2015年02月12日

ISIS(イスラム国)の斬首・焼殺動画とバタイユ的エロティシズム

目次
■「あなたはISIS(イスラム国)の惨殺動画を見ましたか?」
■バタイユの『エロスの涙』や映画『カリギュラ』、エログロナンセンスに見るサディズム・マゾヒズムと恍惚の同根性
■死者の亡霊への恐れおののきから来る責任回避の心理
■エログロ・SM雑誌を見ながらリストカットをする解離性障害・境界性パーソナリティー障害者の心理
■エロティシズム・グロテスク様式美のないISISの動画、そして昨今の国内の殺人事件
■関連ページ・ブログ記事
■画像出典


■「あなたはISIS(イスラム国)の惨殺動画を見ましたか?」

 最近は、ISIS(イスラム国)による惨殺動画を授業で使う小中学校の教師がおり、問題になっているようである。

 その是非についての感想は結末で述べるとして、ともかく、見たくない子供たちはもちろん「見ろ」と言われる必要などないし、一方で、逆にこの動画がこうして話題になったがために、「見るな」と親から言われて余計に見たくなった子供たち、特に男子たちの間では、映画『カリギュラ』で知られるところのカリギュラ効果が発生し、親に内緒でインターネットの使用などによって動画が閲覧されていることだろう。

 時々、ISIS(イスラム国)による斬首動画や焼殺動画を見ていない、あるいは見たくないという人から、「純一さんは見ました? どんな動画でした?」と恐る恐る内容を聞かれることがある。聞いてくるのは、ごく一般の健康な大人である。私だって、もし自分が見ていなかったならば、好奇心から人にそう尋ねたかもしれない。

 一見すると、いかにも動画を見そうな知人である私に対する、ただの好奇心による他意のない質問に思えるので、いかにもテレビのコメンテーター気取りに「ああ、残忍だよ」などと答えているのだが、あとでよくよくその質問と好奇心とを思い返してみるに、だんだんと手に汗がにじむことがある。

 ここに書くことは、我々日本人の潜在意識、戦後の死生観・霊魂観・美意識の変容や大衆心理といったことと関連するかもしれない。そして私自身も、日常生活の中で他人に対してそのような態度で接している可能性がある「平和ボケした無血テロリスト」たる日本人の一人ではないかと自省してみるのである。

 大学のときはニーチェばかり読みあさり、今では、西洋絵画一つを取ってもモローやシャヴァンヌやデルボーやルドンなど陰鬱でグロテスクな唯美主義・象徴主義ばかり追っていたり、DV・性暴力・虐待被害を受けて自殺未遂・リストカットを繰り返す方々と交流して一緒に泣いたりと、極めてグロテスク耐性の高い私でさえ、何に身震いするのかをつくづく考えている。

 私は、自省のために、もっと言えば内省・内観のために、あるいは、ISISの動画が私自身にとって崇高なエロティシズムが欠落した単なる惨殺動画であることを確認するために、某アラブの反ISISサイトにて、ISISの惨殺動画を見続けていると言える。


215px-Caligulaposter.jpg■バタイユの『エロスの涙』や映画『カリギュラ』、エログロナンセンスにに見るサディズム・マゾヒズムと恍惚の同根性

 ジョルジュ・バタイユは『エロスの涙』の中で、中国に残る公開処刑において、処刑人・見物人たちだけでなく、被処刑人自身が同様に恍惚の表情を浮かべる場合があることを記録している。西洋列強がこれを残虐だとして廃止させようとしたわけだが、もし本当に被処刑人が恍惚を感じていたなら、つまり、この処刑そのものが処刑人・見物人・被処刑人の全員によって創られたある種のスペクタクル・作品であったなら、それは処刑と呼んでよいものではなく、罪人を処罰するという近代精神そのものによる解釈が介在し得ないことになる。

 映画『カリギュラ』では、首だけを地面から出した被処刑人たちが巨大な斬首マシンによって処刑されていくシーン、それをカリギュラが笑いながら見るシーン、男女の乱交シーン、裸の女性たちがハチャメチャにはしゃぐレズ・マスターベーションシーンが絡み合う。

 映画『サロン・キティ』では、どす黒いハーケンクロイツ(卍の印)のナチスの旗の前に、エログロ全開の女たちがズラッと立ち並ぶ。

220px-Salon_Kitty_(film).jpg こういった悪趣味への憧れは、悪趣味というよりは、古代から現在に至るまで、人間の本能そのものなのだろう。

 日本においても、かつてエログロナンセンスが流行したものである。私が生まれる前の話だが。谷崎潤一郎がその嚆矢かもしれないが、『金閣寺』を書いた三島由紀夫に至っては、人体ばかりか「ただの金ピカの」建造物でさえ、絶対美・エログロ・嫉妬の対象なのであった。三島の中では、天照大神(アマテラスオホミカミ)と絶対美とエログロとザドマゾと天皇と自衛隊の全てが、分子の共有結合のように不可分のものだった。世俗の凡人たる大衆とは、世に落ちている「素材」の組み合わせ方・コンテクストが全く違っているのである。元より悪趣味な私としては、三島の「気分」については非常に親近感を覚える。


■死者の亡霊への恐れおののきから来る責任回避の心理

 ISISの動画の話に戻る。本来、惨殺動画を見たくないという人は、他人に対しても閲覧体験や内容を(学術目的以外に日常会話で)尋ねない、あるいは動画の内容をできれば知ってはおきたいという夢想さえも捨てる、均衡のとれた姿勢を貫くべきだとも言えるはずである。

 なぜなら、純粋に宗教学的・社会学的・民俗学的な観点から真摯に覚悟を決めて閲覧した人にとって、すなわち、ISISの思想への共鳴の結果や犯罪などへの悪用目的で閲覧したわけではない人にとって、その内容は質問者に「見てもらわなければ」即答できるような楽観的なものではないからであり、かつ即答できるような楽観的な内容ではないだろうと質問者が最初から了解しているがために「見たくない」のであろうからである。

 ここにおいて、「見たくない」と言いつつ他人に内容を尋ねる行為は、本来は自らが体験すべき(閲覧すべき)心的外傷的・急性ストレス障害的な悲劇体験を他者の身に降りかからせておき、そこから生産された果実(情報)を享受する点において、一般住民や民間人を殺害しつつ自己を正当化するISISに潜在意識的にはうっすらと共鳴的であり、覚悟を決めて動画を閲覧した人と少しの差異もなく原罪的で、抑えがたい残虐性やリビドー・性衝動を表明しているのではないかという視点が立ち上がってきてもよいはずである。

 このような我々の好奇心のあり方を「無血テロリズム」と名付けてみるとする。文字通り、血は流さず、傷も残さないのだが・・・しかし、全てを見抜いている被処刑人の亡霊は、このような我々日本人にも取り憑くのではないかという気がしてくる。

 数日前から、ISISがヨルダンのムアズ・カサースベ中尉を焼殺する前に鎮静剤を大量に飲ませていた可能性があるという指摘が、欧米の医学者たちから出ている。もしこれが、「自分たちにもこれだけの慈悲深さがあるのだ、アッラーよ」という、惨殺後に襲ってくるかもしれない「アッラーのたたり」への一抹の不安からくる口実であるならば、例えば、1988年に起きた女子高生コンクリート詰め殺人事件で、犯人らが女子高生の亡霊を恐れ、女子高生が生前に見たがっていたビデオをわざわざ借りてきて一緒にドラム缶に放り込んだ事例と似ている。

 そして、このような「亡霊への恐れおののき」を根底に持つ、「自分では汚く醜いものを見ようとしないが、見た者には好奇心で尋ねたがる性質」は、我々日本人において珍しくないものであると感じる。そもそも、日本のマスメディア、とりわけ新聞とテレビが、戦後の民主主義そのものが、そういう構造をしていると私は思う。

 本当は、動画(というよりも、惨殺の手法や光景そのもの)にうっすらと興味があり、自分が動画を見てしまったら、少なくとも心の内ではある種のマスターベーションをしてしまうことに気づいているがために、「死者の亡霊」が取り憑く気がしてあえて見ていない日本人も少なくないのではないだろうか。

 これは、「私だけは亡霊の怨みを買うようなことをしていないと思いたい心」、あるいは「死への恐れ」そのものと深く関わっているはずである。

 そういえば、東日本大震災が起きてから私は、早急な経済復興ばかりではなく、この荒廃した光景、生命が一挙に頓挫した殺風景を味わう半ば退廃的で鬱病的なエロティシズムこそ重要であり、それは被災者を軽視するどころか弔うことになるという旨のブログ記事を、藤原定家の「見渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」の歌に仮託して書いたのだった。(下掲の関連ブログ参照)


■エログロ・SM雑誌を見ながらリストカットをする解離性障害・境界性パーソナリティー障害者の心理

 サイトの精神疾患のページに掲載はしていないが、かつてサイトの同コンテンツを通じて、エログロ・SM雑誌を見ながらのリストカットがやめられないという解離性障害・境界性パーソナリティー障害の女性の話を聞く機会を得た。

 もっともその裏には、児童期の虐待や性暴力、親の愛情不足などが典型的要因としてあるため、話を聞く側も正気ではいられない。

 しかし、おかげで『奇譚クラブ』や『風俗奇譚』などのカストリ雑誌の知識を得ることとなった。それにしても、共感覚の公表以来、色々な世界に迷い込んだものだ。だが、これは収穫である。

 時々、ある知人の解離性障害者が殺人願望を口にすることがある。「どうして魚は殺していいのに、人は殺しちゃいけないんだろうね。実行はしないけど・・・人を殺す前に、自殺しようと思う」

 私はそれを、ブログにも論じた佐世保女子高生殺害事件と比較している。私にとっては、やはりこの女性の殺人発言のほうが、ニーチェ的・バタイユ的均衡、殺しそうでありつつ殺さないところで止まるエロス的均衡を保っており、佐世保事件のほうは、ブログで「発達障害診断批判」の観点から緻密に分析したように、計算高い近代殺人の可能性を多少は残しているように思えている。(下掲の関連ブログ参照)

「自分は死体である」、「藤野一友の描くような女になって切り刻まれたい」などと主張するコタール症候群患者(下掲の関連ページ参照)の女性にも、話を伺ったことがある。

 私にとっては、これらの精神疾患者の残酷さと、ISISの残酷さとは、どこか違っている。今私は、前者のほうをエロティシズムと名付け、後者をただの国際犯罪と名付けたい。

 このほかに私が見たバタイユ的・『エロスの涙』的な恍惚の光景は、ある中規模神社の巫女たちが自分たちの勤めるその神社に内緒で作る和歌の会における、いわば「エログロ・レズ・マスターベーション歌会」だった。このことについては、以前、少しためらい気味に、「女性の集団ヒステリー」という違った角度から憑依障害や転換性障害などの一種と見て、ブログに書いたことがある。(下掲の関連ブログ参照)

 このエロティシズムもまた、テレビで見かける一部のタレントの世俗的同性愛とは全く異質の、異性愛の変型であり、世俗から超絶しているように思えた。

 厳密には、いわゆる「マスターベーション」と言えるようなものではないが、和歌を詠むにあたり、いちいち自分が月経中か否か、性器の状態がどうか、差し当たり性愛的気分か否かにこだわるので、こちらの頭が痛くなりそうな気分なのであった。しかし私は、嫌悪感どころか親近感を覚えた。あるいは、これに私は嫉妬した。

 もっとも、もう少し「小綺麗な」話から言えば、和歌関連の交流のプロセスで、内掌典経験者の女性や旧官幣・国幣社の巫女経験者にも出会ってきたし、それはそれで大変に美しく、特に以下に挙げた和歌関連のブログ記事にそのことは書いてきた。これらの世界も、月経中の一挙一動、手指の動作までもが制限され、旧暦で生活するなど、我々の俗なる社会からは半ば信じがたい世界であることを知ったが、私としては、それでも心のどこかで、やはりその文化習俗は戦後日本の現代民主主義社会の悪しき部分に侵されている気がしていた。これらの世界でさえ、性的儀式、エログロ的儀式、サドマゾ的儀式は排除されつつある。

 私はそれよりも、戦後日本の現代民主主義社会そのものから超絶し、エログロ側・サドマゾ側にスライドしており、かつ昨今のセクハラや痴漢や児童虐待や殺人事件からも超絶し、それらを無言で見下すほどの崇高なエロスに基づく文化習俗を知りたかったから、上記の体験は、自分自身の共感覚の探究に始まるライフワークにとっての、一つのゴールであった。

 ニーチェは、性行為は殺人的であると言った。バタイユも、エロティシズムは有限な個においてしか現れないと言った。エログロ巫女たちのほうの儀式は、有限な個としての自己を真っ正面から受け止める殺人的エロスであった点において、突き抜けた美と言えると考えると私は感じた。

 それは、「極端な生き姿」でありながら、一歩間違えばお互いに殺し合いが始まるのではないかと思わせる「ある種の死に姿」でもある点で、ニーチェやバタイユが書き遺したエロティシズムそのものであった。


■エロティシズム・グロテスク様式美のないISISの動画、そして昨今の国内の殺人事件

 ISISの動画を見続ける中で感じたことは、その凄惨さに対する嫌悪感以上に、殺人行為そのものに何の凄惨さも絶対美も退廃も醜さもイスラム教も古代も近代も込めることに成功していないのではないかということだ。

 その原因はただ一点で、斬首したジェームズ・フォーリー氏や後藤健二氏、焼殺したヨルダンのムアズ・カサースベ中尉との間に何の「エロス的契約」も結んでいないという点に尽きると思う。この殺人動画がグロテスク・スペクタクルでないということは、ある意味では、それを平然と閲覧する姿勢は反テロリズム的姿勢であり、一方で、閲覧者がそこにグロテスクさを見出すことは彼らにとってエロス的成功なのかもしれない。

 我らこそが一神教たるイスラム教の権化と主張しているはずのISISの一連の殺害行為の最大の原罪的な誤謬は、被処刑人であるジェームズ・フォーリー氏や後藤健二氏、カサースベ中尉が恍惚を要求していないにもかかわらず、それを分かって殺害するほどの計算高い知性が実はある点、すなわち殺害者と被殺害者の相互のエロス的要求が不均衡であるという点ではないだろうか。

 ISISの行為、あるいは国内の様々な殺人事件は、殺人・エログロ・サドマゾそのものの善悪というよりは、執行者と被執行者との阿吽の呼吸の有無、事前の美的要求の均衡の確認の有無によって、断罪されるべきではないだろうか。

 言い換えれば、ISISによってあのオレンジ色の服を期せられた被処刑人は、もはや一点の恍惚を『エロスの涙』の被処刑人のように見出す以外に、最期を耐え切るすべがなかった。すなわち、私もサイトの解離性障害のページで解説しているようなストックホルム症候群を被処刑人らが引き起こすこと、ISIS戦闘員とエロス的同化をおこなうことによってしか、耐えられなかったはずである。ISISの残忍さとは、そのような残忍さとして語られるべきものではないかと私は思っている。

 ISIS(イスラム国)による惨殺動画を授業で使う小中学校の教師がおり、問題になっている旨を冒頭に書いたが、これを止めたほうがよいと思う理由も、教師が児童・生徒にエロス的同化の準備時間を与えないからである。

 あくまでもここでの視点は、教師(処刑人としての教育者)と児童・生徒(被処刑人としての被教育者)との間にエロス的同化が生じるか否かの確認であって、殺人そのものが善か悪かとか、映像を見ることが子供の精神に悪影響を与えてPTSDや犯罪を誘発するか否かといったことは、全く問題にならない。

 全ての教師が、おふざけで見せたのではなく、大まじめに取り上げたものと思いたいが、いずれにせよ、ほとんどのケースで教育効果と呼べるようなものは見られず、いわば教師のマスターベーションと呼べるような事態として終わるのではないかと思う。こういったことも踏まえて、ISISの動画とエロスについて今後も考察したい。

 ある意味では、先述の質問をしてしまいがちな我々の潜在意識にあるうっすらとしたテロリズムへの好奇心こそ、動画を見るということによってしか振り落とされ浄化されず、あるいは急性ストレス障害やPTSDに陥ることによってしか自分自身に気づかれないものであるのかもしれない。

 アメリカの原爆が「極めて緻密に計算されたアメリカの近代知性」によって「マゾヒズム的恍惚を要求しているわけではない広島・長崎市民」に投下されたものであるように、実は、ISISも、そして先ほどの質問を発する平和な我々日本国民自身も、本当は皆同じ穴の狢だと言えるのかもしれない。それがために、私の身震いも生じるのかもしれない。


■関連ページ・ブログ記事

●コタール症候群
http://iwasakijunichi.net/seishin/cotard.html

●解離性障害
http://iwasakijunichi.net/seishin/kairi.html

●女性の集団ヒステリーを考える
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/71190712.html

●佐世保女子高生殺害事件についての私見 ―「人は、人になったヒトである」ことをとらえ損ね続ける日本の「親切な」精神鑑定の現状(1)―
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/102240125.html

●佐世保女子高生殺害事件についての私見 ―「人は、人になったヒトである」ことをとらえ損ね続ける日本の「親切な」精神鑑定の現状(2)―
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/102240150.html

●巫女・陰陽師と解離・離人・憑依などとの関係
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/78118363.html

●現代の巫女と一般女性とに共通する潜在的古代的共感覚について
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/46343132.html

●私の和歌人生史、平成日本における伝統和歌の現状(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/50386486.html

●私の和歌人生史、平成日本における伝統和歌の現状(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/50713456.html

●東日本大震災と宮沢賢治の自然観について(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/46752749.html

●東日本大震災と宮沢賢治の自然観について(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/46935386.html

●今後の日本史の教科書に書いてほしいこと「東北縄文時代から東日本大震災へ」
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/47050302.html

●「秋の夕暮」的退廃美に見る「大自然本位」の震災復興の鍵(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/47210860.html

●「秋の夕暮」的退廃美に見る「大自然本位」の震災復興の鍵(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/47410388.html


■画像出典
http://en.wikipedia.org/wiki/Caligula_%28film%29
http://en.wikipedia.org/wiki/Salon_Kitty_%28film%29
posted by 岩崎純一 at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・宗教論

2015年02月09日

「ISIS(イスラム国)」の呼称論争について思うこと

 昨日もTwitterで簡単につぶやいたのだが、ここ二週間ほど、日本では(特にネット上やイスラム学界・国内のモスクでは)、「イスラム国」の呼称を「イスラム国」・「IS」・「ISIS」・「ISIL」・「DAIISH」などのうちのどれにするかで、かなりの論争が起きている。

 その中でも、「イスラム国」は圧倒的に不人気のようで、少なくともそれ以外の英語・アラビア語の略語で呼ぶべきだとする意見がほとんどである。日本政府は、すでに「ISIL」や「いわゆるイスラム国」と呼称することを明言している。

 エジプト出身のフィフィさんなどのタレントも、Twitterで、政府の言う通り「イスラム国」を「ISIL」に変えるよう結構厳しい口調で主張している。

 こうして、過激派テロ組織について、それこそ過激な呼称論争が日本人どうしで勃発しているわけだが、これらの呼称は結局、どれも「国」と言っているのであり、呼称の調整がどこまで日本国民の誤解・イスラム教差別の防止や対日テロ対策として有意で実効的な試みかは不明だと思う。

 そもそも、「IS〜」は「イスラム国」のことであり、「イスラム国」は「IS〜」のことなのだから、これは「言い換え」や「ニュアンスの変更」や「イスラム教差別の防止措置」ではなく、日本国内だけの「翻訳問題」や「略語問題」にすぎないのではないだろうか。

 これらの呼称の中で、「イスラム国」という訳語を一番問題に感じ、イスラム教差別だと思うのは、日本語の分かる我々だけ(日本人や、日本語の分かる外国人・イスラム教関係者・ISIS戦闘員だけ)である、という点が盲点になりすぎていて、いったいISISに腹を立てているのか日本人どうしで腹を立て合っているのか、何だか分からなくなってきた。

 元より、「イスラム国」と「イスラム国家・イスラム諸国」とを混同する日本人があまりに多すぎる(実際に混同しながら発言した被害者親族やコメンテーターがいる)という観点からも、呼称の調整必要論、訳語の廃止論が出ているのだとは思うが、よく考えてみれば、これは言葉のせいではないと思う。

 テレビやスマホで「イスラム国」という表記を初めて見たときに、「待てよ、そんな名前の国があったかな。イスラム国家ともイスラム諸国とも、何だか違うようだな。もしかして、そういう固有名詞を名乗る何らかの組織・集団かもしれない。調べてみよう」というくらいの注意力があったかなかったかの問題で、政府や世の中が呼称を変えたところで、呼称の変更自体に気づくのもまた、そういう注意力がある人だけなのだから、残念ながら、ほとんど不毛な議論ではないかとずっと思っている。

「ISIS」と「ISIL」の違いは、最後が「al-Sham」か「the Levant」かの違いだが、私は一応、ブログでは、アメリカ政府や日本政府の「ISIL」ではなく、CNNなどの海外メディアの「ISIS」を使うことにしている。

 また、「DAIISH」という語には、ISISが嫌悪するニュアンスが含まれており、実際にISIS側のメディア「フルカーン」もそう呼ぶなと反論しているが、どうやら組織の総意というわけではなく、単なる一部の戦闘員の好みの問題のようで、「ISIS」・「ISIL」の穏健なニュアンスを大きく覆すには至っていないようである。

 従って、

(1) 日本国内での呼称は、「イスラム国」・「ISIS」・「ISIL」・「DAIISH」のいずれであろうが、どの過激派組織を指しているか、そして該当組織が国際犯罪組織であることが、国民の「知る権利」の範囲で分かっていればよい。

(2) 「イスラム国」と「イスラム国家・イスラム諸国」との区別が付かないのは、区別が付かない人自身の問題であり、日本の反政府系マスコミがISISの印象を良くし政府を批判するための策略として「イスラム国」の呼称を頑なに変えていないのだという説は、(そもそもこれが国内の翻訳問題や略語問題で、印象操作自体が不可能である以上、)現時点では信憑性に欠けるようだ。

 私が現在感じるところとしては、以上のようなことだ。

 ところで、かつて私が学んだ山内昌之先生などは、「イスラム国ではない、イスラーム国だ」と怒っていらっしゃるかもしれない。
posted by 岩崎純一 at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・宗教論

2015年02月01日

過去の対日テロ事件との比較から今後の対策を考える 〜イスラム過激派とオウム真理教を同種・同質集団と見たアメリカの現代感覚の良し悪しを踏まえて〜

目次
■日本人人質の殺害
■過去の対日テロ事件に対する欧米キリスト教諸国(特にアメリカ)の態度を振り返る
(「どれもイスラム過激派のテロ」という意識)
■三つの対日テロ事件の比較(地下鉄サリン事件、シガチョフ事件、ISIS日本人拘束事件)
■海外産・日本産テロリズムの双方に警戒しなければならない点は変わらない
■参考文献・サイト


■日本人人質の殺害

 ついに後藤健二氏までもがISISに殺害されたと思われる動画が今朝、YouTubeにアップロードされた。政府も、殺害されたのが後藤氏本人で、これまでの動画と同様、合成・細工などはないとしている。

 新鮮な感想が衰えないうちに、今回の一連の日本人拘束事件について頭にあることを書きたい。

◆取り上げるテロ事件
(1) 地下鉄サリン事件(1995年3月20日)
(2) シガチョフ事件(2000年3月〜2001年7月13日)
(3) ISIS日本人拘束事件(2014年8月〜2015年2月)

 今回のテロ犯罪も、我々個々人の日常生活にとっては遠い出来事ではあるし、事件をあまり重く深くはとらえない人も多いようである。氏名も顔写真も出さずに無責任な書き込みができるTwitterや掲示板では、日本人二名の拘束動画をコラージュした画像・動画がアップロードされたり、直接ISIS戦闘員のアカウントに書き込みがなされたりし、ISISから反応があったりなど、実際に非政府レベル、SNS・サブカルチャーレベルでISISを刺激していたことも大変に印象に残った。

 早速、YouTubeが規約違反として淡々と削除してきた今までのISISの斬首動画を転載しアーカイブを作成しているカルト宗教・テロリズム関連ウォッチングサイトで、斬首動画の一部始終を見たところ、やはり斬首実行者は、これまで同様「ジハーディー・ジョン」のようである。(一方で、実行者は別にいて、「ジハーディー・ジョン」は映像でのコメントと斬首のフリのみの担当であるという説も飛び交っている。それ以上の詳細は不明。)

kenji-goto1.jpg ISISによるジェームズ・フォーリー氏殺害以降、同じ日本人として上記のような揶揄・コラージュ文化に対しても嫌な思いをしていたので、それをかき消すような意識で、自分の目で「ジハードのジョン」による斬首動画を全て見てきたが、ナイフを首に当てられる直前に、後藤氏が覚悟を決めたように自ら目を瞑って準備していたのが、かえって後藤氏の生前の活動の積極性を暗示させられるようであった。
(右は後藤健二氏の生前のTwitterでの言葉。)

 などと感じていたところ、早速、時事通信が「ほとんど身じろぎしない。首にナイフが当てられると覚悟を決めたように目を閉じた。」と報道していた。「動画における個人の一挙一動の情による解釈」に触れるのは、こうして個人のブログでの感想にとどめたほうがよいのではないか、権威あるマスコミにおいて述べても大丈夫なのだろうか、と少し心配になった。

 これまで日本はテロの標的になりにくかったからか、「やはり自分たちは無宗教の日本人でよかった」という人も多くいるし、私だって内心そう思うのだが、最大のムスリム人口を抱えつつ過激派が少ないインドネシアでさえ、無宗教は禁止されており、無宗教を名乗ると、運が悪ければ政府当局に密告されて逮捕されることもある。ムスリムにとって、アッラーフという存在がどういうものか、まずは比較的過激派の少ない(または、まだ影をひそめている)イスラム国家から勉強するのがよいのかもしれない。

 すでに後藤氏の件に関して、「もっと多くのジャップ(Jap)が後藤氏のような刺身になることを望む」と書き込んでいる親ISIS派の人たちや小グループも欧米圏に多数おり、彼らにとっては、「無宗教の日本人」は「1億人規模のアメリカ従属教というカルト宗教」という意識なのかもしれない。

 それにしても、動画が合成だ、いや合成でないとか、後藤氏の声だ、いや別人の声だ、後藤氏のまばたきがモールス符号になっている、いやなっていないなど、日本国民どうしで分析結果が最後まで真っ二つであったのは、いったい何だったのだろう。ISISのメディア部門「フルカーン」が、わざと「合成のように」作って撹乱し、それに我々日本人がまんまと引っかかったのだろうか。よく分からない。

 こういう動画は、「人類の悲惨な歴史の記録(アーカイブ)」としては、むしろネット上に残されなければならないと思う。「玉石混交」の情報社会の中で、徹底して「玉」を集める一方で国民に見せる「玉」と隠す「玉」とを選別せざるを得ない政府の行動と、「玉」も「石」もとりあえずネットワーク上に流しておくテロリズムウォッチャーの行動と、両方が五分五分に存在するのがよいと思う。


■過去の対日テロ事件に対する欧米キリスト教諸国(特にアメリカ)の態度を振り返る
(「どれもイスラム過激派のテロ」という意識)

 私は個人的には、今後も日本においては、ISISなどのイスラム過激派によるテロよりも、日本国内のカルト宗教・新宗教団体によるテロのほうが高確率で起きやすいと考えている。というより、ISISのようなイスラム過激派思想の影響をもろに受けやすい危険性を持っているのは、日本国内のムスリムであろうはずがなく、カルト宗教・新宗教団体、そして、ごく一般の一部の社会人・学生・大学教員などのほうだと考えている。

 そして、あくまでも個人的なカルト宗教・テロリズム事件ウォッチャーとしての見解にすぎないが、二人の日本人がISISに拘束された最初の動画を見て、なぜか私は、一見すると共通点のなさそうなシガチョフ事件(ロシア人によるテロ)、そしてその契機となった地下鉄サリン事件(日本人によるテロ)のことをふと考えた。

 しかし、よく思い出してみれば、これら二つの対日テロ事件は、多くの欧米のキリスト教諸国、特にアメリカが、当初アラブ・イスラム過激派テロリストの犯行と見ていた事件である。なるほど、「見誤ることがある欧米諸国の目」というつながりから、これら二つのテロ事件を思い出したのだ。欧米の報道各社にも、当初イスラム過激派の犯行と勘違いして報じたところがあった。

 そして何より、ISISの前身のアルカイダこそ、かつてアメリカが組織したムジャーヒディーン集団であるわけだが、アメリカ同時多発テロ事件をはじめとして、今やアメリカが最も扱いにくいテロ集団となってしまったようである。

 今回のISISによる日本人の拘束・殺害を一つの契機として、今後の対日テロ対策を冷静に(ある意味では冷徹に)考えていきたいと思うならば、「欧米諸国(の政府・報道機関)の目には、第一印象の段階では、イスラム過激派であろうが日本のカルト宗教であろうが、とにもかくにも“この種のテロ”が全く同種の“イスラム的な何か”として片付けられる蛮行と映る」ということは知っておいたほうが無難であろうし、やはり私としては、それが欧米、特にアメリカのキリスト教市民社会の功罪であるとも考えている。

 これは見方を変えれば、欧米諸国、そして欧米諸国に追随する中東やアフリカの親欧米政権の、「テロはテロで、どの宗教を標榜していても先進国の人権意識やキリスト教精神の敵であるから空爆する」という非常に分かりやすい態度が、他国で起きたテロの緻密な分析・選別、もっと言えば宗教学的・理念的な微妙な差異をすぐにとらえる嗅覚のようなものをあまり持たない、ということを意味しているように見える。

 もっとも、例えば、欧米諸国がロシア人が起こしたシガチョフ事件をイスラム過激派の仕業と見た理由も、無理に探そうとすれば、無くは無いと思う。現在のISISの戦闘員の内訳を見ても、アラブ人・ムスリムに次いで、ロシア人はチュニジア人と同じくらい多く、イギリスやフランスからの参加者数をしのいでいる。

 ISISに限らず、チェチェン紛争時代からずっと、イスラム過激派に占めるロシア人の割合は高い。イスラム過激派思想もオウム思想・シガチョフの思想もソ連崩壊後のロシア人の精神性に肯定的に響きやすかった共通点があるという意味では、欧米(あるいは旧西側・NATO側)諸国の目にはなかなか区別は付きにくいのかもしれない。

 ともかく、おそらく今述べたような「テロ=イスラム教そのものが内包する傾向・欠陥」と見てしまうようになった欧米諸国の一足飛びの態度は、今後の対日テロ分析に対しても適用される態度かもしれないわけだから、その点は日本人である以上、心しておいたほうがよいと思う。

 しかしやはり、そういったキリスト教精神を中軸とする先進国にオウム真理教のような日本産カルト宗教の思想を「イスラム教の影響を受けたテロ集団」と間違えて片付けられてもらっては、一般のムスリムや日本人が困ることになる。特にアメリカにその傾向が強いのは、かつて自らが組織しておきながら手に負えなくなったアルカイダを突き放して以来、他国の過激派の区別があまりつかなくなったからなのかもしれない。

 以下のように、欧米諸国がイスラム過激派と勘違いしたサリン事件とシガチョフ事件を起こしたオウム真理教は、「教義」上はイスラム教から最も遠いところから生まれているのである。そして、最終的に「同種・同質のテロ集団」となっただけで、今回挙げる三つのテロ事件は、「イスラム」とはもはや無関係の国際犯罪なのである。

 サリン事件の95年には、私はまだ小学六年生だったから、CNNなどが「アラブ・イスラム過激派の犯行」と報じたことはのちに様々な文献から知ったのみであるが、シガチョフ事件に関しては、アメリカ市民までもが誤解してネットでイスラム過激派を非難していながら、日本ではこの事件の存在そのものがほとんど放映されなかったことを覚えている。


■三つの対日テロ事件の比較(地下鉄サリン事件、シガチョフ事件、ISIS日本人拘束事件)

 さて、改めて三つの対日テロ事件を挙げてみよう。そのあとに、それぞれの共通点と相違点が分かりやすいように、事件の特徴を列挙した。

◆取り上げるテロ事件
(1) 地下鉄サリン事件(1995年3月20日)
(2) シガチョフ事件(2000年3月〜2001年7月13日)
(3) ISIS日本人拘束事件(2014年8月〜2015年2月)

●報道各社の第一報
(1) アラブ原理主義・イスラム過激派の犯行
(日本の公安当局がオウム真理教の犯行と見たのちも、欧米諸国、特にアメリカではイスラムの犯行と報道。)
(2) アラブ原理主義・イスラム過激派の犯行
(日本の公安当局がロシアのオウムの残党の犯行と見たのちも、欧米諸国、特にアメリカではイスラムの犯行と報道。当時は、直前に第二次インティファーダ、アルカイダによる米艦コール襲撃事件などが発生。直後にアメリカ同時多発テロ事件が発生。)
(3) アラブ原理主義・イスラム過激派の犯行
(今回は、首謀組織が積極的にサイト・YouTube・Twitterなどで声明・動画を公開。日本や欧米諸国に残された行動は、その動画などの真偽や合成の有無の分析であって、従来のような「テロ=イスラム教そのものが内包する傾向・欠陥」という態度による間違いは起こり得なかったと思われる。)

【参考】
 ちなみに、キリスト教原理主義者の青年によるノルウェー連続テロ事件においても、当初欧米諸国の多くは、便乗したイスラム過激派によるネット上のニセの犯行声明を見破ることができず、「イスラム過激派のテロの可能性」を報道。

●事件におけるインターネットの使用(事件時点でのインターネット情勢)
(1) 未使用。当日まで秘密裏のテロ計画。
(Windows 95の発売直前。ネットは未成熟だが、事件前の94年に日本の首相官邸がウェブサイトを初めて開設。その他の政府機関もサイトを次々と開設。教団が首相・閣僚などの動きを精査。)
(2) 使用。麻原死刑囚の思想を実現しない場合のハルマゲドン・全人類の滅亡の訪れと、日本人大量殺戮・日本破壊計画の構想をインターネット上で記述。
(GoogleもYouTubeもなかった時期で、ほとんどの日本国民は当事件の事前の知識が皆無。)
(3) 使用。メディア部門「フルカーン」および複数のウェブサイト・Twitterアカウントを有して日本人人質の殺害を警告し、YouTubeに犯行声明・殺害動画をアップロード。

(使用しているSNS・動画サイトや携帯型端末そのものは、一般の日本国民と全く同じ。)

●事件の結果(見逃した機関当局、阻止した機関当局)
(1) 既遂。阻止できず。
(2) 未遂。見逃し:東京入国管理局、警視庁、福岡県警 阻止:FSB(ロシア連邦保安庁)
(3) 既遂。阻止できず。

●首謀組織(首謀者・実行犯)
(1) オウム真理教
(首謀者:麻原彰晃、指揮・サリン製造・サリン散布・運転・運搬等の各省庁長官・幹部をはじめとする実行犯十数名)
(2) オウム真理教のロシア人信者
(首謀者:ドミトリー・シガチョフ、他ボリス・トゥペイコら幹部4名、協力者十数名)
(3) ISIS(ISIL、イスラム国、DAIISH)
(首謀者:アブー・バクル・アル=バグダーディー、他「ジハードのジョン」ら実行犯数不明)

●首謀組織の統治体制・国家転覆計画
(1) 国家を標榜し、省庁制を採用。ハルマゲドン(の捏造)。
 「日本シャンバラ化」を計画(日本国の打倒、東京都民・国民の大量殺戮、天皇・首相・議員の殺害、新聞社への襲撃、オウム国家の建設)
(2) 「日本シャンバラ化計画」の再興。ハルマゲドン(の捏造)。麻原彰晃の奪還。
(3) 国家を標榜し、行政・司法・警察機関などを設置。中東・トルコ・アフリカ・イベリア・ウイグルに至る統一カリフ・イスラム国家の建設。

●「殺人」の隠語(原典には以下のような過激な意味はない。)
(1) ポア、救済、精進(全て「殺人」そのものと曲解)
(2) 同上
(3) ジハード、キサース(「殺人」や「レイプ」と曲解)、ディーヤ(「欧米が支払うべき血の賠償金」と曲解)

●被害者
(1) 死者13人、負傷者6000人以上
(2) 未遂
(3) 死者2人(全世界の死者・負傷者数は不明)

●思想的支柱・原理(自称)
(1) チベット密教、原始仏教、ヨーガを中心とし、儒教、道教、ゾロアスター教、キリスト教を混在させた「真理」の追求
(2) 同上
(3) イスラム教スンニ派、サラフィー・ジハード主義

●組織の規模、国籍、兵力
(1) 1万人以上(日本人。東京大学・早稲田大学など一流大学出身の有能者、医師、科学者、弁護士などが幹部・省庁大臣に就任。出家・在家信者に分かれる。)
(2) ロシア人信者3万人以上(日本国内の信者の数倍)、教祖に忠誠を誓うテログループが複数存在し、うち一つがシガチョフのグループ
(3) 戦闘員1万人〜3万人?(支配下にある住民は1000万人?)、アラブ人・パレスチナ人・ロシア人・チュニジア人・エジプト人・欧米人・ウイグル人(民族)・中国人(漢民族)・日本人などが参加

●女性・女児の扱い
(1) ハーレムを形成(ダーキニー)、新規入信女性の選別によるダーキニー登用
(3) 性奴隷として誘拐、現世におけるフーリー(「天女」ハーレム)の養成・強制的性労働


■海外産・日本産テロリズムの双方に警戒しなければならない点は変わらない

 こうして見てくると、今後、日本として対日テロを阻止していくために重要なことは、「何の情報分析もしていないのに、組織の構成・行動・統治体制・国家志向などが似ているからという理由だけでとりあえずイスラム教関連のしわざにしておく、という態度を日本は持っていない」ということを、世界に、特に空爆の主導者アメリカ、そして今回日本政府が頼ったヨルダンなどの空爆国に対し、徹底的に発言していくことなのかもしれない。

 そもそも防ぐべきものは、イスラム教との交流でさえなく、海外産テロリズムまたは日本産テロリズム(日本人によるホームグロウン・テロリズム)なのであるから、日本国内の一般のムスリムよりも、仏教カルトや神道カルト、一部の社会人・学生などのほうがISISの思想の影響を受ける可能性があると見るのが妥当ではないだろうか。

 ISISのテロと全く同様に、これらをも阻止する態度を明確にし、法整備を進めていかなければならない。

 私は普段、政治的立場がお互いに全く異なる場所に出入りすることもあり、むしろ観察していて日本人による同士討ちテロの不安のほうを身近に感じることが多いのだが、それもあって今回のようなブログ記事を即日書いておいた。


■引用元サイト

後藤健二(@kenjigotoip) Twitter
https://twitter.com/kenjigotoip(2010年12月2日の記事)

■参考文献・サイト

Jihadi John(ジハードのジョン)
http://en.wikipedia.org/wiki/Jihadi_John

“FALSE PROPHET: THE AUM CULT OF TERROR” crimelibrary.com
http://www.crimelibrary.com/terrorists_spies/terrorists/prophet/1.html

オウム真理教対策(警察庁)
https://www.npa.go.jp/archive/keibi/syouten/syouten269/sec03/sec03_04.htm

オウム真理教(公安調査庁)
http://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/ES_E-asia_oce/aum.html

破壊活動防止法(昭和二十七年七月二十一日法律第二百四十号)
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S27/S27HO240.html

「イスラム国」と過激派の実像(時事ドットコム)
http://www.jiji.com/jc/isk
「身じろぎせず覚悟の表情=後藤さんとみられる男性」(時事ドットコム、2015年2月1日)など
http://www.jiji.com/jc/isk?g=isk&k=2015020100030

「後藤さん殺害か 祈るように目閉じる」(日刊スポーツ、2015年2月1日)
http://www.nikkansports.com/general/news/1428900.html
posted by 岩崎純一 at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・宗教論