2017年07月30日

『巫女神道探訪記 ― 日本的アニミズム感覚の源流を訪ねて ―』(1) 序 「巫女神道」とは何か

序 「巫女神道」とは何か
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【リンク元】
岩崎純一のウェブサイト内 特設サイト 「神道・仏教研究」 (http://iwasakijunichi.net/shinto-bukkyo/
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巫女神道
岩崎純一 --- 2013年3月2日

 この記録は、私(岩崎純一)による巫女神道の探訪記録、特に斎の巫女(いつきのみこ)の方々との交流の記録(議論交換ノートのネット用改訂版)です。
 巫女神道と関わるようになった経緯は、これ以降の本文で述べているほか、上記サイトにも簡単に掲載しています。

伏見稲荷大社(京都への一人旅で岩崎が撮影)「巫女神道」という用語をお使いになっている神道関係者、特に神職は少ないと思われますが(巫女は一般に神職ではありません)、巫女の方々ご自身が「皇室神道」や「神社神道」との対比としてお使いになっているケースはよく見ますので、私もこの用語を採用しています。

 これまでに私は、近現代の一般的な神社神道、すなわち、神職男性が神前で祝詞を唱え一定の所作を行う祭祀を中心とする神道の巫女文化も探究してきました。これには、皇室神道、神社本庁所轄の全神社の神道、単立神社の神道、旧国家神道の全部、旧教派神道の一部などが含まれます。

 しかし、ここで扱う巫女神道とは、斎の巫女・神子(斎女)が巫女舞(巫女神楽)によって日本の八百万の神々を自らの体に降ろし宿らせて託宣する(とされる)原始神道、すなわち、中山太郎らの民俗学者が「巫女教」、「女巫の教」などと呼んだ一種のシャーマニズムを指します。

 ただし、上記の神社神道の巫女であっても、神懸りの秘儀など一般国民の日常からかけ離れた生活を継承している巫女は、ここに含めます。現在の巫女の9割以上を占める、社家出身でない一般の女子大学生・女子高校生のアルバイト巫女については、どのような体質や感覚能力を有する場合に事実上の隠れた斎の巫女と認められると考えるべきか、斎の巫女の方々と岩崎が本文中で議論しています。
 一方、神道色を廃し、ニューエイジ系の思想やマインドコントロールの手法を採用した一部の教派神道系教団の儀式を行う巫女は、ここから除きます。
 天皇や公家の私的使用人として、つまり、一般家庭の家政婦と同じ法的なお立場として、皇室神道の巫女を務めている現在の内掌典については、神懸り神事を行っていませんが、その特殊なお立場から、私の私的見解で研究対象に含めます。
 その一方、神宮祭主のように、勅旨=天皇の私的命令などによって戦後に意図的に元女性皇族ばかりが連続で就任しているにすぎない地位の場合、巫女神道の一役職とは言えませんので、ここからは除きます。

 多くの神社神道の祭祀・儀式においては、神職および巫女は、現代の精神病理学・脳神経学上で「転換性障害」、「身体表現性障害」、「憑依障害」、「カタレプシー(強硬症)」、「カタプレキシー(情動脱力発作)」、「共感覚」などと呼称される意識・知覚の変容を全く、またはほとんど伴っていないと考えられますが、斎の巫女の神懸り体験では、これらが激しく伴います。
 ただし、注意すべきは、斎の巫女の神懸り体験は、多くの科学者によって自己催眠現象であると分析され、巫女たち自身もそう自覚している点です。つまり、斎の巫女たちは、半ば随意的に自らこれらに陥ったりこれらから脱したりできる身体技術を身につけています。いわゆるパワハラやセクハラ、犯罪被害などによって神経症性障害(不安障害、PTSD、急性ストレス障害など)や精神障害(鬱病など)に陥った女性の意識混濁や「うわごと」とは、様相が(重なる部分もある一方で、)紙一重のところで異なっています。また、斎の巫女たちの転換性・身体化型のヒステリーは、単に傲慢で凶暴な性格の女性の暴言や暴れ方とは根本的に異なっています。

 私の場合、故郷岡山(日本神話・古代吉備王国時代以来)の秘伝的な巫女神道(特に斎の巫女による祭祀・儀式の最中の知覚・認識・思惟の世界それ自体)への関心が主となっています。

2016年11月21日

【大麻取締法違反】高樹沙耶容疑者の逮捕と日本の共感覚者・共感覚研究者界隈

 石垣島で男性らと大麻パーティー村を築いていた元女優の高樹沙耶容疑者が逮捕されて以来、色々な学識者や謎の薬物評論家たちがコメントを述べているが、日本の共感覚者・共感覚研究者界隈でも賛否両論あるようである。むしろ、共感覚者・共感覚研究者の間では、高樹沙耶容疑者の思想に賛同する立場は結構多く、元より大麻合法化を主張する人も少なくない。

 そうなると当然、それは「大麻合法化論者である共感覚者」なのではなく、「大麻によって得た共感覚を、生得的にまたは自力で得た共感覚と詐称または誤解して、大学・医療などの研究に研究者・医者・被験者として潜り込んでいる人物」である可能性が出てくるので、その研究自体が疑わしくなるし、まじめな共感覚者たちからすれば迷惑な話である。

 共感覚をまじめに「科学」しようと思うなら、日本の薬物関連犯罪の現状に鑑みて、自ら共感覚者を主張する被験者に薬物検査を実施し、非薬物性の共感覚と薬物性の共感覚とを分けて研究しなければどうしようもないにもかかわらず、目の前の被験者を最初から非薬物性の共感覚者だと見なしている点に、私などは非科学性を感じてしまう。今回も、高樹沙耶容疑者の表向きの政治的主張は「医療大麻の普及」であり、大麻パーティー村の表向きの姿は「医療大麻の普及のための研究施設」であった。

 私は、日本の共感覚界隈や薬物・幻覚研究界隈のこういう態度が摩訶不思議というか、嫌悪感を覚えるところであるので、今後とも様子見をしながら批判的に関わっていくことになるだろう。

 私は、ほぼ個人活動で(日本共感覚研究会として数名の方にご協力いただきながら)、下記のような資料を作成・公開している。もちろん、違法薬物の使用を検討している日本人への情報提供が目的ではなく、日本の違法薬物蔓延の現状に警鐘を鳴らすためである。私としては、「現代日本は現代日本の薬物観や植物学観、法学観で動くべきで、普通に薬物を摂取して薬物共感覚パーティーや幻覚実験を楽しんだり、共感覚論文を量産したりしているオランダやアメリカの一部の州の価値観に追随する必要はない」という考えを提示し、高樹沙耶容疑者のような人物が日本の共感覚者・共感覚研究者から出ないように願っている。

 日本人であれば、例えば「茶道それ自体が、心身の薬でもあり、共感覚的大宇宙である」という哲学論文でも書いて世界に提示すればよいというのが、私の考えであることに変わりはない。

「麻薬・覚醒剤・危険ドラッグ・指定薬物等による共感覚の出現の知見の有無と当該薬物の国際条約及び世界各国・日本国の法令等における扱いとの対応表」
http://iwasakijunichi.net/jssg/hokokusho/hokokusho4.pdf

 大麻に関して言えば、現在はオランダ、ウルグアイ、バングラデシュの全土で合法であり、アメリカはワシントン州、コロラド州など西部地域で合法の傾向にある。最も規制が緩いのがオランダで、他の合法国・地域ではマフィアなどの裏社会やスラム街の治安悪化などが絡んでいるのに対して、オランダでは一般白人の男女やLGBTの人々が普通に使用している。大麻が世界的に合法化されつつあるのは、多くの場合、麻薬犯罪組織などがどんどん裏社会へと隠れないようにするための措置なのであるが、オランダは(その価値観の善し悪しは横に置くとして)もはやそういう国ではなくなっている。

 オランダは、大麻や売春、それらを伴う限定的なパーティーの開催(いずれも合法)についての根本的な考えが、その是非は別にして、日本や東洋とは異なっているわけであって、高樹沙耶容疑者のように、多くの日本人の価値観とは異なるオランダ的主張を日本の国会議員選挙でされても、日本人の価値観がそちらに流れるはずはないのであった。

 オランダでは、例えば、運転免許講習や女性警官採用試験、料理人資格や家政婦採用などにあたり、「試験官(男性)側が受験女性に対して、講習料・試験料免除の代わりに買春を持ちかけ、女性が了承すること」は双方が合法であるが、「女性側から試験官に対して、売春するから講習料・試験料を免除するよう持ちかけ、試験官が了承すること」は双方が違法である。

 こういった価値観は、少なくないオランダ国民の意見であるのみならず、政府・国会・裁判所が表明している公式の見解でもある。日本人の私には意味不明であるが、すでにいくつかの技能講習については、法案が通り、「一部の公的資格の教官による受講者・受験者に対する買春の提案および買春実行の主導による講習料の完全免除」がオランダでは合法化されている。
(買春を主導せず、売春の形に誘導した場合はアウト。)

 オランダ政府の公式見解に忠実に書くと、「運転免許講習など技能の教授を主目的とする教習所や専門学校などの技能教授者(男性とする)に対し受講者(女性とする)側が負担すべき受講料について、金銭の代わりに性的活動(女性の身体の提供)によってその支払いとすることが、男女共に合法であるためには、女性の身体の提供を技能教授者である男性が主導的に提案し、持ちかけた場合に限る。受講者の女性がこれを持ちかけた場合にこれが違法であることは、論を待たない。女性が技能教授者で男性が受講者であるならば、当然女性がこれ(性的活動による受講料の免除)を持ちかけた場合のみ、合法である。」だそうである。

 今やゲルマン系オランダ白人にとって、家族や友人やLGBTどうしで大麻パーティーを楽しむことも、自由と平等と高い人権意識の表れだそうだが、一方で死刑には断固反対の立場が多く(死刑は廃止済み)、死刑存置論者が8割を占める日本の状況や、日本の殺人事件の被害者遺族が犯人に極刑を求める感情については、キリスト教的絶対悪と区別がつかないようである。

 このような価値観を持ったオランダや一部のアメリカの州の研究者・被験者が実施した薬物共感覚実験や薬物幻覚実験(大麻セックス実験など)が、日本の学術界の中でのそれと比較対照できるわけがない(そもそもそのような研究・実験は日本では法的に不可能である)のは、自明である。

 それにしても、ゲートウェイドラッグ(他の強力な薬物への入口)としての大麻に手を出している日本人が集まりやすい怪しい場の一つとして、今や共感覚の世界は挙げざるを得ないと言える。彼らは、オランダ、ウルグアイ、バングラデシュ、一部のアメリカの州の若者が味わっている「薬物共感覚」をどうして日本では合法的に味わえないのか、という不満な本心を、いかにも正当で綺麗な「医療大麻」や「共感覚研究」などの語に置き換え、隠そうとしているわけで、そういった人物や団体はこの世界ではそこかしこに散見される。ここから先、様々な麻薬、覚醒剤、危険ドラッグ、指定薬物へと手を出していくおそれがあるわけである。

 私は、日本の研究者は日本の研究者らしい共感覚研究や薬物・植物学研究を確立すべきだと考えるが、高い確率でそうはならないだろう。

↓ 日本共感覚研究会のその他の報告書はこちら
http://iwasakijunichi.net/jssg/hokokusho.html
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2016年05月29日

北村紗衣編 『共感覚から見えるもの−アートと科学を彩る五感の世界』 がつける日本の共感覚研究界の道筋と、共感覚についての私の今後の目標

目次
■序文 ―本著がつける日本の共感覚研究界の道筋―
■著者陣の不思議
■現在の私の共感覚についての関心事項と、共感覚者ユートピアの可能性について
■「フェミニズム運動家が出した共感覚本」という声について
■「共感覚に意見しない」ところに残る共感覚観
■ニッチな共感覚の探究を在野で行うことの意味を考える
(DV・性被害・虐待被害女性、精神障害者、発達障害者、巫女、社家の子女、歌道家の子女、芸妓・舞妓などの共感覚についてのフィールドワーク)


■序文 ―本著がつける日本の共感覚研究界の道筋―

 注目していた標記の著がようやく日の目を見たということで、早速読んでみた。そんな中、ぜひ感想をブログに書いて下さい、と言われた。
 著者・読者から計三冊もご恵贈されそうになったので、最初の一冊だけ頂くことにした。
 本著の内容自体は、それぞれの著者のこれまでの著書や論文にすでに書いてあることが多く、私が紹介するまでもないし、私としても読んだことがない内容はなかったとは言えるが、それでも労作であり、良書であると思う。これを一冊手に入れれば、とりあえず日本人の共感覚研究者たちの文章が一通り読めるということで、有意義だと感じる。
 これらの編者・著者や、あとがきに挙げられている協力者については、私も半数ほどにお会いしたことがあるので、その方々の共著がこうして見られるのは面白い。
 最近7・8年は、北村氏・松田氏・湯澤氏など、本著に実名で登場している共感覚者の皆様とはほとんど縁がなくなってしまったが、共感覚に関するパネル発表のサイトでの頒布資料など、北村氏・本著の著者界隈の共感覚資料はおそらくほとんど拝読しており、これはきっと北村氏の単著としてよりも人文系・芸術系の共感覚研究者陣の共著として何か出すのだろうとは期待していた。
 今後しばらくは、本著が日本の共感覚研究界の道筋をつけ、売れる本とはならないまでも、共感覚に関心を持つ人の間ではスタンダードな教材になり、若手の共感覚研究者も学生たちも、必ず本著を通ることになるだろう。
 出来の良い本なので、書かれてある内容については私がここで書くところがないわけだが、本著を含めた日本の共感覚研究および共感覚研究者が全く足を踏み入れていない領域のうち、私がもっぱら個人として在野・私費で研究している分野を中心に、書いてみようと思う。


■著者陣の不思議

 それにしても、出版後、読者から「岩崎さんはこの本に呼ばれなかったのですか?」と尋ねられた上、著者の三名からも出版前後に同じことを言われたので、何も書かないのは心苦しく、それなりに本著に触れる意味はあるのだろうと思う。
 結果的に、本著内で私に触れているのは日本大学藝術学部文芸学科の山下聖美教授のみで、他の数名の著者からは、「本当は岩崎さんに触れたかったが、なんとなく登場させられなくて申し訳ない」旨の連絡があった。触れなくてももちろんよいのだが、山下教授のみが私に触れているのにはおそらく理由があって、教授が日本文学研究者であることがまずは根底にあるだろう。
 今回の書籍について、最も私の関心を呼び起こした点は、内容それ自体よりも、ここまで共感覚観どころか学術的立場や思想信条や文体の異なる共著者たちが、どうして編者である武蔵大学の北村紗衣専任講師に呼ばれたのかという点である。
 そして、その経緯や苦労が書かれたあとがきを見てみるに、やはり大学や学会などで面識のあった共感覚者や研究者どうしが集まったのではなく、北村氏がとにもかくにも面識のない著者候補にも「ヒップホップか何かのプロデューサー」のように「コンタクトをとるというようなことを繰り返し」て集めたと面白いことが書かれてある(p413)。
 一方で、本著は人文系・芸術系分野に絞ったためか、本著に著者が呼ばれていない日本の著名な共感覚研究グループには、東大の統合的認知研究グループ(横澤一彦教授)や立教大の現代心理学部心理学科(浅野倫子助教)などがある。ただし他にも、東大、京大、東京藝大、早稲田大、専修大、宇都宮大、徳島大などに人文系・芸術系の共感覚研究者がいる。
 一方で、松田英子氏(日本共感覚協会)や湯澤優美氏など、日本の共感覚研究の黎明期に北村氏と共に大学生であった理系や心理学系の研究者や社会人が、協力者に名を連ねている。
 また、家政系の大学や女子大学には、共感覚を利用した和服、茶道、華道、料理などの試みがあるが、これらもインターネット上での情報が乏しいためか呼ばれていない。
 あるいは、例えば私の共感覚コミュニティの中心を成している神社の巫女や社家の子女、歌道家の子女、芸妓・舞妓に見られる日本独特の共感覚などについては、いわば生粋の人文・芸術系であり、海外の人文・芸術系の共感覚研究との面白い対比が可能な分野であるにもかかわらず、全く触れられていない。というのも、この分野は、私もサイトを立ち上げて数年経ってから、連絡を受けて出会ったわけで、編者が著者集めをするためにネットを探したところで、見つかるような類のコミュニティではない。
 また、同じく私の共感覚サークルの中核を成し、極めて豊富な共感覚の交流を楽しませてもらっているDV被害者シェルター、性被害者施設、精神障害女性寮、発達障害者施設、特別支援学校の人々の共感覚(後述)については、本著どころか、日本の共感覚研究界に視点そのものが存在していない。ところが例えば、共感覚が発達障害者・自閉症者に多発することは、海外では2012〜13年には研究報告がなされている。
 こういった経緯を見るに、北村氏は、面識を持たないながらもネット上に情報のある研究者(ただし、非在野・職業としての大学教員・共感覚研究者)にメールなどでコンタクトをとる労力をかなり費やしたことが分かる。
 ただし、こういう事態になること自体は、あまり不思議ではない気がする。
 私はいつも、「日本の共感覚ブームは7・8年前に終わっている」旨を述べているし、以下の日本共感覚研究会の沿革にもその経緯を掲載しているが、北村氏も「今は昔、(学生の頃が)mixiの全盛時代であり、mixiの共感覚コミュニティは盛況だったのである。」(p411)と書いており、これは本当にそうだったと言える。まだ皆が学生だった頃、2004年から2008年頃のことである。しかも、私以外に共感覚男性の共感覚告白サイトがいくつもあった。
 共感覚者サークルができたのもこの頃であり、私はこの十年でいくつかのサークルに参加してきたが、そのうちの一つの系譜において、北村氏や、著者の方々や、北村氏によって実名が挙げられている方々と数年間交流させていただくに至った。

日本の共感覚史と本会の沿革
http://iwasakijunichi.net/jssg/enkaku.html

 見方を変えれば、ブームが過ぎてもなお共感覚に飽きもしない人が、本当に共感覚に関心のある人だとも言える。北村氏もまた、その一人だと言えるだろう。


■現在の私の共感覚についての関心事項と、共感覚者ユートピアの可能性について

 そういう意味では、私が関わってきた(自分で立ち上げたり協力したりしてきた)サークルも、分野は違えど、どこかで必ず共感覚を扱ったことがあると言える。ただし、私の私費で、かつ在野で活動している以上、北村氏や著者陣のように、純粋に学術界に身を置き、研究者側・教育者側の社会的立場に立つというレールそのものに人生や生活が乗っていないのだから、同じ共感覚研究と言っても、宇宙が違うものになっているのは当然である。
 そもそも現在の私の活動は、サイトをご覧いただければ分かるように、もはや共感覚どころではなく、共感覚以外の分野、かつ共感覚のニッチな(共感覚研究界・学術界が扱っていない)分野が多くを占めている。「岩崎さんの全活動を整理整頓するのに、どうするのが一番よいか」と、とりあえず「岩崎純一研究会準備室」が共感覚者などの交流者によって立ち上がるという、突拍子もない事態になっている。
 現在私は、共感覚については、主に以下の活動の中で触れていることになる。(いずれも、「岩崎純一のウェブサイト」内に当該コンテンツあり。)
 2004年のサイト開設以来、12年間で延べ500人以上の共感覚者(自称を含む)と交流してきたが、現在まで面識を持ち交流が続いているのは、30〜40人ほどであり、その中に北村氏を含む本著の協力者陣は一人も含まれていない。著者の一部は含まれているが、むしろ、発達障害者や精神障害者、神経症性障害者などとの交流のほうが、逆転してずっと多くなっている。

◆自分自身の共感覚データベースの作成と、一部のサイトでの公開
◆日本共感覚研究会の活動
 ●共感覚研究者の研究内容・動向の観察や、共感覚セラピー・共感覚カウンセリングなど日本の共感覚ビジネスの実態の追跡
 ●麻薬・覚醒剤・危険ドラッグ・指定薬物等による共感覚の出現の知見の有無と当該薬物の国際条約及び世界各国・日本国の法令等における扱いとの対応の調査
 ●共感覚イノベーション事業など国や自治体、研究・教育機関による共感覚関連事業への公金・税金の投入の実態の調査
◆哲学・社会学・精神病理学・言語学・国語学・仏教学・数理論理学・超数学・物理学分野
 ●DV・性的暴行・虐待被害体験などによって生じる不安障害・恐怖症・強迫性障害・PTSD・解離性障害に伴って発生する共感覚・特殊知覚の研究と、当該知覚の体験者のコミュニティ形成
 ●主に上記の共感覚女性や精神障害女性、神経症性障害女性が集住するシェアハウス型女性寮・避難シェルターへの協力
 ●岩崎式日本語や岩崎式言語体系の考案、哲学・認識論・存在論・現象学などからの共感覚研究
 ●宮沢賢治、中村雄二郎、和辻哲郎、今西錦司、三木成夫、井筒俊彦、梅棹忠夫、鈴木大拙、九鬼周造 、藤原定家などの感覚・知覚観の研究
 ●発達障害者、知的障害者(男性が多)との共感覚についての遊戯

 共感覚をその名に冠する「日本共感覚関連動向調査会」、「日本共感覚研究会」も、共感覚研究の実施よりも共感覚研究の観察の立場をとっている。「共感覚者和歌の会」も「伝統和歌の会 余情会」も、共感覚を持つ神社の巫女や社家の子女、歌道家の子女、芸妓・舞妓さんが参加してきたが、もはや「共感覚」というテクニカルタームをテーマとはしていない。
「岩崎純一さんのお話を聴く会」、「岩崎純一さんに会いたい会」、「岩崎純一さんとの合同勉強会」などについては、「共感覚」ではなく「共感覚観を語る岩崎純一」がテーマであり、名称が恥ずかしいながらも嬉しかった旨を以前のブログ記事に書いた。
「岩崎式日本語研究会」にも共感覚者がおり、「超音波知覚者コミュニティ東京」に至っては、超音波が「聞こえる」のではなく「見えたり」「匂ったり」することで検知できる巫女や発達障害女性までもが参加してきたが、共感覚そのものに特に固執していない。
 こうしてみると、私が「共感覚研究」自体よりは「共感覚ユートピア」のようなものを志向しているようにも見えるが、それともまた私の思いは違っていると言える。
 以下、私のスタンスから見て、私が現在の学術界で展開されている共感覚研究に身を置くことのほうがなかなか難しいことは、読者にも伝わるのではないかと思う。
 私自身はこうして、今は学術界における共感覚研究には何ら携わっておらず、在野で独立独歩の共感覚者コミュニティを形成しており、むしろ、数十の大学から授業やゼミの先生としてゲスト講師や招聘講師として呼ばれる側のスタンスとなっているし、ある意味では私自身がそのスタンスを狙ってやっているところがある。本著についても、共著者陣が私を入れてくれようとしただけで、編者・編集者側にはその想定はなかったと思う。
 元より、私が扱っている内容については、今回の編者の北村氏やほとんどの共著者は一切扱っていないし、逆に私は私で、今回の書籍に書かれている多くの内容にはどうしても飽きてしまっており、今はあまり興味がないということは言えてしまう。しかしそれは、書籍の内容の良し悪しを問うているのではなくて、視点が別の土俵に乗っているという意味である。この書籍が出た動向や編者・著者の言動・心理についてのメタ視点からの観察・追跡それ自体こそ、私の活動であるという意味である。


■「フェミニズム運動家が出した共感覚本」という声について

 その中でも今回、読者(共感覚者)数名から盛んにメールなどで尋ねられたのは、本著制作期間真っ最中における、北村氏のTwitter・ブログでのフェミニズム・LGBT・反原発などの言動のことであった。この件は、本著どころではない騒がれ方をしたので、目に入らないはずがない。ドカンと大きく共感覚を扱っている私のサイトに共感覚関連の各研究者やTwitter読者からの問い合わせが入らないはずがない。全く共感覚者の間でもそれなりの騒ぎであった。
 中には今回も、「フェミニズム・LGBT人権運動家の北村氏が出した共感覚の書籍」ととらえている読者が一定の割合いる。「共感覚者の北村氏」と知っている読者は、私の周りではあまりいない。そういう書籍を、別の形で女性の共感覚についての論を展開している岩崎さんはどう思いますか、というのが、私が感想を書く中で読者から回答を期待されている質問なのであった。
 ただし、北村氏自身は、本著で共感覚の話題とフェミニズム・LGBT・反原発などの話題とを特に混在させていないし、そこは丁寧に書いているので、本著「だけ」を読めば問題なく読めるはずだが、北村氏のTwitterやブログを読んでいる読者の場合には、読み方は様々なのだろうと思う。
 確かに、本著の編者を受けるほど今も共感覚に熱心な研究者の一人である北村氏の、別分野での言動やスタンスについて、読者たちがどういう感懐を得たかを包括的・客観的に観察することは、日本の共感覚界に限らず社会現象を見ていくうえで意義あるものと私は思う。
 信じられないかもしれないが、2007年前後に一気に火がついて形成されたほとんどの共感覚者サークルで、女性参加者が数名〜15人であるのに対し、男性参加者が私一人になることが増えた。そのこと自体は、私自身はストレスにはならないものの、発展的脱出ができないものかと考えるようになったのは確かだった。これが十年近く前の出来事だとは、もはや信じられない。
 それぞれの共感覚女性の集いには、私から見て性格・気質・思想信条・政治的立場などの違いがあり、それが私には非常に興味深く思えたし、共感覚者女性の中でも派閥があるものだと驚きを持って私には観察された。
 ただし、「西洋において共感覚者は、サルだ、ゴミだ、タコだと差別されてきたが、今や発言権や学術的地位を獲得した。フェミニズムやLGBTもそうだ。日本における人権運動についても、このレールを敷けないはずはない」と主張する、ほとんどNPO・人権団体と区別の付かない共感覚女性グループの形成は、当時は普通だった。何も北村氏の主張というわけでもないので、そこだけは読者は注意したほうがよいと思う。
 しかし、私にとって、本当にエロティックでラディカルでグロテスクで衝撃的な共感覚体験をした女性による共感覚サークル、そして私に真に深い感動を与えた共感覚サークルは、DV被害・性被害・虐待被害によって共感覚や精神障害を生じた女性や、巫女や社家の子女や歌道家の子女によって形成されたものだった。


■「共感覚に意見しない」ところに残る共感覚観

 多くの共感覚者サークルがいわば女子会として運営されていく中で、私としては、驚くべき特殊環境(古代的・自然的環境や秘密的・閉鎖的環境)で生活している共感覚女性(神社の巫女、社家の子女、門跡の若い子女、あるいは一方で、DV・性的暴行・虐待被害によって共感覚を得た女性)や、共感覚を持つ戦争神経症の高齢男性に、私自身の深い関心を見出すことになった。こうして私の中で、共感覚は人間実存の深層と原理とを見せてくれるものとして、哲学や精神病理学、そして日本文化と結びついていく。
 また当時、共感覚と発達障害・自閉症の深い関連を著書やブログで解説したところ、東大の横澤氏など従来の研究者には「両者の知覚には関連はない」としてほとんど関心を持たれなかったため、私はひたすら一人で発達障害者と共感覚を楽しむことに徹する期間が長かった。発達障害者・自閉症者の施設に行けば、元々男女比が3対1から5対1である発達障害・自閉症なのだから、共感覚男性が多く見つかると考え、フィールドワークをし、案の定、発達障害の共感覚男性と知り合って交流してきたが、これについては、東大の教育学部の信吉真璃奈氏などが関心を示して、ここ数年でようやく道筋がついたのだろう。
 あるいは、DV・性的暴行・虐待被害によって共感覚を得た女性や、発達障害・統合失調症・不安障害・恐怖症・強迫性障害・PTSD・解離性障害などの女性については、一緒に岩崎式日本語という哲学・言語学体系の構築を試みた。本著の著者の坂本真樹氏や武藤彩加氏が最も分野的に近いと考えたが、両氏にとって、心理的重圧によって生じる共感覚は分野外であり、より実用的で商業的・ビジネス的に生かせる共感覚を追求するルートを目指しているため、立場が異なるだろうとの回答があった。
 私は、「文字や音に色が見えること」自体にはほとんど関心が向かなくなり、人間実存をその背後から支える「共感覚原理」や「共感覚帰属性」といったものを志向するようになった。そして、著書を出してから7年立った今でも、共感覚について相変わらず態度が変わっていないと言える。
 換言すれば、私は、「共感覚なる知覚様態それ自体について意見しない(個人的見解を持たない)ということを徹底したところに、どのような共感覚論・知覚論が現出されるか」を考えており、その上で「日本的共感覚観」が確立できるかどうかをライフワークとして考えている。これについては、著書でもブログでも、「共感覚は個性ではなく、意志である」旨を述べているが、ここで言う「意志」とはショーペンハウエルの言うところの「意志」に近い。私に関するサークルのほとんどが、このライフワークと密接なつながりを持っている。
 私の著書としては、2009年の『音に色が見える世界 「共感覚」とは何か』(PHP新書)と、2011年の『私には女性の排卵が見える 共感覚者の不思議な世界』があるが、これらを含めた私自身の共感覚観について改めて簡単に説明することが、皆様から頂いた冒頭のご質問への回答、そして日本の現行の学術界・教育者側の共感覚研究のレールを私が外れていった理由の解説になると思うので、書いておきたい。


■ニッチな共感覚の探究を在野で行うことの意味を考える
(DV・性被害・虐待被害女性、精神障害者、発達障害者、巫女、社家の子女、歌道家の子女、芸妓・舞妓などの共感覚についてのフィールドワーク)

 先に、北村氏のTwitterでの発言などに少なからぬ読者が賛否両論を持っている旨を紹介したが、それはともかく、普段の北村氏の女性観やセックス・ジェンダー観を見てみるに、本著の編者・著者の全員の中で、私がこの十年間で見てきた共感覚女性たちの現実に、本来私どころではない積極性と好奇心を持って興味を示してもおかしくないのは、北村氏やフェミニズム運動家の共感覚女性たちであると考えている。
 例えば、極めて重大なDV被害や性被害、虐待被害を抱えて生きる女性には、こちらが疲れてトラウマになるほど出会ってきたし、つられて涙した体験もあるが、十年間ずっと口を酸っぱくして書いてきたように、これらの女性にものの見事にきらびやかな共感覚が身につく(蘇る)ことがある。性的暴行を受けてPTSDを発症した異性愛の女性が、レズビアンになったと同時に、突然文字が読めなくなり、共感覚で色や音楽を付けてしか読むことができなくなったといった事例は、探そうと思えば(DV・性被害女性シェルターなどに丁寧に問い合わせれば)、探せるものである。むしろ、大学の職を持っていたりNPO・人権団体の幹部にいたりするフェミニストの共感覚女性たちがこういった行動をとっていないとしたら、そちらのほうが私は不満である。
 それにしても、先の被害女性のような共感覚に遭遇した時、私は、「非常事態が起きたがために、常人には起きえない特殊感覚が身についた」とは考えない。そうではなくて、「女性が女性として最も心身に傷のつく被害を受けた際に生じる感覚・知覚様態は、女性の原理、女性の純粋経験である」と考える。これが、「共感覚は、現代社会の文脈においてのみ個性であって、非常事態においては人間実存を規定する普遍原理である」とする私の主張(すなわち、私自身の意見の廃止・止観と、女性に対する無為の観察・純粋直観)につながる。
 性被害によって相貌失認となった女性は、人の顔・表情の区別がつかない代わりに、色で人を見ており、人が青色になった時が笑った時であるなどと判断する共感覚を身につけている。こういった共感覚者こそ、私に痛烈な感動を呼び起こす。
 しかし、このような「真のマイノリティ」に出会い、仮説や試論をとりあえず立てて暴れ回ることができるのは、私が研究費を得て研究者・教育者側の人間として研究しているからではなく、在野かつ私費で共感覚を研究しているからである可能性もあると思う。むしろ、大学や研究機関に身を置く研究者がやりたくてもできない研究というのもあるかもしれず、私の立場の自由自在さを改めて自覚する次第である。
 むしろ私は、「共感覚に意見しない、何も意図しない(後述)」ことによって、日本の学術界・共感覚界がほとんど無視しているDV被害・性被害・虐待被害女性や発達障害者の圧倒的に自由な共感覚の告白を、十年間で得ることができたのだと考えている。この蓄積を発表するのは、十年後くらいになると思う。DV被害女性シェルターや性被害者施設、精神障害女性寮、発達障害者施設、特別支援学校などを訪れてみれば、ヴァルデンフェルスやメルロ=ポンティの言う諸感覚の「協働」(Synergie)(p84)を、現代日本社会において最も痛烈な形で見ることができるという感動については、やはり文章として残したいと考えている。
 そういう視点から見ると、例えば本著でも紹介されている「子ども建築塾」(p203)についても、一見すると子どもに自由な共感覚や身体性を許していながら、どこかで実は束縛している可能性があると感じてしまっている。つまりは、どうしても私には、歪んだ「共感覚ユートピア」思想の一環であるように思える。
 本当は、共感覚研究者たちにもっとあらゆるニッチな人々の共感覚の研究にお金をつぎ込んでほしいと思ってはいるが、それも厳しいだろうし、そもそも上記のような視点自体が生じるという土俵がまだないと見える。今はまだ、むしろ北村氏や女性著者のほうが丁寧に共感覚の話題と女性のセックス・ジェンダー・人権問題とを切り分けている一方、私のほうがそれらの密接な結びつきを目撃しすぎており、共感覚の話題と女性のセックス・ジェンダー・人権問題とを網羅的に語りたいという魂胆を持っているとも言える。だから、本著については、極めて洗練されすぎた著書であるという印象を持ったのは事実である。
 男性は男性で、共感覚(特に私が「対女性共感覚」と述べている共感覚)が言語障害や発達障害の男性に多く見られるということは、それが私の個性ではなく、男性の原理であることを示しているという私の考えも変わっていない。すなわち、私の意見を殺して無判断に徹すると、こうなるということであって、共感覚によって「見えている」ということが、ショーペンハウエルの「意志」やベルクソンの「直観」によって「見えている」ということに等しいような衝撃的・悲劇的な共感覚を経験している「マイノリティ」に本当に出会っている研究者は、本著の著者にはまだまだいないと感じられた。
 ベルクソンの中で知覚論が生物の進化論と混ざったのは、共感覚それ自体が、純粋持続の相において人間実存を見つめ続ける人間自身の創造的進化に等しいと気づいたからに他ならない。
 こうしてみると、DV被害や性被害、虐待被害を抱えて生きる女性に共感覚が発生する(ないし、蘇る)現実は、フェミニズム系の共感覚女性の最も好むところだという気がするのだが、今回、読者からそう評されている典型の女性である北村氏が、「ヒップホップか何かのプロデューサー」のように著者を集めてきた旨を書いているところまでを読んで、何となく分かってきた気がした。つまりは、北村氏は、同じ共感覚研究と言っても、「本当に重大な」性被害を抱えて家から出られない共感覚女性や、「本当に重大な」戦争神経症を負った共感覚男性などに、会う気がないのではなく、本当に会っていないだけなのかもしれない。
 最もこういったところに興味を持って足を運んでいそうなフェミニストの共感覚女性たちが、共感覚とセックス・ジェンダー・人権問題が直結している先のような被害女性たちに出会う日が来れば、もっと面白くなる気がしている。換言すれば、北村氏でさえ、一部の読者が言うラディカルフェミニストどころか、本著を相当気を遣って、無難に丁寧に書いており、本当にラディカルな共感覚論はまだ書いていないと思う。
 性的暴行を受けてPTSDを発症した異性愛の女性が、レズビアンになったと同時に、突然文字が読めなくなり、共感覚で色や音楽を付けてしか読むことができなくなったといった、本当にエロティックでグロテスクな事例を、本著は抱擁しかけてはいるが、あと一歩のところで抱擁できない可能性はあると感じる。ある一定の、一例の、共感覚に出会った状態のみで完成するのが、本著であるように見える。
 ただし、それが学術界・教育界に身を置く共感覚研究者による研究の限界なのだとしたら、やはり何も失うものがない在野の人間がやり続けることに意味があるとも思う。私としては、今後ともDV・性被害・虐待被害女性、精神障害者、発達障害者、巫女、社家の子女、歌道家の子女、芸妓・舞妓などの共感覚についてのフィールドワークを続けていきたいと思う。
posted by 岩崎純一 at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 人物評論・書評