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『巫女神道探訪記 ― 日本的アニミズム感覚の源流を訪ねて ―』(11) 日の巫女の王の伝承と日本最古の皇別系巫女神道
(岩崎純一 at 07/30 14:55)
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日の巫女の王の伝承と日本最古の皇別系巫女神道
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【リンク元】
岩崎純一のウェブサイト 特設サイト 「神道・仏教研究」 (http://iwasakijunichi.net/shinto-bukkyo/)
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神代の巫女 --- 2012年12月21日

 逆に、オカルト日本史と思われそうで、実は『記紀』よりも史実に近いと思われる伝承が、播磨・吉備地域のいくつかの社家に残っています。
 総社の秦(『隋書』に出てくる秦王国の有力候補地)や阿曾や、県内の神代(こうじろ)の出身の、またはそれらの土地にゆかりのある社家には、神武天皇以来の現在の皇統が意図的に作られる以前、つまり、『記紀』の創作、天照大神や神功皇后の創作より以前の神話(『記紀』作者たちが、唐に対抗するため、あえて覆い隠したと思われる史実)と、それに基づく神事が伝承されています。

 その中でも、この前にもお話に出ましたが、耀姫様の日の巫女のご家系は、私たちと同様、女系世襲のお家であり、現在は六甲山の麓に居を構えていらっしゃいます。ただし、注意すべきなのは、そのお家は、私たちのような、最初から現皇統と血縁関係を持たない神別(天神・天孫・地祇)系の巫女神道ではなく、あくまでも皇別氏族・皇室神道系の巫女神道のお家であり、そして驚くべきことに、真人(まひと)である息長氏の一族であり、忌み家として存続してきた皇祖母神のお家とされる点です。
 つまり、いくら皇室神道が巫女神道色を失っているとは言っても、元から皇統とほぼ無関係な私たちの巫女神道と異なり、耀姫様の一族は皇室神道に近いのです。当然お立場上も、私たちどころではなく高貴で、「斎王(斎宮、斎院)」ならぬ「斎皇」という呼称もお使いになっているほどです。そして、私たちが伝承する祭祀・秘儀よりも、耀姫様の社家のそれらのほうが、格式上も舞の型の上でも、皇室神道の斎の巫女のものに近いです。代々の「斎皇」は、皇室神道の斎の巫女であるということです。
 伊勢や賀茂のほうの斎王制度がかなり早く廃れた理由としては、武家政権の登場により、天皇が祭祀を担うだけの非政治的存在となり、天皇と斎王の役割が重複するようになったため、という説も学界では見られますが。

 従って、日の巫女の王の一族が天照大神や神功皇后の創作より以前の神話・神事を伝承しているとは言っても、それは太陽信仰を中心とする渡来系のもの(耀姫様によれば、高句麗道教系統のもの)で、おそらく造化の三神や神代七代の伝承は、内容の真偽のほどはともかく、どちらかというと私たち神別系巫女神道のほうによく遺されていることになると思います。
 つまり、耀姫様のご一族は、「日本神道の家」としては最古かつ最高位かと思われますが、「アニミズムの精神を持った日本列島の人々」の中では、有史以前から土着していた人々よりは新しいお家ということになります。

「神代」は、吉備地方や私たちの社家では「こうじろ」と読み、「神社(こうこそ・かむこそ)」と読む人もいますが、これらの言葉の起源はとても古く、西日本には、現在の神社(じんじゃ)それ自体の原型であるとされる「姫社(ひめこそ)」が点在しています。現存する総社市福谷の姫社神社に行けばわかりますが、祭神は「阿加流比売神・天照赤留日女尊・明かる姫(あかるひめ)」=「照日女(てらしひめ)、輝夜姫・かぐや姫(かぐやひめ)」です。この姫が天照大神のルーツとも言われています。
 この「あかる姫」(あるいは当時、単に「姫」)を降ろす巫女を有する家があり、そのお一人が先ほどの耀姫様とされます。

 ただし、ご当人も、その一族が中央集権国家大和朝廷を支える一氏族だったとしながらも、その最大の根拠が未だなお「一族の故老の伝承」であるという点はしっかり述べておられ、検証が待たれるところです。前にも書きましたが、一族は、長い歴史の中で分派と再統合を繰り返しているようで、各家・各古老の方々ごとに伝承にもずれがあるようですし、耀姫様の神道観に対しても、どこまでが嘘でどこまでが本当か、色々な意見があるようです。
 それでも、これらは、
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