見られる。

 ただし、20代のみと65歳以上、あるいは20代と敬老優待乗車証(敬老パス)の交付を受けられる70歳以上とを比べれば、それは成り立つものの、20代〜30代ないし40代までと65歳以上(あるいは70歳以上)とを比べれば、そもそも人口は逆転し、結局は「高齢者が高い投票率を誇り、若者の投票率が異常に低かったから」以外の理由はなくなる。

 高齢者が普通に投票に行き、若者が与えられた権利を行使しなかった結果がこれなのだから、こればかりは高齢化社会とはあまり関係がないようである。

 むろん、そうは言っても、敬老優待乗車証の有料化への不満といった極めて身近なトピックへの不満が高齢者の票を決める現実については、若者がどうもがいたところで仕方がなく、当然高齢者の動きは都構想の頓挫に貢献しただろう。

 とにもかくにも、本気で高齢世代の最期の勢いに対抗しようと思うのだったら、それ相応の行動力と知力が必要であり、若者の投票率が上昇し、なおかつそれなりに政治が語れるようでなければならないという現実が変わるわけではない。

 (3)の対立軸の存在は、半分半分か、思っているほどにはないといったところだろう。


osakato-ku.jpg■(4) 大阪市北部と南部の対立軸の信憑性
(一部のマスメディアにとっては、「誤った部落民に対する正しい部落民の勝利」として理解される。川崎市の簡易宿泊所の火災と共通する日本社会の闇。)


 新たに北区となる予定であった区では全区をあげて賛成多数であった一方で、南部および北部の周辺部では反対多数であった。これについては、様々な分析があるようだが、一つだけ、大阪市民に限らず我々国民が避けて通ることができない大きな問題が含まれている。

 私は、朝日新聞社に朝日新聞とは無関係の仕事で出入りすることが多い。

 2012年の『週刊朝日』と佐野眞一による連載「ハシシタ・奴の本性」をめぐる問題では、橋下大阪市長の出自が取り沙汰され、朝日新聞社・朝日新聞出版が(歯切れは悪かったものの)一応は謝罪したのだった。

 しかし、その後も同社には、大阪都構想に反対する大阪市民の貧困層による一連の運動について、「部落民に対する部落民の闘い」という言い回しをする社員は少なからずいた。非常に気分が悪かった。

 この言い回しはすなわち、「改憲論者であり、従軍慰安婦問題や在日米軍司令官に対する沖縄の風俗活用推奨についての発言を行うなどした、(同社にとっては不都合な、いわば道を誤った保守系の部落出身者たる)橋下市長に対し、橋下市政によって見捨てられるであろう(と同社が考える)被害者たる(あいりん地区などを含む)南部の日雇い労働者・貧困層・部落民と女性とが大量の反対票を投じる闘い」を期待するニュアンスを部落差別・女性差別に引きつけて言ったものである。

 そして、この朝日新聞や朝日新聞出版の希望的観測(橋下市長の敗北)は、この(4)として現実のものとなった。

 当然、それぞれの新聞社にはそれぞれの社風というものはあるが、しかし朝日新聞に限らず、多くのマスメディアにとってこの問題は根底に生き残ったままだ。まさに日本社会の闇である。それに、日雇い労働者と貧困層と部落民とが完全に重なるわけがないのに、一緒に扱うきらいも多くのマスメディアで見られる。

 マスメディアは、事前分析・結果予測は正しく精神が間違っている場合があるということがよく分かる。結果的に今回は、むしろ産経新聞のほうが、出口調査でも「賛成多数」の結果が出たと自信を持って盛んに報道していたが、分析も間違った。だから、余計に厄介なのだ。

「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」旨を定める日本国憲法第14条に対する新聞社・マスメディアの無理解については、個人的な寂しさももちろんあるが、ともかく、この問題は大阪においてとりわけ顕在化する問題であることは間違いないのである。

 橋下市長の出自のことはマスメディアが勝手に書いたが、大阪市に微妙な南北格差があることは大阪市民自身が投票行動によって示したこと自体が、大変な皮肉に思える。

 国立環境研究所の五味馨氏などのように、南北格差など存在しないと主張する論者も存在するが、さすがにそれは大阪に残る問題を覆い隠してしまう気がするし、今現在も一部のマスメディアがどれほど橋下市長を「部落民の間違った成り上がり方」だと見て「正しい部落民と女性の力」によって打倒したがってきたかは、先に示した通りである。

 そもそも、橋下市長とて、都構想自体の良し悪しは別にして、南部地域を貶めようとして都構想を掲げたわけではないだろう。そのことだけは信じるし、この問題については新聞社をはじめとするマスメディアの責任が極めて大きいと思う。

 大阪市で住民投票が終わった日の未明には、神奈川県川崎市で簡易宿泊所二棟が燃える火災が発生した。川崎市も、全国的に見れば、もし同じような住民投票が行われたなら、各区で投票結果が異なることが予想される市である。

 少なくとも自分は、そんないざこざから超然として、身分や出自が何であれ、死者を心から悼むということに徹する人間でありたいと思う。

 ともかく、(4)の対立軸の存在は、投票結果においては予想していたより目立たなかったが、気にすべき人にとっては最も気にすべき対立軸であるということがよく分かった。


osakato-seibetsu-sedai.jpg■(5) 男性と女性の対立軸の信憑性
(女性による「橋下キライ票」の威力。実は、(3)(4)よりも結果に影響した。)


 今一度、(3)で挙げたグラフを載せておく。

 実際のところ、この(5)こそが最も(事前の世論調査、投票当日の出口調査、投票後の集計結果の全てにおいて)有意な対立軸・意識格差を示した要素であった。おそらく、夫婦どうし、パートナーどうしで都構想の賛否が分かれたケースがかなりあったのではないかと思う。

 むろん、以前の世論調査の段階から男女差が顕著ではあったが(男性は都構想賛成、女性は反対がそれぞれ上回っていたが)、従軍慰安婦問題や在日米軍司令官に対する沖縄の風俗活用推奨についての発言以降は、20代の女性の支持の落ち込みが激しくなった。

 結果的に、反対に回った20代女性の票が再び丸ごとひっくり返るだけでいくつかの区で賛成多数となっていた可能性がある、という皮肉な結果になってしまった。

 私も、最も大きな対立軸・格差要因は、当然のごとく(3)や(4)であると考えていたから、やや驚いた。しかし、結論から言えば、橋下市長という男が、それだけ女性にとって好き嫌いの分かれる男だったということに尽きるのかもしれない。

 むろん、大阪市の20代女性たちがここ数年で突然、同世代の女性の都構想についての見解を気にして統計情報を追ってみたり、都構想のデメリット研究に目覚めたりして、集団で反対票を投じた、などということはあり得ない。

 そうではなくて、個々の女性が「生理的嫌悪感」からそれぞれの投票行動をとったところ、結果的にこうなったとしか言いようがないのだろう。

 しかし、「生理的嫌悪感」と言っても、最近の若い女性が(4)のようなことにこだわって男性を見ることはあまり考えられないから、やはり「生理的嫌悪感」は橋下市長の出自などではなく言動に対するものだと見てよいのだろう。(4)のようなことにこだわるのは、やはり年配の女性のほうだろう。

 ただし、スマホでネットを見て回ったり、ネタ的・週刊誌的な記事にいち早く辿り着けるのも若い女性や主婦なら、それを大まじめに鵜呑みにしてしまう心をまだ持っているのも、また若い女性や主婦であると思う。

 橋下市長が飛田新地の顧問弁護士をしていたとか、橋下市長自身がよく風俗に通っていたとかいった記事をよく知っているのも、若い女性・主婦のほうだ。多くの高齢者女性は、そんな情報にさえ出会わないか、出会ったとしても、「昔はよくあったこと」として「生理的嫌悪感」にまでは至らないのだろう。その意味では、橋下氏は年配女性からの徹底抗戦は受けずに済んだといったところなのだろう。

「わたしは、大阪都構想ってよく分からないけど、とにかく橋下徹という男が生理的にキライです」。

 おそらくはこれこそが大阪市の20代女性の論理なのであり、投票権を行使できる以上、当然そういう論理もあってよいわけだ。そういった「橋下キライ票」に高度な政治判断がないことを不満として、スーツ姿の男性が若い女性を嘆き、もがいたところで、それもまた民主主義ではなくなる。

 しかし、社会人として、「なぜ反対なのか」と問われたなら、若い女性も当然、反対理由(「生理的に嫌いな男性だから」)をそのまま堂々と答えられなければならない。「わたしは都構想のデメリットを政治論理的に理解し、一票に賭けたから」といった嘘はダメである。それは、投票権者として当然の責任だと思う。

 そして、沖縄どころか、全国の風俗店で、強制的にではなく自主的に働く20代女性も、そしてそれを買う男性も、また大勢いるわけである。

 ともかく、この(5)は、今回の都構想否決の最も有意な根拠となってしまった。そして同時に、マスメディアが最も取り上げない話題でもある。


■結

 今回の大阪都構想の是非を問う住民投票は、大変に勉強になるものではあったが、日本と大阪の様々な闇が見える機会でもあった。


【画像出典】
●大阪都構想(Wikipwdia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E9%83%BD%E6%A7%8B%E6%83%B3
●出口調査 支持政党別(2015年5月17日、JNN NEWS)
●【大阪都構想】都構想 20代女性、調査のたび「賛成」低下…男性は「賛否」拮抗(2015年5月11日、産経新聞)
http://www.sankei.com/west/photos/150511/wst1505110012-p1.html
●大阪都構想賛否、地域差くっきり 幻の北区は一丸で賛成(2015年5月18日、朝日新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150518-00000030-asahi-pol
posted by 岩崎純一 at 21:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・宗教論

2015年04月26日

我々人間はどんな時に自殺するのか(萩原流行さんの「うつ病自殺」説と妻の言動への不審を示す国民の反応を例に)

目次
■萩原流行さんの事故死に関するネット上の反応
■「うつ病」の特徴は「暗い気分」ではない
■我々人間が自殺するときに必要な条件
■自殺と事故死の間にある「未必の故意」による自殺を含むうつ病者の不審死



■萩原流行さんの事故死に関するネット上の反応

 22日に、俳優の萩原流行さんがバイクで走行中に警察車両と接触、転倒して事故死した件について、事故の不可解さと妻・まゆ美さんのなぜか気分爽快な言動に関するネット上の議論が非常に興味深いので、色々と見ていますが、案の定、賛否両論があるようです。

 とりわけ、ご夫妻共にうつ病のご経験がある点が話題となっています。萩原流行さんが、今回に限らず頻繁に事故を起こし、ひき逃げ容疑で書類送検された過去があり、今回も警察車両が車線変更するより前からバイクがふらついていたことから、むしろ普段から意図的に近くを走行中の車両に接近、並走して、自殺のチャンスを狙っていたのではないか、それで人を巻き込んでひき逃げしてしまったことがあるのではないか、と見る人も多いようです。

 簡単に言えば、これらのネットユーザーや視聴者が言いたいのは、いわば「うつ病」者の結末としての「未必の故意」による自殺ではないかということだと思います。

 確かに、もしそうであるなら、ほんの少しのタイミングの違いで加害者にも被害者にもなってきた説明が付きますし、「自殺のチャンスをうかがって、かえって周囲の人を巻き込む行動」は、「うつ病」や「躁うつ病」でしばしば見られるものではあります。

 このほか、萩原さんの反日映画好きや薬物疑惑を報じる週刊誌のネタ記事を拾った議論もあるようです。

 また、夫の死からたったの四日しか経っていないのに、夫人が笑顔で「俳優として死んでよかった」とか「最後に大花火を打ち上げて逝った」などと夫の死を賛美するような不可解な発言をしていることも、議論の白熱化に拍車をかけているようです。

 萩原流行さんのバイクの後続車両の運転手が「火花が散っていた」と証言していることから、「火花と言おうとして花火と言い間違えたのでは」という杞憂さえありましたが、やはり夫人は「大花火」と笑顔で発言されています。
(ただ、いずれにせよネットユーザーも、警察側の対応への批判と夫人への同情は持っている人が多いようです。)

 これについては、正直なところ私も、夫人は「夫の何らかの行動の異変に勘付いており、死後の今になって気が晴れたのはそのせいかもしれない」などと思った一人ではあります。


■「うつ病」の特徴は「暗い気分」ではない

 私としては、賛否両論があるのはよいと思うのですが、結論から言えば、この賛否両論の原因は、俗語表現としての「うつ(鬱)」と精神病理学用語としてのそれとの齟齬だと思っており、今回のケースは、「日本人らしい性質があまり良くない意味で他人観察において現れた典型例」であると思います。

 特に、「夫婦そろってうつ病なのに、バイクを運転したり、人の死に笑顔でコメントしたりできるのはなぜだろう」という「正しそうで実は誤っている」心配の声が、その齟齬を如実に表していると思います。

 少し難しい言い方をすれば、我々一般のテレビ視聴者やネットユーザーが「悲嘆反応」や「複雑性悲嘆」(※)をどうとらえているかということです。

 まずは、勘違いされても困るので、萩原流行さんの事故が何らかの自殺行動である可能性を探る前に、夫人の言動を例にとって、「うつ病」(最新の精神疾患分類ではほぼ「単極性障害」に相当)がどのようなものであるかを確認しておきます。

 一般に、「私、最近うつだから仕事に行けてないの」とか「あの人と一緒にいるとうつになる」と言うときの「うつ」(俗に言う「マイナス感情」)は、「うつ」ではなく「全般性不安障害」や「ストレス障害」や「身体表現性障害」に近いか、それにさえ当てはまらない軽度の「神経症性障害」であり、かつて「神経症(ノイローゼ)」と呼ばれたものに該当します。(※)

 これらの重症のもののうち、「人前に出たくない」場合は「社交不安障害(SAD)」となり、悲嘆反応を生じさせている心的外傷が高い確実性をもって観察される場合は「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」となります。また、悲嘆反応によって自我・自己意識の変容、分断、健忘、遁走、複数化などが起きた場合は、「解離性障害」とされます。(※)

「うつ病」がほぼ最新分類の「単極性障害」と重なる「気分障害」の一種であるのに対し、「全般性不安障害」や「社交不安障害」は「不安障害」圏、「PTSD」や「解離性障害」は「ストレス障害・神経症性障害」圏の症状であって、単に俗語表現として「暗くつらい気持ち」や「動きたくない、外に出たくない心境」を述べているものは、考えられるとしてもこれらのいずれかの極めて軽度のものであり、大抵は「うつ病」・「気分障害」ではありません。

 それがために、「夫婦そろってうつ病なのに、バイクを運転したり、人の死に笑顔でコメントしたりできるのはなぜだろう」という「正しそうで実は誤っている」心配が生じます。日本人らしい心配性、お節介が自分たちの学問理解を誤らせ、誤ったままで他人観察をおこなってしまっている典型例だと感じます。

 この萩原流行さん・まゆ美さん夫妻に「うつ病」を診断した医師は、お二人の「暗い気持ち」や「動きたくない心境」に「うつ病」を診断したのではないと私は考えます。

「うつ病」または「単極性障害」に特徴的なのは、むしろ(不安障害や神経症性障害と重なることがある)「暗い気持ち」の部分ではなく、「平板な感情」の部分です。どういうことかと言うと、「うつ病」者では、「楽しいことを笑わない」のと同じくらい、「悲しいことを泣かない」ケースが頻繁に見られます。

 従って、まゆ美夫人が、夫が花火を打ち上げて死んだと平然と言ってのけた状況は、むしろ、この一女性が強度の「ストレス脆弱性」(※)を持つ「ストレス障害」圏の人物ではなく、「気分障害」圏の人物であると診断した医師の視点が、現時点では誤っていないことを示しているかと思います。

 人の死について涙を流してわんわん泣けるほどの「健全すぎる」状態なら、その人には不安障害やストレス障害を診断するだけで足りるか、精神疾患自体を診断しないことが望ましいと思います。


■我々人間が自殺するときに必要な条件

 唐突ですが、我々一個体としての人間が自殺を遂行するために必要なものは何でしょうか。

 自殺に必要なものは「暗く落ち込んだ気持ち」や「死にたい気持ち」ではありません。これは、精神科医が、うつ病や躁うつ病の患者の自殺を、むしろ患者の気分が明るい時、躁状態の時、軽快・寛解しかけの時に最も心配する根拠でもあります。

 自殺の遂行に必要なものは、現実的には以下のようなものだと言えます。

●外出
 自殺の方法には、首を吊る、橋の欄干やマンションのベランダや窓の手すりを乗り越えて飛び降りる、ホームから電車に飛び込む、割腹するなど、色々ありますが、自宅や職場内の刃物・日用品・薬物などを用いない限り、肉体、とりわけ心肺機能や頭部を破壊・挫滅できるほどの自然落下や重厚な車両の激突が必要になります。
 当然、うつ病や社交不安障害やストレス障害などにより寝込んだままのタイプの人は、これらの方法は使えません。

●体力
 橋の欄干やマンションのベランダの手すりを乗り越えるにも、割腹するにも、それだけの体力が必要です。当然、自殺の成功率・既遂率は体力・腕力のある人ほど高くなります。

●秒単位で死のタイミングをはかる知力と運動能力
 しばしば「人身事故により電車が遅れている」旨の車内アナウンスが流れますが、これには人身事故と自殺が含まれ、後者においては「全身を強く打った」と表現される場合のみ胴体や四肢がレール上でバラバラになっていると「考えられているようです」。
 この言葉遣いの真相は、鉄道事業者によりタブーだったり定義が曖昧だったりしますが、「全身を打った」と「強く」が抜けている場合、生きているか、飛び込むタイミングがずれてホームの客たちに跳ね返ってきているケースも多いです。
 電車の勢いを利用する場合でさえ、一瞬で終わるように秒単位でタイミングをはかることは難しく、高齢になればなるほどその能力は鈍るでしょう。逆に、認知症ではないシャキッとした高齢者のほうがスムーズに自殺を完遂する可能性があるわけです。

●自殺が可能であると信じる心、万能感
 一見すると、自殺者は「何もできない自分」を殺したくて自殺しているかのように見えますが、そもそも少なくとも自殺だけは「できなければ」自殺できません。むしろ、無気力で寝込んでいるようなタイプのうつ病者は、いつまで経っても自殺をせず、かえって万能感にまで達するような気分爽快な躁うつ病者のほうが自殺を既遂にまで持っていくことができるわけです。

●社会との関係性
 一見すると、自殺者は「社会との関係を築けない自分」を殺したくて自殺しているかのように見えますが、特にマンションなどの人工建造物や交通機関を利用して自殺する場合、そこにはすでに社会性が介在するわけです。そうでなくても、特定の死に場所を選択した時点で、社会を気にしていることになります。
 むしろ、本当の自殺(自分だけの力で死ぬ事態)は場所を選ばない自然死以外にありえず、逆に「全ての自殺は社会的である」とも言えると私は思います。

 以上、我々人間は、「死にたい気持ち」があってもこれらの条件のいくつかがそろわなければ自ら死ねませんし、逆に、これらの条件がそろっていればいるほど、「死にたい気持ち」が希薄であっても何かの拍子で自殺を遂行することがあります。


■自殺と事故死の間にある「未必の故意」による自殺を含むうつ病者の不審死

 こう考えてみると、うつ病が軽快しバイク乗りも普通にできるようになっていた萩原流行さんには、確かにこれらの条件がそろっており、実際にひき逃げ歴まであることを考慮すると、むしろ最近は行動的な状態にあり、あながち自殺説が出てきてもおかしくはないと思います。

 ただし、その可能性があるとしても、以上の「うつ病」に関する考察を踏まえれば、一部のネットユーザーが主張するような積極的・計画的な自殺ということはあまり考えられず、あっても「未必の故意」によるものだと私は考えています。

 そもそも、自殺と事故死の間にある「未必の故意」による自殺と言えるうつ病者の死の例は、特に珍しいことではありません。

 一方で、警察車両の動きにもかなり問題があったようです。もし万が一、警察車両の車線変更以前から萩原流行さんのバイクが意図的にふらついて車両に接近していたとしても、やはり警察は、プロらしい安全運転によって「未必の故意」による自殺を頓挫させることはできるわけです。いずれにしても、警察側による事故の責任の揉み消し自体は許されてはならないと思います。

 ただし、もしそれもこれも全ての可能性を含めた上で、まゆ美夫人が夫の死を「大花火」に喩えたのであれば、極めて優れた比喩であることになると思います。もしかしたら、夫人の発言が一番本当なのかもしれません。

 とにもかくにも、うつ病者の自殺の遂行は、先ほども書いたように、症状が軽快・寛解しかけの時に(すなわち、もはや必ずしも「うつ病」ではない時に)自然落下や交通機関などの「他力」を自己との間に介在させて利用し、高い社会性のもとで自然死を否定することによってしか成り立たないわけです。

 私自身は、「人間は、自殺しようともがけばもがくほど、真の自殺たる自然死からは遠ざかるばかりだ」と考えています。その意味で私は、極端な自殺主義者なのかもしれません。

(※)【参考文献】
American Psychiatric Association (2013). Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders (5th ed.). Arlington, VA: American Psychiatric Publishing.
American Psychiatric Association (2000). Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders (4th ed., text revision). Washington, DC: American Psychiatric Publishing.
Prigerson H.G. & Jacobs S.C. Traumatic grief as a distinct disorder. Stroebe, M.S., Hansson, R.O. et al ed. Handbook of bereavement research- consequences, coping, and care. pp613-645, Washington DC, 2002
DSM‒5 病名・用語翻訳ガイドライン(公益社団法人日本老年精神医学会)
http://184.73.219.23/rounen/news/dsm-5_guideline.pdf
「悲嘆反応」や「複雑性悲嘆」の解説(独立行政法人 国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所)
http://www.ncnp.go.jp/nimh/seijin/www/for-sufferers/shinri_07.html


【関連ブログ記事】

●鬱病が鬱病を疎外する〜「本当の鬱病は美しいもの」〜
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/41932955.html

●なぜ戦後日本人のうち「一部のみ」が「確実に」鬱や社会不適応になるのか -「宗教儀式」としての戦後日本社会、「宗教儀式批判」としての鬱と社会不適応(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/49231797.html

●なぜ戦後日本人のうち「一部のみ」が「確実に」鬱や社会不適応になるのか -「宗教儀式」としての戦後日本社会、「宗教儀式批判」としての鬱と社会不適応(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/49405339.html

●なぜ戦後日本人のうち「一部のみ」が「確実に」鬱や社会不適応になるのか -「宗教儀式」としての戦後日本社会、「宗教儀式批判」としての鬱と社会不適応(その三)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/49662507.html

●なぜ戦後日本人のうち「一部のみ」が「確実に」鬱や社会不適応になるのか -「宗教儀式」としての戦後日本社会、「宗教儀式批判」としての鬱と社会不適応参考模式図
http://www.iwasaki-j.sakura.ne.jp/ronbun_ippan/utsu_to_shokugyo.htm

●高齢化社会、自殺社会、「男女平等」の幻想、女性どうしの心理格差など
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/52023044.html
posted by 岩崎純一 at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・宗教論

2015年04月13日

日本が現地に残した文化やインフラを大切にするパラオ・太平洋の人々から日本人の私が学びたいこと

800px-Flag_of_Palau.svg.png 天皇・皇后両陛下がパラオを訪問されたことにちなんで、戦後の日本や太平洋の文化について、個人としても日本人としても色々と考えました。
(右はパラオ国旗)

 パラオは今でも大変な親日国・親皇室国ですが、今回の天皇・皇后両陛下のご訪問についても、現地の政府高官・警察官から一般市民・子供たちまでもが、事前に日の丸掲揚や『君が代』・『仰げば尊し』・『蛍の光』斉唱を練習したり、日本が援助した道路・橋・電気・水道などのインフラを徹底的に清掃したりなど、驚くほど歓迎されている様子でした。

『蛍の光』は、元のスコットランド民謡のメロディーに稲垣千穎が日本語詩を付けたものです。戦前には、NHK連続テレビ小説「マッサン」でエリーが歌っていたようにスコットランド英語と日本語の両方で歌われ、戦時中には、敵国のメロディーだからという理由で学校の卒業式では歌われなかったにもかかわらず、帝国海軍では歌われ、それが戦後には、パラオの人々が日本語で継承し、日本人・皇室を迎えるために歌い、一方で日本の学校の卒業式では、盛り上がれない歌だからという理由でどんどん斉唱が廃止され、代わりにJ-POPを歌って踊っているわけです。「いったい何なんだ、これは」としか言いようがない皮肉な気分です。

 天皇・皇后両陛下がパラオを訪問されたことについて、右派団体から左派団体(特に反戦・反原発・フェミニズム団体・NPO団体)まで、様々な意見があるようですが、両陛下のご意向としては、そういった政治的問題から超然として「全ての戦死者を悼み、平和を願う」以外の何物でもないと思います。そこから学ぶべきことは多いと私自身は感じています。

 それにしても、やはりご訪問先としては、あくまでも「無難な」ペリリュー島の慰霊碑などの場所だけで終わってしまうのは仕方がないと思います。結局、もう二度と日本の天皇・皇后両陛下が訪れることのない「正当な歴史から排除されたアウトサイドな」場所というのもあるわけです。それは、皇室さえも(天皇が政治的発言をすることが許されない象徴天皇制のために)もう触れることのできない「歴史の間隙」なのだと思います。

「日本のマスコミも宮内庁も腫れ物として触れようとしないもの」というのが、あるはずだと私は思います。そこをえぐらないと面白くない気分です。

The_Headquarters_of_the_South_Pacific_Mandate.JPG 日本の南洋庁による委任統治からアメリカの信託統治に移行して以降、現在まで、パラオを日本領に入れてほしいと願っているパラオ国民は少なくありませんが、立派に独立国として対等な関係を築けた以上、今になって日本編入が良いとは限りませんし、あえて日本に入る必要はないと思います。
(右は南洋庁庁舎)

 それよりも、朝日新聞の「従軍慰安婦」捏造問題と同じく、昭和天皇や軍部を中心とする韓国・中国・グアム・サイパン・パラオ人女性たちに対する組織的な性奴隷化の国策があったと考える日本国内のフェミニズム団体などの発言力の現状を考えれば、パラオ国民の悲願は今後も日本国内で表立って報道されることは少なく、私のように個人レベルで「無思想・中立の事実」だけを知りたい日本人が、自分で海外の裏ニュースサイトで知って、パラオ国民と日本の戦死者の双方に個人的に心の中だけで感謝を示していく以外に方法はないだろうと考えています。

 私個人の感想ですが、「感覚的に」戦争の悲惨さやパラオの歴史・現状を直視できているのは、日本のマスコミでも右派・左派団体でも親原発・反原発団体でも反戦・フェミニズム・NPO団体でもなく、やはり天皇・皇后両陛下と、一部の知的洞察力と感覚的鋭敏さを持つ国民のみではないかという感慨があります。

Establishment_of_Nan'yo_Shrine_01.jpg パラオの戦前・戦中・戦後の歴史や現状については、私自身は、かつて戦前・戦中に日本が創建したパラオの各神社(ペリリュー神社、アンガウル神社、南洋神社、朝日神社など)の巫女さんの子・孫・ひ孫に当たるパラオの巫女さんたちを訪ね続けている日本の神社の巫女さんたちを通じた、文芸(和歌)や工芸の事情くらいしか知識がなく、政治的なことは分かりません。単に和歌をやっているというだけの薄いつながりで、「友人の友人から聞きました」程度の「また聞き」の知識が多いです。
(右は南洋神社の1940年の鎮座祭)

(ちなみに、私が個人的に数名のご協力を頂いて作成している「旧派歌道・歌学の流派・家元・団体の総覧」の「海外歌壇の形成」の部には、パラオをはじめ、琉球、台湾、朝鮮、中国、満州、サイパン、樺太の和歌の実状を追って掲載しています。何か情報をお持ちの方は、ぜひご連絡いただければ幸いです。)
「旧派歌道・歌学の流派・家元・団体の総覧」
http://iwasakijunichi.net/ronbun_ippan/kado.htm

 先述の神社は、アメリカの信託統治への移行後にほとんどが廃社となり、それらの廃墟・残骸や、かろうじて息をひそめて生き延びた小神社は、現在は現地の神官・巫女さん・有志の市民と日本からの有志の巫女さんたちによって管理されています。

 南洋神社など、再建された大神社もありますが、規模的には以前よりもずっと小規模なものです。それに、日本からの有志の巫女さんと言っても、旧社格制度における下級神社の、現在は国や自治体や神社庁や神社関係の単立宗教法人から見向きもされない小神社の巫女さんばかりです。南洋神社を官幣大社に列するなどかつてのパラオの神社に対する日本の厚遇があった時代とは、天と地の差がある状況です。

 敗戦後に日本の自民党政府もGHQも(まるで西洋文化に対する東洋文化の敗北であるかのように)放置した神社をパラオの巫女と市民が愛したという事実を、日本のマスコミが表立って報道することはないと思います。このほか、サイパン島、テニアン島、ロタ島、ヤップ島などにも神社がありましたが、基本的には残骸程度のものが残っているか、ちょっとした歌会・歌壇が残っている程度のようです。

 これらの神社は、日本政府とGHQによる無視・放置をチャンスと見た右派団体や指定暴力団が主宰する団体、「日本−パラオ心を結ぶ会」や「南洋交流協会」が再建に関わっていた面があることはありますが、その目的は極めて日本・パラオ間の文化交流を軽視した日本優生思想的なもので、主宰神の天照大神を祀る神聖な宗教施設としての神社(ひいてはパラオの巫女や国民)のあり方ともまた異なっていたがために、神社を管理している現地パラオの巫女や住民の意志ともかなりぶつかって、結局頓挫しているものが多いです。

Koror_in_the_Japanese_Period.JPG むしろ、戦時中に南洋庁は、パラオ文芸・工芸の衰退を阻止するために、現地の村民を集めてきて、文芸品・工芸品を作らせています。例えば、伝統的なトコベイ人形の職人を絶やさないために、コロール島、トビ島、アラカベサン島などから村民を呼んできて作らせていました。

 和歌についても、今では、台湾やサイパン、パラオの歌壇が島から和歌文化が消えないようにと歌人たちが必死になっています。そして、なおかつそれぞれの島々の伝統文化も継承しているのです。
(右は日本の委任統治領時代のコロール)

 1944年のペリリューの戦いでは、日本軍がパラオ住民を事前に強制退避させたために、パラオ住民の死者は0名と言われ、一方で日本兵の死者は1万人を超えましたが、今となっては、島民の生命や文化に対する日本の姿勢と対応はそれでよかったと思います。ここで生き残ったパラオ住民たちの子・孫・ひ孫たちが、先述の日本文化・パラオ文化双方の担い手となっているわけです。

 私は別に三島由紀夫のような作家でも南方熊楠のような民俗学者でもありませんが、こういうことに興味や感慨が湧くかどうかは、個人の「美意識」や「文化意識」、「生き方」そのものが関わると感じています。私などは、日本のマスコミや宮内庁や右派・左派団体の動向とは全く関係のない「下っ端」のところで、日本の巫女さんとパラオの巫女さんとの質素ながらも濃密な交流があると聞くだけで、一種の爽快感を覚えます。

 右派思想と左派思想の両方から最も離れたところに「日本」があると考えたり、そのことを天皇・皇后両陛下の姿勢から学んでいると考える思考の人にとっては、「右派と左派の対立を天皇主義と反天皇主義、日本派と反日本派の対立」ととらえる昨今の思考がどうしても低俗に思えてなりません。

 天皇・皇后両陛下にとって、パラオご訪問は「悲願のライフワーク」でしたが、もしその中に政治的問題から超然とした、平和的な宗教施設としての神社や心の交流としての文芸文化の継承といった点が含まれていたなら、やはり個人的には、日本の多くのマスコミや右派・左派団体よりも天皇・皇后両陛下の「日本観・戦争観」のほうが清く正しいと思うばかりです。

 また、パラオの人たちが日本が援助した交通網やインフラを守ろうとしたり、日本が残してきた神社や文芸を守ろうとしたりしているところに、何らかの「思想」を持って手を出そうとするならば、それが右派団体であれ左派団体であれ、かつてのパラオ在住日本人や南洋庁とパラオ原住民との絆の歴史を邪魔するものでしかないと思います。


【参考文献・画像出典】

●『官幣大社南洋神社御鎮座祭記念写真帖』(海外神社(跡地)に関するデータベース 神奈川大学非文字資料研究センター)
(パブリック・ドメイン)
http://www.himoji.jp/himoji/database/db04/syoseki/004.html

●『南洋群島写真帖―昔のmicronesia』(小菅輝雄、グアム新報社東京支局、1978)

●大坪潤子「南洋群島に神社をたずねて」(『非文字資料研究』第6号、神奈川大学21世紀COEプログラム研究推進会議、2004年12月)

●冨井正憲、中島三千男、大坪潤子、サイモン・ジョン「旧南洋群島の神社跡地調査報告」(神奈川大学21世紀COEプログラム研究推進会議『年報 人類文化研究のための非文字資料の体系化』第2号、2005年3月)

●中島三千男、津田良樹、冨井正憲「『海外神社』跡地に見る景観の変容とその要因」(神奈川大学21世紀COEプログラム「人類文化研究のための非文字資料の体系化」研究成果報告書『環境に刻印された人間活動および災害の痕跡解読』、神奈川大学21世紀COEプログラム研究推進会議、2007年12月)


【関連するブログ記事】

●私の和歌人生史、平成日本における伝統和歌の現状(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/50386486.html

●私の和歌人生史、平成日本における伝統和歌の現状(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/50713456.html
posted by 岩崎純一 at 20:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・宗教論